【磔刑】バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
(コロサイ人への手紙、第2章11~15節)
イエス・キリストの十字架上の血の贖いが、わたしのためにもあなたのためにも、そして人類すべての人の罪が赦され、天国へ行くために必要なことだった……とか言われても、「??」という感じですよね(^^;)
正直、「一体何言ってんだろう、コイツ☆」というか、「イエスさまの愛を信じてみませんか?」とか言うのでも、勧誘(?)の言葉としてあやしすぎるwwという気がします
>>十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さをむなしくする」
知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かにされたではありませんか。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
(コリント人への手紙第一、第1章18~21節)
そして確かに神さまは、人間の頭によってではまず思い浮かばない方法によって御自身が創造された人間のことを――それも全人類のことを救うという計画を立てておいででした。
>>神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。
(使徒の働き、第17章26~28節)
>>だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(コリント人への手紙第二、第5章17節)
わたしには、神さまに対しても人に対しても、返しきれない負債がたくさんあります。
神さまに対しては別としても、人に対してということなら、他の人だってあなたに対し、負債があるのではないか……と言えば、まあ確かにそうかもしれません。
けれど、一般的な人の心情として、「誰に対しても出来れば貸しも借りも作りたくないものだ」――と感じるのが普通なのではないでしょうか(ある意味ちょっと可愛げがない気もしますけど^^;)
目に見えるお金ということであれば特に、借金というものは実の親にだって作りたくはないと思うものだと思うのですが、神さまはこうしたわたしたちの数え切れないほどの<罪>という借金をすべて御自身の御子、イエスさまに背負わせ、イエスさまが十字架で苦しみの血を流されたことによって……わたしたち人間の罪はすべて赦され、それだけでなく、さらには死後に天国へ行けるという道が開かれました。
何故なら、人間というのは罪深い存在で、もともとはそのままの状態では天国へ行くということが出来ません。けれど、イエスさまが十字架上で流された血潮の力によって、罪がまったくないものとされ、ちょうど罪のない赤ん坊と同じ状態になることで――こうして初めて天国へ行くことが出来るという存在なのです。
もちろん、何故そう信じることが出来るのですか?と多くの方がおっしゃるかもしれません。けれど、親が自分の子供のためならなんでもしてあげたいと思うのと同じように――神さまはイエス・キリストを地上に遣わしてくださいました。そしてイエスさまが苦しみの杯を最後の一滴まで飲み干してくださったことにより、父なる神への宥めがなされ……わたしたちひとりひとりが持つ<罪>という名のすべての負債証書にイエスさまの血がかかったことにより、その負債証書がすべて無効とされ、わたしたちは神の御前に罪なき者となることが出来たのです。ただ、イエス・キリストがわたしたちの救い主であり、贖い主であることを告白するという、ただそれだけで……。
おそらく、今現実的に三千万円くらい借金がある、あるいは家のローンなどが二千万円くらい残っている……という方なら、具体的に想像することが簡単かもしれません。「イエスさまが十字架にかかってくださって、罪の贖いを完成してくださったから、あなたの借金三千万円は一切返す必要がなくなりました」、あるいは「もう家のローンを支払わなくてもいいことを、喜んでください」といったような、イエスさまが十字架でなしてくださったことというのは、何かそんな感じのことといっていいと思います(あくまでもたとえ話ですけれども^^;)
けれど、そのような形で罪を赦されたにも関わらず、その一時間後には何がしかの罪を犯している――それが人間というものでもあります。そうした罪についても、神さまは悔い改めるなら何度でも赦してくださいますし、なんといってもポイントは神さまの目に罪なしと認められるということだと思います。
つまり、神さまはわたしたち人間と同じ視点によって同じ考え方をするといったような小さな方ではありませんから、わたしたちが仮にもし、「あいつはクリスチャンだなんて名乗っているが、あんな罪やこんな罪かそんな罪なんかがあるじゃないか!」と誰かを責め立てようとも……その方がイエス・キリストの血の贖いの力を心から信じ、聖霊さまに満たされていたとしたなら――人間の目にはその方がどのように見えようとも、神さまの目には清いのです。
>>わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
と、イザヤ書の第43章4節で語ってくださっているとおり。
また、冒頭の聖書の御言葉に戻るとしますと、>>「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」とあります。
仮に戦争などでわたしたちが捕虜になった場合、その立場は相当惨めなものになるといっていいでしょう。今は一応、ジュネーヴ条約という捕虜に関する規定があるかもしれませんが、ISといった人々に中東のどこかで捕虜として捕えられた場合――もはやこのような国際的規定ですら、ないも同然の扱いしか受けないでしょうし、昔の時代の人々が捕虜として受けた扱いというのは本当にひどいものでした。
けれど、神さまは言ってみれば<罪>という汚物にまみれている人間のことを、ひとりひとり手厚く扱い、御自身の栄光の凱旋行列に加えてくださるのです。普通なら、手首を縛られ、ろくに食事も与えられず、見張りの兵に気まぐれに殴られ、唾をかけられたり罵倒されても仕方のない境遇であるにも関わらず……そのような状態であるのが本来のわたしたち人間であるにも関わらず、御自身の愛と憐れみのゆえに、人間としての自由と幸せをわたしたちに与えてくださるのです。
クリスチャンというのは、クリスティアヌス、ギリシャ語で神の奴隷という意味ということでしたが、これからはただ自分の罪の奴隷として苦しむのではなく、神さまの奴隷として、ただこの方にすべてを委ねて歩む人生を送れたらいいな~と、日々思う者です(^^;)
それではまた~!!
キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
(コロサイ人への手紙、第2章11~15節)
イエス・キリストの十字架上の血の贖いが、わたしのためにもあなたのためにも、そして人類すべての人の罪が赦され、天国へ行くために必要なことだった……とか言われても、「??」という感じですよね(^^;)
正直、「一体何言ってんだろう、コイツ☆」というか、「イエスさまの愛を信じてみませんか?」とか言うのでも、勧誘(?)の言葉としてあやしすぎるwwという気がします
>>十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さをむなしくする」
知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かにされたではありませんか。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
(コリント人への手紙第一、第1章18~21節)
そして確かに神さまは、人間の頭によってではまず思い浮かばない方法によって御自身が創造された人間のことを――それも全人類のことを救うという計画を立てておいででした。
>>神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。
(使徒の働き、第17章26~28節)
>>だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(コリント人への手紙第二、第5章17節)
わたしには、神さまに対しても人に対しても、返しきれない負債がたくさんあります。
神さまに対しては別としても、人に対してということなら、他の人だってあなたに対し、負債があるのではないか……と言えば、まあ確かにそうかもしれません。
けれど、一般的な人の心情として、「誰に対しても出来れば貸しも借りも作りたくないものだ」――と感じるのが普通なのではないでしょうか(ある意味ちょっと可愛げがない気もしますけど^^;)
目に見えるお金ということであれば特に、借金というものは実の親にだって作りたくはないと思うものだと思うのですが、神さまはこうしたわたしたちの数え切れないほどの<罪>という借金をすべて御自身の御子、イエスさまに背負わせ、イエスさまが十字架で苦しみの血を流されたことによって……わたしたち人間の罪はすべて赦され、それだけでなく、さらには死後に天国へ行けるという道が開かれました。
何故なら、人間というのは罪深い存在で、もともとはそのままの状態では天国へ行くということが出来ません。けれど、イエスさまが十字架上で流された血潮の力によって、罪がまったくないものとされ、ちょうど罪のない赤ん坊と同じ状態になることで――こうして初めて天国へ行くことが出来るという存在なのです。
もちろん、何故そう信じることが出来るのですか?と多くの方がおっしゃるかもしれません。けれど、親が自分の子供のためならなんでもしてあげたいと思うのと同じように――神さまはイエス・キリストを地上に遣わしてくださいました。そしてイエスさまが苦しみの杯を最後の一滴まで飲み干してくださったことにより、父なる神への宥めがなされ……わたしたちひとりひとりが持つ<罪>という名のすべての負債証書にイエスさまの血がかかったことにより、その負債証書がすべて無効とされ、わたしたちは神の御前に罪なき者となることが出来たのです。ただ、イエス・キリストがわたしたちの救い主であり、贖い主であることを告白するという、ただそれだけで……。
おそらく、今現実的に三千万円くらい借金がある、あるいは家のローンなどが二千万円くらい残っている……という方なら、具体的に想像することが簡単かもしれません。「イエスさまが十字架にかかってくださって、罪の贖いを完成してくださったから、あなたの借金三千万円は一切返す必要がなくなりました」、あるいは「もう家のローンを支払わなくてもいいことを、喜んでください」といったような、イエスさまが十字架でなしてくださったことというのは、何かそんな感じのことといっていいと思います(あくまでもたとえ話ですけれども^^;)
けれど、そのような形で罪を赦されたにも関わらず、その一時間後には何がしかの罪を犯している――それが人間というものでもあります。そうした罪についても、神さまは悔い改めるなら何度でも赦してくださいますし、なんといってもポイントは神さまの目に罪なしと認められるということだと思います。
つまり、神さまはわたしたち人間と同じ視点によって同じ考え方をするといったような小さな方ではありませんから、わたしたちが仮にもし、「あいつはクリスチャンだなんて名乗っているが、あんな罪やこんな罪かそんな罪なんかがあるじゃないか!」と誰かを責め立てようとも……その方がイエス・キリストの血の贖いの力を心から信じ、聖霊さまに満たされていたとしたなら――人間の目にはその方がどのように見えようとも、神さまの目には清いのです。
>>わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
と、イザヤ書の第43章4節で語ってくださっているとおり。
また、冒頭の聖書の御言葉に戻るとしますと、>>「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」とあります。
仮に戦争などでわたしたちが捕虜になった場合、その立場は相当惨めなものになるといっていいでしょう。今は一応、ジュネーヴ条約という捕虜に関する規定があるかもしれませんが、ISといった人々に中東のどこかで捕虜として捕えられた場合――もはやこのような国際的規定ですら、ないも同然の扱いしか受けないでしょうし、昔の時代の人々が捕虜として受けた扱いというのは本当にひどいものでした。
けれど、神さまは言ってみれば<罪>という汚物にまみれている人間のことを、ひとりひとり手厚く扱い、御自身の栄光の凱旋行列に加えてくださるのです。普通なら、手首を縛られ、ろくに食事も与えられず、見張りの兵に気まぐれに殴られ、唾をかけられたり罵倒されても仕方のない境遇であるにも関わらず……そのような状態であるのが本来のわたしたち人間であるにも関わらず、御自身の愛と憐れみのゆえに、人間としての自由と幸せをわたしたちに与えてくださるのです。
クリスチャンというのは、クリスティアヌス、ギリシャ語で神の奴隷という意味ということでしたが、これからはただ自分の罪の奴隷として苦しむのではなく、神さまの奴隷として、ただこの方にすべてを委ねて歩む人生を送れたらいいな~と、日々思う者です(^^;)
それではまた~!!
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