神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

<わたし>という不思議な存在。

2019年08月10日 | キリスト教

 神は仰せられた。

「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない」

 モーセは神に申し上げた。

「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか」

 神はモーセに仰せられた。

「わたしは、『わたしはある』という者である」

 また仰せられた。

「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と」


(出エジプト記、第3章12~14節)


 ここは、神さまがモーセに姿をお現しになった箇所としてあまりに有名ですが、神さまは御自身を「わたしは<ある>という者だ」とお名乗りになっておられます。

 わたし、自分がクリスチャンになってから初めて聖書のこの箇所を読んだ時、驚きと同時に神さまに対する畏れを感じた覚えがあります。


 >> 民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。

「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます」

 モーセは民に答えた。

「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである」

 民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。

(出エジプト記、第20章18~21節)


 それは、この時イスラエルの民たちが感じた畏れに通じるところがあるような気がします。

「わたしは<在る>」という方……この言葉からは自然、使徒の働き第17章28節の「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」とのパウロの言葉が思い起こされます。

 アビラの聖テレサはカトリックの聖人ですが、彼女はこう書いています。


 >>私たちは、自分たちのためになされた素晴らしい行い(※父なる神がこの世にひとり子イエスをお送りになり、イエス・キリストが十字架上で贖いの業を完成されたこと)を思えば思うほど、その方を愛するようになるのは当然のことです。

 それなら、神が私たちに存在を与え、無から私たちを創造し、私たちを支え、私たちが創造されるずっと以前から御死去や御苦しみなどのあらゆる恵みを通して、今生きている人たち一人ひとりに準備をしてくださっていることが正しく、功徳あることなら、かつては空しい会話にうつつを抜かしていた自分を反省して、今や神のみについて思いを巡らしたいと私が考えることは許されないことなのでしょうか?

 これが貴重な宝石です。私たちに与えられ、私たちはすでにそれを所有していることを思い出しましょう。愛するようにと招かれることこそ、謙遜に基づく祈りの賜物なのです。

(『アビラの聖テレサ「神の憐れみの人生」<上>』高橋テレサさん訳・鈴木宣明さん監修/聖母文庫より)


 >>それはあなたが私の内臓を造り、
 母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
 私は感謝します。
 あなたは私に、奇しいことをなさって
 恐ろしいほどです。
 私のたましいは、それをよく知っています。

 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、
 私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
 あなたの目は胎児の私を見られ、
 あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
 私のために作られた日々が、
 しかも、その一日もないうちに。

 神よ。あなたの御思いを知るのは
 なんとむずかしいことでしょう。
 その総計は、なんと多いことでしょう。
 それを数えようとしても、
 それは砂よりも数多いのです。
 私が目ざめるとき、
 私はなおも、あなたとともにいます。

(詩篇139編、第13~18節)


 わたしたちが今ここに「在る」ということ、このことは宇宙のはじまりから、地球における人類の誕生までを考えてみても、ほとんど奇跡としか思えません。

 しかも脳科学の発達という観点から見ても、「人間にこのような<脳>などというものを与えた方は、クレイジーな狂人としか思えない!」ということが、脳科学関係の本をちらっと読んでみただけでも本当によくわかります。

 クレイジーな狂人……訳すと狂った狂人なので、言葉としてはおかしいんですけど、まあなんかイメージとしてそんな感じがするといったようなことですよね(笑)

 科学的にいえば、今現在わたしたち人類がこの地球で進化してきた歴史というのは、宇宙のはじまりまで遡り今現在に至るまで、「偶然の連なり」ということになるのだと思います。けれども、わたしたちがこうした問題について、精神・心・魂・霊によって直感的に捉えようとした場合、「決して偶然などではありえない」ということになるのではないでしょうか(^^;)

 それを<神>と呼ぶかどうかは別として、とにかく宇宙の意志であるとか、わたしたち人間の力を超えた大いなる存在の意志によるものである――と考える方はとても多いと思います。

 それで、神さまが御自身と同じように、わたしたちを「在る」者、生きて存在する者となしてくださったこと、しかもこの<意識>というのは一度生まれたが最後、神さまの存在がそうであるのと同じく、永遠に存在するということ――ここまで考えるとわたし、ちょっと怖くなるのですが(^^;)、今現在わたしたちが肉体を通して見ている世界と、死後に肉の体を捨てた霊の体によって見る世界というのは、まったく異なるものだと言います。

 わたしはプロテスタントなので、カトリックの聖人にはあまり詳しくなく、これから勉強していこうとか思っててなかなか出来ていないという人間なのですが(汗)、先ほど文章を引用させていただいたアビラの聖テレサは16世紀のスペインを生きた方で、修道院の改革をなさった方だといいます。

 彼女の書いた文章を読んでいると、何度も「霊的」とか「霊益」といった言葉が出てくるのですが、一口に修道院といっても、いわゆる堕落した信仰者と言いますか、何かそうした方もいらっしゃったようで……修道院と聞くと「厳格な戒律を堅苦しく守りつつ、信仰生活を送っている方のおられるところ」というイメージですが、修道院の外の人々とのおしゃべりに興じるなど、ある程度「この世的な」抜け道というのはあったようで(もちろん、その修道院にもよるというのはあるにせよ)、そのようなぬるい信仰との戦いというのでしょうか。

 何か、そうしたことについて書かれている箇所を読むたび、今も16世紀という四百年以上昔の世界でも、こと<キリスト教信仰>において大切なものの本質、というのは変わりがないのだなあ……と感じさせられます

 そしてわたしが今回ちょっとハッとさせられたのが、アビラの聖テレサが「神がわたしたちに存在を与え……」と書いている箇所でした。この「存在」というものは、一度生まれてイエスさまの十字架を信じることにより聖霊さまを与えられたなら――この信仰を生涯離しさえしなければ、神さまによって死後も永遠に存続します。

 そのことはもちろん素晴らしいお約束なのですけれども、やっぱりちょっとわたし的には怖いとも感じるんですね(関連記事=「エミリー・ディキンスンの手紙」)。

 それはある部分神さまに対する健全な畏れを源としたことではあるとはいえ、普段人っていうのは自分の存在や、他者の存在をそれほど奇跡とも思わず、あったらあったでそれがあまりに当たり前……といった形で捉えがちなのではないでしょうか。

「ふーん。だからどうなの?そんなことよりオレ、仕事しなきゃ」とか「学校に行かなきゃ」、「子供のお弁当作んなきゃ」、「旅行に行かなきゃ」、「インスタグラムに投稿しなきゃ」……といったよーな色々な支配されて、その時々を生きているもののような気がします。

 ただ、このアビラの聖テレサのことを大テレサ、またリジューのテレサのことを小テレサを呼ぶそうなのですが、やはりこうした修道生活を送っている方の文章を読んでいると、すごく「この世的なこと」と「聖なること」、「霊的なこと」、「自分にとってではなく、真実神さまにとって益となること」……について思い巡らされているのがわかり、こうしたある種集中した「聖なる精神的思考」というのは、修道院という特殊な環境こそが与えうるという性格があるのではないか――と感じさせるところがあります。

 いえ、プロテスタント的には「修道院?今時流行らないよね、そういうのは」的なイメージがなんとなくあるのですが(汗)、やっぱり、この世的脅威に常にさらされつつ、そちらとも和合して、誠心誠意、真実なる神にお仕えしていく……って、大変なわけじゃないですか(^^;)

 イエスさまが「あなたがたは蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい」とおっしゃったように、ある意味そのくらい矛盾していることでもあるわけですから。。。(←?)

 けれども今回、アビラの聖テレサの本を読んでいて、ちょっと思ったのです。わたしたちが死後、肉体の体を脱ぎ捨て、霊の体とされた時のことを考えた場合……大切なことといののは、本当にほんの少ししかないんだな、なんて(^^;)

「あなたにとって大切なものはなんですか?」と聞かれた場合、今は第1位がインターネット、第2位が家族、第3位がお金だそうですが、クリスチャンの方の場合であれば当然、第1位に来るのは神、イエス・キリストであり、はっきり言って2位以下は存在しないと思います。

 何故といって神さまは、わたしたちが家族のことを大切に思っていたり、また生きるためにお金が必要なこともご存知なわけですから……神さまに100%完全に存在を任せきればそれでいいわけです。

 にも関わらず、なんと言いますか、クリスチャンになってのちも神さまに反抗する気持ちというのは残っているもので(^^;)、「あなたのことは信じてるけど、わたしはこの世的にも成功したい。それに、そうした神さまから祝福されているクリスチャンもたくさんいるではないですか」とか、そうしたものは何かしら残っているのが普通かもしれません。

 でも、修道院に入るというのは、その部分をまず断ち切ってから、神さまとの交わりを第一にする世界へ入るということですし、そこから生まれる霊益というのは、それこそ、永遠に存続するものだと、今とても深く感じさせられています。。。

 もっとも、そうした聖なる生き方をした方に深く感銘を受けても、そのようには自分は生きられない……というところに、わたしの場合深いジレンマがあったりもするわけですが、今後もこのことは祈りの中における大きな課題のひとつとなりそうです(^^;)

 それではまた~!!





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