【満天の星と雲海】
わたしがクリスチャンになって、聖書も旧約・新約と両方とも一通り読み――「大体のところ、キリスト教や信仰について、ある程度わかったかな?」みたいに感じた時……それでも、<神の主権>ということについてはよく理解していなかったと思います。
もちろん、神さまは自身の主権によって宇宙を造り地球を造り……といった、そうした主権については理解していました。
>>あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれに心を留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。
すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
私たちの主、主よ。
あなたの御名は全地にわたり、
なんと力強いことでしょう。
(詩篇、第8編3~9節)
けれど、その後随分してからハッと気づくようなことがありました。
自分自身の人生に何か問題がある時、わたしたちは当然神さまに祈ります。「今こういう問題があって、ああいう人に悩まされてて、とても困っています。わたしの力ではどうにも出来ないことなので、神さまどうか助けてください」……といったように。
これは、実は神さまに問題の主権を委ねることなのだな……ということに、信仰を持って暫く経ってから初めて気づきました(^^;)
つまり、自分ひとりで何かの問題のことで悩んでいる時っていうのは、まるで心の中の暗い地下室で何かブツブツ☆言ってるみたいな感じなんですよね。けれど、神さまに祈る時、そこには牢獄に光が差すようにサッと光が差してくるのです。
この部分のコツ(?)のようなものが掴めると、自分をいじめる人間に主権があるのではなく、自分にパワハラする上司に主権があるのではなく、自分に強権をふるう同僚に主権があるのではなく、自分の噂話や悪口を言う誰かに主権があるのではなく――実はそのすべての主権を握っているのは神さまであることがわかります。
そこで、この<すべての問題の主権は神さまにある>ということをしっかりと認識し、その問題のすべてを神さまにお委ねする……ということがわかってくると、聖霊さまから心に平安が与えられるところがあると思います。
また、わたしたちは常に何を決定するのにも<自分自身に主権がある>と思っていることがとても多いと思います。けれど、この自分自身にあると思っている主権を神さま(イエスさま)にお委ねする、譲る(自分に主権があると思って握りしめているものを手放す)ということがわかってくると、祈りの段階が一段階上がったような経験をしたり、一種の祈るコツ☆というのでしょうか。そういうのがかなり掴めてくると思います。
♪権力によらず、神の霊によりて
能力によらず、神の霊によりて
この山は移らん
この山は移らん
この山は移らん
神の霊によりて
(ゼカリヤ書、第4章6節からの賛美歌)
>>「神を信じなさい。
まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」
(マタイの福音書、第11章22~24節)
いや、そうは言ってもイエスさま、流石に山はわたしたちがいくら祈ったところで動きませんてwwというのがわたしたちの弱いというか、薄い信仰なわけですけど(笑)、わたしたちが自分でシャベルカーやらあらゆる重機を用いて山を移すというのではなく――神さまにやっていただくという、これもコツ☆(?)がわかってくると、「確かに祈りは聞かれる」ということがわかってくると思います。
この山が動くというのは、たとえばですけれども、「あ~、あの人だけは何があってもイエスさまのことなんて信じそうにないww」という方が突然180度生き方を変えて信じたり、あるいは「死んでも煙草だけはやめられない」という方が祈ったことで「信じられないことにやめられた」という経験をしたり、「あの山だけは絶対に動かない」とその方自身が信じている問題が砕かれるということです。
能力にも権力にも頼らず、ただ神さまの御前に出て祈る時、人間の力では絶対に動かないと思っていた岩が砕かれ、また山が動くというのことは本当のことだと思います。
それではまた~!!
わたしがクリスチャンになって、聖書も旧約・新約と両方とも一通り読み――「大体のところ、キリスト教や信仰について、ある程度わかったかな?」みたいに感じた時……それでも、<神の主権>ということについてはよく理解していなかったと思います。
もちろん、神さまは自身の主権によって宇宙を造り地球を造り……といった、そうした主権については理解していました。
>>あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれに心を留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。
すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
私たちの主、主よ。
あなたの御名は全地にわたり、
なんと力強いことでしょう。
(詩篇、第8編3~9節)
けれど、その後随分してからハッと気づくようなことがありました。
自分自身の人生に何か問題がある時、わたしたちは当然神さまに祈ります。「今こういう問題があって、ああいう人に悩まされてて、とても困っています。わたしの力ではどうにも出来ないことなので、神さまどうか助けてください」……といったように。
これは、実は神さまに問題の主権を委ねることなのだな……ということに、信仰を持って暫く経ってから初めて気づきました(^^;)
つまり、自分ひとりで何かの問題のことで悩んでいる時っていうのは、まるで心の中の暗い地下室で何かブツブツ☆言ってるみたいな感じなんですよね。けれど、神さまに祈る時、そこには牢獄に光が差すようにサッと光が差してくるのです。
この部分のコツ(?)のようなものが掴めると、自分をいじめる人間に主権があるのではなく、自分にパワハラする上司に主権があるのではなく、自分に強権をふるう同僚に主権があるのではなく、自分の噂話や悪口を言う誰かに主権があるのではなく――実はそのすべての主権を握っているのは神さまであることがわかります。
そこで、この<すべての問題の主権は神さまにある>ということをしっかりと認識し、その問題のすべてを神さまにお委ねする……ということがわかってくると、聖霊さまから心に平安が与えられるところがあると思います。
また、わたしたちは常に何を決定するのにも<自分自身に主権がある>と思っていることがとても多いと思います。けれど、この自分自身にあると思っている主権を神さま(イエスさま)にお委ねする、譲る(自分に主権があると思って握りしめているものを手放す)ということがわかってくると、祈りの段階が一段階上がったような経験をしたり、一種の祈るコツ☆というのでしょうか。そういうのがかなり掴めてくると思います。
♪権力によらず、神の霊によりて
能力によらず、神の霊によりて
この山は移らん
この山は移らん
この山は移らん
神の霊によりて
(ゼカリヤ書、第4章6節からの賛美歌)
>>「神を信じなさい。
まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」
(マタイの福音書、第11章22~24節)
いや、そうは言ってもイエスさま、流石に山はわたしたちがいくら祈ったところで動きませんてwwというのがわたしたちの弱いというか、薄い信仰なわけですけど(笑)、わたしたちが自分でシャベルカーやらあらゆる重機を用いて山を移すというのではなく――神さまにやっていただくという、これもコツ☆(?)がわかってくると、「確かに祈りは聞かれる」ということがわかってくると思います。
この山が動くというのは、たとえばですけれども、「あ~、あの人だけは何があってもイエスさまのことなんて信じそうにないww」という方が突然180度生き方を変えて信じたり、あるいは「死んでも煙草だけはやめられない」という方が祈ったことで「信じられないことにやめられた」という経験をしたり、「あの山だけは絶対に動かない」とその方自身が信じている問題が砕かれるということです。
能力にも権力にも頼らず、ただ神さまの御前に出て祈る時、人間の力では絶対に動かないと思っていた岩が砕かれ、また山が動くというのことは本当のことだと思います。
それではまた~!!
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