利口な女狐 (PART 1)
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デンマンさん。。。、どういうわけでセクシーな女性を貼り出したのですか?
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オマエは80歳を過ぎてもセクシーな女性が好きだろう?
デンマンさん! 年のことは言わないでくださいよう! んもおおおおおおおおおおおおおォ~♪~!
そんなにムキになるなよゥ~! ちょっとからかっただけじゃないか!
時間の無駄になるから、本題に入ってください。。。
実は、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んだら次の箇所に出くわしたんだよ!
ヤナーチェク 「シンフォニエッタ」
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村上作品の主人公が異界といわれる場所に足を踏み入れるとき、その前触れとして、あるいはその契機になるのが、クラシック音楽であることが少なくない。
つまり、クラシックは異界への窓あるいは鍵として機能しているといってもいいくらいだ。
『1Q84』では、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」がそうだ。
この音楽は、現実と異界、あるいは2人の主人公につなげる「橋」の役割を果たしている。
冒頭、渋滞したタクシーの車中で、この音楽が鳴るとき、それは主人公が異界への扉に触れたことを意味するのだ。
ヤナーチェクはまことに不思議な作曲家だ。
彼のどの作品を聴いても、すぐにはこれはヤナーチェクだとわかるような際立った特徴を持ち、かなり斬新なことをやっていても、容易にそうとわかるようには響かず、ベートーヴェン的な闘争抜きで高揚する音楽を書き、かつスタイリッシュに鳴らせるセンスで、主要登場人物が動物だらけの不思議ちゃんテイストのオペラを書いたりする(彼の「利口な牝狐の物語」は、オペラ芸術において5本の指に入る美しい傑作だ)。
(著者: 鈴木淳史)
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
158-159ページ 『村上春樹の100曲』
編者: 栗原裕一郎
2018年6月15日 第1刷発行
発行所: 株式会社 リットーミュージック
つまり、デンマンさんは村上春樹のファンなのですかァ~?
いや。。。 僕は自慢じゃないけれど、村上春樹の小説は一冊も読んだことがない!
でも。。。、でも。。。、デンマンさんは村上春樹のことでは、けっこう記事を書いてるじゃありませんかァ~!
僕は彼の小説は、書評を読むだけで僕の趣味に合わないのが判るので読んでないけれど、彼のエッセーや、他の人が書いた村上春樹に関する本などは、結構読んでいるのだよ! 彼は、けっこう面白い興味深いエッセーを書くのだよ! でも、小説はあらすじを書評で読むだけで読む気が起こらない!
つまり、喰わず嫌いなのですねぇ~。。。 彼の小説を読まないで村上春樹の批判を書いてはダメですよ!
じゃあ、オマエは村上春樹の小説を読んだことがあるのォ~?
ありません!
オマエも、村上春樹の小説を読んだことがないのに、どうしてそのように僕に説教するわけぇ~?
デンマンさんを ちょっとからかっただけですよう! うへへへへへへへ。。。 とにかく、いくらメディアで村上春樹がノーベル賞をもらえるか?もらえないか?と騒がれても、実際、日本人で実用書以外の本を買って読む「純粋な趣味としての読書人口」は、せいぜい500万人から600万人程度だと言われているのですよ。。。
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■『読書人口について-本を読んでいますか?』
2017年の時点で、日本の人口は 126,800,000人ですよ。。。 仮に読書人口が6,000,000人だとしても、小説を読んでいるのは、126人に6人だけですよ! 多く見積もっても 126人に7人だけです!
オマエは、やっぱり早稲田大学理工学部の数学科を優秀な成績で卒業しただけのことはあるねぇ~。。。
デンマンさん! この程度の算数は小学生でもできるのですよ!
。。。で、オマエは何が言いたいわけ?
だから、読書が趣味じゃないからって悲観して自殺しなくてもいいのですよ!
あのさァ~、日本で、いくら自殺者が多いと言っても、読書が趣味でないことに劣等感を持ち、それが原因で自殺した人はいないと思うよ!
デンマンさん! “死人に口なし!” と昔の人は言ったものですよ! 中には、先生から本を読んでないことを指摘されて、ショックで自殺した中学生や小学生がいると思います。。。
あのさァ~、今日は自殺についてオマエと話をするために呼び出したのじゃないのだよ。。。
そうでした。。。 何のためにセクシーな女性を貼り出したのですか?
だから、上の本の中に彼の「利口な牝狐の物語」は、オペラ芸術において5本の指に入る美しい傑作だと書いてあるだろう!
でも。。。、でも。。。、デンマンさんの貼り付けたのは牝狐じゃなくて、牝狐の真似をしているセクシーな女じゃないですかあああああああああああああァ~♪~!
セクシーな女性が出てきたぐらいで、そんなにムキになるなよゥ~! オマエだってぇ~、80歳を過ぎているのに、セクシーな女性が好きだろう!?
年のことは言わないでくださいってばああああああああああああああァ~♪~!
わかったァ。。。、わかったァ~。。。、 大きな声を出して欲しくないのだよ! オマエはセクシーな女性を見ただけで、心にもなくムキになってるけれど、オマエこそ牝狐に拘(こだわ)っているじゃないか!
その証拠でもあるのですか?
あるのだよ。。。 オマエハはかつてヤナーチェクと≪利口な女狐の物語≫について次のようなクラシックの記事を書いていたのだよ!
3.9 Leos Janacek (1854 – 1928)
古畑銀之助が<ある晴れた日に>(No. 41)の誌上に:<スタバート.マーテル>は<悲しみの聖母>と歌謡曲の題みたいに低俗意訳されていますが、ラテン語辞典にある直訳<母は立いたり>とするほうが、ひとを思索に誘う深い意味を表すのではないでしょうか。事は悲しみどころではないのですから。――と書いている。その通りだ、と私も思う。私自身の気持ちとしては、<佇む聖母>ぐらいに翻訳したいところであるが、どちらにしても、言葉は、もっと大事にしたいものである。いや、歯に衣を着せないで言おう。私は、よくあることであるが、<Stabat Mater>を<悲しみの聖母>などとするような日本人のmentaliteを嫌悪する。そして、誰の編纂か私は知らないが、古畑氏の<ラテン語辞典>の訳は、厳密に言えば、直訳ではない。誤訳である(草子地:これは、古畑氏に文句を言っているのではない)。遠慮して言っても、誤訳に近い意訳であろう。直訳は<母は立っている>である。時制が間違っていることは、私の乏しいラテン語の知識でも歴然としている。
こういう例もある。Moravia語の(草子地:以下、c、rとsの文字は正確なMoravia語の文字ではないときがある。許されたい。)<<Liska Bystronozka>>(直訳:早足の女狐)が。A. Bergの<<Wozzeck>>の場合と似た事情から、<<Liska Bystrouska>>(直訳:早耳の女狐)と変り、それをL. Janacekがオペラとして作曲した際に<<Prihody Lisky Bystrousky>>(直訳:女狐、早耳の冒険)と題したいきさつがあった。それがドイツ語に翻訳されたとき、<<Das schlane Fuchslein>>(この誤訳を誤訳のまま直訳すると:ずるい子狐)となり<女>が消えてしまったが、面白いことに、さらに英語に重訳されて<<The Cunning Little Vixen>>と、それは英語の語彙の故であろうが、魔法のように、偶然に<女>が復元されている。くどくなるが、話は、まだ続く。以前に誰かが<<ずるい女狐>と日本にて日本語に翻訳したが、今では普通<<利口な女狐の物語>>と題されている。A. Schoenbergの<<Verklarte Nacht>>が<聖められたる夜>と一度は、ほぼ正しく翻訳されたものの、それが、いつの間にか<浄夜>などと言う訳の解らない言葉にすれかえられてしまったのに似ているのである。こういうことは、意図的であろうとなかろうと、日本人の意識、或いは、意識下に問題がある故ではないか。Moravia語->ドイツ語->英語への言葉の変遷は、間違い、不注意、無神経の故であろうが、日本語への翻訳では、ずるい、が利口に変ったり、<物語>などの余計な言葉が、飴をしゃぶらせるように挿入されたりして、それを嫌らしいとは、日本にいる日本人は感じないのであろうか。
ことは表題だけではない。武士の情けで名前はここに出さないが、このオペラについて次のような解説があった:森に住む女狐ビストロウシュカは猟番につかまるが逃げだし、恋をし、子供を生み、密猟者の弾丸に当たって死ぬ。しかしその後には母にそっくりな子狐が…自然は永遠だ。――ときたものだ。この作品の場合には、それほど深刻ぶってもしかたがないとはいえ、ことは、そんな綺麗事ではない。この女狐は、言ってみれば、純情な阿婆擦れなのである。自然は永遠だ、などという陳腐な通り一遍のsentimentalismeからは、はみ出でている。
日本の評論家たちからは、何も本質的なことを学んだ覚えがないが、多くの知識はかき集めることができた、と私は思っていた。少なくとも、海外の(草子地:今の私にとっては、海内か?)情報の紹介の労に対しては評価したく思っていたが、昨今では、それも疑わしくなってきた。古畑もまた、日本の評論家は不勉強である、と書いていたが。
要約には注意を要する。私がまだ小学生の頃、国語(草子地、日本語のことか?)の授業で、……以上を通して、作者は、何を言わんとしているか、などという質問を受けたか、読んだかした記憶がある。この種の質(愚)問には、どこかに罠があるのではないか、と幼い心にも訝しく、警戒したものである。こういう、いらぬお節介を<読書指導>などと、教師は言っていたのではなかったか。
作者は、何を言わんとするか、それが一言や二言で言えるのであれば、紙数を費やすことなく、作者は、それを書いていたはずである。それを、誰かが代行して、より簡単に言換え得るなどという、多分に無意識であろうが、無神経で官僚的な傲慢さは作者にたいして失礼、いや、無礼である、ということなどは、子供でさえ感じとれるものである。その自覚のなさは、役人の知的怠慢である。私も可愛げのない子供であったであろうが、質問した人、機関 ― 子供にとっては、学校は、権力で有る ― ほどには文学を含めての芸術作品に対しては小賢しくなかった、ということである。
短ければよい、要約すればよい、ということではなかろう。例えば、一つの和歌を解説しよう、と試みるならば、その文章は、その和歌そのものよりも長くなるであろう。当然であり、かつ、評論は文学よりは、決して、上位にはない、ということである。本来は芸術である文学の、よくて哲学的な言い換えに何かの意味があるのだろうか。その無意味さが、大学の文学部の文学や音楽学部の音楽学を成立、維持させている。それだったら、何故、例えば、哲学をやらないのであろう、と私は訝しく思うのである。哲学は、本来、面白い学問なのに。それにしても、上記の例は、それ以前の話であろう。
蛇足(コーダ):
私の娘たちは、こちらの日本語の学校で、土曜日の午前だけ日本語を勉強しているが、そこで使用されている日本からの<国語>の教科書には、今でも、あの種の質問が書かれている。いや、さらに踏み込んで、……を読んで何を感じたか、などというのもあった。こうなったら、官民挙げての情操管理である。正しい感じ方なるものまでが指導されるのか。<良い子>は、教師の意向を察して、それに迎合する。
私は、無論、カナダの全部のEnglish / Francaisの授業を見聞きしたわけではないが、私の知る限り、何が書かれてあったか、を生徒に聞くに止まるようである。もちろん、感じたことを話すのは、生徒の自由であり、また、生徒は自主的に、積極的に、きちんと発言している。なによりも、健康的である。
55-56ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より
デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!
あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やフランス語やラテン語が入り混じっている。。。 普通の日本人にとって、オマエの文章は似非(えせ)外国語のような印象を与えるのだよ!
デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。
それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!
134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?
いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。
マジで。。。?
僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。
3.9 レオシュ・ヤナーチェク
(1854 – 1928)
(yanacek2.jpg)
古畑銀之助が<ある晴れた日に>(No. 41)の誌上に:
<スタバート.マーテル>は<悲しみの聖母>と
歌謡曲の題みたいに低俗意訳されていますが、
ラテン語辞典にある直訳<母は立いたり>とするほうが、
ひとを思索に誘う深い意味を表すのではないでしょうか。
事は悲しみどころではないのですから。
――と書いている。
その通りだ、と私も思う。私自身の気持ちとしては、<佇む聖母>ぐらいに翻訳したいところであるが、どちらにしても、言葉は、もっと大事にしたいものである。
いや、歯に衣を着せないで言おう。
私は、よくあることであるが、<Stabat Mater>を<悲しみの聖母>などとするような日本人のメンタリティを嫌悪する。
そして、誰の編纂か私は知らないが、古畑氏の<ラテン語辞典>の訳は、厳密に言えば、直訳ではない。
誤訳である(草子地:これは、古畑氏に文句を言っているのではない)。
遠慮して言っても、誤訳に近い意訳であろう。
直訳は<母は立っている>である。
時制が間違っていることは、私の乏しいラテン語の知識でも歴然としている。
こういう例もある。
モラヴィア語の(草子地:以下、c、rとsの文字は正確なモラヴィア語の文字ではないときがある。許されたい。)≪Liska Bystronozka≫(直訳:早足の女狐)が。
アルバン・ベルクの≪ヴォツェック≫の場合と似た事情から、≪Liska Bystrouska≫(直訳:早耳の女狐)と変り、それをヤナーチェクがオペラとして作曲した際に≪Prihody Lisky Bystrousky≫(直訳:女狐、早耳の冒険)と題したいきさつがあった。
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それがドイツ語に翻訳されたとき、≪Das schlane Fuchslein≫(この誤訳を誤訳のまま直訳すると:ずるい子狐)となり<女>が消えてしまったが、
面白いことに、さらに英語に重訳されて≪The Cunning Little Vixen≫と、。。。
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それは英語の語彙の故であろうが、魔法のように、偶然に<女>が復元されている。
くどくなるが、話は、まだ続く。
以前に誰かが≪ずるい女狐>と日本にて日本語に翻訳したが、今では普通≪利口な女狐の物語≫と題されている。
アルノルト・シェーンベルクの≪Verklarte Nacht≫が<聖められたる夜>と
一度は、ほぼ正しく翻訳されたものの、
それが、いつの間にか<浄夜>などと言う訳の解らない言葉にすれかえられてしまったのに似ているのである。
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こういうことは、意図的であろうとなかろうと、日本人の意識、或いは、意識下に問題がある故ではないか。
モラヴィア語->ドイツ語->英語への言葉の変遷は、間違い、不注意、無神経の故であろうが、日本語への翻訳では、ずるい、が利口に変ったり、<物語>などの余計な言葉が、飴をしゃぶらせるように挿入されたりして、それを嫌らしいとは、日本にいる日本人は感じないのであろうか。
ことは表題だけではない。
武士の情けで名前はここに出さないが、このオペラについて次のような解説があった:
森に住む女狐ビストロウシュカは猟番につかまるが
逃げだし、恋をし、子供を生み、
密猟者の弾丸に当たって死ぬ。
しかしその後には母にそっくりな子狐が…自然は永遠だ。
――ときたものだ。
この作品の場合には、それほど深刻ぶってもしかたがないとはいえ、ことは、そんな綺麗事ではない。
この女狐は、言ってみれば、純情な阿婆擦れなのである。
自然は永遠だ、などという陳腐な通り一遍のセンチメンタリズムからは、はみ出ている。
日本の評論家たちからは、何も本質的なことを学んだ覚えがないが、多くの知識はかき集めることができた、と私は思っていた。
少なくとも、海外の(草子地:今の私にとっては、海内か?)情報の紹介の労に対しては評価したく思っていたが、昨今では、それも疑わしくなってきた。
古畑もまた、日本の評論家は不勉強である、と書いていたが。
要約には注意を要する。
私がまだ小学生の頃、国語(草子地、日本語のことか?)の授業で、「……以上を通して、作者は、何を言わんとしているか?」などという質問を受けたか、読んだかした記憶がある。
この種の質(愚)問には、どこかに罠があるのではないか、と幼い心にも訝しく、警戒したものである。
こういう、いらぬお節介を<読書指導>などと、教師は言っていたのではなかったか。
作者は、何を言わんとするか、それが一言や二言で言えるのであれば、紙数を費やすことなく、作者は、それを書いていたはずである。
それを、誰かが代行して、より簡単に言換え得るなどという、多分に無意識であろうが、無神経で官僚的な傲慢さは作者にたいして失礼、いや、無礼である、ということなどは、子供でさえ感じとれるものである。
その自覚のなさは、役人の知的怠慢である。
私も可愛げのない子供であったであろうが、質問した人、機関 ― 子供にとっては、学校は、権力で有る ― ほどには文学を含めての芸術作品に対しては小賢しくなかった、ということである。
短ければよい、要約すればよい、ということではなかろう。
例えば、一つの和歌を解説しよう、と試みるならば、その文章は、その和歌そのものよりも長くなるであろう。
当然であり、かつ、評論は文学よりは、決して、上位にはない、ということである。
本来は芸術である文学の、よくて哲学的な言い換えに何かの意味があるのだろうか。
その無意味さが、大学の文学部の文学や音楽学部の音楽学を成立、維持させている。
それだったら、何故、例えば、哲学をやらないのであろう、と私は訝しく思うのである。
哲学は、本来、面白い学問なのに。
それにしても、上記の例は、それ以前の話であろう。
追記(コーダ):
私の娘たちは、こちら(カナダ)の日本語の学校で、土曜日の午前だけ日本語を勉強しているが、そこで使用されている日本からの<国語>の教科書には、今でも、あの種の質問が書かれている。
いや、さらに踏み込んで、「……を読んで何を感じたか?」などというのもあった。
こうなったら、官民挙げての情操管理である。
正しい感じ方なるものまでが指導されるのか。
<良い子>は、教師の意向を察して、それに迎合する。
私は、無論、カナダの全部の英語とフランス語の授業を見聞きしたわけではないが、私の知る限り、何が書かれてあったか、を生徒に聞くに止まるようである。
もちろん、感じたことを話すのは、生徒の自由であり、また、生徒は自主的に、積極的に、きちんと発言している。
なによりも、健康的である。
(赤字はデンマンが強調)
55-56ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より
デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!
つまり、オイラが次のように言ったことがデンマンさんには気に障るのですか?
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モラヴィア語->ドイツ語->英語への言葉の変遷は、
間違い、不注意、無神経の故であろうが、
日本語への翻訳では、ずるい、が利口に変ったり、
<物語>などの余計な言葉が、飴をしゃぶらせるように
挿入されたりして、それを嫌らしいとは、
日本にいる日本人は感じないのであろうか。
いや。。。 別に気に障ったり、ムカついたわけじゃないのだけれど、確かに翻訳する時に、間違うことは往々にしてある。。。
。。。でしょう? だから、そういう事がないように気をつけねばならないと言ってるのですよ!
でもなァ~、例えば、ずるい、が利口に変ったりするのは、間違いとは言えないよ。。。
どうしてですか?
翻訳する人の理解が、そこに表れているわけだよ。。。 つまり、翻訳する人がヤナーチェクの上のオペラを見て感じたままを書いたのだよ。。。 それで、ある翻訳者はずるい狐と感じた。 また、他の翻訳者は利口な狐と感じたわけだよ。。。
でも、正解はただ一つだけだと思いますけれど。。。
だから、それが可笑しいのだよ! 人生と同じで、正解なんてないのだよ!
そんなことはないでしょう! 1 + 1 = 2 と決まっているのですよ! 答えは一つです!
そんなことはないよ! 量子の世界では、確率的に 1 + 1 = 3 になることもあれば 1.5 にも 2.5 にもなるときもある。。。
オイラは普通の、常識的な世界のことを言ってるのですよ。。。
でも、オマエも言ってるじゃないか! もちろん、感じたことを話すのは、生徒の自由であり、また、生徒は自主的に、積極的に、きちんと発言している。 なによりも、健康的であると。。。
確かに、そう言いました!
だから、翻訳者も、理解したままに、感じたままに、それぞれずるい狐、利口な狐と感じたままに翻訳したのだよ。。。
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つまり、デンマンさんもヤナーチェクの≪利口な女狐の物語≫を見て、上の女狐を思い浮かべたのですか?
そうだよ。。。 オマエは、次のような女を思い浮かべたのだろう!
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違いますってばああああああああああああああァ~♪~!
別に恥ずかしがらなくてもいいのだよ! 80歳を過ぎてセクシーな女に心を動かされるというのは健康な証拠だよ! 上のような女じゃないとしたら、オマエは、一体どういう女狐を思い浮かべたわけぇ~?
次のような女狐です。。。
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オマエ。。。 完璧なロリコンだなァ~。。。!?
うへへへへへへ。。。 いけませんか?
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(すぐ下のページへ続く)