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【天使とヤコブの戦い】レンブラント・ファン・レイン
(ヤコブは天使と争っているはずなのに、何故天使のほうでは優しく微笑んでいるのでしょう?何故なら、天使は人ではありませんから、ヤコブのことを本気で負かそうと思えばそうするのはあまりに簡単だからです。けれども、ヤコブと同じように自分の思いをわたしたちがどうにか優先させようとする時にも、神さまは同じように慈悲深く優しくわたしたちを取り扱ってくださるということを、↓の文章を読む前に心に留めておいてくださいねm(_ _)m一応、誤解のないように先に書いておきたいと思いました^^;)
>>あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも今日選ぶがよい。
(ヨシュア記、第24章15節)
『カルビンとホブズ』という漫画を見て何人の人が声を立てて笑ったことでしょう。その中で幼いカルビンは、機械が人間をコントロールして人間をふぬけの奴隷にしてしまうというものすごいサイエンスフィクションの話を読んで、トラの友だちのホブズに話をしている場面があります。
ブランコに乗っていたホブズは慌てて下りて、本をひったくり、叫びました。
「俺たちが機械を操縦するんじゃなくて、機械が俺たちを操縦するんだって?恐ろしい考えじゃないか」
「そうだよ」とカルビンは言ってから、腕時計を見ながら叫んだ。「おい!今何時だい?僕の好きなショーが始まるよ」
もしその漫画を見て笑わなかったら、あまりにも真実をついているからじゃないかと思います。私たちは神に仕える者と言いながら、時として機械であるテレビに操られている自分たちにハッとすることがあります。決してこれは笑い事ではありません。そして、私自身もそのテレビなるものの奴隷になっていました。
私は、この世が生みだした機械つまりテレビという娯楽を好んで見てきたと告白しなければなりません。ノンクリスチャンと同じように楽しんで見ているのです。まるでテレビこそ私がいつも一緒にいたいと思う友だちのようです。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
さて、今回は第6章「選ぶとき」より早速学んでいきたいと思いますm(_ _)m
神さまからテレビを見る時間を捧げるように語られ、激しく葛藤したのち、イエスさまに聞き従うことをマーリンさんは最終的に選びとるわけですが――第6章に関しては個人的に、章の最後のほうに書かれていることが(要約して言えば)非常に重要なことではないかと思いました。
>>あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
(マタイの福音書、第6章21節)
私は世の楽しみを宝とし、私の心はそれを追いかけました。神様は、今私を呼び戻されようとしておられます。長い間、私は、恋人にこう語った若者のようでした。
「君は、神様が創られた人の中で、もっとも美しく、可愛い人だ。僕は全てをかけて君を愛するよ。君と一緒にいる時ほど楽しい時はない。だから、君と週二日必ず一緒に過ごすことを約束するよ」
すると、彼女が尋ねた。
「ええ、そうなの。じゃあなたは他の日はどこにいるのかしら」
「心配するなよ。他の女と一緒にいるだけなんだから。彼女は君のことが大嫌いなのが玉に瑕だけど、ぼくたちは共通点がたくさんあって、彼女と一緒にいるととても楽しいんだ。君は何も心配しなくていい。僕は彼女のことを愛しているわけじゃないんだから」
こんな取り決めがあるとしたら、一体だれが承諾することができましょう。しかし、私は、こんなふうに全能なる神様を扱ってきたのです!
「神様、ごめんなさい。私は、神様に逆らう人たちと交わって、楽しんでいます」
慈しみの神様は、もう一度神様のところに戻るよう私を呼ばれました。神様とだけ楽しい時を過ごし、神様の友だちの中から、友を選ぶよう言われました。自分自身が出るのではなく、自分の十字架を背負い、神様に日々一刻と従っていくと答えた時、私はどんなワクワクするような前途が開けているのか、思いも及びませんでした。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
十戒の第一戒は、「主こそ唯一の神である」ということであり、第二戒は、「偶像を造ってはならない」という、偶像の禁止ということが言われています。
つまり、わたしがもしノンクリスチャンであった頃、「霊的姦淫」などと言われたとしたら、まるでピンと来ないどころか……そんな言葉を説教壇の上から牧師さんが口にしているのを聞いただけで、「キリスト教ってやっぱりおかしいんじゃね?
」と思ったかもしれません。
けれども、「三度の飯より○○が好き!!
」という言葉があるように、「日毎の糧を与えてくださる神さまよりも、お金が好き!
」、「真に心が安らぐのは預金通帳のゼロの数を数えている時だけ!
」、「神さまのことよりもゲームのほうがよほど大事!
」、「日曜礼拝のある時刻にもし、大好きなロックバンドが駅前でゲリラライブを行うとしたら、迷わずそっちに行く!
」――など、人にはそれぞれ、マーリンさんがすっかりテレビにハマっておられたように、弱みとなる何かがあると思うんですよね(もちろんわたしにも、同じように葛藤することが色々あります。なので、その気持ちはよくわかる、ということなんですけど^^;)。
あのですね、こうした事柄の多くのことについて、大抵の場合は神さまは笑って許してくださるのではないかと思います(わたしたちがそのあと、心から悔い改めるなら)。
ただ、心の奥底にある順序として……「人間の心を探り窮める方」(ローマ人への手紙、第8章27節)である神さまは、やはり瞬時におわかりになるわけです。その人にとって神よりも上に来ているものがあるかどうか、ということを。
そこで、上述のマーリンさんのように、わたしたちは色々な自己弁護を試みます。つまり、もちろんイエスさまを(心から真に、霊的に)礼拝することこそがわたしたちにとっての正妻で、彼女とは大体週二日くらい過ごす、でも残りの五日は別の愛人と過ごしている……そして正妻である聖霊さまに対して、こう言うわけです。「なあに、愛人とはただの遊びだから、そのうちまたすぐ君の元へ戻ってくるからね!
」と……。
これがわたしたち(クリスチャン)の霊的姦淫とキリスト教では呼ばれているものです(^^;)
神さまよりもテレビやゲームやインターネットやお金や仕事や……その他色々夢中になっているものがあって、それが神さまのことよりも心の中で上に来ているという状態、また、実際のところ、口ではなんと言ったにせよ、普通に考えたとすれば、結婚した男性は正妻の女性や自分の子供と過ごす時間のほうが圧倒的に多いはずです。ところが、自分の家庭よりも他に夢中になるものがある男性というのは、「必要最低限のこと(ゴミ捨てや風呂洗いなど)はしているし、給料だってちゃんと入れてる。だから他の自由な時間はすべて俺のものだ!
」とばかり、「そのこと」をしている間は家庭のことなどすっかり忘れている――なんていうことがあるものなのではないでしょうか。
もちろん、その相手が愛人というのでなく、ゲームやパチンコなどのギャンブルであるとしたら、「お父さんは真面目に働いてるんだから、自分の小遣いの範囲内で馬券を買うくらい、いいじゃないか
」という話ではあるかもしれません(これはこの世の一般的価値観としてはそうであろう、ということですけれども)。ただこれ、あくまでたとえ話ですからね(^^;)、実際わたしも、一時間半くらい祈って、残りの22時間30分は、「全部自分の自由時間ーっ!!
」ということは当然ないですし、その22時間30分の間も、聖霊さまの導きを求めていたり、困った時にはイエスさまにより頼んでいたりと……でも、確かにあるのです。「神さまのことをまったく考えていない」時間というのは。そしてそれが仕事で集中を要する数時間である、といった場合、もちろんイエスさまはわかってくださいますし、わたしたちのほうで神さまのことをまるで考えていない時でさえ、イエスさまはわたしたちを守ってくださる方でもあります。
ただ、仮にわたしが祈るよりもゲームをすることのほうを優先させてしまい、「ゲームしたら祈るよ!」と約束していながら7時間ぶっ続けで
ゲームして疲れ、そのあと「ごめんなさい、神さま。眠くなってきました……ムニャムニャ☆
」といったようなことが続き、「このゲームをクリアしたらちゃんと祈ります!」みたいになっていくなら――そうしたところから信仰の土台といったものは崩れていってしまうわけですよね(あ、ちなみにこれ、「だからクリスチャンはゲームをすべきでない」とか、そうした話ではありません、一応^^;)
そしてこれが、マーリンさん言うところの愛人……神さまのことに使う時間よりも長く一緒に過ごしている人や物事、ということであり、当然わたしたちは(この場合でいうなら)イエスさまと週五日過ごして、残りの二日くらいを自分の好きなことに使うべきなのであって――この立場の逆転した状態というのが霊的姦淫、神さまよりも心の中で他に第一位に来ているものがある、ということなのだと思います。
そしてこのように信仰の軸がズレ、それまでどれほど念入りに信仰の土台を形作ってきた人でも――そこにヒビが入り、雨が降ったり嵐が来たりして地崩れを起こした……といった場合、>>火の中をくぐるようにして助かります(コリント人への手紙第一、第3章15節)ということになるのではないでしょうか。
>>与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることきできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
(コリント人への手紙第一、第3章10~15節)
前回の【6】のところで引用した、テモテの手紙第二、第2章20~21節の>>金持ちの家には、金や銀でできたお皿だけではなく、木や土でできたお皿もあります。高価なお皿は……のところはリビングバイブルからの引用ですが、わたしの持っている新改訳聖書では、次のように訳されています。
>>大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。
(テモテへの手紙第二、第2章20~21節)
一度イエスさまのことを信じて救われたなら、確かに必要最低限のものとして「天国への切符」は約束され、恵み深い神さまはその切符を取り上げられたりされることはないでしょう。けれども、これは土や木の信仰であって、神さまはわたしたちに金や銀、もっというなら純金の信仰を捧げて欲しいと願っておられるのだと思います。
>>おまえの銀は、かなかすになった。
(※かなかす=不純物の多い金属のこと)
(イザヤ書、第1章22節)
>>銀からかなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。
(箴言、第25章4節)
>>銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主。
(箴言、第17章3節)
>>御霊(聖霊)も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方(神)は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
(ローマ人への手紙、第8章26~27節)
(霊肉ともに)危急の際、普段神さまのことにあまり熱心でない人も、火の中をくぐるようにして救われるかもしれません。けれども、信仰レベルとしてそれは本当に必要最低限の信仰しかその人が有していないことを示しています。けれどもそうではなく、毎日24時間オールウェイズ、神さまのことを感謝し讃美し、あらゆることについて褒め称えていくなら、出来得る限り心を尽くし、思いを尽くして自分のための時間を神さまのために使っていくなら、わたしたちの信仰生活は間違いなく変わっていくことが出来ると思います。
「えーっ。そんなこと言ったって、毎日忙しいし、仕事や難しい人間関係のことなんかで頭いっぱいだし、そんな中で神さまのために使う時間を増やせなんて言われても……
」とか、「仕事と子育てで忙しくて、日曜日に礼拝を守るのだって精一杯なのに!
」という方や、あるいは「介護に追われていて……
」などなど、人にはそれぞれの立場や思いがあると思います。
ただ、そうした中で「自分なりに精一杯」、「神さまごめんなさい、これがわたしの今の精一杯です」といったように最初は信仰を使い、「さらによりよく神さまに仕えていくにはどうしたらいいですか?
」と祈り求めていくなら――神さまは不思議な方ですから、それこそ不思議な形でイエスさまのために使う時間や余裕というのは増えていくと思います。
ですから、マーリンさん著の『聖なる楽しみ』の第6章は「選ぶとき」ですが、信仰生活の中のポイントポイントで「今、選びなさい」といったように聖霊さまを通して神さまが望まれる瞬間が訪れたなら……ペテロやヨハネがイエスさまに声をかけられた時(「人間をとる漁師にしてあげよう」)、すぐに聞き従うことが出来たように――仮にそれまでどんなにゲームに夢中になっていようと、あるいはスマホに夢中になっていようとインターネットに狂っていようと、弟子たちが網を捨ててイエスさまに従ったように、それらを捨てて聞き従っていく必要があると思います。
もちろんインターネットは強力な宣教の武器ですから、この場合はそれ以外の神さまのことにはまったく関係ない趣味のことなど、狂ったように血道を上げていることが他にあるなら、それがもし順位として神さまのことよりも上に来ているなら、おそらく捧げる必要があるだろう……といったように御理解くださいm(_ _)m
【5】のところにも書きましたが、現代人にとって今一番大切なのは、第三位「お金」、第二位「家族」、第一位「インターネット」ですからね(^^;)そしてこのインターネットは旧約時代のイスラエルの民にとって、モアブ人やアモン人など、周囲の民たちが拝んでいた他の神々と同じく、強力な姦淫の誘惑の力を持っているといっていいと思います。何より、そのことを敵であるサタン(悪魔)はよく知っているわけですから、わたしたちはよくよく目を覚まして注意し、見分けていく必要があると思います。
このあたりのことについては、マーリンさんも別の章で再び言及されておられますから、わたしもまた他のところで続きを書きたいと思っていますm(_ _)m
では、次回は第7章「解放され喜んで仕える」より、マーリンさんがテレビより神さまのことを選んだ結果、どのような実を見たかについて、引き続き書き進めていきたいと思います♪(^^)
それではまた~!!![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
(ヤコブは天使と争っているはずなのに、何故天使のほうでは優しく微笑んでいるのでしょう?何故なら、天使は人ではありませんから、ヤコブのことを本気で負かそうと思えばそうするのはあまりに簡単だからです。けれども、ヤコブと同じように自分の思いをわたしたちがどうにか優先させようとする時にも、神さまは同じように慈悲深く優しくわたしたちを取り扱ってくださるということを、↓の文章を読む前に心に留めておいてくださいねm(_ _)m一応、誤解のないように先に書いておきたいと思いました^^;)
>>あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも今日選ぶがよい。
(ヨシュア記、第24章15節)
『カルビンとホブズ』という漫画を見て何人の人が声を立てて笑ったことでしょう。その中で幼いカルビンは、機械が人間をコントロールして人間をふぬけの奴隷にしてしまうというものすごいサイエンスフィクションの話を読んで、トラの友だちのホブズに話をしている場面があります。
ブランコに乗っていたホブズは慌てて下りて、本をひったくり、叫びました。
「俺たちが機械を操縦するんじゃなくて、機械が俺たちを操縦するんだって?恐ろしい考えじゃないか」
「そうだよ」とカルビンは言ってから、腕時計を見ながら叫んだ。「おい!今何時だい?僕の好きなショーが始まるよ」
もしその漫画を見て笑わなかったら、あまりにも真実をついているからじゃないかと思います。私たちは神に仕える者と言いながら、時として機械であるテレビに操られている自分たちにハッとすることがあります。決してこれは笑い事ではありません。そして、私自身もそのテレビなるものの奴隷になっていました。
私は、この世が生みだした機械つまりテレビという娯楽を好んで見てきたと告白しなければなりません。ノンクリスチャンと同じように楽しんで見ているのです。まるでテレビこそ私がいつも一緒にいたいと思う友だちのようです。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
さて、今回は第6章「選ぶとき」より早速学んでいきたいと思いますm(_ _)m
神さまからテレビを見る時間を捧げるように語られ、激しく葛藤したのち、イエスさまに聞き従うことをマーリンさんは最終的に選びとるわけですが――第6章に関しては個人的に、章の最後のほうに書かれていることが(要約して言えば)非常に重要なことではないかと思いました。
>>あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
(マタイの福音書、第6章21節)
私は世の楽しみを宝とし、私の心はそれを追いかけました。神様は、今私を呼び戻されようとしておられます。長い間、私は、恋人にこう語った若者のようでした。
「君は、神様が創られた人の中で、もっとも美しく、可愛い人だ。僕は全てをかけて君を愛するよ。君と一緒にいる時ほど楽しい時はない。だから、君と週二日必ず一緒に過ごすことを約束するよ」
すると、彼女が尋ねた。
「ええ、そうなの。じゃあなたは他の日はどこにいるのかしら」
「心配するなよ。他の女と一緒にいるだけなんだから。彼女は君のことが大嫌いなのが玉に瑕だけど、ぼくたちは共通点がたくさんあって、彼女と一緒にいるととても楽しいんだ。君は何も心配しなくていい。僕は彼女のことを愛しているわけじゃないんだから」
こんな取り決めがあるとしたら、一体だれが承諾することができましょう。しかし、私は、こんなふうに全能なる神様を扱ってきたのです!
「神様、ごめんなさい。私は、神様に逆らう人たちと交わって、楽しんでいます」
慈しみの神様は、もう一度神様のところに戻るよう私を呼ばれました。神様とだけ楽しい時を過ごし、神様の友だちの中から、友を選ぶよう言われました。自分自身が出るのではなく、自分の十字架を背負い、神様に日々一刻と従っていくと答えた時、私はどんなワクワクするような前途が開けているのか、思いも及びませんでした。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
十戒の第一戒は、「主こそ唯一の神である」ということであり、第二戒は、「偶像を造ってはならない」という、偶像の禁止ということが言われています。
つまり、わたしがもしノンクリスチャンであった頃、「霊的姦淫」などと言われたとしたら、まるでピンと来ないどころか……そんな言葉を説教壇の上から牧師さんが口にしているのを聞いただけで、「キリスト教ってやっぱりおかしいんじゃね?
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けれども、「三度の飯より○○が好き!!
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あのですね、こうした事柄の多くのことについて、大抵の場合は神さまは笑って許してくださるのではないかと思います(わたしたちがそのあと、心から悔い改めるなら)。
ただ、心の奥底にある順序として……「人間の心を探り窮める方」(ローマ人への手紙、第8章27節)である神さまは、やはり瞬時におわかりになるわけです。その人にとって神よりも上に来ているものがあるかどうか、ということを。
そこで、上述のマーリンさんのように、わたしたちは色々な自己弁護を試みます。つまり、もちろんイエスさまを(心から真に、霊的に)礼拝することこそがわたしたちにとっての正妻で、彼女とは大体週二日くらい過ごす、でも残りの五日は別の愛人と過ごしている……そして正妻である聖霊さまに対して、こう言うわけです。「なあに、愛人とはただの遊びだから、そのうちまたすぐ君の元へ戻ってくるからね!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0206.gif)
これがわたしたち(クリスチャン)の霊的姦淫とキリスト教では呼ばれているものです(^^;)
神さまよりもテレビやゲームやインターネットやお金や仕事や……その他色々夢中になっているものがあって、それが神さまのことよりも心の中で上に来ているという状態、また、実際のところ、口ではなんと言ったにせよ、普通に考えたとすれば、結婚した男性は正妻の女性や自分の子供と過ごす時間のほうが圧倒的に多いはずです。ところが、自分の家庭よりも他に夢中になるものがある男性というのは、「必要最低限のこと(ゴミ捨てや風呂洗いなど)はしているし、給料だってちゃんと入れてる。だから他の自由な時間はすべて俺のものだ!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_grin_m.gif)
もちろん、その相手が愛人というのでなく、ゲームやパチンコなどのギャンブルであるとしたら、「お父さんは真面目に働いてるんだから、自分の小遣いの範囲内で馬券を買うくらい、いいじゃないか
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0249.gif)
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ただ、仮にわたしが祈るよりもゲームをすることのほうを優先させてしまい、「ゲームしたら祈るよ!」と約束していながら7時間ぶっ続けで
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そしてこれが、マーリンさん言うところの愛人……神さまのことに使う時間よりも長く一緒に過ごしている人や物事、ということであり、当然わたしたちは(この場合でいうなら)イエスさまと週五日過ごして、残りの二日くらいを自分の好きなことに使うべきなのであって――この立場の逆転した状態というのが霊的姦淫、神さまよりも心の中で他に第一位に来ているものがある、ということなのだと思います。
そしてこのように信仰の軸がズレ、それまでどれほど念入りに信仰の土台を形作ってきた人でも――そこにヒビが入り、雨が降ったり嵐が来たりして地崩れを起こした……といった場合、>>火の中をくぐるようにして助かります(コリント人への手紙第一、第3章15節)ということになるのではないでしょうか。
>>与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることきできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
(コリント人への手紙第一、第3章10~15節)
前回の【6】のところで引用した、テモテの手紙第二、第2章20~21節の>>金持ちの家には、金や銀でできたお皿だけではなく、木や土でできたお皿もあります。高価なお皿は……のところはリビングバイブルからの引用ですが、わたしの持っている新改訳聖書では、次のように訳されています。
>>大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。
(テモテへの手紙第二、第2章20~21節)
一度イエスさまのことを信じて救われたなら、確かに必要最低限のものとして「天国への切符」は約束され、恵み深い神さまはその切符を取り上げられたりされることはないでしょう。けれども、これは土や木の信仰であって、神さまはわたしたちに金や銀、もっというなら純金の信仰を捧げて欲しいと願っておられるのだと思います。
>>おまえの銀は、かなかすになった。
(※かなかす=不純物の多い金属のこと)
(イザヤ書、第1章22節)
>>銀からかなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。
(箴言、第25章4節)
>>銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主。
(箴言、第17章3節)
>>御霊(聖霊)も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方(神)は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
(ローマ人への手紙、第8章26~27節)
(霊肉ともに)危急の際、普段神さまのことにあまり熱心でない人も、火の中をくぐるようにして救われるかもしれません。けれども、信仰レベルとしてそれは本当に必要最低限の信仰しかその人が有していないことを示しています。けれどもそうではなく、毎日24時間オールウェイズ、神さまのことを感謝し讃美し、あらゆることについて褒め称えていくなら、出来得る限り心を尽くし、思いを尽くして自分のための時間を神さまのために使っていくなら、わたしたちの信仰生活は間違いなく変わっていくことが出来ると思います。
「えーっ。そんなこと言ったって、毎日忙しいし、仕事や難しい人間関係のことなんかで頭いっぱいだし、そんな中で神さまのために使う時間を増やせなんて言われても……
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ただ、そうした中で「自分なりに精一杯」、「神さまごめんなさい、これがわたしの今の精一杯です」といったように最初は信仰を使い、「さらによりよく神さまに仕えていくにはどうしたらいいですか?
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ですから、マーリンさん著の『聖なる楽しみ』の第6章は「選ぶとき」ですが、信仰生活の中のポイントポイントで「今、選びなさい」といったように聖霊さまを通して神さまが望まれる瞬間が訪れたなら……ペテロやヨハネがイエスさまに声をかけられた時(「人間をとる漁師にしてあげよう」)、すぐに聞き従うことが出来たように――仮にそれまでどんなにゲームに夢中になっていようと、あるいはスマホに夢中になっていようとインターネットに狂っていようと、弟子たちが網を捨ててイエスさまに従ったように、それらを捨てて聞き従っていく必要があると思います。
もちろんインターネットは強力な宣教の武器ですから、この場合はそれ以外の神さまのことにはまったく関係ない趣味のことなど、狂ったように血道を上げていることが他にあるなら、それがもし順位として神さまのことよりも上に来ているなら、おそらく捧げる必要があるだろう……といったように御理解くださいm(_ _)m
【5】のところにも書きましたが、現代人にとって今一番大切なのは、第三位「お金」、第二位「家族」、第一位「インターネット」ですからね(^^;)そしてこのインターネットは旧約時代のイスラエルの民にとって、モアブ人やアモン人など、周囲の民たちが拝んでいた他の神々と同じく、強力な姦淫の誘惑の力を持っているといっていいと思います。何より、そのことを敵であるサタン(悪魔)はよく知っているわけですから、わたしたちはよくよく目を覚まして注意し、見分けていく必要があると思います。
このあたりのことについては、マーリンさんも別の章で再び言及されておられますから、わたしもまた他のところで続きを書きたいと思っていますm(_ _)m
では、次回は第7章「解放され喜んで仕える」より、マーリンさんがテレビより神さまのことを選んだ結果、どのような実を見たかについて、引き続き書き進めていきたいと思います♪(^^)
それではまた~!!
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