デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

トルコの女狐

2022-07-02 01:41:12 | お笑い・ユーモア・娯楽・ゲーム・音楽


 

トルコの女狐

 


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デンマンさん。。。、トルコの女狐 を動物園で見たのですか?


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何で、僕が動物園で トルコの女狐 を見たと思ったのォ〜。。。?

デンマンさんは動物が好きなので動物園に行ったと思ったのですよ。。。動物園じゃなかったら、バンクーバーのスタンレー公園を散歩していたときにトルコの女狐に出くわしたのですかァ〜?

なんでスタンレー公園にトルコの女狐が居るわけぇ〜?

トルコの移住者が狐を離したかも知れないじゃありませんかァ〜!

トルコの移住者が狐をカナダに持ち込めるはずがないだろう!? 僕がトルコの女狐に出くわしたわけじゃないのだよ!

じゃあ、「トルコの女狐」という名前のベリーダンサーのショーを見に行ったのですかァ〜?

いや。。。残念ながら、ベリーダンサーのショーは上のクリップで見ただけなんだよ!

じゃあ、いったいどういうわけでトルコの女狐というタイトルを持ち出してきたのですか?

ちょっと次のリストを見て欲しい。。。

 


(goo22-06-22.jpg)


『拡大する』

『卑弥子さんの大学』

『利口な女狐(PART 1)』

『おばさんパンツ調査』

『女子大生の多い混浴』


 



これは GOO の僕の「デンマンのブログ」のバンクーバー時間で6月22日の午前6時18分から午後12時18分までの6時間のアクセス者の棒グラフと日別・週別のランキングの記録だよ。。。アクセス元ページ の赤枠で囲んだ3番と4番に注目して欲しい。。。



Yandexで画像検索 したネット市民がいたのですねぇ〜。。。

そうなんだよ。。。3番のリンクをクリックすると次の検索結果が出てくる。。。

 


(yan22-06-22.jpg)


『拡大する』

『現時点での検索結果』

『利口な女狐(PART 1)』


 



あれっ。。。 女狐のマネをしている次の可愛い女の子の画像を探すために画像検索したのですねぇ〜。。。

 


(vixen05.jpg)

 



そうなんだよ。。。この画像がネットでは人気らしいのだよ!



トルコの Yandex で検索したのですねぇ〜。。。トルコに留学している日本人が検索したのですか?

いや。。。イスタンブールに住んでいるムスタファ・オジャラン(Mustafa Ocalan)君が検索したのだよ。。。

 


(ip19645.jpg)

 



ムスタファ君はイスタンブールで何をしているのですか?



イスタンブール大学の音楽学校で作曲を学んでいるのだよ。。。

 


(istanuniv.jpg)



 

イスタンブール大学

 



イスタンブール大学の音楽学校で作曲を学んでいるムスタファ君が どういうわけで女狐で画像検索するのですか?



オマエは女狐から何か連想するものがあるだろう!?

別にありません。。。

あるだろう! よ〜♬〜く考えろよ!

考えてみても女狐から連想するものはありません。。。

あのさァ〜、せっかくオマエを呼び出したのだよ! オマエと関係あるのだよ!

オイラは女狐にも、ベリーダンサーにも興味がありません。。。

ムスタファ君が読んだ『利口な女狐(PART 1)』では、オマエと僕が作曲家のヤナーチェクのことで語り合ったのだよ。。。だから、ヤナーチェクのことを思い出せば、女狐から連想するものがあるだろう!?

あります。。。あります。。。思い出しましたよ。。。そう言われてみればヤナーチェクが作曲したオペラに「利口な牝狐の物語」というのがありました。。。オペラ芸術において5本の指に入る美しい傑作です。。。

 



 



利口な女狐の物語

 

『利口な女狐の物語』(チェコ語:Příhody lišky Bystroušky)は、レオシュ・ヤナーチェク作曲の第7作目のオペラで、彼の代表作である。
台本はルドルフ・ティエスノフリーデクの物語に基づき、作曲者自身が作成した。

動物が大勢登場し、一見民話風あるいは童話風の外観であるが、その中に死と再生を繰り返す生命の不思議や自然への感動、あるいは畏怖の念が表現されている。
ヤナーチェクは自身の人生観が込められた第3幕の森番のエピローグを、自分の葬儀で演奏するよう生前に希望しており、その葬儀の際には実際に演奏が行われた。

 

原作について

このオペラの原作は、ブルノの新聞「リドヴェー・ノヴィニ」に掲載された、スタニスラフ・ロレク( Stanislav Lolek )の絵にルドルフ・ティエスノフリーデク( Rudolf Těsnohlídek )がキャプションをつけた絵物語であった。

画家のロレクは、ボヘミア南部の猟場の番人助手をしていたこともあって動物たちをよく知っており、活き活きとユーモラスな絵を描くことができた。
ティエスノフリーデクはこの絵に詩をつけるように依頼されたが、最初は乗り気でなかった。

しかし、方言を使うことを思いつき、リーシェニュ地方の方言を用いた散文で物語を書いた。
作家は主人公を「機敏な女狐」(Liška Bystronožka)と名付けたが、印刷の際に植字工が「早耳の女狐」(Liška Bystrouška)と間違えてしまった。
不思議なことに、これが修正されることなく主人公の名前となった。

オペラのタイトルも直訳すると「早耳の女狐の冒険」となるが、一般に『利口な女狐の物語』で親しまれている。
『ずるい女狐』の訳題も用いられ、まれに「女狐」を「子狐」とする場合もある。

 

作曲の経緯

「早耳の女狐の冒険」は大変な評判になった。ヤナーチェク家の家政婦マリー・スティスカローヴァも愛読者の一人であり、この物語でオペラを書くことを作曲家に奨めたのはこの家政婦だった

その時の様子を彼女は回想録に書いている。

「早耳の女狐の冒険」が連載されるようになって以来、マリーは新聞を主人に渡す前に台所で読むのを楽しみにしていた。
ある日の絵がとてもユーモラスだったので彼女は思わず声を上げて笑ってしまった。

その時ヤナーチェクが台所に現れ、「何がそんなにおかしいんだ」と尋ねた。
彼女はバツの悪い思いをしながら「ビストロウシュカ(早耳)です。」と答えた。

ヤナーチェクが何のことだか判らない様子だったので彼女は驚いて「ご存じないんですか? 新聞に載っているじゃないですか。」と言ってその絵を見せた。

その絵と文章を見てヤナーチェクが微笑んだので、彼女は「旦那様は動物たちのことをよくご存じですよね。これはすてきなオペラになるんじゃないでしょうか。」と言った。

ヤナーチェクは「早耳の女狐」が載った新聞を集め丹念に研究を始め、作者のティエスノフリーデクに面会を求めた。

1921年にこの物語が単行本になると、これに基づいてヤナーチェクは台本を書いた。
翌1922年2月10日の手紙で、作曲を始めたことをカミラ・シュテスロヴァーに知らせている。

作曲は1923年3月に完了した。
完成の翌年1924年10月に改訂され、改訂直後の1924年11月6日、ブルノ劇場でフランティシェク・ノイマンの指揮により初演された。

なお、日本での初演は1977年11月8日に大阪厚生年金会館にて行われた二期会関西支部公演である。

 

このオペラには、ヤナーチェクが生涯描き続けた重要な2つのテーマが盛り込まれている。

1)生命の森

原作は、このオペラでは第2幕にあたるビストロウシュカの結婚で終わっている。ヤナーチェクは台本を作成する際に、様々な工夫をして第3幕を書き足した。書き足された第3幕で演じられ、語られるものこそ、ヤナーチェクが語りたかったことであり、それゆえに彼はこの第3幕第3場が自分の葬儀で演奏されることを望んだのである。それは東洋の輪廻思想にもつながり、現代のエコロジー思想にもつながる生命の再生、自然のサイクルということである。この生の円環(えんかん)や照応は観念上のものであるよりは、ヤナーチェクの生活上の体験から感得されてきたものである。ヤナーチェクは、彼の父が音楽を教えたパヴェル・クルジージュコフスキーに音楽を学んだ。クルジージュコフスキーが父イジーと出会ったのも、ヤナーチェク自身が修道院でクルジージュコフスキーに出会ったのも、少年が11歳の時であった。また3歳の時に父親を亡くしたフィルクスニーにヤナーチェクは音楽を教えたが、自身は息子を2歳半で亡くしている。

また、生命を語ることは性を語ることである。『利口な女狐の物語』では随所に性を扱う箇所が見られる。第1幕第2場で犬のラパークが恋というものがわからないと言うと、ビストロウシュカは自分が見た小鳥の交尾を語る。第2幕第4場の雄狐ズラトフシュビテークとビストロウシュカとの恋の駆け引きはこのオペラの見所の一つであり、濃厚な音楽がつけられている。巣穴に巨大なベッドを用意する露骨な演出で演じられたこともある。そして夜が明けて彼らの結婚式の場面となる。原作ではこの結婚式はごく簡単に語られているにすぎないが、ヤナーチェクはこれを拡大し、祝祭的なクライマックスとした。この場面を描くことにより、第3幕で子狐を登場させることが可能となったのである。そして第3幕第3場で森番は、結婚式の翌日に森で新妻と寝ころんだと歌い、性交渉を暗示する。森は命をはぐくむ場所であり、老いた身を再生させる場所なのである。この歌を歌うために森番の役割は原作に比べ、はるかに重要なものとなっている。

モラヴィアの森を描く際、ヤナーチェクの音楽語法「発話旋律」、すなわち話し言葉の抑揚と音楽のメロディを一致させる手法は、オペラの持つ土俗的要素を強調する上で実に有効に機能しており、生き生きとした描写の成功に貢献している。

 

2) 拘束からの自由

第1幕第2場でビストロウシュカが雌鶏たちに向かって行う、雄鶏からの解放を訴えるアジテーションは、実に興味深い。元来、抑圧からの解放は、ヤナーチェクの重要なモチーフであった。それは『利口な女狐の物語』の前作に当たるオペラ『カーチャ・カバノヴァー』のメイン・テーマでもあった(ヤナーチェクのテーマ参照)。結婚を拘束と捉えることは、たとえば本作の第2幕でビストロウシュカがズラトフシュビテークと巣穴に入ると、巣穴の前でトンボがダンスを踊る場面に現れている。実は第1幕でビストロウシュカが森番に捕まった時にも、やはりトンボが踊っていた。これはヤナーチェクにとって、結婚はすなわち囚われの身になることなのだという意味づけを象徴している。ズラトフシュビテークと出会う前の第2幕では森番の射撃からも逃げおおせた機敏なビストロウシュカも、囚われの身となった第3幕では夫と子供のために行商人の銃弾を受け、殺されてしまうのである。

夫や婚家の都合で抑圧され命を奪われる女性というテーマは、この時期のヤナーチェクを強く支配していた。この背後には、若い人妻カミラ・シュテスロヴァーへの強烈な思慕があった。彼女の結婚が(自分自身のそれと同様に)不幸なものであるというフィクションが彼の片思いを支えていた。しかし実際には、カミラの結婚生活は幸福なものであって、25歳(出会った1917年当時)の陽気で賢明なこの女性は、38歳も年上のヤナーチェクに対して、年長の友人に対する節度ある態度で接していた。「夫の支配から自由になれ」という訴えに対して雌鶏が耳を貸さなかったという物語は、滑稽で深刻な意味を持っている。




出典: 「利口な女狐の物語」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



つまり、ムスタファ君は「利口な女狐の物語」に触れた記事を探すために女狐で画像検索したのですか?



そうだよ。。。

でも、『利口な女狐(PART 1)』は日本語で書いてあるのですよ。。。ムスタファ君は日本語が読めるのですか?

残念ながらムスタファ君は日本語が読めない。

じゃあ、『利口な女狐(PART 1)』を見つけても猫に小判じゃないですかァ〜!

でも、ムスタファ君は読んだのだよ!

どのようにして。。。?

GOOGLEを使って日本語の記事をトルコ語に翻訳したのだよ。。。

 


(art19-04-18.jpg)


『拡大する』

『トルコ語に訳された記事』

(クリックしたあとで全文を翻訳する作業に2分ほど時間がかかります)

『利口な女狐(原文)』


 



ムスタファ君は熱心なのですねぇ〜。。。



そうなのだよ。。。作曲の勉強のために、少しでも多くの関連記事を読もうとしているのだよ! オマエが書いた記事も翻訳されてムスタファ君に読まれたのだよ。。。

ヤナーチェクについて書いた甲斐がありました。。。

最近オマエは記事を書いてないじゃないかァ〜。。。死んでしまったのかァ〜?

縁起でもないことを言わないでください。。。虫の息でまだ生きてます。。。うへへへへへ。。。

じゃあ、虫の息で面白い記事を書いて欲しい。。。

分かりました。。。でんマンさんの要望に答えて面白い記事を書こうと思います。。。



(laugh16.gif)


【レンゲの独り言】


(manila07.gif)

ですってぇ~。。。

貴方もヤナーチェクのオペラ「利口な女狐の物語」を観てみようと思いますかァ〜?

ええっ。。。「そんなことはどうでもいいから、何か他に面白いことを話せ!」

あなたは、そのような強い口調であたしに命令なさるのですかァ~?

分かりましたわ。。。

実は、デンマンさんは太田さんについて

しばしばコケにした記事を書いて

ネット上にアップしたのです。

そういうわけで、太田さんは次のサイトで抗議録を公開したのですわ。。。

 


(kogiroku9.png)

『実際の抗議録』

デンマン注:しかし太田将宏が上の抗議録を掲載したサイトは消滅してしまいました!

 

デンマンさんも上の抗議録を読んで ムキになって反論しています。

『嘘を書く日記』

 

太田さんは、これに対しては反論ができないのか、それ以降 無言で通しています。

でも、そのうち 忘れた頃にまたコメントを書き込むかもしれません。。。

あなたは、どう思いますか?

とにかく、ネットには “めちゃキモい”人たちがウヨウヨしています。

太田将宏さんは、まだ良い方ですわ。

中には、まるで得意になって、愚かな事をして遊んでいる オツムの足りない人たちがたくさん居ます。

また、見かけは普通のブログでも、悪徳スパマーが手を変え品を変えて 悪徳サイトへ誘い込もうとしています。

スパムコメントで褒められると、ついついその気になって、

相手のブログへ飛んでゆき、お返しに、あるいはお礼にと思って

読者に登録してしまったりするものですわァ。

どうか スパマーの思う壺にはまらないでくださいね。

悪徳スパマーは悪徳サイトへ誘おうと

てぐすね引いて待っているのですから。。。

悪徳サイトを利用して、

メールアドレスで登録したりすると、

あなたのメールアドレスは第3者や第4者に売られてしまう危険性があります。

あなたは、そのようなスパム・コメントや 成りすましスパマーには

騙されないと思い込んでいるでしょう?

でもねぇ~、もしかすると騙されているかもよ。。。

とにかく気をつけてくださいね。

次回も、さらに面白い話題が続きます。

あなたも、どうか、また記事を読みに戻ってきてください。

では。。。


(hand.gif)


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安徳帝は生きていた

2022-07-02 01:22:09 | 歴史四方山話
 

安徳帝は生きていた

 


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安徳天皇と守貞親王

 


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ところで、守貞親王と入れ替わった安徳帝は、その後どうなったのでしょう。

まずまず無事に守貞親王に化けおおせ、治部卿局(じぶきょうのつぼね)たちとともに都に戻り、法皇との対面ののち、上西門院の猶子(ゆうし)となって成長、そして承久の乱勃発後、太上天皇(だいじょうてんのう)として再び政治の座についたのです。

泉下の平家一門はどれだけ喜んだでしょう。

しかし46歳にして惜しくも崩御されてしまいました。

この事実を、治部卿局以外、誰も知らなかったとは考えられませんが、なんの破綻もなく、これまでおさまったのは、天佑神助(てんゆうしんじょ)のたまものというべきでしょうか。

 


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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




197ページ 『義経』
著者: 宮尾登美子
2004(平成16)年11月25日 第1刷発行
発行所: 日本放送出版協会


 




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幼かった安徳天皇が おばあちゃんの二位尼(平時子)に抱き上げられて 一緒に瀬戸内海の波間に沈んでいったのではなく、そのおばあちゃんが抱いていたのは、身代わりになった守貞親王で、実は、安徳天皇は生きていて 承久の乱勃発後、太上天皇(だいじょうてんのう)として再び政治の座についた、とデンマンさんは信じているのでござ~♪~ますか?


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いや。。。 実は、僕は初めて そのような事を信じている人がいるのを知って ちょっと驚いたのですよ。。。 もう亡くなってしまったけれど、宮尾登美子さんが書いた上の本をバンクーバー図書館で借りて読んでいたら、上の箇所に出くわしたというわけです。。。

そのような事はありえないと、デンマンさんは考えているのですかァ~?

だから、それをちょっと確かめてみたくなって卑弥子さんを呼んだのですよ。。。

あたくしは、そのような事を考える人たちが居ても 決して不思議ではないと思いますわァ~。。。

卑弥子さんは、どうしてそう思うのですか?

だってぇ~、源義経が亡くなったのは、実は、影武者が殺されたので 本人は生きていて後にジンギスカンになって大陸で活躍したというお話は多くの人が信じていますわァ。

でもねぇ~、その伝説は今では学術的に完全に否定されてるのですよ。。。

 


義経の伝説

 


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優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓というようになった。
また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。

義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との五条大橋での出会い、陰陽師・鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川の戦いでの弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。
特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。

また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。
例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。

 

不死伝説

後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。
このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、義経北方(北行)伝説と呼んでいる。
この伝説に基づいて、寛政11年(1799年)、蝦夷地のピラトリ(現・北海道沙流郡平取町)に義経神社が創建された。

義経北方(北行)伝説の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる『御曹子島渡』説話であると考えられている。
これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島(わたりしま)」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。
未知なる地への冒険譚が、庶民の夢として投影されているのである。

このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。
またアイヌの人文神であるオキクルミは義経、従者のサマイクルは弁慶であるとして、アイヌの同化政策にも利用された。
またシャクシャインは義経の後裔であるとする(荒唐無稽の)説もあった。
これに基づき、中川郡の本別町には義経山や、弁慶洞と呼ばれる義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる洞窟が存在する。

 

義経=ジンギスカン説


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この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする「義経=ジンギスカン説」である。

この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にある。
清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、あるいは12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。
これらの噂は、江戸時代初期に沢田源内が発行した『金史別本』の日本語訳が発端である。

このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人(満州人)になったという風説から、明治時代になると義経がチンギス・カンになったという説が唱えられるようになった。
明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄はケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。

大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰する文化の神・オキクルミの正体は義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。
彼はこの調査で義経がチンギス・カンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。
この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。
現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになったことによるものである。

こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられることはなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。
この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の日本社会の風潮があった。

現在では後年の研究の結果や、チンギス・カンのおおよその生年も父親の名前も「元朝秘史」などからはっきりと判っていることから、源義経=チンギス・カン説は学術的には完全に否定された説である。




出典: 「源義経」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



こういう話は、昔から“判官贔屓(はんがんびいき)”と言って よく伝説には付き物なんですよ。。。 どう考えたって、義経がジンギスカンになったという話は、荒唐無稽(こうとうむけい)なのですよ。。。



どうしてデンマンさんは荒唐無稽と決め付けるのでござ~ますか?

あのねぇ~、僕がジンギスカンの下で命令を受けて戦うモンゴル人のデンマン将軍だとします。。。

あらっ。。。 面白そうな例えでござ~ますわねぇ~。。。 うふふふふふふ。。。 で、もし、そうだとしたらどうなったと言うのでござ~ますかァ?

義経がジンギスカンになったとしたら、彼は30才をすぎてから大陸に渡ったことになるのですよ。。。 つまり、そうなると、誰もがジンギスカンはモンゴル人じゃなくて日本人だということを知っている。。。 すると、日本人のために命をかけてまで戦う気にならない! 僕は、日本人のジンギスカンを暗殺して自分がモンゴル人の棟梁になろうとしますよ。。。

つまり、モンゴル人のデンマン将軍が日本人のジンギスカンを暗殺して歴史は変わってしまったというのでござ~ますかァ?

その通りですよ。。。 あのねぇ~、現在だって、アメリカの大統領になるにはアメリカで生まれてないと成れない! どこの国でも移民の大統領など居ませんよ。。。 移民は、その国ではせいぜい縁の下の力持ちになる程度で、決してその国の長には成れない! そんな事は移民をしてみればすぐに理解できる事なのですよ。。。

つまり、義経がモンゴルに移民してジンギスカンになることは デンマンさんの経験上からありえないという事ですわねぇ~。。。

いや。。。 僕の経験からも言えることだけれど、そのような事は歴史を見ればすぐに理解できる事ですよ。。。 フジモリ大統領だってぇ、ペルーの第91代大統領になったけれど、移民したわけじゃない。。。 ペルーの首都リマのミラフロレス区で仕立物屋を営む父・直一と母・ムツエの間に生まれたのですよ。。。 要するに、その国で生まれ育った人物でなければ、その下で働く人たちの意欲が湧かないのですよ。。。 だから、日本から30才過ぎてやってきた義経に従ってモンゴル人が命をかけて戦うなんて、とてもありえない!

モンゴル生まれのデンマン将軍によって暗殺されてしまうのですか?

僕が、その当時モンゴルで生まれて義経将軍の下で戦うモンゴル人の将軍になったら、まずそうする事になったと思いますよ。。。

分かりましたわ。。。 でも、安徳天皇の場合は、お話が違うと思うのでござ~ますわァ。。。

どう違うのですか?

だってぇ~、安徳天皇はモンゴルに移住したわけではありませんわァ。。。 守貞親王が安徳天皇の身代わりになって海に沈んだのですわ。。。 だから、安徳天皇は守貞親王として、都で暮らし、やがて承久の乱勃発後、太上天皇(だいじょうてんのう)として再び政治の座についたのでござ~ますわァ。

卑弥子さんもマジで それを信じているのですかァ~?

だってぇ~、そうでも考えないと、安徳天皇があまりにも お可哀想ですわァ~。。。 

 



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最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた おばあちゃんの二位尼(平時子)は安徳天皇を抱き上げました。

「おばあちゃん、僕をどこへ連れてゆくのォ~」

二位尼は涙をおさえて 諭(さとし)します。

「坊ちゃんは 前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁により、御運はもはや尽きてしまいました。 この世は辛く厭(いと)わしいところです。

これから、このバアが、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのですよ」

「楽しいところなのォ~」

「そうですよ。。。 これからバアと一緒にゆきます。 だから、この世にさようならをしましょうねぇ~」

 


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すると、幼い天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて念仏を唱えました。

二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じたのでした。

安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳と4か月)で崩御したのです。




『平家物語』「先帝身投」より卑弥子が現代語に意訳しました。


 



卑弥子さんは意外に涙もろいのですねぇ~。。。



この場面を想い浮べると、あたくしは涙無しにはおられないのでござ~ますわァ。。。

卑弥子さん。。。 涙が鼻水になって、鼻からずいぶん出てますよ。。。 ハンカチでは間に合わないからタオルを持ってきますねぇ~。。。

デンマンさん! 愚かな事を言ってないで話の先を進めてくださいなァ~。。。

あのねぇ~、よく考えてくださいよ! 安徳天皇が満6歳と4か月で おばあちゃんと一緒に瀬戸内海の海の底に沈んだから、そうやって卑弥子さんの涙がドバドバと出てくるのですよ。。。 もしですよゥ。。。 そうじゃなくて守貞親王が安徳天皇の身代わりになっていたとしたら、『平家物語』の上の箇所は、涙をそれほど誘わないのですよ。。。 むしろ、現在の倫理観としたら、人権無視もはなはだしい! もしもですよ、卑弥子さんが 守貞親王のお母さんだとしたら、安徳天皇の身代わりに自分の幼い息子を差し出しますかァ~?

いいえ。。。 絶対にイヤでござ~ますわァ~。。。

でしょう!?。。。 だから、安徳天皇は本人が おばあちゃんと一緒に入水したのです。。。 そうでないと日本文学の素晴らしい『平家物語』が安っぽい話になってしまうのですよ。。。




初出: 2017年4月16日



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたは どう思いますか?

安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、つまり、おばあちゃんだけが “ねんねこ”をかかえて、さも安徳天皇を抱くようにして、一人で入水したのだと信じている人たちも居るのですわよう。。。

それから、安徳天皇は平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたと言うのでござ~ますわァ。

だから、九州や四国地方を中心に全国に20か所あまりの伝承地があるのですわよ。

では、高知県の山の中に墓があるというミステリーをご覧くださいませぇ~。。。


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上のクリップを観てあなたはどう思いましたか?

話は変わりますけれど、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますわァ。

うふふふふふふ。。。

ええっ。。。 信じられないってぇ~。。。?

じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくださいませぇ~。。。


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『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

でも こう見えても 一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。

ただし、なかなか あたくしの魅力を認めてもらえないのでござ~ますう。

つまり、結婚相手が 現れないのですわァ。

この際 高望みはいたしません。

“寅さん”のような人でもいいですわ。

旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。

ついでだから、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。

“袖触れ合うも他生の縁”と申します。

あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。


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ちなみに、紫式部のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。

たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。

ぜひ 覗いてみてくださいね。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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コメント
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