デンマンのブログ

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JFK 証拠隠滅

2021-12-24 02:45:05 | アメリカ政治・文化


 

JFK 証拠隠滅

 


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ケイトー。。。 ケネディ大統領暗殺の証拠が隠滅されようとしているのォ〜?


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すでに多くの証拠がCIAによって隠滅されているのですよ。。。

マジで。。。? どうしてCIAが証拠を隠滅している、と見てきたようなことを言うのォ〜?

実は、バンクーバー市立図書館でDVDを借りて次のドキュメンタリーを観たら出てきたのですよ。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 



上の映画は次の本の内容に沿って制作されたのです。。。

 



Mortal Error

(致命的なエラー)


 


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致命的なエラー:(JFKを殺した銃弾)は、ボナー・メニンガーによる1992年のノンフィクションの本で、狙撃兵、ガンスミス、弾道学の専門家であるハワード・ドナヒューによる、シークレットサービスのエージェントがジョンF.ケネディ大統領を実際に殺した銃弾を誤って発射したという理論を概説している。
この本は、St Martin's Pressからハードカバー、ペーパーバック、オーディオブックで出版された。

ドナヒューは、11人の招待された射手と狙撃兵の1人として射撃の再現に参加した後、ジョンF.ケネディの暗殺に興味を持った。
ドナヒューは自身の調査によると、ケネディの頭を撃った弾丸は、実際には米国シークレットサービスの特別捜査官ジョージ・ウォーレン・ヒッキー・ジュニア(1923年3月24日ー2005年2月25日)によってAR-15から発射されたものだった。

大統領の車両の直後の車にAR-15ライフル持っていたジョージ・ヒッキーが乗っていた
射撃事件は次の手順で起こった。

最初のショットが発射された後、ヒッキーは完全に向きを変え、教科書保管棟の6階でオズワルドを目撃した。
彼の向きを変えた頭部は、ジェームズ・アルトヘンスによるAP写真に記録されている。

 


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ヒッキーは座席の下のAR-15に手を伸ばし、安全装置を外して銃を持ち上げた。
セカンドショットはオズワルドが発砲し、大統領とテキサス州知事のジョン・コナリーを襲った。
大統領の車とヒッキーを乗せたフォローアップ車が急にスピードアップした。

これは、シークレットサービスのエージェントであるクリント・ヒルによって証言されている。
車の床ではなく座席のシートの上に立っているために不安定なヒッキーは、車の加速により後退し始め、AR-15の引き金を引く。
その瞬間、銃はケネディに向けられ、弾丸は彼の頭の後ろに当たった。

ドナヒューの説は、ボルティモア・サンのレポーターであるラルフ・レパートによる調査で支持された。
1977年、レパートはドナヒューの理論を2つの記事で発表した。
この記事は、5月1日 日曜日と次の日曜日に掲載された。
2番目の記事には社説が付いていた。

 

反響

この本への反応はまちまちです。
AP通信のジェームズ・バルダッキは、ドナヒューの「巧妙さ」が彼のJFK暗殺の理論をもっともらしいものにしたと述べた。

ジェームズ・バルダッキはこの本を賞賛し、「メニンガーは物語を、細部の急増の中で決して解き放たない鋭さと流動性で解釈する」と述べた。

デビッド・ピエトルサは、暗殺をマフィア、CIA、またはFBIに結び付けていないため、ドナヒューの理論を異常だと結論した

ハミルトン・スペクテイターは、本書は「問題の核心を付いていない」と批判した。

出版前の注文は100,000を超えましたが、この本は当時ほとんど影響を与えませんでした。
メニンガーは2013年に、ドナヒューの理論が「陰謀論者とウォーレン委員会の支持者の両方に等しく嫌われていた」ためかもしれないとコメントした。

ドナヒューは1999年に亡くなった。
『JFK スモーキングがん』のドキュメンタリーで、彼の娘のコリーン・ドナヒュー・ローレンゼンは、彼の作品がほとんど興味を起こさなかったことに父親が驚いたことを覚えている。

彼の死の時、ドナヒューは同じトピックに関する別の本に取り組んでいた。

2013年、オーストラリアのジャーナリストで元警察の刑事であるコリン・マクラーレンは、ドナヒューの理論を検証し、支持する。
「JFK:The Smoking Gun」というタイトルの本を出版し、ドキュメンタリーを制作した。

 

訴訟

1992年に本が出版される前に、出版社と著者の両方がヒッキーに連絡を取り、彼の意見を聞く機会を提供した。

1995年、ヒッキーは、モータルエラーでなされた主張をめぐってセントマーチンズプレスを訴えた。
訴訟は、ヒッキーが本の最初の出版後、出版社に対して提訴するのに時間がかかりすぎたという理由で、1997年に最終的に却下された。

ペーパーバック版が出版されたときにヒッキーは訴訟を再提出し、その後、1998年に非公開の条件でセントマーチンズプレスと和解した.

 (デンマン訳)




出典: 「Mortal Error」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




 



ケイトーは、このドキュメンタリーを観て、ケネディ大統領の致命傷は米国シークレットサービスの特別捜査官ジョージ・ウォーレン・ヒッキー・ジュニア(1923年3月24日ー2005年2月25日)によってAR-15から発射された弾丸によるものだと確信したのォ〜?



そうです。。。上のドキュメンタリーを見たらそれ以外に考えられないのです。。。本でも、ドキュメンタリーでも間違って弾丸がケネディ大統領の後頭部に命中したと言うことになっているけれど、間違うはずがないのですよ。。。そういう偶然があろうはずがない!。。。しかも、ジョージ・ヒッキーはもともと車の運転手として6ヶ月前に大統領のパレードに参加することに決まった。。。他のエージェントが前日、夜遅くまでバーで酒を飲んでいたのに、彼は仲間に加わってないのです。。。

つまり、もともと大統領暗殺の使命を帯(お)びていた、とケイトーは思うのォ〜?

そうです。。。デビッド・ピエトルサは、暗殺をマフィア、CIA、またはFBIに結び付けていないため、ドナヒューの理論を異常だと結論した、と書いてあるけれど、ドキュメンタリーでは、CIA,FBI,ペンタゴンの要人が、大統領の検死に立ち会って、特にシークレット・エージェントが証拠を隠滅しようと躍起(やっき)になっているのです。。。このことからも、暗殺は前もって計画されており、特にCIAが暗殺直後から証拠隠滅に躍起(やっき)になっていたのですよ。。。

つまり、映画ではCIAとFBIも暗殺に絡(から)んでいたのねぇ〜。。。カバーアップしようとしたのねぇ〜?

そういうことです。。。

例えば。。。、具体的にどういうことをしたのよ?

大統領の後頭部の大きな傷跡の写真を撮った写真家のフィルムをエージェントはすべて押収した。。。その後、そのフィルムは証拠隠滅の対象になった。。。行方不明で、未だに見つかってない!。。。更に、オズワルドの銃が打った銃弾が大統領の致命傷だという新たな証拠を作るために、オズワルドが使ったとされる銃の弾丸の破片をレントゲン技師に渡して、それを頭部に付着してレントゲンを取るようにシークレット・エージェントが命令しているのですよ。。。

つまり、CIF, FBI, ペンタゴンの要人も大統領暗殺に絡んでいたのねぇ〜。。。?

そうです。。。検死はテキサスの法律では、現地、ダラスで行われなければならないのだけれど、CIAのエージェントが拳銃をちらつかせて、ワシントンで行うと宣言して、強引に大統領の遺体をエアポートに運び出したのです。。。ワシントンで行われた検死も異常な状況で行われた。。。

 



ケネディ大統領の検死

 


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ケネディ大統領の検死は、1963年11月にアメリカ合衆国メリーランド州ベセスダのベセスダ海軍病院で行われた。
検死は東部標準時1963年11月22日金曜日(暗殺の日)午後8時ころに始まり、東部標準時1963年11月23日土曜日午前12時30分ころに終わった。

ワシントンD.C.地域の検死病院の選択は、未亡人ジャクリーン・ケネディによって行われた。ケネディ大統領が海軍士官であったために、彼女はベセスダ海軍病院を選んだ。

ケネディ大統領の暗殺につづいて、シークレット・サービスは、より大きな計画の可能性を懸念し、リンドン・B・ジョンソン大統領に、ホワイト・ハウスに戻ることができるようにパークランド記念病院を離れてラブ・フィールドに行くよう促した。

しかしながら、ジョンソンはケネディの死亡の証拠なしにそうすることを拒否した。
ジョンソンは午後1時30分ころにエア・フォース・ワンに戻ったし、その後まもなく、マクジョージ・バンディとウォルター・ジェンキンスから電話があり、すぐにワシントンD.C.に戻るよう助言された。

彼は、自分はジャクリーン・ケネディなしではダラスを立ち去らないであろう、彼女はケネディの遺体なしで立ち去らないであろう、と答えた。
『Esquire』によると、ジョンソンは「美しい未亡人らの放棄者として記憶されたくなかった」。

ダラス郡の検死官アール・ローズは、ケネディ大統領が死んだと宣告されたという言葉を受け取ったとき、外傷室1の向かいの廊下を挟んでパークランド病院の自分のオフィスにいた。

彼は廊下を横切って、ジャクリーン・ケネディと司祭が占めていた外傷室に行った。
彼は大統領への最後の典礼を管理するために呼ばれていた。

そこで、ローズはシークレット・サービスのエージェント ロイ・ケラーマンとケネディの主治医ジョージ・バークレー海軍少将に会った。
バークレーは検死を行なう時間はないと彼に言った。
なぜならジャクリーン・ケネディは夫の遺体なしではダラスを離れないから、遺体はすぐに空港に届けられることになっていた、と言った。

ケネディ大統領暗殺のとき、アメリカ合衆国大統領の謀殺は、どの連邦組織の管轄下にもなかった。
ローズは反対し、テキサス州法は、遺体を取り除く前に死後検査を行なうことを自分に要求していると主張した。

ローズがケネディの補佐官らと議論したとき、熱い応酬が続いた。
ケネディの遺体は棺の中に置かれ、ジャクリーン・ケネディを伴って車つきのガーニーで廊下を運ばれた。
ローズは、棺をだれであれ動かせないようにするために地元警察官1人と共にに病院出入り口に立っていると報告された。

ロバート・カロの『The Years of Lyndon Johnson: The Passage of Power』によると、大統領補佐官らは「文字通りローズを押し込み、その警察官は建物から出るために脇にどかされた」。

『Journal of the American Medical Association』とのインタビューで、ローズは、自分は緊張を悪化させるのは賢明でないと感じて身を引いた、と述べた。

 

死亡証明書

ケネディの主治医ジョージ・グレゴリー・バークレー海軍少将は、11月23日に死亡診断書に署名し、死因は頭蓋骨への銃創であると述べた。
彼は、頭部の致命傷を「衝撃時に頭蓋骨の断片化と頭蓋骨の3つの粒子の剥離を引き起こし、脳の右半球の浸軟を引き起こすタイプの粉砕」と記述した。

彼はまた、「2つ目の傷は、3つ目の胸椎のレベルあたりで後背部に発生した」と述べた。
ダラス郡の治安判事Theron Wardが12月6日に署名した2つ目の死亡診断書は、ケネディは、「(1)身体の中心近くで右肩のすぐ上と、(2)後頭部の右中央に1インチ、の2つの銃創の結果として」死亡したと述べている。

 

検死中にいた人員

検死中のさまざまな時間に存在する要員のリスト、公式職務付き、Sibert-O'Neillレポートリスト、HSCAリストから取得された。
弁護士ヴィンセント・ブグリオシ、『Reclaiming History: The Assassination of President John F. Kennedy』の著者からも取得された。

医療人員と助手

公式の検死署名者
Commander(海軍中佐)J. Thornton Boswell, M.D., MC, USN: Chief of pathology at Naval Medical Center, Bethesda
Commander(海軍中佐)James J. Humes, M.D., MC, USN: Director of laboratories of the National Medical School, Naval Medical Center, Bethesda. Chief autopsy pathologist for the JFK autopsy. Officially conducted autopsy.
Lieutenant Colonel(陸軍中佐)Pierre A. Finck, M.D. MC, USA: Chief of the military environmental pathology division and chief of the wound ballistics pathology branch at Walter Reed Medical Center.

その他の医療人員

John Thomas Stringer, Jr: Medical photographer
Floyd Albert Riebe: Medical photographer
PO(海軍下士官)Raymond Oswald, USN: Medical photographer on call
Paul Kelly O'Connor: Laboratory technologist
James Curtis Jenkins: Laboratory technologist
Edward F. Reed: X-ray technician
Jerrol F. Custer: X-ray technician
Jan Gail Rudnicki: Dr. Boswell's lab tech assistant on the night of the autopsy
PO(海軍下士官)James E. Metzler, USN: Hospital Corpsman 3rd Class
John H. Ebersole: Assistant Chief of Radiology
Lieutenant Commander(海軍少佐)Gregory H. Cross, M.D., MC, USN: Resident in surgery
Lieutenant Commander(海軍少佐)Donald L. Kelley, M.D., MC, USN: Resident in surgery
CPO(海軍一等兵曹)Chester H. Boyers, USN: Chief petty officer in charge of the pathology division, visited the autopsy room during the final stages to type receipts given by FBI and Secret Service for items obtained.
Vice Admiral(海軍中将)Edward C. Kenney, M.D.,MC, USN: Surgeon general of the U.S. Navy
Dr. George Bakeman, USN
Rear Admiral(海軍少将)George Burkley, M.D., MC, USN: The president's personal physician
Captain(海軍大佐)James M. Young, M.D., MC, USN: The attending physician to the White House
Robert Frederick Karnei, M.D.: Bethesda pathologist
Captain(海軍大佐)David P. Osborne, M.D., MC, USN: Chief of surgery at Bethesda
Captain(海軍大佐)Robert O. Canada, M.D., USN: Commanding officer of Bethesda Naval Hospital

法執行機関/セキュリティからの非医療人員

John J. O'Leary: Secret Service agent
William Greer: Secret Service agent
Roy Kellerman: Secret Service agent
Francis X. O'Neill: FBI special agent
James "Jim" Sibert: FBI special agent, assisting Francis O'Neill

追加的軍事人員

Brigadier General(空軍准将)Godfrey McHugh, USAF: US military aide to the President on the Dallas trip
Rear Admiral(海軍少将)Calvin B. Galloway, USN: Commanding officer of the U.S. Naval Medical Center, Bethesda
Captain(海軍大佐)John H. Stover, Jr., USN: Commanding officer of the U.S. Naval Medical School, Bethesda
Major General(陸軍少将) Philip C. Wehle, USA: Commanding officer of the U.S. Military District of Washington, D.C., entered to make arrangements for the funeral and lying in state.
2nd Lieutenant(陸軍少尉)Richard A. Lipsey, USA: Jr. aide to General Wehle[30]
1st Lieutenant(陸軍中尉) Samuel A. Bird, USA: Head of the Old Guard.
Sr CPO(海軍上級一等兵曹) Alexander Wadas: Chief on duty




出典: 「ケネディ大統領の検死」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




 



検死の立会人を見ても、あんな狭い部屋に30人以上の関係者が立ち会っているのですよ。。。普通、検死というのは、せいぜい2人か3人でやるものです。。。しかも、FBIとCIAがのエージェントが5人も立ち会っている!。。。ケネディ大統領は、すでに死んでいるのだから護衛する必要はない!。。。護衛するとしても、検死室の内部にいたらじゃまになる!。。。護衛するならドアの外で監視するべきですよ!。。。異常です!



証拠隠滅のため?

ドキュメンタリーでは、CIAのエージェントが検死に立ち会って証拠隠滅のために動いているのです。。。

でも、上のドキュメンタリーは、公開された当時あまり評判にならなかったようねぇ〜?

そうです。。。なぜなら、暗殺をマフィア、CIA、またはFBIに結び付けていないため、ドナヒューの理論は、あまり説得力がなかったのですよ。。。だから、オリバー・ストーン監督作品の『JFK』ほど評判を呼ばなかった。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 



暗殺後、大統領になったジョンソンとFBI長官のフーバーとの間で次のような会話が取り交わされていたに違いない。。。

 



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長官、ひどいことになりましたなァ~。。。 この事件をいったいどのように処理するつもりですか?


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あんたも、“タナボタ”でアメリカの大統領になれたわけだ。。。 これまでにもアメリカの大統領が暗殺されたと言うことはあったけれど、まさか第2次世界大戦のあとになってから、アメリカで大統領暗殺がおこなわれるとは、わしも思ってもみなかったよ。 とにかく、アメリカの権威が失墜するかどうかの瀬戸際だから、あんたも、心してかかる必要があるよ。

それで、真犯人は突き止めたのですか?

いや。。。 真犯人のことは、あんたも知らない方がいいだろう。。。

でも、大統領として、私も知る必要が。。。

いや。。。大統領だからこそ、あんたは知らない方がいい。。。 知っている人が増えれば増えるほど、アメリカの権威は失墜するのだから。。。

しかし、“オズワルド単独犯行説”で世間は収まりますか?

収まるか収まらないかは、今後の成り行きしだいさァ。。。 でも、オスワルドがソ連に居たということは、冷戦を絡(から)ませるいい口実になると思うよ。 ソ連の KGB の犯行を匂わせることができるからね。

しかし、長官、暗殺が起きた11月22日から27日までの6日間で行われたギャロップ(Gallup)の世論調査では52%がオズワルドの単独犯行ではなく、グループによる犯行だと。。。つまり、何らかの陰謀があったと主張する者も多いのですよ。

だから、今後、そういう考え方を改めさせるために、我々が努力しなければならないわけさァ。 “オズワルド単独犯行説”で押し通すのだよ。

どのようにして。。。?

実は、FBIの詳細な公式報告をアメリカ国民に公表することで事件の調査を終了するつもりだったのだよ。 ところが、11月25日に テキサス州の司法長官がケネディとオズワルドの死をめぐる事実関係を糾明する査問会議を行うことを発表した。 翌日には、合衆国上院が調査特別委員会を設置することを発表。 そして翌27日には 合衆国下院が独自に特別委員会の設置を発表した。

それだけ、大統領暗殺の衝撃が大きかったということですよ。

まあ、そういうことなのだが。。。 実にやりにくいよ。

しかし、長官、犯人とされたオスワルドが警察署内で殺されるという異常な展開。。。、そして動機も背後関係も一切謎のままですからね。。。、うやむやに済ませるわけにはゆかないでしょう。 だから、一応、長官の意見を入れて、私も11月29日に暗殺事件の調査を大統領直属の委員会を設置して早急に行い、国民の間に広がる疑惑や不安を払拭することに決めたのですよ。

そうすべきだよ。。。 そうすることによって上下両院の独自調査を延期させることができるからね。。。、テキサス州の調査も大統領直属の委員会に資料を提出させるべきだよ。。。

分かりました。。。で、委員長は誰に。。。

連邦最高裁判所長官アール・ウォーレンがいいだろう。。。 彼ならば、何かと操(あやつ)り易いからねぇ~。。。




『ケネディ暗殺の謎』より
(2017年5月15日)


 



つまり、FBI長官のフーバーさんは真犯人グループを知っていたのねぇ〜。。。



もちろんですよ。。。FBIのエージェントを検死剣に立ち会わせているのだから。。。ケネディ暗殺には2つの陰謀が絡んでいたのです。。。 ケネディ大統領を暗殺する陰謀。。。それに、ジョンソン大統領直属のウォーレン委員会で真実を隠す陰謀ですよ。

でも、その証拠があるのォ〜?

もちろん、僕には、証拠となるものには手が届かない。。。 でもねぇ~、状況証拠なら、たくさんありますよ。 まず、ウォーレン委員会で扱われたすべての資料は、1964年に ワシントンDCにある国立公文書館に保管されてしまった。 しかも、それまでに公開されてない資料は75年間、つまり、2039年まで封印されることになった。

どうして。。。?

だから、アメリカの権威を保つためですよ。 もしも、ソ連のKBGが陰謀をめぐらせてケネディ大統領を暗殺したとしたら、75年間も資料を封印する必要など全くないのですよ。。。政府の一部が絡んでいるからこそ関連資料を完全極秘にして保管する必要があるのです!

今でも、ウォーレン委員会で扱われたすべての資料は封印されたままなのォ〜?

いや。。。 “75年間封印される”という理不尽さを 1991年にオリバー・ストーン監督が"JFK"という映画を作って、訴えた。 

 


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この映画で、“ケネディ大統領暗殺の陰謀”が、再びマスコミで騒がれるようになったのですよ。。。この映画ではペンタゴンでタカ派の高官が集まって、ケネディ大統領をなんとか「除外」しようと謀議している場面が出てくるのです。。。それを目撃した「ミスターX」が映画の主人公であるニューオーリンズの地方検事ジム・ギャリソンに話すのです。。。



。。。で、連邦政府の高官や国会議員たちは どうしたのよゥ?

映画が公開された翌年(1992年)に、“陰謀説”を掲げてマスコミで騒ぐ民衆をなだめるために「JFK記録に関する法律(the JFK Records Act)」というのを作って、できるだけ多くの資料を公開するようにしたのです。

それで、ほとんどすべての資料を公開したのォ〜?

いや。。。 伏せておくべき資料はやっぱり公開されなかった。 2017年までに、一部の極秘資料は公開された。。。 でもねぇ〜、“ケネディ大統領暗殺研究家”が喉から手を出したいほど欲しい資料 1,171点は CIA によって、今でも封印されている。。。

じゃあ、やっぱり、真の犯行グループがいるのねぇ〜。

いずれはっきりするでしょう。。。

。。。で、ケイトーは、その犯行グループのメンバーは誰だと思っているのォ~?

もちろん、すべてのメンバーについて僕が解るはずがありません。。。 でもねぇ~、その黒幕が誰かは容易に想像できます。

その黒幕ってぇ、いったい誰なのよォ~?

ちょっと次の記事を読んでください。

 


ケネディ政権


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ケネディ政権には、国家の安全保障を委ねられるにふさわしい「最も聡明にして賢明な者たち」が結集しているとされた。
国家安全保障担当大統領補佐官には、ハーバード大学の学長を努めたマクジョージ・バンディが、また国防長官にはフォード社長からロバート・マクナマラが起用された。
「若いながらも、当代切っての」と謳われた逸材が綺羅星のように居並んでいた。

だが、大統領が核戦争の淵に立たされたとき、縋(すが)るようにして頼ったのは、ワシントン政界の奥深く棲むフクロウといわれた老政客(ロバート・ロベット翁)だった。

 (中略)

すでに空軍を中心に軍部は不穏な動きを見せていた。
ペンタゴンでは、キューバへの空爆の準備を着々と進めていたのだった。
大統領の最終的な命令が下れば、直ちに爆撃機を発進できるように空爆目標の選定もほぼ終わっていた。

……主戦論の中核にいたのが、空軍参謀長、カーティス・ルメイだった。
この主戦派は、かつてドイツと日本への戦略爆撃を指揮し、空の英雄と呼ばれていた。
戦後もアメリカ空軍に君臨して、膨大な軍事予算を握り、多数の国防族議員まで要して巨大な政治集団を形成していた。


そのため、ジョン・F・ケネディは、カーティス・ルメイを頂点とする空の制服組を抑えるため、ロベット翁の隠然たる政治的権威を必要としたのだった。

 (中略)

ジョン・F・ケネディは、軍部の空爆論を抑えて、海上封鎖に傾いていった。
キューバへの海上航路を遮断し、ソ連がこれ以上のミサイルを持ち込むことを断じて許さないという決意を示そうとしていた。
だが、空からの奇襲を強く主張する空軍を率いるカーティス・ルメイは、武力行使に同調しない大統領に詰め寄った。

「私は大統領とは違い、キューバを爆撃しても、ソ連がベルリンを攻撃することはないと考えております。
 空爆を断念することは、ミュンヘンの宥和主義とおなじくらい悪しき選択です」

ミュンヘン宥和主義。 ケネディ一族に対して毒を含んだ物言いだった。
1938年のミュンヘン会談で、イギリスはチェコスロバキアのズデーテン地方をヒトラーに分け与えることで一時の平和を保とうとし、それが第二次世界大戦に道を開いてしまったといわれた。
当時駐英大使だったケネディの父ジョセフは、このミュンヘンの宥和主義を支持したと批判されていたからだ。
だが、カーティス・ルメイの挑発をしりぞけて、大統領は海上封鎖に心を決めていた。

「諸君の見解は尊重する。 なぜ、海上封鎖を選択するのか。 それは全面核戦争へのエスカレーションを避けなければならないからだ

ジョン・F・ケネディがこういい残して退席したあと、将軍たちが若き大統領をあしざまに罵る様子が「ケネディ・テープ」に録音されている

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)




107 - 111ページ
『葡萄酒か、さもなくば銃弾を』
著者: 手嶋龍一
2008年6月4日 第3刷発行
発行所: 株式会社 講談社

『シルヴィーとケネディ夫人』に掲載
(2011年6月15日)


 



主戦論の中核にいたのが、空軍参謀長、カーティス・ルメイだった」と書いてあるけれど、この人物が黒幕ですよ。 「戦後もアメリカ空軍に君臨して、膨大な軍事予算を握り、多数の国防族議員まで要して巨大な政治集団を形成していた」ということですからね。。。



この将軍は自国の大統領まで暗殺するような精神を持った人なのォ〜?

自分の考えに固執して、例え大統領だろうが、国のためにならないと思えば暗殺も辞さないというタイプですよ。 ウィキペディアにも次のように書いてある。。。

 


カーチス・ルメイ

 

キューバ危機勃発時には、キューバ空爆をジョン・F・ケネディ大統領に提案したが却下された。
ルメイら空軍首脳部は圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると思っていた。
実際にはキューバ危機の時点ですでにキューバに核ミサイルが数十基配備済みであったことは、第三次世界大戦を招きかねない完全な見当違いであった。

ベトナム戦争では空軍参謀長の任にあり、「(北)ベトナムを石器時代に戻してやる」と豪語して北爆を推進した。
なお、北爆が開始された1965年に除隊した。

 

退役後

1965年2月に退役。1968年には、ベトナム戦争の推進を支持し、人種差別的な綱領を掲げた前アラバマ州知事、ジョージ・ウォレス大統領候補とともにアメリカ独立党 (American Independent Party)の副大統領候補として出馬するが落選。
1990年10月1日没。

 

評価

ルメイの行為は、多くの罪の無い民間人を殺戮したことに加え、貴重な文化財(寺院・仏閣・城郭など)を灰燼に帰す結果をもたらしたために、特に対日作戦について、前任者であるハンセル准将と違い、一部政治家、文化財研究家からは強く非難されている。

特に日本では、ルメイは残虐な無差別戦略爆撃の父として評価が定まっている

右派においてもアメリカに批判的な者の場合、小林よしのりのように、著作で批判的に取り上げる例がある。
また、ルメイに近い戦勝国で計画を進める側の立場にあったマクナマラも『フォッグ・オブ・ウオー』で「勝ったから許されるのか?私もルメイも戦争犯罪を行ったんだ」とも述べている。

しかしルメイの立場から見れば、その戦略はあくまでも戦争において敵の損失を最大化させるという爆撃部隊における合理性と効率を追求したものであるという。


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ルメイ自身は「アメリカが敗戦するなら自分は戦争犯罪人として処せられる」と述べている。

また、ドイツ本土への爆撃に赴く搭乗員に対して次のようにも述べている。



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君が爆弾を投下し、そのことで何かの思いに責め苛まれたとしよう。
そんなときはきっと、何トンもの瓦礫がベッドに眠る子供のうえに崩れてきたとか、身体中を炎に包まれ『ママ、ママ』と泣き叫ぶ三歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているに違いない。
正気を保ち、国家が君に希望する任務を全うしたのなら、そんなものは忘れることだ。




ドイツ空襲の意見を聞かれて
『戦略・東京大空襲』
E・バートレット・カー著・大谷勲訳


(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)

出典: 「カーチス・ルメイ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



どうですか?。。。シルヴィーもルメイ将軍がケネディ暗殺に裏で動いたと思いませんかァ〜? 



でも、黒幕がルメイ将軍だったというのは、あくまでもケイトーの推測よねぇ~。。。

これまでの状況証拠を見ても、黒幕はルメイ将軍以外には考えられない。

CIAに封印されている資料が 2023年までに公開されるようねぇ〜。。。そうなったら、いづれ解明されるわねぇ〜。。。

いや。。。 最も重要な極秘資料は公開されないはずです。。。

どうして。。。?

黒幕がルメイ将軍であるという証拠は、すでに隠滅されてるから。。。



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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたも、ケネディ大統領暗殺にはCIAとFBIとペンタゴンの要人が絡(から)んでいると思いますか?

ええっ。。。「そんなことはどうでもいいから、もっと楽しいことを話せ!」

あなたは、そのように強い口調で私にご命令なさるのですかァ〜?

分かりましたわァ〜。。。

では、シルヴィーさんが出てくる面白い記事のことでも。。。

次の記事の中から面白そうなものを選んで読んでください。

 


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『熟女ヌード@デンマン』

『ロッキード事件の真相』

『政府と役人と嘘』

『ジュンガル』

『地球温暖化は避けられない』

『国際平和連合』

『鬼島』

『悪徳サイト』

『あげつらう』

『過ちを犯す』

『三島由紀夫の謎』

『ヒラリートランプ現象』

『ノーパン@CIA』

『未開人と文明人』


(banana82e.jpg)

『オセロの失敗』

『サン・ラザールの裏路』

『「夜と霧」を観た?』

『虫酸が走る』

『大空に乾杯』

『ターバンを巻いた少女』

『美しい日本語を探して』

『アダムとイブのバナナ』

『宮沢りえ@サンタフェ』

『ネットの主要言語』

『中国人がアメリカを発見した』


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『2000年前の光通信』

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甲斐姫の母親

2021-12-24 02:19:39 | 歴史四方山話


 

甲斐姫の母親

 


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デンマンさん。。。、どういうわけで 甲斐姫の母親 を取り上げたのですか?


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実は、「青空文庫」で山本周五郎の次の作品を読んだのです。。。

 




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靱負之助(ゆきえのすけ)がみまわっていると、婦人たちのあるひと組が仕事の手をやすめて、なにかひそひそ囁(ささや)きあっているのをみとめた。
近寄ってなにをしているかとたずねると、ひとりが手に持っていた笄(こうがい)をさしだして、「このような品が壕のなかに落ちていましたので」とふしんそうに云った。

「そのもとたちの持場だ、笄が落ちているのにふしぎはあるまい」
「なみなみの品なればふしんはござりませぬが、これはわたくしどもの用うるものではござりませぬ」
「そればかりではなく」とそばにいたひとりが云った。

「わたくしそのお笄には見おぼえがござります、わたくしは数年まえまで奥へあがっておりました、そのおりたしかに見おぼえております、それはおかた様が日常お用いなされる品でございました」
「これが、この笄が、おかた様の……」

靱負之助は婦人の手から笄をうけ取った、或ることがふとかれの頭にひらめいた。
「いずれにもせよ」とかれは笄を懐紙に包みながら云った、「かような品の詮議をするいとまはない、領民たちにおくれをとらぬよう、一日も早く壕を掘りあげなければならぬ、しっかりたのむぞ」

やはりおかた様だ、おかた様がおしのびで、自分たちと一緒に壕を掘っていらっしゃったのだ。
婦人たちがそう囁き合うこえを聞きながら、靱負之助はそのあしで本丸へあがった。

広書院へ伺候すると、いつものとおり甲冑をつけた真名女が、ちゃんと上段の床几しょうぎにかけていた。
靱負之助は内密の言上だからといって、侍女たちの遠慮をねがった、真名女は手をあげて侍女たちをさがらせた。
「今日かような品が、壕つくりの場所よりみいだされました」
靱負之助は笄をさしだしながら、上段のきわまで膝をすすめた。

「かれらのなかに、かつておそば近く仕えた者がおり、おかたさま御用の品と申しております、その者のおぼえ違いでござりましょうや、それともおかたさま御用のお品にござりましょうや」
「…………」
「もし御用の品なれば、家臣どもと苦労をおわかちあそばすおぼしめしでござりましょうが、それはいささかお考え違いと申さねばなりませぬ、おかた様は忍城のおんあるじ、さようなかるがるしいおふるまいは」

そこまで云いかけて、靱負之助はあっと眼をみはった、兜の眉庇のかげにみえたのは真名女ではなかった、真名女によく似たうるわしい面ざしではあるがそれは甲斐姫であった。
姫が母に代って甲冑をつけていたのであった、
「これは……」
靱負之助はつぐべき言葉を知らなかった。
そしてかれには今、家臣の妻たちといっしょに土まみれになって、壕を掘っている夫人の姿がみえるように思えた。

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




笄堀 『日本婦道記』
著者: 山本周五郎
発行所: 青空文庫


 



上の引用箇所は『笄堀(こうがいぼり)』という話の一部だけれど、石田三成が忍城を水攻めにした時の話ですよ。。。丸墓山に陣取って三成は水攻めの指揮をとったのです。。。小百合さんと一緒にあの丸墓山に登ったけれど、あの同じ地点に石田三成が450年ほど前に立ったということを考えると、考え深い事です。

 


(maruhaka53.jpg)

『謙信と軽井沢タリアセン夫人』

 



小百合さんが女子校を卒業するまで過ごした実家のある館林も出てきます。。。水攻めが始まる前に、館林藩では忍藩に使者を送って、300人あまりの兵士では忍城を守りきれないから館林の城にぜひやってきてくれ、と誘ったのです。



でも、応じなかったのですわねぇ~。。。

そうです。。。忍城主の留守を守る奥方は、上の作品の中では「真名女」として出てくる人だけれど、300人で城を守る決断をしたのです。

勇ましい女性だったのですわねぇ~。。。

そう言うことになっているのですよ。。。館林藩には6000人ほどが集まってきたけれど、結局3日間戦って破れてしまった。。。

どうして忍城には300人しか武士がいなかったのですか?

当時、豊臣秀吉が小田原城を攻めており、忍城からも援軍を差し向けたからですよ。。。城主を始め、壮年や青年の武士は小田原に駆けつけていて、忍城には老人や女子や子供たちだけだったのです。

武士と言っても かなり年をとった人たちばっかりだったのですね。。。

そうです。。。忍城では老兵がたったの300人でしたが、上の話からも分かるように城主の妻が 下々の者たちと一緒になって外堀を掘ったことが口コミで伝わり、城内にいる者たちが一丸となって決死の覚悟で果敢に戦ったのです。。。上の話は、その時のものです。

つまり、城主の奥方が娘(甲斐姫)に自分の身代わりになってもらって鎧兜(よろいかぶと)を着てもらい自分は武士の妻や城内にやって来た町人のおかみさんたちと、外堀を一緒に掘たということですか?

そういうことです。。。そのとき髪に付けていた笄(こうがい)を落としてしまうのです。それを ある奥方付きの女中が見つけ「これは、奥方様の笄だわ」ということになり、奥方が変装をして女中や武士のカミさんたちと一緒に外堀を掘っていたことが知れるのです。

それで、留守を守っていた城代家老が、そのようなはしたないことをしてもらっては困ると奥方に会いにゆくのですか?

そうです。。。娘の甲斐姫が鎧兜(よろいかぶと)を着ているのだということを発見して驚いてしまう。。。でも、そういうことが知れたので、城内の者は心を一つにして決死で戦うことを心に誓った。。。石田三成の部下は3万人もいたけれど、寄せ集めの統制の取れてない武士たちだったので、結局、石田三成は地上戦では埒(らち)が開かないと考えて水攻めを決めたのですよ。。。僕の祖先も、この時に城内に入って一緒に戦ったはずです。

。。。で、デンマンさんは、どういうわけで上のエピソードを取り上げたのですか?

上の話は、とてもいい話なのですよ。。。実に読む人を感動させるようなすばらしい話です。。。物語では、甲斐姫は奥方にとても似ているので、初めのうちは誰も気づかなかったということになっている。。。

歴史的事実は、そうではないのですか?

あのねぇ~、この時の真名女は甲斐姫の実の母親ではないのですよ。。。甲斐姫の母親は、彼女がまだ2歳の時に離婚させられていた。。。だから、甲斐姫は真名女とは顔も体格も全く似ていなかった。。。

マジで。。。? どういうわけで甲斐姫の母親は離婚させられたのですか?

現代ならば、「性格の不一致」で離婚されるのが普通だけれど、その当時は武家の間では政治的な理由で離婚させられるのが普通だった。。。当時の忍城城主・成田氏長の正妻、つまり、甲斐姫の母親は、上野国金山城城主・由良成繁の娘だった。。。

。。。で、何が起こったのですか?

詳しことはわからないけれど、天正元年(1573年)、成田氏と由良氏の関係が悪化した。。。それで甲斐姫の母親は、甲斐姫が2歳の時に離別させられたのですよ。。。その後は太田資正の娘を後妻としてもらった。。。

その後妻が上のエピソーでは真名女なのですねぇ~?

そういうことです。。。でも、二人は似ているはずがない。。。

どうしてですか?

あのねぇ~。。。甲斐姫のおばあさん(実母の母親)という人は、甲斐姫を上回る女傑だった。。。夫が亡くなってから尼になって妙印尼と名乗るのだけれど、天正12年(1584年)に金山城が北条氏の軍勢に襲撃された際、71歳という高齢にも拘らず籠城戦を指揮したのですよ。。。甲斐姫の実母も武芸に秀でていたのです。。。だから、甲斐姫もその血筋を受けつでいたので、おしとやかというような女性ではなかったと思われる。。。男で言うならば武骨者とでも言うようなところがあったに違いない。。。

作者は、その事実を知らなかったのでしょうか?

いや。。。山本周五郎は、その事実も知っていたはずです。。。でも、物語を作る上で、奥方が継母だと、母と娘が似ていることにならないので、わざと継母だとは書かなかったのですよ。。。

本当は、上の話はどうだったのでしょうか?

もし、上の話のような出来事があったとしたら、笄を落としたのは、奥方ではなく甲斐姫だったと思うのですよ。。。継母は意地悪をするような人ではなかったらしいけれど、本人は継母と居るよりは、兵士の妻や、町人のカミさんたちと一緒に外堀を掘るほうが気が楽だったでしょうからね。。。

やっぱり、継母とはうまくゆかなかったのでしょうか?

表面上は知らない人が見れば、仲の良い母と娘のように見えたでしょう。。。でも、甲斐姫はトラウマを抱えていたのです。。。

それはどうしてですか?

小百合さんがゼリーフライ買う“かねつき堂”の近所を拡大した地図を見てください。

 


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『拡大する』

 



“かねつき堂”のすぐ近くに“縁切橋” と “涙橋”という知る人ぞ知る 涙をそそる有名な橋があったのですよ。

 


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この二つの橋が「甲斐姫のトラウマ」と関係あるのですか?



あるのですよ。 次のエピソードを読んでみてください。

 


“縁切橋” と “涙橋”

 

栗原医院の所にあった二重櫓の西に門と橋があり、今の城西1丁目1番地の間の道を西に出ると門と橋があった。
その橋を“縁切橋”といった。
今の1番地 2番地、4番地の地内が上荒井曲輪で囲まれていた。

その西側、今の矢場1丁目5番地は“片矢場”といい、今の西側小川に沿ってやはり曲輪に囲まれていた。

矢場2丁目4番、5番の南に川があって、ここにも門と橋があって“涙橋”といった。

今は川がなくなってしまったので、古老以外は知らないと思うが、大正初期頃までは橋の名が悪いので、若い男女は二人でこの橋二つを渡るものではないとされていた。

橋名の因縁は天正元年(1573年)の四百年も前の事である。
館林城主の長尾但馬守入道景朴は古河公方の旗下となり、足利義輝将軍の御供衆になって娘を近隣の大家忍城成田氏長にやり、北関東に覇をとなえようとした。

しかし意の如くならず、政略結婚の常として氏長に破談をせまった。

そこで氏長は妻女を大裏門から送り出し、この橋で別れを惜しんだ。
即ち“縁切橋”の名となったという。

別れを惜しんだ妻は次の橋で振り返り、涙を流して皿尾門から出て行ったといわれる。
即ち“涙橋”といい後世までの語り草となった。

その時、忍城に残された一粒種の甲斐姫は2歳であった。


それから16年後の天承18年(1590年)石田三成の2万の大軍が忍城を攻め、有名な“忍の水攻め”となった。

芳紀正に18歳の長刀の名手の美少女甲斐姫が、大手門外や大宮口御門に大奮戦して城兵を鼓舞し、忍城を不落の城として守り通した話は『成田記』にくわしい。

 


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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)




182-183ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社


 



僕が子供の頃には、“縁切橋” と “涙橋”のエピソードは聞いたことがなかった。 でもねぇ~、四百年も前の悲話が大正時代まで語り継がれてきたというのは すごいと思いますよ。 現在でも郷土史に関心のある行田市民は知っています。。。



つまり、甲斐姫の実母が離婚させられて、2歳足らずの我が娘を置いて涙ながらに去っていったということが後年の甲斐姫にトラウマになって心の隅に巣くっていたのですか?

そういうことですよ。。。とにかく、現代まで語り継がれてきたほどですからね。。。城内で箝口令(かんこうれい)を布(し)こうとも、その悲しい事実は 必ず誰かの口から甲斐姫の耳に入ってしまったはずです。。。

それで甲斐姫は、その忍城での合戦の時に、亡くなった母のところへ逝くつもりで、死を覚悟して華々しく戦ったのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。死ぬつもりで戦ったのだから強いはずですよ。。。



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~

貴方も“縁切橋” と “涙橋”にからむ切ないお話を聞いて甲斐姫のトラウマが理解できましたか?

ええ。。。? 「そんな事はどうでもいいから、もっと面白い話をしろ!」

あなたは、あたくしに そのような強い口調でご命令なさるのでござ~ますかァ~?

分かりましたわァ。。。 あなたがそのようにおっしゃるのであれば、

元旦にバンクーバーで第100回寒中水泳があったのでござ~ますわよう。

その模様をお見せしますわねぇ~。。。

 


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ええっ。。。 「寒中水泳など つまらんから、もっと面白い話をしろ!」

あなたは、さらに、そのような強い口調で あたくしにご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

個人的なお話ではありますけれど、

次の検索結果を見てくださいまし。。。

 


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『拡大する』

『現時点での検索結果』

 

「卑弥子 ヴィーナスのえくぼ」と入れてGOOGLEで検索する殿方が多いのでござ~ますわァ。

つまり、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”を目当てにやって来るのですわよう。

うふふふふふふ。。。

あなたも、ビックリするでしょう?

ジムに毎日通って“ヴィーナスのえくぼ”をゲットしたのですわァ。

 


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どうでござ~ますかァ?

ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?

どうしてよう?

ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?

あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、

最後には上のようなおヌードになるのですわよう。

信じてくださいましなァ~。。。

 

ところで、小百合さんが なぜ「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれているのか?

ご存知でござ~♪~ましょうか?

なぜ。。。?

実は簡単な事なのですわよう。

 


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小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。

 


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

 

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とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。

だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。

じゃあねぇ~~。


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ィ~ハァ~♪~!

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こんにちは。ジューンです。

日本のハーブティーは、なんといっても桜湯だそうですけれど、


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カナダ、アメリカ、イギリスではハーブティーとして

ローズティーが好まれています。

普通、ローズヒップティーと呼ばれます。

ローズヒップ(rose hip)とは

バラ科バラ属の植物の果実。

つまり、バラの実です。

ローズヒップ生産のため、バラの特定品種、

特にRosa canina(ドッグ・ローズ)が栽培されています。

ハイビスカスとブレンドしたハーブティとして飲用されることもあります。

また、ローズヒップオイルは食用油として、

ジャム、ジェリー、マーマレードにも用いられるほか、

スキンケアにも用いられます。

こんなエピソードがありました。

第二次世界大戦中、

イギリスはドイツ海軍Uボートの海上封鎖により

オレンジの輸入がストップしたのです。

ビタミンCの補給ができなくなったのです。

それで、英国の学童たちは生垣に生えている

ローズヒップの採集を命じられました。

ローズヒップティーにして飲んで

ビタミンCを補給したのですって。。。


(rosehip.jpg)

なんだか信じられないようなお話ですよね。

ところで、英語の面白い話を集めました。

時間があったら覗いてみてください。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。



(chirashi.jpg)


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