【福音記者ヨハネ】エル・グレコ
さて、今回はイエスの弟子にして福音書や黙示録を書き記したゼベダイの子ヨハネさんの紹介となります。
個人的に福音書&黙示録の記者であるヨハネさんと聞いて、一番最初に思い浮かべるのが、「ヨハネの福音書」中の最後の晩餐のシーンだったでしょうか(^^;)
イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」
弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。
弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。
そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。
「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい」
その弟子は、イエスの右側で席に着いたまま、イエスに言った。
「主よ。それはだれですか」
イエスは答えられた。
「それはわたしがパン切れを浸して与える者です」
それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
(ヨハネの福音書、第13章21~26節)
イエスが愛しておられた者がとか、自分ではっきり書いちゃうくらいちょっと図々しい(?)ヨハネ、わたし十二弟子中、一番好きなんですよね(笑)
他の弟子たちが全員殉教してしまう中(イスカリオテのユダは自殺)、ただ一人殉教を免れて生き残り、長生きしたヨハネですが、実はそのこともまた復活したイエスさまより先に言われていたことだったのでした。
ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。
ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか」
イエスはペテロに言われた。
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」
そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのである。
(ヨハネの福音書、第21章20~23節)
ここでもまた、イエスが愛された弟子とヨハネは自ら書いています(笑)
でも、こと神さまのことに関しては、こうした図々しいまでの大胆さが必要だったりしますよね。「わたしは神に愛される資格がない」だとか、「こんな自分に神さまが良くしてくださるはずがない」とか、変に卑屈になったりすることなく、「イエスさまはこんな駄目ダメなわたしでも、ありのままを愛してくださるー!!」とばかり、自分から大胆に神さまの愛を奪ってくるくらいの信仰が大切、と言いますか(^^;)
実際、前回ヨハネのお兄さんのヤコブ氏のエピソードにもあるとおり、このゼベダイの兄弟はふたりとも「神の愛に相応しい」とは言えない振るまいを結構していると思うのです。たとえば……。
ヨハネがイエスに言った。
「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました」
しかし、イエスは言われた。
「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです」
(マルコの福音書、第9章38~41節)
いえ、こんなふうに色々勘違いした言動の多いヨハネなのに、自分ではイエスの愛された弟子とか堂々と言えちゃうヨハネ、なんかいいです!!(>_<)
そもそもキリスト教信者というか、クリスチャンの方って、実際老若男女、誰もが「神さまの子ども」として、そんなところがあるものですよね。
キリスト教信者らしからぬ、クリスチャンらしからぬ何事かを行なっていながら、「神さまー、祝福してくださーい!!」と祈っていたり、神さまのほうではつくづく「やれやれ」と思うことがとても多いんだろうな、というか(^^;)
でもイエスさまはヨハネに対してそうだったように、現代のキリスト教信者ひとりひとりに「それでいい」、「ありのままのあなたのままでわたしについて来なさい、従いなさい」とおっしゃってると思うんですよね。そして神さまにもっとも愛される者の条件って、この従うっていうことだけなんだと思います。
前にも少し言及したとおり、たとえば<富>であるとか、<人>であるとか、神以外の何ものかを第一にしてしまうと、その時は良かったとしても、のちのちそれが神さまに従う上で大きな障害になる……ということが実際、信仰生活を歩んでいるとよくあると思うんですよね。
わたし自身もこのことでは何回も失敗していたりします(^^;)たとえば、お祈りをしていて、「神さまにこう言われた気がするな~」と思っていても、人間的な考えとしては「こっちへ行きたいな」と思った場合……この二番目の道のほうが「誰に迷惑かけるわけじゃなし」と、自分の目に好ましいものであった場合、神さまの細い声のほうを「まあ、聞き違いでしょう」みたいに軽視してしまったりであるとか。。。
で、この二番目の道を選んでしまった場合、その時々にもよるのかもしれないんですけど、あとからハッキリ「本当はそっちじゃなかったんだよ」と、神さま(聖霊さま)に語られることがあって、結構凹みますというか、「人間的に見た場合一見害がないように見えるけれども、わたし(神さま)はこっちを選んで欲しかった。というより、そのほうがあなたのためになった」ということがわたしの場合、すご~く多いんですよね。それで、間違った道を自分が選択した場合、そのあとにちゃんと痛い刈り取りをしなくてはいけないことがすごく多い
ので、神さまの声に忠実に従おうと思ったら、「なんとなくそう言われた気がする~」くらいのレベルのことでも、しっかり吟味することが大切だなってつくづく思います。この場合は結構人(教会の方、牧師さんなど)に相談することも大切かもしれません。自分では「こうしたい」と思ってることが、人から客観的に見た場合、「え?それはちょっとどうなんだろう」ということもあれば、逆に「普通はそれっておかしいと思われるだろうけど、神さまがそう仰ってるなら」、「一緒に祈って確認してみよう」と言ってもらえたり……ということがあると思うので。
でも大学の進学とか、就職とか、ある程度一般的なことなら誰にでも相談できるにしても……誰にでも相談できるわけではない個人的なことを神さまに祈ってる場合、結構吟味や確認が難しくなってきたりもするんですよね(^^;)
なんにしても、ヨハネやペテロや(大)ヤコブさんといったおよそ神さまに相応しくないと思われる方が弟子入りしてるどころでなく、イエスさまの側近だったっていうのは、実際すごいことだと思います。そしてそんな彼らの共通点が何があろうと神さまを第一にする、神さまに従い続けるという姿勢だったというか。
逆にいうとそこさえしっかりしていたら、他に至らないところや失敗がいくらあっても神さまは許し、恵んでくださる……ということなんだと思います。
ヨハネがイエスさまから愛されたのも、そこが一番の理由だったのかな、という気がします。十二弟子はヨハネを除き全員殉教してるわけですけど、イエスさまのことを裏切った(聞き従えなかった)のちは、死にまで従ったのですから
そんな中、唯一殉教しなかったヨハネですが(「遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子」によると、釜茹での刑によって死ぬところを神さまの奇跡によってなんの害も受けず、パトモス島へ島流しにされた)、そうしたところも含めてヨハネって使徒の中でも特別だったかなあという気がします。
では、次回は十二弟子の五人目、マタイの紹介となりますm(_ _)m
それではまた~!!
さて、今回はイエスの弟子にして福音書や黙示録を書き記したゼベダイの子ヨハネさんの紹介となります。
個人的に福音書&黙示録の記者であるヨハネさんと聞いて、一番最初に思い浮かべるのが、「ヨハネの福音書」中の最後の晩餐のシーンだったでしょうか(^^;)
イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」
弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。
弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。
そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。
「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい」
その弟子は、イエスの右側で席に着いたまま、イエスに言った。
「主よ。それはだれですか」
イエスは答えられた。
「それはわたしがパン切れを浸して与える者です」
それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
(ヨハネの福音書、第13章21~26節)
イエスが愛しておられた者がとか、自分ではっきり書いちゃうくらいちょっと図々しい(?)ヨハネ、わたし十二弟子中、一番好きなんですよね(笑)
他の弟子たちが全員殉教してしまう中(イスカリオテのユダは自殺)、ただ一人殉教を免れて生き残り、長生きしたヨハネですが、実はそのこともまた復活したイエスさまより先に言われていたことだったのでした。
ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。
ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか」
イエスはペテロに言われた。
「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」
そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのである。
(ヨハネの福音書、第21章20~23節)
ここでもまた、イエスが愛された弟子とヨハネは自ら書いています(笑)
でも、こと神さまのことに関しては、こうした図々しいまでの大胆さが必要だったりしますよね。「わたしは神に愛される資格がない」だとか、「こんな自分に神さまが良くしてくださるはずがない」とか、変に卑屈になったりすることなく、「イエスさまはこんな駄目ダメなわたしでも、ありのままを愛してくださるー!!」とばかり、自分から大胆に神さまの愛を奪ってくるくらいの信仰が大切、と言いますか(^^;)
実際、前回ヨハネのお兄さんのヤコブ氏のエピソードにもあるとおり、このゼベダイの兄弟はふたりとも「神の愛に相応しい」とは言えない振るまいを結構していると思うのです。たとえば……。
ヨハネがイエスに言った。
「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました」
しかし、イエスは言われた。
「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです」
(マルコの福音書、第9章38~41節)
いえ、こんなふうに色々勘違いした言動の多いヨハネなのに、自分ではイエスの愛された弟子とか堂々と言えちゃうヨハネ、なんかいいです!!(>_<)
そもそもキリスト教信者というか、クリスチャンの方って、実際老若男女、誰もが「神さまの子ども」として、そんなところがあるものですよね。
キリスト教信者らしからぬ、クリスチャンらしからぬ何事かを行なっていながら、「神さまー、祝福してくださーい!!」と祈っていたり、神さまのほうではつくづく「やれやれ」と思うことがとても多いんだろうな、というか(^^;)
でもイエスさまはヨハネに対してそうだったように、現代のキリスト教信者ひとりひとりに「それでいい」、「ありのままのあなたのままでわたしについて来なさい、従いなさい」とおっしゃってると思うんですよね。そして神さまにもっとも愛される者の条件って、この従うっていうことだけなんだと思います。
前にも少し言及したとおり、たとえば<富>であるとか、<人>であるとか、神以外の何ものかを第一にしてしまうと、その時は良かったとしても、のちのちそれが神さまに従う上で大きな障害になる……ということが実際、信仰生活を歩んでいるとよくあると思うんですよね。
わたし自身もこのことでは何回も失敗していたりします(^^;)たとえば、お祈りをしていて、「神さまにこう言われた気がするな~」と思っていても、人間的な考えとしては「こっちへ行きたいな」と思った場合……この二番目の道のほうが「誰に迷惑かけるわけじゃなし」と、自分の目に好ましいものであった場合、神さまの細い声のほうを「まあ、聞き違いでしょう」みたいに軽視してしまったりであるとか。。。
で、この二番目の道を選んでしまった場合、その時々にもよるのかもしれないんですけど、あとからハッキリ「本当はそっちじゃなかったんだよ」と、神さま(聖霊さま)に語られることがあって、結構凹みますというか、「人間的に見た場合一見害がないように見えるけれども、わたし(神さま)はこっちを選んで欲しかった。というより、そのほうがあなたのためになった」ということがわたしの場合、すご~く多いんですよね。それで、間違った道を自分が選択した場合、そのあとにちゃんと痛い刈り取りをしなくてはいけないことがすごく多い
ので、神さまの声に忠実に従おうと思ったら、「なんとなくそう言われた気がする~」くらいのレベルのことでも、しっかり吟味することが大切だなってつくづく思います。この場合は結構人(教会の方、牧師さんなど)に相談することも大切かもしれません。自分では「こうしたい」と思ってることが、人から客観的に見た場合、「え?それはちょっとどうなんだろう」ということもあれば、逆に「普通はそれっておかしいと思われるだろうけど、神さまがそう仰ってるなら」、「一緒に祈って確認してみよう」と言ってもらえたり……ということがあると思うので。
でも大学の進学とか、就職とか、ある程度一般的なことなら誰にでも相談できるにしても……誰にでも相談できるわけではない個人的なことを神さまに祈ってる場合、結構吟味や確認が難しくなってきたりもするんですよね(^^;)
なんにしても、ヨハネやペテロや(大)ヤコブさんといったおよそ神さまに相応しくないと思われる方が弟子入りしてるどころでなく、イエスさまの側近だったっていうのは、実際すごいことだと思います。そしてそんな彼らの共通点が何があろうと神さまを第一にする、神さまに従い続けるという姿勢だったというか。
逆にいうとそこさえしっかりしていたら、他に至らないところや失敗がいくらあっても神さまは許し、恵んでくださる……ということなんだと思います。
ヨハネがイエスさまから愛されたのも、そこが一番の理由だったのかな、という気がします。十二弟子はヨハネを除き全員殉教してるわけですけど、イエスさまのことを裏切った(聞き従えなかった)のちは、死にまで従ったのですから
そんな中、唯一殉教しなかったヨハネですが(「遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子」によると、釜茹での刑によって死ぬところを神さまの奇跡によってなんの害も受けず、パトモス島へ島流しにされた)、そうしたところも含めてヨハネって使徒の中でも特別だったかなあという気がします。
では、次回は十二弟子の五人目、マタイの紹介となりますm(_ _)m
それではまた~!!
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