神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

主にある経済的祝福。

2019年01月23日 | キリスト教


 >>私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

(ピリピ人への手紙、第4章12~13節)


 ゆりかごから墓場まで……とはよく言ったもので、人はオギゃー☆と生まれたその瞬間から、自分で自覚しなかったとしても、経済的な活動をすでに始めている気がします。

 そして、死ぬのもただではない、という意味で、生まれてから死ぬまでのすべてが経済活動と密接に結びついている気がするんですよね(^^;)

 クリスチャン、キリスト教徒というと、質素・清貧を旨とし、贅沢をする、無駄遣いをするだなんて、まーとんでもない!といったイメージがあると思うのですが、確かにそうした部分もありつつ、今はこうした時代というか世の中ですから、一般的に「必要最低限」の必要を満たそうとしただけでも、それは月に結構な出費になると思います

 聖書には、十分の一献金(十一献金)ということが書かれてあり、これは収入の十分の一を主に捧げる(教会などに捧げる)ことであり、イスラム教ではこの献金に当たるものを喜捨と呼ぶのかなって思います。

 確かに、神さまへの捧げ物というのは、それが賛美でも献金でもなんでも、喜びつつ行なう、喜んで捨てるというか、そういう気持ちが大切なのかなって思うんですよね(あ、ちなみに十分の一献金というのは聖書的原則であって、礼拝中の献金はそれぞれ神さまの御心と感じた金額を捧げるものなので、必ず十分の一、と決まっているわけではありません)。


 >>十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、
 わたしの家の食物とせよ。
 こうしてわたしをためしてみよ。
 ――万軍の主は仰せられる――

 わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、
 あふれるばかりの祝福を
 あなたがたに注ぐかためしてみよ。

(マラキ書、第3章10節)


 その、自分的にクリスチャンになってから、この献金ということを自然にはじめて、何か損をしたということが実は一度もないのです。

 実をいうとわたし、「十一献金、十分の一献金」と心がけていながらも、十分の一に満たない献金ということが多かったりするのですが(汗)、それでも主の祝福はわたしが喜んで捧げた時に、十分すぎる形をとっていつも返ってきました。

 天の窓は本当に開くのです。

 つまり、もしわたしが一月に6,000円捧げたとしますと、何かの形で一万円くらいの収入がどこかから入ったり、ちょうどその6,000円が戻ってきたりして、自分でもあとから思うんですよね。「あれ~?主は不思議なことをなさるなあ」みたいに。

 経験的に、大体神さま、イエスさまに捧げたものは、そのまま同じものが戻ってくるか、それ以上のものが返ってくるというのを自分的にはよく経験しています。

 じゃあ、捧げたものが戻ってくるなら、何故神さまは献金しなさいとおっしゃるのか……ということになるかもしれません。わたし自身は、教会でイエスさまと出会って以来、「この方こそ本当の神さまだ!」ということがわかり、献金するというのはとても嬉しいことでした

 最初から十一献金を守っていたわけでもないですし、あるいは「十一献金したいけど、今月は経済がちょっと苦しい」といった時には、「自分なりに」献金するっていうことになりますよね。

 それでも神さまは必ず祝福してくださいましたし、わたしにとって献金というのは、「イエスさまのため、神さまのために少しばかりでも何かできる」、「捧げることの出来るものがある」という意味で、とても嬉しいことだったのです

 もちろん、神さまというのはこの世界を創造された方ですから、神さまからいただいたものをそのままお返しするということでもあるわけで、わたしたちが献金したから神さまが何か得をされるというわけでもなく……献金する時のわたしたちの<心>をご覧になるわけです。

 また、献金と同じく、イエスさまに聖霊さまを通して祈っていて損をしたということが一度もありません。ですが、祈ることにしても献金することにしても、神さまにある喜びがないと、「祈ったからってなんになるの?」とか、「給料のうち十分の一も献金するより、それ貯金したほうがよくない?」といった意見もあるとは思うんですよね。


 >>私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。

 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。

(ピリピ人への手紙、第4章17節)


 そうなんですよね。神さまからの霊的祝福というのは、お金では絶対買えません。

 そして、「神の国と神の義を第一とせよ」という神さまの求めておられることを実践する時……わたしたちの必要はすべて満たされ、それらの収支を償わせてあまりある霊的祝福までもが注がれていくのです。

 個人的な祈りとして、何かの被災者の方、あるいはホームレスの方のことなどを祈る時には、この霊的祝福ということを祈るのと同時に、他に経済や生活、現実の現金といった必要も与えられるようにと祈っています。

 霊的祝福というと、何か偽善的に感じられるかもしれませんが(笑)、そのように「すべてのことが<有機的に働く>」って、とても大切なことだと思うのです。


 >>主はこう仰せられる。

「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、
 心が主から離れる者はのろわれよ。

 そのような者は荒地のむろの木のように、
 しあわせが訪れても会うことはなく、
 荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

 主に信頼し、
 主を頼みとする者に
 祝福があるように。

 その人は、水のほとりに植わった木のように、
 流れのほとりに根を伸ばし、
 暑さが来ても暑さを知らず、
 葉は茂って、
 日照りの年にも心配なく、
 いつまでも実をみのらせる」
 
(エレミヤ書、第17章5~8節)


 何故といって、お金だけあっても「幸せに出会うことはない」としたら……それは何かとても恐ろしいことのような気がします。

 以前、何かの本で、家賃や光熱費といった生活の必要の他に、貯金もして他の人にも少しばかり分けてあげられること(慈善団体への寄付など)――それが経済的に健全な状態だ、といったように書かれていた記憶があります。

 けれども、自分的にはやはり、それだけでは足りない気がするんですよね(^^;)

 神さまからの霊的な祝福を求めましょう!イエスさまはわたしたちのために、「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ人への手紙、第8章28節)方であり、良いものを決して拒まれず、むしろこ上もなく豊かに与えてくださる方なのですから。

 ただ、この神さまの霊的祝福を受けるには、ちょっとしたコツがいるかもしれません。

 個人的に、一番の早道はやはり、マーリン・キャロザース先生の「すべてのことを神さまに感謝し賛美する」、「良いことも悪いこともすべて神さまに感謝する」という神さまの原則、教えを実践することかなって思うのですが、祈ることの祝福、献金の祝福はこうしたことすべてと結びつき、有機的に働くことで――日々の信仰生活がますます喜びで溢れていくという良い循環が生まれる……と、自分としてはいつもそのように感じています♪

 それではまた~!!





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