宇宙は永遠か?(PART 1)
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デンマンさん。。。、最近 宇宙は永遠か? というような高尚な哲学的疑問を持ったのですか?
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僕は高尚な哲学的疑問を持った事を自慢するために、この記事を書こうと思ったわけじゃないのだよ!
じゃあ、どうして高尚な哲学的・天文学的疑問を選んでタイトルにしたのですか?
オマエは忘れてしまったのォ~?
オイラが何を忘れたとデンマンさんは言うのですか?
あのさァ~、オマエはかつて次のような哲学的・天文学的な内容をクラシックの記事の中で披露していたのだよ!
3.14 Gian Carlo Menotti (1919 - 2007)
私が所持しているG.C. Menottiの<<The Medium>>のLPでは、作曲家自身が解説をしている。これは幸いだ。私は、学者や評論家の書いた文章より、作曲家の綴った文章の方を好む。やはり、創造の現場にいる人々のそれは、多くの場合に、文章に於いても有効な構成力があるのである。説得力も、彼らの労作が背景にあるが故に、他の人々のそれとは違って感じられる。客観性に於いてすら、自作、他作を問わず、多くの評論家よりは優っている。
意外なのは、演奏家の書いたものである。I. StravinskyやP. Boulezのような、作曲家であり演奏家である人たちを除いては、著書にしても対談にしても、概ね、楽屋裏の話や有名人のepisodeに終始して、自他共の時間を浪費している。彼らは、多分、おさらいに忙しく、考える余裕がないのであろう。ただ、何でも例外はあるもので、Mitsuko Uchidaの語っていることは興味深い。彼女は、よく考えているピアニストである。
しかし、Menottiは、たいしたことを書いてはいない。それでも、次の一節だけは拾い物であった:
Although the Opera was not composed until 1945, the idea of The Medium first occurred to me in 1936 in the little Austrian town of St. Wolfgang near Salzburg. I had been invited by my neighbors to attend a séance in their house. I readily accepted their invitation but, I must confess, with my tongue in my cheek. However, as the séance unfolded, I began to be somewhat troubled. Although I was unaware of anything unusual, it gradually became clear to me that my hosts in their pathetic desire to believe, actually saw and heard their dead daughter Doodly (a name, incidentally, which I have retained on the Opera). It was I, not they, who felt cheated. The creative power of their faith and conviction made me examine my own cynicism and led me to wonder at the multiple texture of reality.
私がこのオペラに興味をもったのは、欧米の霊媒とは如何なる者か、との好奇心があったからである。私は、ひとは笑うかも知れないが、サムエル記上28章に登場する口寄せの女の存在を信じてもいるのである。ただし、私は、同時に、そうした不思議な事象を幾つ並べても、超越の存在の証明にはならない、ということも弁えているつもりである。
此処、Canadaで、この十年の間に、神を見た、という女性の二人を見聞きし、それが、たまたま、私も知っていた人たちなので、私は、内心、うんざりしているのであるが、彼女ら、神までを口寄せする霊媒が嘘を言っている、と迄は私は言わない。言えないのである。そもそも、不思議、不可思議、更に奇跡とは日常性には無く例外的であるからである(草子地:別に、彼女たちが怖いからではない)。人は例外に接したとき、奇跡を連想する。その連想は超越性を予感する。ただし、それは、ただ単なる予感に留まらざるをえない。そもそも、何ものかの非存在を証明することは、何ものかが存在することに較べ、一つのことを除き、不可能と言えるほどに難しいことなのである。その唯一つの例外とは、超越の存在の肯定命題としての証明であるが、そこでは、比類なき絶対、という否定が命題に含まれるが為、否定命題にも還元できるが故である。私が、うんざりしているのは、あの二人が各々自分が見たものを新、旧約に関連づけているからである。超越が存在するとしたならば、それは絶対的な存在である。絶対的とは、それが我々の思惟の彼方にある、ということである。超越が存在するとしたならば、他の存在のしかたでは在り得ない、ということである(草子地:私は、ここで、超越が存在するとも、しないとも書いてはいない)。我々が思い描ける存在は、或いは、我々の網膜に写る、写った影像は相対的なのである。超越は、我々が見る対象ではないことを、旧約は、神を見る者は死ぬ、と表現し、それは、信じる対象であることを、新約が、見ずして信ずるもの、と言い表しているのである。見たもの、見えるものを神とすること、それが偶像礼拝である。S. Kierkegaardの<不安の概念>でも読め、と言いたい。
また、自然科学に於いてでさえも、それは、経験的に存在を確認された対象についての合理的な解釈であり、何ものかの非存在までを証明する方法論はもたない、と私は考えている。序でに書くならば、時代遅れの宇宙永遠説に擬えるかが如くの安易な科学の進歩の無限性の主張にも根拠が無いのである(草子地:私は、此処で、科学の進歩は有限である、とは書いてはいない。ただ、経験に照らし合わせて無限に見える、つまり、経験則に過ぎない、と書いているのである。繰り返すが、無限であるとも、無限ではないとも書いてはいない)。それは、更に、自然科学のみならず、一切の学問の進歩についても同様なのである。例えば、Aと非AであるところのBの双方が存在するとしたらそれは矛盾である、という類の証明はできよう。しかし、それは、AないしB、或いは、両方の非存在の証明にはならない、ということである。現象としての現実なるものに原理、原則があるとすること自体が経験則を出ることのない仮定に過ぎなく、それらは、常に後知恵に過ぎないが故である。
さて、Menottiは、誰の冷たい手が霊媒Babaの喉に触ったかを、結局は、謎として残している。これをNabaの心理の問題としてだけに見ることは、彼の言葉、multiple texture of realityが受け入れない、と私は判断している。
音楽は、過不足なく、この興味深い芝居につり合っている。しかし、私自身は、こうしたmade in USAの音楽によく聴かれる折衷的な作曲技術での創作に、反感までは持たないものの、好感を感じるのは無理だと思った。ただ、Doodlyが登場する時の音楽は、充分にspookyで効果的であろう。
蛇足(コーダ):
私がキリスト教徒であるかどうか、という問題ですら、究極的には、最終的には、超越の命題であろう。
65-66ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より
デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!
あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やラテン語が入り混じっている。。。 普通の日本人にとって、オマエの文章は似非(えせ)外国語のような印象を与えるのだよ!
デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。
それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!
134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?
いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。
マジで。。。?
僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。
3.14 ジャン=カルロ・メノッティ
(1919 - 2007)
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私が所持しているメノッティの《霊媒》のLPでは、作曲家自身が解説をしている。
これは幸いだ。
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私は、学者や評論家の書いた文章より、作曲家の綴った文章の方を好む。
やはり、創造の現場にいる人々のそれは、多くの場合に、文章に於いても有効な構成力があるのである。
説得力も、彼らの労作が背景にあるが故に、他の人々のそれとは違って感じられる。
客観性に於いてすら、自作、他作を問わず、多くの評論家よりは優っている。
意外なのは、演奏家の書いたものである。
イーゴリ・ストラヴィンスキーやピエール・ブーレーズのような、作曲家であり演奏家である人たちを除いては、著書にしても対談にしても、概ね、楽屋裏の話や有名人のエピソードに終始して、自他共の時間を浪費している。
彼らは、多分、おさらいに忙しく、考える余裕がないのであろう。
ただ、何でも例外はあるもので、内田光子の語っていることは興味深い。
彼女は、よく考えているピアニストである。
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しかし、メノッティは、たいしたことを書いてはいない。
それでも、次の一節だけは拾い物であった:
Although the Opera was not composed until 1945, the idea of ≪The Medium≫ first occurred to me in 1936 in the little Austrian town of St. Wolfgang near Salzburg.
I had been invited by my neighbors to attend a séance in their house.
I readily accepted their invitation but, I must confess, with my tongue in my cheek.
However, as the séance unfolded, I began to be somewhat troubled.
Although I was unaware of anything unusual, it gradually became clear to me that my hosts in their pathetic desire to believe, actually saw and heard their dead daughter Doodly (a name, incidentally, which I have retained on the Opera).
It was I, not they, who felt cheated.
The creative power of their faith and conviction made me examine my own cynicism and led me to wonder at the multiple texture of reality.
オペラは1945年まで作曲されませんでしたが、1936年にザルツブルク近郊のオーストリアの小さな町、ザンクトヴォルフギャングに居た時に≪霊媒≫のアイデアが思いつきました。
私は近所の人たちから彼らの家での交霊会に出席するよう招待されていました。
私はすぐに彼らの招待を受けましたが、実は、正直なところ、それほど参加したいわけではありませんでした。
しかし、交霊会が進むうちに、私はやや悩み始めました。
とりわけ異常な出来事に出くわしたわけではありませんが、次第に事の成り行きがわかって来ると、私を招いた主人の家の者たちは亡くなった娘のドードゥリー(その名前は、私のオペラで使わしてもらっています)が実際に現れて、彼女を見て、彼女の話を聞いているのでした。
だまされたのは彼らではなく私でした。
彼らの信仰と信念が生み出す創造力によって、社会の風潮や事象などに対して私自身が持つ冷笑的な態度を改めて考えさせられ、現実の多様さに驚かされたのです。
【デンマン訳】
私がこのオペラに興味をもったのは、欧米の霊媒とは如何なる者か、との好奇心があったからである。
私は、ひとは笑うかも知れないが、サムエル記上28章に登場する口寄せの女の存在を信じてもいるのである。
ただし、私は、同時に、そうした不思議な事象を幾つ並べても、超越の存在の証明にはならない、ということも弁えているつもりである。
此処、カナダで、この十年の間に、神を見た、という女性の二人を見聞きし、それが、たまたま、私も知っていた人たちなので、私は、内心、うんざりしているのであるが、彼女ら、神までを口寄せする霊媒が嘘を言っている、と迄は私は言わない。
言えないのである。
そもそも、不思議、不可思議、更に奇跡とは日常性には無く例外的であるからである(草子地:別に、彼女たちが怖いからではない)。
人は例外に接したとき、奇跡を連想する。
その連想は超越性を予感する。
ただし、それは、ただ単なる予感に留まらざるをえない。
そもそも、何ものかの非存在を証明することは、何ものかが存在することに較べ、一つのことを除き、不可能と言えるほどに難しいことなのである。
その唯一つの例外とは、超越の存在の肯定命題としての証明であるが、そこでは、比類なき絶対、という否定が命題に含まれるが為、否定命題にも還元できるが故である。
私が、うんざりしているのは、あの二人が各々自分が見たものを新、旧約に関連づけているからである。
超越が存在するとしたならば、それは絶対的な存在である。
絶対的とは、それが我々の思惟の彼方にある、ということである。
超越が存在するとしたならば、他の存在のしかたでは在り得ない、ということである(草子地:私は、ここで、超越が存在するとも、しないとも書いてはいない)。
我々が思い描ける存在は、或いは、我々の網膜に写る、写った影像は相対的なのである。
超越は、我々が見る対象ではないことを、旧約は、神を見る者は死ぬ、と表現し、それは、信じる対象であることを、新約が、見ずして信ずるもの、と言い表しているのである。
見たもの、見えるものを神とすること、それが偶像礼拝である。
セーレン・キルケゴールの<不安の概念>でも読め、と言いたい。
また、自然科学に於いてでさえも、それは、経験的に存在を確認された対象についての合理的な解釈であり、何ものかの非存在までを証明する方法論はもたない、と私は考えている。
序でに書くならば、時代遅れの宇宙永遠説に擬えるかが如くの安易な科学の進歩の無限性の主張にも根拠が無いのである。
(草子地:私は、此処で、科学の進歩は有限である、とは書いてはいない。ただ、経験に照らし合わせて無限に見える、つまり、経験則に過ぎない、と書いているのである。繰り返すが、無限であるとも、無限ではないとも書いてはいない。)
それは、更に、自然科学のみならず、一切の学問の進歩についても同様なのである。
例えば、Aと非AであるところのBの双方が存在するとしたらそれは矛盾である、という類の証明はできよう。
しかし、それは、AないしB、或いは、両方の非存在の証明にはならない、ということである。
現象としての現実なるものに原理、原則があるとすること自体が経験則を出ることのない仮定に過ぎなく、それらは、常に後知恵に過ぎないが故である。
さて、メノッティは、誰の冷たい手が霊媒ババの喉に触ったかを、結局は、謎として残している。
これをナバの心理の問題としてだけに見ることは、彼の言葉、現実の複数の質感が受け入れない、と私は判断している。
音楽は、過不足なく、この興味深い芝居につり合っている。
しかし、私自身は、こうしたアメリカ製の音楽によく聴かれる折衷的な作曲技術での創作に、反感までは持たないものの、好感を感じるのは無理だと思った。
ただ、ドードゥリーが登場する時の音楽は、充分に不気味で効果的であろう。
追記(コーダ):
私がキリスト教徒であるかどうか、という問題ですら、
究極的には、最終的には、超越の命題であろう。
(赤字はデンマンが強調)
65-66ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より
デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!
つまり、オイラが哲学的・天文学的な内容をクラシックの記事の中で披露していので、デンマンさんはムカついたのですか?
いや。。。 ムカついたと言うよりも、改めてオマエが一般庶民を見下しているような印象を持ったのだよ!
オイラは一般庶民を見下したりしてません。。。
でも、オマエは早稲田大学理工学部の数学科を優秀な成績で卒業したことを鼻にかけて、一般庶民が考えるよりも高尚な事を記事に中で披露して、自慢しているような印象を僕は持つのだよ。。。
それは、デンマンさんの極めて個人的な意見だと思うのですよ。。。
じゃあ、その事については、すでに僕は記事で書いたので、これを読んでいるネット市民の皆さんにも次の記事を読んでもらって判断をゆだねるとしよう。。。
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■『百姓と貴姓』
。。。で、今日は天文学的・哲学的な問題を語り合うのですか?
実は、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのだよ。。。
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アンドロメダ銀河と天の川銀河の衝突過程を、
順を追って示したのが図3-21(省略)である。
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完全合体まで70億年。
長いたびだが、銀河にとって長旅かどうかはわからない。
彼らにとっては、普通の出来事なのかもしれない。
ただ、こうして、天の川銀河は消えていくのである。
もちろん、同時にアンドロメダ銀河も消えていく。
宇宙にあるすべての天体に当てはまることがある。
すでに述べたことだが、ここで繰り返しておこう。
それは永遠という言葉はない ということだ。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
156-158ページ 『天の川が消える日』
著者: 谷口義明
2018年6月25日 第1刷発行
発行所: 株式会社 日本評論社
著者の言おうとしていることは解りますよ。。。 でも、「永遠」という言葉はあります。。。 だから、著者も「永遠」という言葉を使って書いているじゃありませんかァ!
そういう重箱の隅を突っつくようなことは言うなよ! 著者は「永遠」という概念はない、と書いているのだよ! 要するに、何事にも終わりがある。。。 有限だと主張しているのだよ!
それで、デンマンさんも「何事にも終わりがある。。。 有限だ。。。 無限ではない」ということに賛同するのですか?
いや。。。 僕は、ここで賛同するとも反対するとも明言するつもりはない。。。
それって、ズルイじゃありませんかア! はっきりしてくださいよ!
あれっ。。。 僕よりもオマエこそズルイのだよ!
その証拠でもあるのですか?
オマエが書いた次の箇所をもう一度読んでごらんよ!
時代遅れの宇宙永遠説に擬えるかが如くの
安易な科学の進歩の無限性の主張にも根拠が無いのである。
(草子地:私は、此処で、科学の進歩は有限である、
とは書いてはいない。ただ、経験に照らし合わせて
無限に見える、つまり、経験則に過ぎない、
と書いているのである。
繰り返すが、無限であるとも、
無限ではないとも書いてはいない。)
こうして、オマエこそ「無限であるとも、無限ではないとも書いてはいない」と言っているのだよ!
要するに、オイラとデンマンさんは“同じ穴の狢(むじな)”ですねぇ~。。。 うへへへへへへへへ。。。
オマエと僕を一緒にするなよ! オマエは何も根拠もなく「無限であるとも、無限ではないとも書いてはいない」と言ってるのだよ!
根拠はありますよ! 「経験則に過ぎない」という根拠ですよ! 。。。で、デンマンさんの根拠は。。。?
「何事にも例外がある」という根拠だよ! つまり、著者は「永遠」という概念はない、と書いている! 要するに、何事にも終わりがある。。。 有限だと主張している! しかし、「永遠はない」という命題にも例外があるのだよ。。。 どのような法則にも、何事につけて例外というものがある。。。 これも、言わば、オマエが言うところの経験則だよ!
。。。で、たとえば、その例外とは。。。?
“愛”は永遠だよ!
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馬鹿バカしい! 浮気をしない男や女が居ますか?
そういう男や女が居たとしても、“愛”は存在するといっているのだよ!
それも馬鹿バカしいじゃありませんかア! アンドロメダ銀河と天の川銀河も消えてしまうのですよ! だから、“愛”もそれと一緒に消えてしまうじゃありませんかア!
あのさァ~、この宇宙が消えたとしても、別の宇宙が消えたという証明は不可能なのだよ!
つまり、我々が住んでいる宇宙が消えても、他にもたくさん宇宙が存在して、その宇宙の中の高等生物に“愛”がある、とデンマンさんは主張するのですか?
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そうだよ。。。 そういう事があり得ないとは、誰も証明できないのだよ! なぜなら、我々人間は宇宙について知らないことばかりなんだから。。。
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宇宙は未知の暗黒に操られているのだ。
暗黒は2種類ある。
ひとつは“暗黒物質(ダークマター)”。
もうひとつは“暗黒エネルギー(ダークエネルギー)”だ。
宇宙全体の質量を100%とすると、私たちの知っている原子物質は5%。
暗黒物質と暗黒エネルギーはそれぞれ27%と68%。
これが宇宙の成分表だ。
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これだけ科学が進んだ現在、私たちは宇宙の95%について知らないのだ。
私たちの身体や、地球、そして太陽などの星。
これらは私たちの知っている原子物質でできている。
100種類以上の元素だが、私たちは原子の世界を理解し、そして原子が宇宙を作っていると思い込んでいた。
ところが、私たちは宇宙についてまったく理解していなかったのだ。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
156-158ページ 『天の川が消える日』
著者: 谷口義明
2018年6月25日 第1刷発行
発行所: 株式会社 日本評論社
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