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阿倍仲麻呂@ベトナム (PART 1)

2018-04-18 11:24:49 | 歴史四方山話
 

阿倍仲麻呂@ベトナム (PART 1)

 


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デンマンさん。。。 阿倍仲麻呂はベトナムでも活躍したのでござ~ますかァ?


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僕は知らなかったのだけれど、そうらしい。。。 とにかく、阿倍仲麻呂は日本に帰りたくても結局 帰ることができずに唐の都で亡くなったのですよ。。。

仲麻呂さんはベトナムにも行ったことがあるので、阿倍仲麻呂@ベトナムというタイトルにしたのでござ~ますかァ?

確かに、そうなのだけれど、ちょっと次のリストを見てください。。。。


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『拡大する』

『友情と国際感覚』


 



これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の日本時間で4月16日の午前4時26分から17日の午前2時23分までの約20時間の「生ログ」の一部です。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目してください。。。



あらっ。。。 Yahoo!で検索して『友情と国際感覚』を読んだネット市民がいたのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 実は、この記事を読んだのはベトナムの首都・ハノイに住んでいる ミー・ゴック・ハー(My Ngoc Ha) さんなのですよ。。。

つまり、上のリストの中に写っている女性がミーさんでござ~ますかァ~?

そうです。。。


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左がミーさんで、隣の女性がお姉さんのハーさんです。。。



あらっ。。。 ミーちゃん・ハーちゃん姉妹なのでござ~ますかァ~?

そうです。。。

マジで。。。? なんだか、悪い冗談のようですわねぇ~? うふふふふふふ。。。 これって真面目なお話ですかァ~?

もちろんですよ。。。 卑弥子さんまで呼び出して悪い冗談で終わらせたら、卑弥子さんはヒステリーを起こすから 僕は、そういうヤバイことはしませんよ。。。 ちょっと次のリストを見てください。。。


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ちゃんと、こうして証拠があるのですよ。。。



でも、IPアドレスを調べてもプライバシー保護のためにアクセス者の名前まではゲットできないのですわァ~。。。

卑弥子さんは、鋭い突込みを入れるのですねぇ~。。。 あのねぇ~、ミーさんは、記事を読んだ後で僕に感謝のメールを寄越してくれたのです。。。

それは、どういうわけでござ~ますかァ?

実は、ミーさんはハノイ国家大学(Vietnam National University, Hanoi)のハノイのカウザイ区にあるキャンパスで日本語・日本文化を専攻しているのですよ。。。


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『拡大する』





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つまり、ミーさんは日本語の読み書きができるのですわねぇ~!?



そういうことです。。。

。。。で、どういうわけでミーさんはデンマンさんが書いた『友情と国際感覚』を読むことになったのですか?

ミーさんは次のように検索したのです。。。


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『拡大する』

『現時点での検索結果』




「友情 国際感覚 驩州」と入れて検索したのですわねぇ~。。。



そういうことです。。。 すると、141件ヒットするうちの4番目に『友情と国際感覚』が出てくるのですよ。。。

。。。で、記事のどの箇所にミーさんは関心を持ったのですか?

次の箇所です。。。


席次論争事件

 

天平勝宝2年(750年)9月、清河は遣唐大使に任じられる。
副使には大伴古麻呂と吉備真備が任じられた。
天平勝宝4年(752年)閏3月、出発にあたり清河は節刀を拝し、正四位下に叙される。
遣唐使一行は唐に到着して長安に入り、玄宗に謁し、君子人なりと称賛された。

天平勝宝5年(753年)1月、諸藩の朝賀に出席。
日本の席次が西畔(西側)第二席で吐蕃の次であるのに対して、新羅が東畔第一席で日本より上席であったことに抗議し、新羅と席を交代させ、日本の面目を守っている。


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同年12月、清河ら遣唐使一行は、在唐35年におよび唐の高官にもなっていた阿倍仲麻呂を伴い帰国の途につく。
日本への渡航を望む鑑真一行が乗船を希望したが、唐が鑑真の出国を禁じたため清河は乗船を拒否した。

しかし、副使の大伴古麻呂が独断で鑑真を自身の船に乗せる。
遣唐船は楊州を出航したが、清河と仲麻呂の乗る第一船は逆風に遭い唐南方の驩州(かんしゅう)(現在のベトナム北部)に漂着する。
土人に襲われて船員の多くが害されるが、清河と仲麻呂は僅に身をもって免がれた。

一方、鑑真を乗せた第二船は無事日本へ帰国した。
天平勝宝7歳(755年)清河と仲麻呂は長安に帰着。
清河は河清と名を改めて唐朝に出仕することになり、秘書監になった。




出典: 「藤原清河」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




ミーさんは、どういうわけでこの箇所に関心を持ったのでござ~ますかァ?



ミーさんの卒論のテーマが「ベトナムにおける阿倍仲麻呂の業績について」というのですよ。。。

あらっ。。。 マジで。。。?

だから、ウィキペディアの「阿倍仲麻呂」を見たらいいよ、と言ってあげたのですよ。。。


阿倍仲麻呂

(文武天皇2年〈698年〉 - 宝亀元年〈770年〉1月)


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奈良時代の遣唐留学生。
姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。
中務大輔・阿倍船守の長男。
弟に阿倍帯麻呂がいる。

唐名を「朝衡/晁衡」(ちょうこう)とする。
唐で国家の試験に合格し唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。

 

生涯

文武天皇2年(698年)阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。
霊亀3年・養老元年(717年)多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。
同次の留学生には吉備真備や玄昉がいた。

唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕える。
神亀2年(725年)洛陽の司経局校書として任官、神亀5年(728年)左拾遺、天平3年(731年)左補闕と官職を重ねた。
仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたらしく、『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。

天平5年(733年)多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。
翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。

この時帰国した真備と玄昉は第1船に乗っており助かっている。
副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻った。
名代一行を何とか帰国させると今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。
広成らは仲麻呂の奔走で渤海経由で日本に帰国することができた。
天平5年(734年)には儀王友に昇進した。

天平勝宝4年(752年)衛尉少卿に昇進する。
この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐する。

すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。
この時王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。

しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。
このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだ。
実際には仲麻呂は死んでおらず船は以前平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートをたどり、幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。


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結局、仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着している。この年、安禄山の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に清河らの帰国を認めなかった。

仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、天平宝字4年(760年)には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。
天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間もハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)安南節度使を授けられた。
最後は潞州大都督(従二品)を贈られている。

結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じた。

なお、『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣(吉備真備)および朝衡(阿倍仲麻呂)の二人のみ」と賞されている。

また死去した後、彼の家族が貧しく葬儀を十分に行えなかったため日本国から遺族に絹と綿が贈られたという記述が残っている。

 

和歌及び漢詩

仲麻呂の作品としては、次の和歌が有名である。



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天の原 ふりさけみれば 春日なる

三笠の山に いでし月かも


 

百人一首にも選ばれている。
この歌を詠んだ経緯については、天平勝宝5年(753年)帰国する仲麻呂を送別する宴席において王維ら友人の前で日本語で詠ったとするのが通説だが、仲麻呂が唐に向かう船上より日本を振り返ると月が見え、今で言う福岡県の春日市より眺めた御笠山(宝満山)から昇る月を思い浮かべ詠んだとする説も存在する。

現在、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江にある北固山の歌碑には、この歌を漢詩の五言絶句の形で詠ったものが刻まれている。

また、奈良県奈良市にある奈良ロイヤルホテル敷地内にも、この歌の歌碑がある。



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翹首望東天

神馳奈良邊

三笠山頂上

思又皎月圓

【原文】




首を翹げて東天を望めば

神(こころ)は馳す 奈良の辺

三笠山頂の上

思ふ 又た皎月の円(まどか)なるを

【書き下し文】





出典: 「阿倍仲麻呂」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。 仲麻呂さんはベトナムとは縁があるのですわねぇ~。。。



そうなのですよ。。。 日本へ帰る船が難破して、なんとか安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着して、殺されかけたけれど、755年にやっと唐の都に帰りついた。

それから、5年後に 左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めたのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 761年から767年まで6年間もハノイの安南都護府に在任したのですよ。。。 でも、結局、日本への帰国は叶えられず、770年に73歳で生涯を閉じることになった。。。

可哀相ですわァ~。。。 『続日本紀』には「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣(吉備真備)および朝衡(阿倍仲麻呂)の二人のみ」と書かれているのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。 たいしたものですよ。。。

ところで、デンマンさんも海を越えてカナダに移住して 政府で働いて総督になったのでござ~ますかァ?

いや。。。 僕はノースウェスト・テリトリー政府(Government of the Northwest Territories)の財務省(Department of Finance)で働いたけれど、大臣にも総督にもなれませんでした。。。


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   イエローナイフ

 



白熊に食べられないで生きていただけでもいいですわよう。。。 んで、ミーさんは卒論を書き終えたのでデンマンさんに感謝のメールを出したのですか?



いや。。。 卒論とは全く関係ないのです。。。 「卒業したらバンクーバーのUBC(ブリティッシュ・コロンビア州立大学)の大学院に留学することになっているので、その時にはよろしくお願いします」と書いて寄越したのです。。。

それは心配ですわァ~?

何が心配なのですか?

ミーさんはとっても可愛らしい女の子ですわァ~。。。 デンマンさんのことですから、きっとナンパしますわよう。。。

あのねぇ~、卑弥子さん、僕は卑弥子さんが考えているほど女性に対してダラダラするような男ではないのですよ。。。



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 (すぐ下のページへ続く)





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