神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

何故電気が点かないのか。

2017年03月16日 | キリスト教
【大工の聖ヨセフ】ジョルジュ・ド・ラ・トゥール


 いえ、うちが突然停電になったとか、突然電気が点かなくなって困りに困った……とかいう話じゃありません(笑)


 >>からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。

(マタイの福音書、第6章22節)


 >>あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。

 隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。

(ルカの福音書、第8章16~17節)

 >>だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。

 からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。

 だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。

 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。

(ルカの福音書、第11章33~36節)


 >>わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

(ヨハネの福音書、第8章12節)


 わたしたちが何か<もの>を見る時、そこには二つの目があると聖書は教えています。

 ひとつ目は、わたしたちの肉体の目を通して網膜が像を結ぶといった形での「見る」ということと、肉体の目を通さないで見る霊的な目があるということです。

 もちろん、宗教系のものが大嫌いな方であれば、日本人の方の場合特にこの「霊的」だのいう言葉が出た時点で逃げだすかもしれません(笑)

 けれど、わたしたちが目を通して見ることには限界があり、それを越えた<視力>というのか、何かそうした「見え方」があるということに同意される方は多いのではないでしょうか。

 そして、わたしたちが夜暗くなって明かりを灯そうという時――今は普通に「電気つけて」と言いますよね。

 ところが、これが点かないとなったら、ブレーカーが落ちているのかもしれないと、多くの人がまずは調べようとするでしょう。それで異常がないとわかれば、電気会社に電話するか、あるいは夜間であれば、生活救急センターのような場所へ連絡して来てもらうかもしれません。

 大抵の場合、ここまでした時点で電力は回復する場合がほとんどかと思います。けれど、「心の目」というか、「霊的な目」のほうは、電気のようにはなかなかいかないかもしれません(^^;)

 これはあくまでたとえ話のようなものですが、人は何か実際に人生上に困ったことがあって――電気が消えてどうにもならないような時にこそ、もうひとつの目が初めて働きだす、といったところがあるのではないでしょうか。

 ある種の科学的というか、常識的手段によって人生上の困難を乗り越えようとする……けれど、普通でない以上の努力に努力を重ねてもそれを乗り越えられない時、初めて「どこかに別の手段はないか」と探しはじめ、「心の目」といったものはそうした過程で磨かれていくもののような気がします。

 まあ、このまま仏教系のお話に繋げてもいいのですが、ここはキリスト教について何か書くいう場所なので(^^;)、そちらにお話を繋げるとすると、今週(3/12)のパウロ秋元牧師のお説教をインターネットで聞いていたら、同じクリスチャンの方でも、電気の点いている人・いない人、点いていてもそれが明るい人・暗い人がいる……といったお話をされていたと思います。

 パウロ秋元牧師がされていたのと、若干主旨が違ってきてしまうかもしれませんけども(汗)、確かに同じクリスチャンでも、聖霊を受けている人・いない人、聖霊を受けていてもその働きが強い人・弱い人がいるかもしれません(パウロ秋元牧師のお話は、信仰の力を使っている人・いない人がいるという文脈だったと思います)。

 つまり、キリスト教的に霊的に健全な人というのは、信仰の力を使っていて常に明るく輝いている人――ということになると思うんですわね。

 また、マーリン・キャロザースさんがご自身のお仕事について「どうしたら神を信じることが出来るか」、ひとりでも多くの人をその光のほうへ導くことだ……といった主旨のことをおっしゃっていたと思うんですけど、マーリンさんは「神さまを讃美し感謝すること」の器であられました。

 ある意味、イエスさまのことを信じていない、神さまのことを信じていない人というのは、霊的に暗い、あるいは科学的な力による電気が消えてしまえば、神さまに頼って他の明かりを点けていただく手段を持たないかもしれません。

「信仰の力を使っていて、常に明るく輝いている人」――というのは、人生上にとてもいいことがあって、明るく元気にるんるん♪と人生の道を歩んでいる人……という意味では実はなかったりします(^^;)

 もちろん、イエスさまを信じていて、人生を祝福され、毎日人生を明るく元気にるんるん♪と歩んでおられる方もたくさんいらっしゃるとは思います。けれども、キリスト教界には人生につらいことや苦しいことや悲しいこと、やりきれないことがたくさんあって、ようやくイエスさまに導かれて信じることが出来た……という方も本当にとても多いですよね。

 つまり、わたしたちが人生で孤独で惨めでつらく苦しく、こんなんで生きていて何になるだろう――という時にこそ、霊的な信仰の目が開かれて、そのような時であるからこそ、神さま、イエスさまのことをもっとも身近に感じて幸せでいることが出来る……この場合の光というのは、霊的な光ということですので、わたしたちが普段目にしている100Wの電球が輝いているといったような「見え方」とはまるで感じの違うものです。

 わたしたちが孤独で惨めでつらく苦しい時にこそ、信仰の光がますます強まって、それが心の世界をくまなく照らし、目に見える光ではなく、そちらの光をずっと見続けて人生を歩む人こそ、「霊的に健全である」人ということではないでしょうか。

 そしていつか、わたしたちの電気……いつでも、パチッ☆とスイッチを押せば点くと思っていた光はいつか消えます。けれど、目に見える形の電気が消えても、生きている時から霊的な光のほうを一心に見つめてきた人というのは――<生>という明かりが消えても気づかず、生から死へと移るのではなく、生から第二の生へと自然に移行するという、ただそれだけなのかもしれません。


 >>ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。

(ルカの福音書も、第9章27節)


 それではまた~!!





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