絵の中のウソ (PART 1)

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デンマンさん。。。 今日はお絵かきのお話でござ~♪~ますかァ?

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そうです。。。 いけませんかァ~。。。
いいえ。。。 とっても面白そうですわ。。。 あたくしも最近“絵の中のウソ”に出会いましたわァ~。。。
ほおォ~。。。 卑弥子さんも“絵の中のウソ”に出会いましたかァ~。。。 で、それはどのようなウソですか?
次のようなものでござ~ますゥ。。。

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この絵のどこがウソなのですか?

デンマンさん! お惚(とぼ)けになってはいけませんわァ。。。 水の流れを目で追ってくださいなァ~。。。
あれれれれれぇ~。。。 水の流れが、途切れなく続いてますねぇ~。。。
このような水の流れが現実にあるはずがござ~ません! この水の流れこそ、完全なウソですわァ~。。。!
なるほどォ~。。。
デンマンさん! そのようにお惚けになっては困りますわァ~。。。 この絵はデンマンさんと真由美ちゃんが語り合っている次の記事の中で見つけたのでござ~ますわァ~。。。

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■『錯視 錯覚』

うん、うん、うん。。。 そう言われてみれば、上の絵について記事を書いたことがありますよ。。。 もう、2年ほど前になるけれど。。。

つまり、今日は また このような絵の中のウソを取り上げるのでござ~ますかァ?
いや。。。 今日 取り上げるウソは、錯視とか、錯覚とは全く違うウソなのですよ。。。
。。。と言うと、どのようなウソなのでござ~ますかァ?
もう一度次の絵を じっくりと見てください。。。

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これは、明らかに中国の昔の絵ですわねぇ~。。。 この上の絵の中にウソがあるのでござ~ますかァ?

あります。。。 この絵の中のウソが卑弥子さんに判ったら、僕は逆立ちして世界一周して見せますよ。。。
そんなことがデンマンさんにできるわけがないじゃありませんかア!
できます! 世界地図を開いて、その上で逆立ちすれば、世界一周などは簡単なことですよゥ!
それこそ大ウソですわァ~!
とにかく、冗談はさておいて、卑弥子さんに上の絵の中のウソが判りますか?
どこを どのように見ても、不思議なものが見あたりませんわァ~。。。
実は、この絵は秦の始皇帝の「焚書坑儒」を描いたものですよ。。。
焚書坑儒
焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)とは、中国を秦王朝が統治していた時代に発生した思想弾圧事件。
焚書・坑儒とは、「書を燃やし、

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儒者を坑する(儒者を生き埋めにする)」の意味。

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秦の始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越(中国語版)は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。
『史記』によると、丞相の李斯は、儒者たちがいにしえによって現政府を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。
始皇帝はこの建議を容れて挟書律(医学・占い・農業以外の書物の所有を禁じた令)を制定した。

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これにより、民間人が所持していた書経・詩経・諸子百家の書物は、ことごとく郡の守尉に提出させ、焼き払うことが命じられた(焚書)。
李斯は、秦の歴史家によるものを除いてすべての史書は燃やすべきであると主張し、各諸派によって書かれた書物は、地域の官僚に処分をするよう命令が出された。
儒教の経典である六経のうちの『楽経』はこの時失われ、漢代に五経として確立された。
翌(紀元前212年)、盧生や侯生といった方士や儒者が、始皇帝が独裁者で刑罰を濫発していると非難して逃亡したため、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし虐殺した(坑儒)。
ただし、その後も秦に仕えた儒者はおり、陳勝・呉広の乱が起きた際に二世皇帝胡亥が儒者の叔孫通に諮問している。
紀元前206年、漢の高祖劉邦が秦を滅ぼしたが、依然として挟書律は現行法であり、その後恵帝4年(紀元前191年)11月になってようやく廃止された。
また、『韓非子』和氏篇には商鞅に仮託して、挟書を政策として採用すべきだと議論しており、李斯の独創ではなく、戦国末期には法家によって提案されていた政策だった。
魯迅は「華徳焚書異同論」において、ナチス・ドイツの焚書と比較して、焚書・坑儒を進歩的な行為だとしている。
また文化大革命時には「批林批孔」運動において、毛沢東が焚書・坑儒を正当化する漢詩を詠じたが、後に中国共産党の公式見解の一つとされる席簡・金春明『「文化大革命」簡史』では、毛沢東の焚書・坑儒を誉める漢詩を「表面的には歴史学者の学術書に対して反対意見を述べているようにみえるが、(中略)政治闘争の必要から書かれたものである」と述べている。
出典: 「焚書坑儒」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

あらっ。。。 ずいぶん昔のお話でござ~ますわねぇ~。。。 キリストがお生まれになる200年も前のお話ではござ~ませんかァ!

そうです。。。
。。。で、上の説明をよ~♪~く読むと、絵の中のウソが判るのでござ~ますかァ?
いや。。。 上の説明を何十回読もうと、ウソは判りません。。。
だったら、どうして長たらしい説明を引用したのでござ~ますかァ?
上の説明を読めば、上の絵がどのような状況を描いたものなのか? それが解るからですよ。。。
じゃあ、何かヒントをくださいなァ~。。。
あのねぇ~、上の絵は始皇帝が生きていた時代に描かれたものじゃないのです。。。
では、いつの時代に書かれたのですか?
18世紀の中国で描かれたのです。。。 つまり、清王朝の時代です。。。 上の絵を描いた画家は、当然のことだけれど歴史家ではないから、始皇帝が生きていた秦の時代の事がよく解ってなかった。。。 だから、絵の中に 大きな2つの間違いを描いてしまった。。。
2つの間違いですか?
そうです。。。
判りませんわァ~。。。 あたくしは、お手上げですわ。。。 じらさないで教えてくださいなァ~。。。
分かりました。。。 では一つ目の間違いです。。。 次の部分を見てください。。。

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「書を燃やし」と書いてあるけれど、清王朝の“書”は確かに上の絵のような“本”の形をしていたけれど、秦王朝の時代は“本”ではなく“竹簡”、

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つまり、竹で出来た札(簡)をバラバラにならないよう紐で纏めたものです。。。 つまり、竹で出来た札(簡)を編(あ)むことを「書を編む、編集」と言ったのです。。。 これを「一編の書」と言ったのですよ。。。

要するに、現在 目にするような本ではなくて、竹の札を並べて編んだモノだったのでござ~ますか?
そういうことです。。。 また、「一編の書」を集めて巻いたものを「一巻の書」と言ったのです。。。 また竹で出来た札(簡)を紐で束ねたものを「一冊」と言ったのです。
分かりましたわァ。。。 で、2つ目の間違いは。。。?
次の部分を見てください。。。

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「始皇帝はこの建議を容れて挟書律(医学・占い・農業以外の書物の所有を禁じた令)を制定した」と書いてあるけれど、この上の絵で椅子に座っているのが始皇帝です。。。

この部分に間違いがあるのでござ~ますか?
そうです。。。
じらさないで教えてくださいまし。。。
始皇帝が椅子に座っているのですよ。。。 確かに清王朝の皇帝は椅子に座って臣下を見下ろして、「あれしろ、これしろ!」と言ったのですよ。。。 でもねぇ~、秦王朝の時代は違っていた。。。
臣下を見下ろさなかったのでござ~ますか?
見下ろさなかった。。。 見下ろしたかもしれないけれど、少なくとも椅子に座ったまま見下ろしたりはしなかった。
マジで。。。?
なぜなら、秦王朝の時代には皇帝が宮殿で椅子に座るという習慣がなかった。。。 だから、上の絵のように始皇帝が椅子に座っているというのは間違いなのですよ。。。
つまり。。。、つまり。。。、この事を言うために、わざわざ上の絵を持ち出してきたのでござ~ますか?
もちろん、それだけではありません。。。 秦の始皇帝は偉大な人物だった。。。 しかし、秦王朝は長くは続かなかった。。。 紀元前221年に中国を統一したと思ったら、紀元前206年には滅亡してしまった。。。
つまり、統一王朝は15年で滅びてしまったのでござ~ますかァ!?
その通りです。。。
なぜ。。。?
“馬鹿”が居たからですよ。。。 と言うより、“馬鹿”をやるような人間が出てきたからです。。。
どういうことでござ~ますかァ?
ちょっと次のエピソードを読んでみてください。。。

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むかし、むかし、今を去る2、000年以上も昔、司馬遷が書いた『史記(秦始皇本紀)』の中に「鹿をさして馬となす」という故事がでてくる。
趙高(ちょうこう)は趙の公族として生まれ、秦に官吏として仕えるようになった。
晩年の始皇帝にその才能を寵愛されることとなり、始皇帝の身辺の雑務を全てこなした。
趙高は勤勉なことと法律に詳しいことから始皇帝の末の皇子・胡亥(こがい)のお守役を拝命する。
始皇帝の五度目の行幸にも参加するが、始皇帝が行幸中に病死すると、丞相(首相)の李斯(りし)を強引に抱き込み、その遺言を書き換えて、太子の扶蘇(ふそ)を自決に追い詰め、末子の胡亥を即位させる。
この時、遺言には扶蘇が葬儀を取り仕切るよう記されていた。
すなわち実質上の後継指名である。
これもあり、即位することを胡亥は躊躇(ちゅうちょ)したが、趙高が無理やり説得する。
趙高自身は郎中令という大臣に就任する。
そして、胡亥を丸め込み、宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らは代わって政務を取り仕切って実権を握った。
胡亥の傀儡(かいらい)ぶりは著しく、首相の李斯ですら趙高の仲介なくしては胡亥に奏上も適(かな)わなかった程である。
やがて、趙高は胡亥を亡き者にして自分が皇帝につこうという野心にかられるようになる。
ある日、群臣が自分のいうことを聞くかどうか、ある事を試みた。
趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れてきた。

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しかし、どう見ても馬には見えず胡亥は「これは鹿ではないか! だいいち、角がはえている馬など見たことがない!」

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そう言うと呆れたのを通り越して胡亥は馬鹿バカしいと思った。
群臣の中にも、馬鹿バカしいと思った者もたくさん居た。
しかし趙高が怖いので誰もが必死に笑いを抑えるのだった。
趙高は黙り込む群臣に向って言った。
「君らはどう思う? これは馬だろう!?」
趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。
趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。
これにより反対者を粛清した趙高は胡亥を殺した(望夷宮の変)。
この時、劉邦(りゅうほう)軍と密かに内通を画策したが、劉邦からは全く相手にされなかった。
胡亥の後継として、人望の厚い子嬰(しえい)を擁立し、全てを胡亥のせいにすることで自身への非難をかわそうとするが、趙高を憎悪する子嬰と韓談(かんだん)らによって、屋敷に呼び出されて趙高は殺害され、一族も皆殺しにされた。
これにより秦国内は大いに士気が高まったが、時すで遅く、既に関中へ劉邦軍が入っており、首都の咸陽(かんよう)の目前に迫っていた。
子嬰は観念して降伏し、ついに秦は滅亡した。
『馬鹿の起源』より
(2017年6月12日)

なるほどォ~。。。 “馬鹿”をやると王朝が滅びるのですわねぇ~。。。

そうです。。。 現代にも、この“馬鹿”をやっている人物が居るのですよ。。。
あらっ。。。マジで。。? カナダに。。。?
いや。。。 日本で“馬鹿”やって、世界に自分で自分の“馬鹿さ”を広めてます。。。 卑弥子さんも、この“馬鹿”を見たいですか?
ぜひ。。。、ぜひとも見たいですわ。。。
だったら、次の記事を読んでみてね。。。

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■『現実主義者 馬鹿の見本』

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(すぐ下のページへ続く)