(june001.gif)
デンマンさん。。。 今日はあの有名な“サモトラケのニケ”と“ミロのヴィーナス”のお話ですか?
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いけませんか?
かまいませんけれど、どうして急に世界的に有名なギリシャ彫刻を持ち出してきたのですか?
あのねぇ~、最近 太田将宏老人のことを頻繁に書いているので、僕も飽きてきたのですよ。。。 太田老人本人だってぇ、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら僕のブログを読んでいるはずです。
でも。。。、でも。。。、太田将宏老人が 老婆に成りすまして笑うのは面白かったですわァ~。。。 うふふふふふふ。。。
そうですかァ~。。。 ジューンさんが面白いと言うならば、その部分をもう一度ここに書き出しますよ。
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デンマン注:
上の写真をクリックすると太田将宏が
ばあさんに成りすまして笑います。
別窓が開きます。 この男はオツムの回転が鈍いので
笑うまでに少し時間がかかります。
ちょっとの間、辛抱(しんぼう)してくださいね。
とにかく、虫唾(むしず)が走るようなうウザったい笑いです。
あなたも笑えますよ。 (爆笑)
Identity theft を続けている
デンマンこと加藤明さんについて
コメント記入者: (A. I.)
2016-06-07 23:59:30
皆様、まずは、何らの具体的な根拠のない太田さんの精神についてのデンマンこと加藤明さんの言いがかりについてなのですが、それは、
太田さんの紀要論文自体を少しでも読まれれば、全てがデンマンこと加藤明さんの太田さんへの故ない単なる悪意によると分別されると思われます。
もし太田さんがデンマンこと加藤明さんの中傷どうりであるならば、太田さん自身があのような終始一貫した論文を書けるわけがないでしょう。
また、その中での<<書簡集>>を眺められるならば、デンマンこと加藤明さんの仲良しクラブ内での互いの傷の舐めあいでの付合いではなく、
高い精神にての太田さんの多くの友人たちとの交友が読取られるのではないでしょうか。
デンマンこと加藤明さんは、自分が意味不明の駄文を書くのみでなくて、人様の文章をまともに読むことすらもできない知能程度なのですね。
彼は太田さんの紀要論文を一行も理解できないのでしょう。
(中略)
(此処で、爆笑、爆笑、爆笑と書いても
私は太田さんではありません)。
デンマンこと加藤明さんは、書けば書くほど自分自身の恥をさらしているということが分からないのですね。
そんなデンマンこと加藤明さんを相手にし続けるのは、私たち三人ともやめることで合意致しました
(太田さんご自身は既に、とっくに、デンマンこと加藤明さんなんぞは相手にされていませんが)。
ただ、私、A.I.も私たち三人を代表しているわけではないのでご報告に留めておきます。
A. I.
『孤独で寂しい太田将宏(PART 1 OF 3)』のコメント欄より
(2016年3月31日)
でも。。。、でも。。。、80歳になろうという老人を あまりイジメては可哀想ですわァ~。。。
ジューンさんは、意外に心優しいのですねぇ~。。。 僕が知る限り、これまでに太田将弘老人をかばってあげたのはジューンさんだけですよ。。。 もしかして太田将弘老人がジューンさんのブログに、コメントでも書き込んだのですか?
いいえ。。。 たぶん書いてないと思いますわ。。。 最近 忙しくって自分のブログを見る暇さえないのですわァ~。。。 そんなことよりも、どういうわけで世界的に有名なギリシャ彫刻を取り上げる気になったのですか?
あのねぇ~。。。、太田将宏老人のことをちょっと考えただけでもムカついてくるので、精神的に良くないから、夕べ僕は高尚な気分に浸ろうと思ってバンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。
サモトラケのニケとミロのヴィーナス
「サモトラケのニケ」は、正しくは「サモトラケの勝利の女神」となっている。
翼を広げた女神で、首と腕は破損してない。
もちろん大理石である。
それがこのルーヴル美術館のいちばん壮麗な大階段の踊り場に置かれている。
放射状の階段、高いドーム型の天井、天井の丸窓からの柔らかい光、といった申し分のない空間の中心地点に位置し、そこで臆することなく見事に力を発揮しているのだから、やはり「サモトラケのニケ」は名優である。 名品である。
ちょっと出来すぎの感じさえする。
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それに較べると「ミロのヴィーナス」は地味なのである。 (略)
「サモトラケのニケ」には一種スポーツカーのような派手な美しさがある。
それに較べたら「ミロのヴィーナス」には、秋の日を浴びている丸干し大根のような、地味でいてしかし力強い美しさがあるのである。
その美しさが、私には謎だ。
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(中略)
人間というのは謎を解きたがる。
そして完成を欲しがるものだから、この未見の両腕に関してはさまざまな考察がなされてきたようだ。
もげた左腕は上方に高く掲げられ、切断された右腕は体の前を横切って左の腰に軽く触れていたのではないかという。
その想像図を模刻して両手を付けた五体満足のミロのヴィーナスもあった。
(miro0019.jpg)
それを写真で見て、何かがっかりしたのを覚えている。
何だかつまらないのだ。
いまの姿の「ミロのヴィーナス」は名品だと思うけのだけれど、五体満足になるとぜんぜん名品とは思えない。
ただの上手なだけの凡庸な彫像である。
その両手の位置の推理は恐らく正しく、模刻も丁寧にされているのだけれど、何かそれではありきたりの彫刻になるのだった。
突然ではあるが、ここで思い当たるのが、日本の安土桃山時代である。
千利休をはじめとするあの時代の茶人たちの好んだ侘び茶碗である。
正円ではなく歪んだ茶碗の美しさ、欠けた茶碗の美しさ。
古びて思わぬ染みがつき、擦り傷がつき、そうやって人口の力を超えてあらわれたものの美しさ。
つまり
「ミロのヴィーナス」の美しさは、西洋の感じた「侘び」なのだと思い至ったときに、私には「ミロのヴィーナス」が一段と身近なものに感じられてきたのだった。
この彫像は、両腕が欠けているから美しいのである。
それによってこそ、本来この彫像が持っていた
わずかな体重のずれとバランスが際立ち、そうやって欠損を抱えて、綱渡りのように立ちつづけている物にこそ、生命の繊細な気配が宿るのである。
ここでおそらく西洋の人々は、完成を回避するものの美しさを感じたのだろうと思う。
付け加えるのであはなく削り落としたものの美しさといってもいい。
あるいは人間の人口の力を外れて偶然がもたらしてくれる心地よさといったものを感じたのではないだろうか。
ただ違うところは、日本の茶人たちは「侘び」という、あるいは「寂び」という言葉を持って、その感覚を意識の上に留めたのに対し、西洋の人々はそこに言葉を見出さぬままに、その感覚は放浪することになったのである。
(注:
赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
74-77ページ 『ルーヴル美術館の楽しみ方』
著者: 赤瀬川原平 熊瀬川紀
1997年2月20日 第11刷発行
発行所: 株式会社 新潮社
あらっ。。。 デンマンさんは『ルーヴル美術館の楽しみ方』という本を借りて読んでいたのですか?
僕はパリには何度か行ったことがあるけれど、“ルーヴル美術館”は、余りにも有名なので敷居が高く感じられ、これまでに一度も館内に足を踏み入れたことがないのですよ。
それで、本を読みながらルーヴル美術館の展示物を楽しんだわけなのですか?
そうです。。。 YouTube で美術館ガイドも見つけて、楽しみました。
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ルーヴル美術館と言えば、なんと言ってもモナリザが有名だけれど、僕は“サモトラケのニケ”と“ミロのヴィーナス”がお気に入りなのですよ。
どういうわけで。。。?
だから、上の箇所を読んで、僕はなるほどと思ったわけですよ。。。
「ミロのヴィーナス」の美しさは、
西洋の感じた「侘び」なのだと
思い至ったときに、
私には「ミロのヴィーナス」が
一段と身近なものに
感じられてきたのだった。
この彫像は、両腕が欠けているから
美しいのである。 (略)
(miro0018.jpg)
わずかな体重のずれとバランスが際立ち、
そうやって欠損を抱えて、
綱渡りのように立ちつづけている物にこそ、
生命の繊細な気配が宿るのである。
この部分を読んでねぇ~、なるほどと思ったわけです。。。 ミロのヴィーナスの写真を見ながら 僕も実は同じような感じを持っていたのです。。。 でも、言葉ではなかなか言い表せなかった。
つまり、この事が言いたくて、わざわざサモトラケのニケとミロのヴィーナスというタイトルにして記事を書こうと思ったのですか?
いや。。。 そればかりじゃないのですよ。。。 上の本を全部読んで、この著者の赤瀬川原平さんという人は、どういう人なのだろうか?。。。 そう思って調べたのだけれど、なかなかユニークな人なのですよ。
赤瀬川原平
1937年3月27日 - 2014年10月26日
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赤瀬川 原平(あかせがわ げんぺい)は、日本の前衛美術家、随筆家、作家。
本名、赤瀬川克彦。
純文学作家としては尾辻 克彦(おつじ かつひこ)というペンネームがある。
神奈川県横浜市中区本牧町生まれ。
愛知県立旭丘高等学校美術科卒業。
武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵学科中退。
兄は直木賞作家の赤瀬川隼。
姉の赤瀬川晴子は帽子作家。
また、外交官の西春彦は父のいとこにあたる。
姪(隼の長女)は『人麻呂の暗号』の著者である藤村由加の一人。
2006年4月より、武蔵野美術大学日本画学科の客員教授を務めていた。
原平は6人兄弟姉妹の下から2番目。
兄弟はみな芸術的なことが好きで、原平はとくに絵が好きだった。
一家は父親の転勤であちこちに移り、原平は幼稚園時代から大分県大分市で育つ。
寝小便の癖がなかなか治らず、完全に治ったのは中学3年だった。
「おねしょは中学2年生まで毎晩のようにしていて、自分の運命を憎み、死んでしまいたいと思っていた」というコンプレックスが自意識を目覚めさせたと書いている。
前衛芸術
「心はいつもアヴァンギャルド」といい、1958年、第10回読売アンデパンダン展に初出品。
以後、1964年に同展が終了するまで出品を続ける。
1963年ころ、この頃、ナムジュン・パイク、オノ・ヨーコ、横尾忠則らとも知り合っている。
千円札を詳細に観察し、肉筆で200倍に拡大模写した作品「復讐の形態学」(殺す前に相手をよく見る)を発表。
赤瀬川はさらに「千円札の表だけを一色で印刷」したものに手を加えたものを作品とし発表する。
1965年、これが通貨及証券模造取締法違反に問われ、起訴される。
弁護人には瀧口修造といった美術界の重鎮たちが名を連ね、話題となった。
1967年6月の東京地裁の一審で「懲役3年、執行猶予1年、原銅版没収」の判決。
上告ののち1970年に執行猶予つきの有罪確定。その後、前衛芸術からは身を引くようにしていく。
出典: 「赤瀬川原平」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千円札裁判
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赤瀬川が作った作品
1963年2月の個展「あいまいな海について」の案内状が「印刷千円札の裏に、個展の案内が刷られたもの」であり、赤瀬川はそれを、関係者に現金書留で送った。
そのほかに「数十枚の印刷千円札を板にはり、何十個ものボルトを止めた作品」「数十枚の印刷千円札の紙を『包み紙』とした梱包作品」「数枚の印刷千円札に『切り取り線』をつけた作品」などを制作・発表した。
また、赤瀬川が、日本テレビの討論番組に出演した際、発言はしなかったが、「印刷千円札」を灰皿で焼いた。
捜査及び裁判
平岡正明、宮原安春らの「犯罪者同盟」が1963年8月に刊行した書籍『赤い風船あるいは牝狼の夜』が猥褻図書の疑いで押収された。
すると、その著書内に赤瀬川の作品「千円札の聖徳太子の拡大写真」も掲載されていた。
その後、警察が宮原の自宅を捜索すると、「赤瀬川の印刷千円札」が発見された。
そのため、赤瀬川は1964年1月8日、当時起きていた「史上最高の芸術的ニセ札」といわれていた「チ-37号事件」につながる容疑者として、警察の取調べを受ける。
だが、担当の警察官からは「不起訴になるだろう」といわれた。
だが、同年1月27日に、“自称・前衛芸術家、赤瀬川原平”が「チ37号事件」につながる悪質な容疑者であると、朝日新聞に誇大に報道される。
翌1964年、検察庁の捜査が再開し、1965年11月に各印刷所の社長2名とともに通貨及証券模造取締法違反に問われて起訴され裁判となった。
なお、検察側は赤瀬川を「思想的変質者」ととらえていた。
弁護人は当時、新左翼系の公安事件を担当して次々に無罪にしていた杉本正純に依頼。
また、特別弁護人や弁護側証人には瀧口修造らの美術界の重鎮が名を連ね話題となった。
赤瀬川はあくまで、「千円札のニセモノ」ではなく、「千円札の模型」として作品を製造したことを主張した。
また、検察は「印刷所社長たちとの共謀」を主張したが、赤瀬川は2人と会ったこともなく、そのような事実はないと否定した。
また
「千円札の模型」が芸術だという理解がない裁判官に向けてアピールするため、高松次郎、中西夏之らが弁護人として「ハイレッド・センター」の活動について法廷で説明し、当時における「前衛芸術」の状況について説明した。
また、他の関係者の「前衛芸術」作品も裁判所内で多数陳列され、裁判所が美術館と化した。
「前衛芸術」とパロディ的作品の意味が法廷で争われる裁判となり、美術史上に残る裁判となった。
また、裁判が「紙幣に紛らわしい物を作った」ことが問われていたため、関係者で「紙幣に類似する物」を多数収集して、法廷に提示した。
さらに赤瀬川は、千円札を少しずつ露出を変えながら写真にとった一覧表を作成し、「紛らわしさ検査表」と命名。
法廷に提示して「どこからがマズイのか」を検察側に問いただしたが、回答はもらえなかった。
1967年6月の東京地裁の一審で、「言論・表現の自由は無制限にあるものではない」とされ、「懲役3月、執行猶予1年、原銅版没収」の判決をうける。
また印刷所の社長2名も有罪となった(「伝達による共謀」という理由による)。
なお、赤瀬川にとっては「原銅版没収」が一番のショックであった。
赤瀬川は証人として関わった人たちにはお礼として、父親に依頼して1枚ずつ巻紙に筆で礼文を書いてもらい、「木の葉のお札」を同封して、一軒ずつ郵便受けに配ってまわった。
同年7月に、赤瀬川のみ東京高裁に控訴するが、1968年11月に「控訴棄却」される。
そのためさらに、1969年1月に最高裁判所に上告するが、1970年4月に「上告拒否」され、有罪確定。
出典: 「千円札裁判」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ずいぶん変わった人ですわねぇ~。。。 印刷千円札を前衛芸術品にしようとしたのでしょけれど、普通の人は偽造紙幣だと思ってしまうのも無理ないかもしれませんよねぇ~。。。
運が悪く、ちょうどニセ札事件があったので 警察から疑われてしまったのですよ。
太田将宏さんもクラシックの本など書こうとせずに、前衛芸術の分野に進んでいたら、きっと今以上に有名になったかもしれませんわねぇ~。。。
ジューンさんは、穿(うが)った事を言いますねぇ~。。。 (微笑) そうですよ。。。 彼は“他人に成りすます”のが得意だから、美術の分野に進んでいたら、有名な美術品の偽物をたくさん描いて売りまくって、同じ馬鹿でも 金持ちになっていたかもしれませんよ。
初出: 2016年7月8日