獲得された絶望感(盲人ウエカジ @ウエカジハローセンター 公式ブログ)

~網膜色素変性症と司法試験とモー娘。と全盲ヘルパー事業所と・・・~

リトルピープル怖いのです・・1Q84(村上春樹著)のデイジー図書を読んだ。

2011-11-03 21:48:29 | 網膜色素変性症と私
 今日も1日10時間ほど読書した。読書といっても音声図書(デイジー図書)を聞いた。

 網膜色素変性症な私デスペア。視野狭窄と視力亭以下が進行している私の目。最近の朝0800すぎのきっか携帯メールの添付画像の判別が難しくなった。特に人の顔でなくグッズの画像だとなにがなんだかわからない。

 そんな目の悪化をうけて、将来の娯楽としてのデイジー図書。1日10時間ほど聞いていたが、目はつかれないのがいいね。ただやっぱり本は目で読むものとの思い込みのせいか、読破したときの充実感というか、1冊の本を征服した感覚はないね。

 今日は2年前のベストエラーの「1Q84」を読む(実際は聞いているのだが便宜上読むという単語を使う)。

 今は3冊のうち2冊まで読んだ。青豆とテンゴ(テンゴの漢字表記は不明)が最終的にどうなるのか気にかかるが、最後二人がセックスしためだたしめだたしだったら本破り捨てよう。(音声データなので実際の本はないのだけどね 笑)

 この小説を読んで思うのだが(この小説に限らないが)、なぜセックスが物語の主要な構成要素となっているのか。それほどまでにセックスとは人生の主要テーマなのだろうか。

 性に目覚める前の10歳の青豆が10歳のテンゴの手を握ったという初恋の衝動体験が、それから20年後の30歳になった2人の生きる支えになっている。10歳のころの2人はお互いが好意をいだいていていることは知らず、30歳になった2人も知らない。それだのに2人は20年間その体験と思いを大切にしている。

 青豆なんかはその事実だけで、テンゴのために命をささげようとする。

 初恋とはそういうもの、セックスなしだから相手を神格化しその思いはすたれることはない。

 AK○ヲタは推しメンと握手したいがためにランダムに入っている握手券つきCDを数十枚以上買う。同じCDを数十枚と買う。それは音楽を聴くためでなく握手をしたいがために買う。

 彼らはセックスが最終目的でなく握手を最終目的としている。それがすべてであり満足である。

 1Q84の青豆のテンゴへの思いが美しいのと同じぐらい、AK○ヲタの推しメンへの思いは美しい。

 私のようなハロヲタは握手すら必要としない(RPの私の目では握手会に参加できないというひがみもあるが)。握手という肉体的接触なしでも桃子のいうところの乙女チックシュミレーション、花音のいうとこころの妄想族のような想像することで満足を得られる。

 無償の愛がこの世で一番うつくしいものだとすると、セックスありの恋愛よりもなしのほうがうつくしいし、両想いよりも片思いのほうが美しい。

 もっとも美しい愛の形を村上春樹をはじめて¥とする小説家が追い求めているとすれば、ハロヲタはもっとも美しい愛の形を実際に形作っていることになる。

 村上春樹をはじめとする小説家の諸君はハロヲタを見習うべきである。
 
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする