神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

人生の「旬」。

2020年11月13日 | キリスト教

 一般的に、「人生の旬」がいつごろかと聞かれて人が思うのは――たぶん、10代とか20代頃のことではないでしょうか。

 もちろん、「いやいや、わたしにとって10代20代などは全然ヒヨっ子で、30代になってから、さらには40代の今こそが最盛期といった感じがするね」といった方や、「65歳で定年退職して、悠々自適な生活を送っている今こそが、わたしにとってはまさしく人生の旬といった感じがするよ」という方など、意見は様々あるでしょう。

 ところで、ここはキリスト教に関して何か書くといった主旨のブログなので(しつこい☆笑)、クリスチャンに関して言うとするなら――わたしたちキリスト教徒の「人生の旬」というのはまさしく、死後にやって来るといっていいでしょう。

 つまり、これも前にどこかで書いた気がするのですが、この世で起きる出来事をアルファベットでたとえるとしたなら、ほんの「ABC」程度のことしか起きてなく、死後の「DEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ」……という、この部分こそが死後のわたしたちの永遠の現実であるということです。

 これはキリスト教の教義ではそうだ、というよりも、聖書全体を読み、教会などで教えを受けたりしていて、「おそらそういうことなのではないだろうか」とわたしが思っていることなのですが、仮に誰か、ごくほんの小さい頃、あるいは2~3歳くらいの物心もつかない頃に亡くなったとしても――すべての人が死後に経験するのが、現世での「ABC」を抜いた、「DEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ」の部分である……というのでしょうか。

 つまり、人が仮に2~3歳で亡くなったにしても、15~16歳で亡くなったとしても、27~28歳で亡くなったとしても、(若くしての死というのは、言葉に尽くせないくらい痛ましいものですが)、死後の人生であるD~Zの訪れに関しては、すべての人に等しく平等であるということです。今の現世で起きることはいつかは終わり、それはほんのABCの入門編、あるいはほんのイロハの初級編……といったところであって、死後の世界にこそ、D~Zの素晴らしい、本格的な人生の幕開け――永遠の現実が待っているわけです。

 また、だからといってABCの現在の現実界で起きることをおろそかにしていいということではなく、いずれ死んでのち、D~Zの世界を生きるにしても、生前の行いがまったく無関係で関係ない……ということではないようです(あ、あくまでもこれは、キリスト教においては、ということであって、こうした考え方よりも、人は死後輪廻転生する……という死生観のほうが受け入れやすい方もいらっしゃると思います^^;)。

 さらに、キリスト教における(日本人に評判の悪い・笑)教義として、「すべての人は死後に最後の審判を受けなくてはならない」と聖書にあるわけですが、イエスさまのことを信じている者は、イエスさまが神の御子であることを告白するだけで――あるいは言い方を変えるとしたら、空港でダイヤモンド会員の人が並ばずに荷物検査を受け、優先的に別の搭乗ゲートからファーストクラスでゆっくり休むように、イエスさまを真実信じている人々は、フリーパスによって天国の門をくぐれるわけです。

 では、生前にイエスさまのことを信じる機会のなかった人々はどうするんだ、そんなの不公平じゃないか、との議論が当然生じるでしょう。神さまはこの宇宙や全世界を造った御自身がお持ちの主権性によって、「すべての被造物をどうすることも出来る」権利のある、唯一のお方です。その方が、「わたしのひとり息子であるイエス・キリストを信じる者は、天国の門をなんの代償も支払わず、通れるようにしてあげよう」という特権を与えてくださっているのです。

 おそらく、この世界の全キリスト教徒は、「すべての人がこの神さまの特権に与ることが出来るよう」、「すべての人がイエスの御名によって救われますように」と祈っていると思うのですが、「誰が救われて救われないか」といったことは、実際天国へ行ってみなければわからないことではないでしょうか(^^;)

 そのですね、キリスト教では死後にもすべての人の意識は永続する……と教えており、イエスさまのことを信じていない、あるいは信じる機会のなかった方は、その全員が「神の裁きの座」に着き、最後の審判を受けなくてはいけない、とされています。

「えーっ、なんだよ、それ。アフリカの伝統を守って生きている原住民とか、北朝鮮の人々とかはどうするんだよ」みたいな話とは、わたしも思います。でも、わたしはあくまで末端中の末端の、一クリスチャンなので、死後の細かいことについてまでは当然わからないわけです。

 こう聞くと、何やら不平等であるように聞こえますが、「神さま、イエスさまが公平な方」というのも本当のことですし、そうしたすべてのことについて、死後には誰もが「納得できるアンサー」のようなものがあるのではないか……と、漠然と想像するばかりです。

 とはいえ、そんな死後に「あるかどうかもわからない」世界について生きている間に信じるだなんて――ある人々にとっては非常に馬鹿げたことだというのも、十分理解できます。そうした方々にとっては、生きている間だけがこの世の<旬>であり、さらにはその<旬>というのも極限られた期間に限定されるものなのではないでしょうか。

 わたし自身は、ある部分ものすごく単純なバカなので(笑)、「死後こそに最高の人生の<旬>がやって来るのか。そいつはすごいな!」といった感じなのですが、このあたり、もしかしたら人間的に知恵があって、賢い方のほうが、信じることが難しいかもしれません。

 また、「神は霊です」と聖書にはあり、教会でイエスさまのことを信じる告白をし、聖霊のバプテスマを受けると――わたしの中に聖霊さまが内住なされ、そのことによって霊は「イエスこそは主」と告白するようになり、絶えずそちら側に霊は引っ張られるような状態となります。

 この、絶えず聖霊さまの側に引っ張られるような力、というのはわたし個人の感覚ですけれども、イエスさまを信じて以降、「この世の側」に引っ張られる力があまりに強く、そちらのほうに聞き従おうとした場合……おそらくその間、聖霊さまの力は弱まります。また、その状態を長く続けていると、自分がイエスさまによって救われる前とあまり変わらない状態に逆戻りすることもあるでしょう。けれども、いつでも、どんなことも神さまに感謝し、祈り、聖書を読み、礼拝を守る――といったように、聖霊さまの声に聞き従おうとするなら、「これは明らかに、わたしがイエスさまを信じていなかったら、到底起きえなかったことだ」という人生が、必ず新たに開かれてくると思います。

 つまり、今現在わたしたちが生きている現実の世界でも、イエスさまとともにあって常に「人生の旬」を味わい、さらに死後には、それを遥かに上回る、素晴らしい「人生の旬」が再び訪れることが約束されているということなのです。

 どうか、すべての人が、主イエスの十字架を信じ、地上においても天上においても、溢れるばかりのこの神さまからの祝福と恵みに与ることが出来ますように!

 それではまた~!!



 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 地獄って、どんなところ?~... | トップ | 神さまの勝利。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事