(マーリン・キャロザース先生の英語のHPよりm(_ _)m)
わたしがこのブログを運営している大きな目的のひとつが、マーリン・キャロザース先生の「感謝と賛美の教え」についてひとりでも多くの方にお伝えしたい……ということがありました。
でも、マーリン・キャロザース先生の大ベストセラー、「獄中からの讃美」や「讃美の力」といった本を読み返してみても(もちろん二冊とも素晴らしい本です!^^)、なかなかマーリンさんのおっしゃっていることを短くまとめるのが難しいと思いまして、「う゛~ん。う゛~ん」と思っていたところ、月刊誌『雲の間にある虹』に頼るのはどうだろうと思ったんですよね
そこで、わたしが持ってるバックナンバーの中からマーリン・キャロザース先生のメッセージのある号を探しているうちに――まずはこのあたりの文章を抜粋したらわかりやすいんじゃないかな……と思ったもので、今回から少し順番にその部分について移してみたいと思いますm(_ _)m
>>幸せな人間になれる秘訣を学ぶ
神さまはいつも、汚いドブ穴に落ち込んだ私たちをなんとか助け出したいと、その方法を探し求めていらっしゃることがわかります。
簡単なたとえ話をしましょう。いま汚いドブ穴と言いましたが、実は、その穴は、人が自分で掘ったものなのです。そのことは非常にゆっくり行われるので、自分では何をしているのか気が付きません。まるで、小さなスプーンで土をすくっては掻きだしているようにして行われています。スプーン一杯の土をすくっては掻きだす、これを一日中繰り返しているのです。そして、ついには、自分がぴったり収まるようなドブに仕上げます。
人は、一日中ぶつぶつ不平を言う理由をいくらでも見つけ出せます。そして、そのたびに思うのです。「問題ないんだよ。不平を言って当たり前なんだから!」
私たちはいつも思います。「やあ、また起きる時間が来てしまったぞ!」、「また仕事に行く時間になってしまったじゃないか!」そんなことを、口に出して言うことはないでしょうが、そう考えるのです。しかし、私たちの心は思います。「問題ないんだよ。そう考えただけなんだから」
でも、そんな時、私たちは足元の土をほんの少しずつ掻きだしているのです。そして、やがて自分がそこへ沈みこんで行くことになります。そうこうする内に、私たちは不平不満をつぶやくことのエキスパートになり、今度は、シャベルを持ち出してドブを掘るようになります。ついには、私の人生は本当に不幸せだと思うようになってしまいます。
私が子供の頃、子供と言うものは、ほとんどみな幸せだったのを覚えています。しかし、現代のアメリカでは、子供たちは簡単に不幸せになってしまうようです。だから、アメリカでの私たちの仕事は非常に困難になっています。日本でのあなた方の仕事も難しくなっているでしょう。この仕事というのは、人がどれほどドブに沈み込んだかを知り、その人をなんとか穴の上まで引っ張り上げる仕事のことです。ドブから顔を出せば、まず神さまがおっしゃることは、「もう少し上へ出るように」です。そして、神さまはこう言われます。
「主に感謝して、御名を呼び求めなさい。そのみわざを国々の民に知らせなさい」
>>神さまはもっと多くの例を示そうとなさっています。たとえば、車を運転しているとき、信号が赤に変わったら、どう思うべきでしょうか。「主を賛美しよう!」と思うべきなのです。そんな人間性をますます心の中に造るべきなのです。そんな私たちを見た人たちは言うでしょうね。「あの人、気は確かかね!信号が変わったらどうして幸せなのよ?」それは、信号が変わったからではありません。神さまがすべてのことを、私たちの益にしてくださっているからです。神さまは私たちを、特別なタイプの人間に形造ろうとなさっています。それは、いつも何か喜ぶ口実を探しまわる人間です。
人はそれぞれ、他人がこうするから自分は不幸せなんだというものを持っています。サタンが用いて、その人を不幸せにすることができるものをなにか、自分の内に持っているのです。しかし、神さまが人に求めておられるのは、たとえ自分の身になにが起きても、そのことによって幸せな人間になれる秘訣を学ぶことです。
でも、それは簡単なことに聞こえますか?私の考えでは、それは、その人がどのくらい深いドブを掘ってしまったかによるのです。それと、神さまが教えてくださった賛美のみ言葉を、どれほど真剣に学んできたかによると思います。
聖書は言います。ダビデはすべてにおいて神の御心に従う人と神に思われていたと。そのダビデは言いました。「私は心を尽くして主に感謝します。私はあなたにあって喜び楽しみます。神よ、あなたの御名をほめ歌います」
(「雲の間にある虹」、2009年6月号よりm(_ _)m)
……この続きはまた、次の【2】へまわすことにしたいと思うのですが、わたし自身、マーリンさんのおっしゃるこのことにピタリ☆とあてはまる人間です(笑)
もちろん、マーリンさんの「感謝と賛美の教え」を知ってからは、常にどんなことでも神さまに感謝し、賛美しよう!といったように変えられましたし――実際それ以前から、もともとそんなに不満や不平を心の中に持ち続けるような性格ではなかった……とは思います(^^;)
でも、こうしたポジティブシンキングタイプの人のほうが、人生上に「何故こんなことが起きたのだろう」といったことに出会う時、その鬱状態的なものが重症化したりします。けれど、さらにそこを越えて神さまに感謝し賛美する時、間違いなく問題が解決していくのを見ることが出来るというか、それに繋がる何がしかの希望が与えられたりと、新しい自分になるチャンスやきっかけが与えられたりします。
わたし自身も、自分にピッタリサイズ(笑)のドブ穴を掘って、そこでゾンビのようにうごうご(?)蠢きつつ、「なんでこんなことになったんだ!」、「こんちくしょう!」といったように思いながら、ドブ穴の壁を叩いたりしていたような気がします。
まあ、実際のところ「え?でもそれ掘ったのあんただよね??」って話なんですが、人間というのは大抵多くの人が、マーリンさんのおっしゃる何がしかのこうしたものを心の中に持っているということです(^^;)
そして、そうした場所から自分から出ることはほとんど不可能というか、とても難しい場合が多いと思うのですが、イエス・キリストにはそうした人の全員を救うことの出来る力があるのです。そのことを伝えていくのが、まさしく福音(良き知らせ)ということだと思うのですが、マーリンさんもおっしゃるとおり、「この仕事もまたとても難しい」と思います。というか、わたしたち人間のほうでどんどん難しくしていっている側面があるので、そうした力に負けてはいけないなと思わされます。
ええと、わたしきのう日暮れ時に軽く車と接触事故を起こしてしまいまして。自転車である道の歩道のところを走っていたところ、車がこっちに気づかず、普通に突っ込んできたんですね。わたしも以前は車に乗ってたので、気持ちはわかるのです。「どうせ(自転車は)来ないだろうな~」くらいな感覚で、一時停止せずに一気に車道ギリギリまでやって来ようとする人がものすごーく多いというのは。
なので、いつもそういう車が「来るかもしれない」くらいのことは頭の隅に入っているため、この時もすぐ自転車を止めたものの――この車に乗ってる奥さん(四十代くらいの方です)が、こっちの反対側から車が来ないかどうかを見てて、わたしのほうに注意を払わないんですよね。次の瞬間ギョッとしたことには、若干自転車の前輪が車のタイヤに巻きこまれつつあったということです(^^;)
でも、わたしのほうで「ええ~っ。ちょっとー!!Σ(゚ω゚)」とか思ってるうちに、ようやく向こうでも気づいたみたいな感じでした。「大丈夫ですか!?」みたいに言われて、「大丈夫です~!」みたいに言って、そのまんまです(笑)わたしがその時思ったのはとにかく、神さまに対する感謝と賛美ということでしたし、その女性のほうでも感じがいいというか、自分のほうが悪いとわかってる感じだったので、そんなことがあったのもすぐ忘れてしまいました。。。
というか、もうマーリンさんの感謝と賛美がかなりのところ身にしみているので、わざわざ「ハッ。こんな時こそ感謝と賛美だ!」みたいに思うことすらなくなってるかもしれません(^^;)
んで、そのあと某スーパーへ買い物へ行ったのですが、あるおばあさんが自転車置き場のところで倒れてる自転車を起こしているうちに――荷物を置いたスーパーのカートがひっくり返ってしまったんですね。で、そのひっくり返ったカートを起こして、「これ、持ってっていいですか?」って言ったら、「どうぞ、どうぞ」ということだったので、そのままそのカートに籠を入れて買物しました。
このこともまたどうということもないことですが、やっぱり誰かに親切に出来るのは気持ちのいいことですし、その日はそのあとずっと幸せな気持ちでいました。けれど、やっぱり神さまに感謝と賛美をするのが難しいということはあります。たとえば、かなり前のことになりますが、これも同じく自転車に乗っていて、同じように車が一時停止せずに、車道ギリギリまで突っ込んできたことがあったんですね。
この時はわたし、自転車のスピードが結構出ていたので、そのまま目の前を通りすぎたんですけど、車のほうが寸でのところで止まらなかったらぶつかっていたと思います。んで、その時には感じ悪く「ちゃんと見ろ、バカ!」みたいに三十代くらいのあんちゃん(笑)に言われたのです
まあ、普通に交通ルール(律法と言いかえてもいいかもしれません)に照らした場合、悪いのは向こうなのです。車はそこで必ず一時停止しなければいけないと決まっているからこそ、歩道を歩く人やチャリンコに乗った人は、そっちをちらっと見はしても、いちいち止まったりはしないのです。
でも、人間ってそんなものですよね。律法に照らし合わせた場合、間違いなく自分が悪いということでも、なかなか認めたくはない……こうした自分の罪をかたくなに認めたくないという罪の性質が、実際わたし自身にもありますし、そんなこんなで自分にピッタリの穴をまた深く掘っては、そこで「うごうご☆」文句を言ったりするという、人間というのはそんな生き物です。
けれど、神さまはそういう人間のすべてを救うという計画を立て、イエスさまのことを地上に遣わしてくださいました。そこで、イエスさまの救いの血潮のことを信じた人々は、自分の墓穴でそのまま死ぬしかなかったところを――彼のよみがえりを信じることで、自分もまた同じように復活することが出来るという望みを抱くことが出来るようになったのです。でした。
上の文章のほうで、マーリンさんはサタンのことにも触れておられますが、このサタン、悪魔・悪霊というのはようするに、ピッタリのドブ穴をわたしたちが熱心に掘るのを助け、またそれだけでなく、その上からシャベルで大量の砂やゴミなどを振りかけ、「ははは。ざまあみろ!これでもまだ神に対して感謝と賛美が出来るっていうんなら、やってみるんだな!」と嘲笑っているという、非常に親切な紳士です(笑)
ああ、確かにそんなよーな存在が、自分の人生でもまわりにうろちょろしてる気がする……という心当たりのある方がいらっしゃいましたら、神社へお祓いに行ったりするよりも、教会へ行ってイエスさまのことを信じたほうが、むしろ人生が上向きになるのではないかと、わたし自身はそう信じる者です(^^;)
それではまた~!!
この時(2009年)のマーリンさんの映像がこちらm(_ _)m
また、マーリンさんの音声や映像をまとめた主の十字架クリスチャンセンターのサイトがこちらとなりますm(_ _)m
わたしがこのブログを運営している大きな目的のひとつが、マーリン・キャロザース先生の「感謝と賛美の教え」についてひとりでも多くの方にお伝えしたい……ということがありました。
でも、マーリン・キャロザース先生の大ベストセラー、「獄中からの讃美」や「讃美の力」といった本を読み返してみても(もちろん二冊とも素晴らしい本です!^^)、なかなかマーリンさんのおっしゃっていることを短くまとめるのが難しいと思いまして、「う゛~ん。う゛~ん」と思っていたところ、月刊誌『雲の間にある虹』に頼るのはどうだろうと思ったんですよね
そこで、わたしが持ってるバックナンバーの中からマーリン・キャロザース先生のメッセージのある号を探しているうちに――まずはこのあたりの文章を抜粋したらわかりやすいんじゃないかな……と思ったもので、今回から少し順番にその部分について移してみたいと思いますm(_ _)m
>>幸せな人間になれる秘訣を学ぶ
神さまはいつも、汚いドブ穴に落ち込んだ私たちをなんとか助け出したいと、その方法を探し求めていらっしゃることがわかります。
簡単なたとえ話をしましょう。いま汚いドブ穴と言いましたが、実は、その穴は、人が自分で掘ったものなのです。そのことは非常にゆっくり行われるので、自分では何をしているのか気が付きません。まるで、小さなスプーンで土をすくっては掻きだしているようにして行われています。スプーン一杯の土をすくっては掻きだす、これを一日中繰り返しているのです。そして、ついには、自分がぴったり収まるようなドブに仕上げます。
人は、一日中ぶつぶつ不平を言う理由をいくらでも見つけ出せます。そして、そのたびに思うのです。「問題ないんだよ。不平を言って当たり前なんだから!」
私たちはいつも思います。「やあ、また起きる時間が来てしまったぞ!」、「また仕事に行く時間になってしまったじゃないか!」そんなことを、口に出して言うことはないでしょうが、そう考えるのです。しかし、私たちの心は思います。「問題ないんだよ。そう考えただけなんだから」
でも、そんな時、私たちは足元の土をほんの少しずつ掻きだしているのです。そして、やがて自分がそこへ沈みこんで行くことになります。そうこうする内に、私たちは不平不満をつぶやくことのエキスパートになり、今度は、シャベルを持ち出してドブを掘るようになります。ついには、私の人生は本当に不幸せだと思うようになってしまいます。
私が子供の頃、子供と言うものは、ほとんどみな幸せだったのを覚えています。しかし、現代のアメリカでは、子供たちは簡単に不幸せになってしまうようです。だから、アメリカでの私たちの仕事は非常に困難になっています。日本でのあなた方の仕事も難しくなっているでしょう。この仕事というのは、人がどれほどドブに沈み込んだかを知り、その人をなんとか穴の上まで引っ張り上げる仕事のことです。ドブから顔を出せば、まず神さまがおっしゃることは、「もう少し上へ出るように」です。そして、神さまはこう言われます。
「主に感謝して、御名を呼び求めなさい。そのみわざを国々の民に知らせなさい」
>>神さまはもっと多くの例を示そうとなさっています。たとえば、車を運転しているとき、信号が赤に変わったら、どう思うべきでしょうか。「主を賛美しよう!」と思うべきなのです。そんな人間性をますます心の中に造るべきなのです。そんな私たちを見た人たちは言うでしょうね。「あの人、気は確かかね!信号が変わったらどうして幸せなのよ?」それは、信号が変わったからではありません。神さまがすべてのことを、私たちの益にしてくださっているからです。神さまは私たちを、特別なタイプの人間に形造ろうとなさっています。それは、いつも何か喜ぶ口実を探しまわる人間です。
人はそれぞれ、他人がこうするから自分は不幸せなんだというものを持っています。サタンが用いて、その人を不幸せにすることができるものをなにか、自分の内に持っているのです。しかし、神さまが人に求めておられるのは、たとえ自分の身になにが起きても、そのことによって幸せな人間になれる秘訣を学ぶことです。
でも、それは簡単なことに聞こえますか?私の考えでは、それは、その人がどのくらい深いドブを掘ってしまったかによるのです。それと、神さまが教えてくださった賛美のみ言葉を、どれほど真剣に学んできたかによると思います。
聖書は言います。ダビデはすべてにおいて神の御心に従う人と神に思われていたと。そのダビデは言いました。「私は心を尽くして主に感謝します。私はあなたにあって喜び楽しみます。神よ、あなたの御名をほめ歌います」
(「雲の間にある虹」、2009年6月号よりm(_ _)m)
……この続きはまた、次の【2】へまわすことにしたいと思うのですが、わたし自身、マーリンさんのおっしゃるこのことにピタリ☆とあてはまる人間です(笑)
もちろん、マーリンさんの「感謝と賛美の教え」を知ってからは、常にどんなことでも神さまに感謝し、賛美しよう!といったように変えられましたし――実際それ以前から、もともとそんなに不満や不平を心の中に持ち続けるような性格ではなかった……とは思います(^^;)
でも、こうしたポジティブシンキングタイプの人のほうが、人生上に「何故こんなことが起きたのだろう」といったことに出会う時、その鬱状態的なものが重症化したりします。けれど、さらにそこを越えて神さまに感謝し賛美する時、間違いなく問題が解決していくのを見ることが出来るというか、それに繋がる何がしかの希望が与えられたりと、新しい自分になるチャンスやきっかけが与えられたりします。
わたし自身も、自分にピッタリサイズ(笑)のドブ穴を掘って、そこでゾンビのようにうごうご(?)蠢きつつ、「なんでこんなことになったんだ!」、「こんちくしょう!」といったように思いながら、ドブ穴の壁を叩いたりしていたような気がします。
まあ、実際のところ「え?でもそれ掘ったのあんただよね??」って話なんですが、人間というのは大抵多くの人が、マーリンさんのおっしゃる何がしかのこうしたものを心の中に持っているということです(^^;)
そして、そうした場所から自分から出ることはほとんど不可能というか、とても難しい場合が多いと思うのですが、イエス・キリストにはそうした人の全員を救うことの出来る力があるのです。そのことを伝えていくのが、まさしく福音(良き知らせ)ということだと思うのですが、マーリンさんもおっしゃるとおり、「この仕事もまたとても難しい」と思います。というか、わたしたち人間のほうでどんどん難しくしていっている側面があるので、そうした力に負けてはいけないなと思わされます。
ええと、わたしきのう日暮れ時に軽く車と接触事故を起こしてしまいまして。自転車である道の歩道のところを走っていたところ、車がこっちに気づかず、普通に突っ込んできたんですね。わたしも以前は車に乗ってたので、気持ちはわかるのです。「どうせ(自転車は)来ないだろうな~」くらいな感覚で、一時停止せずに一気に車道ギリギリまでやって来ようとする人がものすごーく多いというのは。
なので、いつもそういう車が「来るかもしれない」くらいのことは頭の隅に入っているため、この時もすぐ自転車を止めたものの――この車に乗ってる奥さん(四十代くらいの方です)が、こっちの反対側から車が来ないかどうかを見てて、わたしのほうに注意を払わないんですよね。次の瞬間ギョッとしたことには、若干自転車の前輪が車のタイヤに巻きこまれつつあったということです(^^;)
でも、わたしのほうで「ええ~っ。ちょっとー!!Σ(゚ω゚)」とか思ってるうちに、ようやく向こうでも気づいたみたいな感じでした。「大丈夫ですか!?」みたいに言われて、「大丈夫です~!」みたいに言って、そのまんまです(笑)わたしがその時思ったのはとにかく、神さまに対する感謝と賛美ということでしたし、その女性のほうでも感じがいいというか、自分のほうが悪いとわかってる感じだったので、そんなことがあったのもすぐ忘れてしまいました。。。
というか、もうマーリンさんの感謝と賛美がかなりのところ身にしみているので、わざわざ「ハッ。こんな時こそ感謝と賛美だ!」みたいに思うことすらなくなってるかもしれません(^^;)
んで、そのあと某スーパーへ買い物へ行ったのですが、あるおばあさんが自転車置き場のところで倒れてる自転車を起こしているうちに――荷物を置いたスーパーのカートがひっくり返ってしまったんですね。で、そのひっくり返ったカートを起こして、「これ、持ってっていいですか?」って言ったら、「どうぞ、どうぞ」ということだったので、そのままそのカートに籠を入れて買物しました。
このこともまたどうということもないことですが、やっぱり誰かに親切に出来るのは気持ちのいいことですし、その日はそのあとずっと幸せな気持ちでいました。けれど、やっぱり神さまに感謝と賛美をするのが難しいということはあります。たとえば、かなり前のことになりますが、これも同じく自転車に乗っていて、同じように車が一時停止せずに、車道ギリギリまで突っ込んできたことがあったんですね。
この時はわたし、自転車のスピードが結構出ていたので、そのまま目の前を通りすぎたんですけど、車のほうが寸でのところで止まらなかったらぶつかっていたと思います。んで、その時には感じ悪く「ちゃんと見ろ、バカ!」みたいに三十代くらいのあんちゃん(笑)に言われたのです
まあ、普通に交通ルール(律法と言いかえてもいいかもしれません)に照らした場合、悪いのは向こうなのです。車はそこで必ず一時停止しなければいけないと決まっているからこそ、歩道を歩く人やチャリンコに乗った人は、そっちをちらっと見はしても、いちいち止まったりはしないのです。
でも、人間ってそんなものですよね。律法に照らし合わせた場合、間違いなく自分が悪いということでも、なかなか認めたくはない……こうした自分の罪をかたくなに認めたくないという罪の性質が、実際わたし自身にもありますし、そんなこんなで自分にピッタリの穴をまた深く掘っては、そこで「うごうご☆」文句を言ったりするという、人間というのはそんな生き物です。
けれど、神さまはそういう人間のすべてを救うという計画を立て、イエスさまのことを地上に遣わしてくださいました。そこで、イエスさまの救いの血潮のことを信じた人々は、自分の墓穴でそのまま死ぬしかなかったところを――彼のよみがえりを信じることで、自分もまた同じように復活することが出来るという望みを抱くことが出来るようになったのです。でした。
上の文章のほうで、マーリンさんはサタンのことにも触れておられますが、このサタン、悪魔・悪霊というのはようするに、ピッタリのドブ穴をわたしたちが熱心に掘るのを助け、またそれだけでなく、その上からシャベルで大量の砂やゴミなどを振りかけ、「ははは。ざまあみろ!これでもまだ神に対して感謝と賛美が出来るっていうんなら、やってみるんだな!」と嘲笑っているという、非常に親切な紳士です(笑)
ああ、確かにそんなよーな存在が、自分の人生でもまわりにうろちょろしてる気がする……という心当たりのある方がいらっしゃいましたら、神社へお祓いに行ったりするよりも、教会へ行ってイエスさまのことを信じたほうが、むしろ人生が上向きになるのではないかと、わたし自身はそう信じる者です(^^;)
それではまた~!!
この時(2009年)のマーリンさんの映像がこちらm(_ _)m
また、マーリンさんの音声や映像をまとめた主の十字架クリスチャンセンターのサイトがこちらとなりますm(_ _)m
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