神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

シロクマのことを考えない。

2019年10月10日 | キリスト教
【※くまモンの親戚ではありません!(笑)】


 先日、某本屋さんにて、ある本をぱらぱら☆めくっていたところ、大体次のような内容の文章が目に飛び込んできました


 >>「シロクマのことを考えてはいけない」と言われた人々の多くが、その後たびたびシロクマのことを考えずにはいられなかったという実験結果がある。

 これはどういうことかというと、ある悩みや苦しみについて、考えまい考えまいとすればするほど、むしろそのことを考えてしまうという人間の思考の矛盾を示している。

 では、我々はこうした自身の苦しみや悩みをどうすればいいのだろうか。ある心理学者はこう言っている。その自分の苦しみや悩みを一歩引いたところから眺め、冷静に観察し、受け容れることだと。そして、受け容れることなしに苦しみや悩みから解放される術はないのである。


 ――これ、一見もっともそうに聞こえますよね(^^;)

 というか、何か自分に悩みや問題があって、心理学系の本を手にしたことのある方なら、まあお馴染みの解決方法というやつです(苦笑)。

 でもわたしはこうした悩みや問題の解決法みたいのに出会うたび、こう思ってきました。

「いや、そうでなくってさあ。もう聞き飽きて耳にタコが出来てるそんな理論上の解決法でねくて、オラが聞きてえのはもっと具体的な解決法ってやつでさあ」と。

 それで、ですね。ここはキリスト教に関して何か書くというブログですから、「問題解決の鍵はイエス・キリストにある」、「イエス・キリストこそ悩みからの解放をもたらしてくださる救世主(メシア)である」、「何故ならイエス・キリストは信じる者に聖霊を送ってくださり、聖霊を通した祈りによって我々の問題のすべてに相談にのってくださり、解決を与えてくださる方だからである」……といったことは前にも書いた気がするので、この部分については今回はとりあえず深く掘り下げませんm(_ _)m

 究極の問題解決の鍵を握る方は神である、イエス・キリストである――というのは、クリスチャンにとっては当然のことです。それでも日々生じる脳内のゴミのような悩みや苦しみの数々について、マーリン・キャロザースさんの「(神さまへの)感謝と賛美」によってすべてを感謝するという対応をしていても……問題や悩みに捕われてしまう「囚われの心理」という悪循環というのがあると思うのです。

 それはたとえば、「イエスさま、このことを感謝します。この心理的苦痛や悩みを感謝します。また、あなたがこのことを必ず解決し、益としてくださることを賛美します」と祈りながら、あるいは祈り終わったすぐそばから……わたしたちは不安や恐怖に囚われ、ガクガクと震えだす、といったようなことです。

 では、わたしたちはイエスさまのことを信頼していないのでしょうか?祈っているのに心に平安を感じないとしたら、わたしたちの信仰心が足りないことを示しているという、そうしたことなのでしょうか?

 これはあくまで、わたしが思うに――ということなのですが、そういう場合もあるにしても、多くの場合は違うような気がします(^^;)

 たとえば、脅迫神経症や不安神経症といった病いの方など、こうした病いからの解放を祈っていても、やっぱり脅迫的な症状や不安を感じる気持ちが抜けていくというのはなかなか難しいことなのではないでしょうか。

 こうした場合、主がその病いをその方に許している……というよりも、自分から自分の病いの症状をぎゅっと握りしめている、イエスさまからいくら「それを離しなさい」と言われても、「わたしには出来ませんから、あなたが離すようにしてください~」といったような矛盾や悪循環があると思うんですよね。

「だから、離しなさい。そうすれば癒されます」、「いえ、この自分の病いを離せないというのがわたしの病気なんですから、イエスさまが離すようにしてくださらないと」、「だから、それはあなたが離さなくてはいけません。自身の意志で決めてそうするのです」、「いえ、出来ません。離せないことで苦しみ悩み、痛んでいるんですから、イエスさまがこれをどうにかしてください~!!」……というわけで、いつまでもぐるぐる同じような場所を巡っていなくてはならないわけです。

 神さまによる癒しには、自分で祈ったり、あるいは所属する教会の方や牧師さんに祈っていただく、さらに癒しの賜物を持つ方に祈っていただくことで、ある瞬間完全に癒されるということもあると思うのですが、ある場合は「段階的に」、「時が来た時に」癒されるといったパターンがあると思うんですよね(^^;)

 けれども、それが病いでなくても、自分の悩みや苦しみや問題をぎゅっと握っていて、神さまが「離しなさい」と言われていても、「いや、離せない。だって、離せないことで悩んでるんだもん!」といった場合……言われるのは大体、「すべてをイエスさま、神さまに委ねることを学びなさい」ということだと思うんですよね。

 こうして、「シロクマ(悩みや苦しみ、病いの症状)のことを考えるな」と言われれば言われるほどむしろシロクマについて考えてしまうという悪循環にわたしたちは陥ってしまうわけですが――基本的にはイエスさまに信頼しつつ、聖霊さまを通して祈り、すべてを感謝し委ねるという方針に沿いつつも、ちょっとした心理的・精神的補助として、個人的には次のようなことを考えます。

 つまり、わたしたちの脳は毎日、色々なことを考えて選択することに忙しいわけですが、もしわたしたちになんの苦しみや悩みもない時、この<自由>はおそらく喜びそのものでしょう。

 もっとも、クリスチャンはイエスさま、神さまのことを第一にすることでこの自由をお捧げしているわけですが……それでも毎日、何かのことで選択する自由はあり、特にこれといって何も体の不調もなく、精神的に悩みもないなら、そうした一連の思考というのはわたしたちにとって楽しみであり喜びでしょう。

 そして、こうした精神過程をパソコンのブラウザに例えますとですね、わたしたちは結構一度に色々なことを考えていると思います。たとえば、学校の授業、あるいは職場で誰かの講義を聞かなくてはいけないといった場合――その人の話に集中しなければいけないと思いつつ、その日の晩ごはんについて考えたり、この講義が終わったら何食べようと思ったり、その他脳にへばりついて離れない悩みごとや苦しみや不安があるなら、絶えずそのことばかり考えていることでしょう。

 つまり、△□先生の有難いお話について聞きつつ、その要点について頭の中でまとめたり覚えておこうとする一方(第一ブラウザ)、「ただじっと座ってるだけで腰が痛い。この腰の痛みさえなければ俺の人生バラ色なのに」(第二ブラウザ)、「今日の晩ごはんハンバーグにしよう。ええと、帰りにスーパーへ行って、あれとこれとそれを買って……」(第三ブラウザ)、「どうしよう。誰も僕のことなんて見てないってわかってるけど、視線を針のように痛いと感じる。この講義か終わったらすぐにここから飛び出て家へ帰らなきゃ」(第四ブラウザ)……などなど、色々な思考が次から次に、あるいは同時に浮かび上がっては何気なく消えていくか、選択肢の先へと進んで別の事柄に考えというのは移っていくと思います。

 個人的に思うに、とりあえずこの中で一番症状として深刻なのは第四ブラウザと思います(^^;)というのも、わたしたちが悩んだり苦しんだりすることの中で、一番深刻なのはやっぱり、通奏低音のようにそのブラウザだけは常に開いていて、それと同時に別の大切な意志決定も行わなくてはいけない時だと思うので。。。

 割とわかりやすく言いますと、息子が今日、△□大学を受験する、娘が今までの人生すべてを賭けたような大切なスポーツの試合に出る――といった時、何かの事情でどうしても仕事を休めなかった場合、仕事をしながらも頭の中はそのことでいっぱいですよね。

 ところがですね、これはあくまでたとえ話ですので、息子さんの試験は一日か数日で終わって結果の出る日がやがてやって来るでしょうし、娘さんのスポーツの試合結果というのも、いずれはわかります。でも、ある悩みや苦しみに囚われている「囚われの心理」にある方というのは……ほぼ、「これがいつ終わるかわからない。いつか終わるにしても、そんな日が本当にいつかやって来るとは到底信じられない」といった種類のことで悩み苦しんでいるわけです。

 そのですね、これも答えとしては「あー、ハイハイ☆」に属すものとは思うのですが……自分の悩みや苦しみを引いた位置から眺めてあらゆる角度から客観的に観察し、受容したつもりでもどうにもならなかったといったような場合――とりあえずそれはそこにそのまま置いておくしかないです。問題をぎゅっと握ってる手を緩められないなら、ぎゅっと握っているしかありません。だって、他にどうしようもないんですから。

 でも、そのことにだけ集中してるのは不健康です。気を紛らわせたり、心の支えとなるべき何かがわたしたちには必要ですから、イエスさまに聖霊さまを通して祈り、自分に許された問題を感謝したそのあとは……何か別のことをしたほうがいいと思います。

 つまり、何かのことで悩み苦しみ、常に第一ブラウザから不吉で不気味が通奏低音が聞こえてきているといった場合――そのことと平行して、(心の中はノイローゼ状態でも)人から不自然に見られないよう会話したり(第二ブラウザ)、人からおかしく見えないよう気を使いつつ仕事したりと(第三ブラウザ)、通奏低音を聞きつつ、こちらの「まともな人間に見られるために肝心な」主旋律のほうをわたしたちは意識して奏でていなくてはなりません。

 それで、思うのですよね。この不吉で不気味な通奏低音さえなかったら、自分はどれほど優雅に主旋律のほうを奏でることが出来るだろうと。そして、神さまに通奏低音が聞こえてこないよう毎日祈っているのに、何故か消えていかない……消えていかないなら、その音がなるべく主旋律を邪魔しないよう努力するしかありません。

 こうした種類のことで、「毎日一切なんの通奏低音が聞こえることもなく快適かつ幸せに暮らしている」方というのは、そこらへんにいくらでもゴロゴロ☆転がっているということはなく、多くの方が大なり小なり似たようなことでは悩んだり苦しんだりしています。

 ただ、自分の趣味の世界に没頭したり、何かの運動をしたりすることで、通奏低音がまったく聞こえない時間をなるべく長く持ったり、気を紛らわせるといった人生上のコツというのは確かにあると思うんですよね。

 つまり、祈りなどを通してイエスさまに問題の解決を求めるのと同時に、他に何が自分にとっての癒しとなるかの道を探すのもひとつの手だと思います。わたしもそうですが、もともと若い頃からあまりスポーツに興味がなかったため、その後鬱的症状を抱えるようになった時も、結構運動する力といったもののことは馬鹿にしていました(^^;)

「運動するだって?そんなことしたからって、わたしが今抱えている悩みや苦しみに一体どんな影響があるだろう。体を動かしたって、無駄に疲れるっていうそれだけさ。フッ……」みたいな精神状態っていうんですかね(笑)

 それでも、自然散策するのは大好きでしたので、北海道に住んでいることもあり、車で一時間も飛ばせばそこは、携帯の電源が入らない地帯となり――そんな場所で森の中を散歩したり海を見て読書したりといったことで、随分そのことが癒しとなり、そんな折によく「イエスさま、感謝します」と祈ったりして帰ってきたものでした。。。

 さらにその後、随分経ってから、スポーツというか、「体を動かすことの精神に及ぼす有用性」といったこともかなりわかってくるようになりました。まあ、なんとも「やれやれ。随分理屈っぽい言い方だな」という話ですが(笑)、わたしたちの脳というのは常に、何かの新しい情報を欲しています。同じ悩み・苦しみのぐるぐる☆状態というのを、わたしたちの脳自体も古い情報として処理するのに飽き飽きしてるんですよ。

 そこで、ですね。この脳というやつに新しい感覚情報というのをなるべく次から次へと入れてやる。たとえば引きこもって同じことを何度もぐるぐる考えていたりすると、扁桃体が過活動を起こして良くないと言いますし、脳が回路として朝起きてから夜寝るまで同じことでぐるぐる悩むという習慣をすっかり覚えてしまい、さらにそれを強化するよう動くなら……やっぱりここに、新しい別の情報を入れてあげるのが理屈としては一番いいと思うのです。

 わたし、マラソンとかは「体にいい」ことはわかっていても、いまだにしたいとは思いませんけども(笑)、唯一、歩くことと自転車に乗ることは好きでした。で、走るんじゃなくて歩くのだったら、普通の人よりもかなり長く歩けてしまえますし、自転車も走りすぎて何度パンクしたかわからないくらい市の端から端までをよく走ったりしていました

 それで、脳が悩みに一点集中して、太陽がレンズを通して紙を燃やすというくらい悩み・問題にフォーカスするよりも――脳にそれ以外の別のことを考えさせるってとても大切だと思います。この場合、「わたしという意識」と「わたしの脳の働き」は別ものだと考えてみるとわかりやすいかもしれません。「わたしの脳」というやつはですね、とにかくいつでもなんかしらの情報と、それをあらゆる角度から眺めあれこれ分析することを繰り返すという習性があります。そしてそういうものがないと、今度「わたしの脳」というやつは思いだしたくない過去や負のレガシー(笑)とも呼ぶべき、それに伴う感情のほうを検索しだすのです。そうなるとまた悩みと苦しみのぐるぐる☆が強まるわけですから、ここの繋がりを弱めるためには、「わたしの脳」に常になんかしらの新しい情報というやつを与えてやらねばなりません。

 わたし、自転車で走っていて何が楽しいかっていうと、行ったことのない場所の家並みや景色を眺めるということがほんとに好きです。それで、ですね。自転車であちこち行って帰ってくると脳と体がスッキリしていい気分転換になるのですが……このことを繰り返しているうちにふとあることに気づきました。よく頭の中に、そうした時に見た「ある瞬間の景色」というのがパッと浮かぶことがあるのです。もちろん、それはわたしにとって「なんとなくいい感じ」くらいに記憶されたいくつもの断片のひとつにしか過ぎません。そしてそうした断片がよく頭に思い浮かぶのですが、それらには特にそれほど「深い意味はない」ということが「わたしの意識」にはわかっています。

 そして、ちょっとだけ「しめしめ☆」と思って主旋律だけをその間大きな音で楽しみます。なんでかっていうと、「わたしの脳」は新しく得た情報を分析・分類するのが大好きで、そうしている間は変えられない過去のあれこれについてや、今現在抱えている問題で、考えても仕方ないのに繰り返し悩んでしまうといったことに集中してフォーカスする、ということがなくなるからなんです。

「よしよし、わたしの脳には意味のない景色の分析・分類をやらせておいて、「わたしの意識」のほうは今こそ、主旋律を十分楽しむぞ!」というのでしょうか。。。

 もしかしたら言っている意味、わからないかもしれませんが(汗)、わたしにしてもこうした方法によって不吉・不気味な通奏低音が一切聞こえなくなるというわけではありません。今も意識をそちらに集中するなら、それらは主旋律を圧するまでに大きくなる可能性が大いにありえます。

 けれども、このあたりのコツ☆がある程度わかってくると――通奏低音が一切聞こえない人生などありえないし、あいつらもいればいたでそれなりにいい味になる……くらいのバランス感覚のあるということが、もしかしたらわたしたち人間の脳にとっては「健全」ということなのかもしれません。

 悩み・苦しみ・問題という負のスパイラルにある方に、何かの参考になればと思って書いてみたのですが、「それでもシロクマのことを考えてしまう俺/私はどうしたらいいんだ。ううっ」ということもあるとわかっているつもりです。

 その際にはやはり、イエスさま、神さまだけがわたしたちの頼るべき最後の巌と思い、ともに涙しつつ熱く祈りましょう!!

 それではまた~!!





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