
ある程度の年齢に達した大人の方なら――「本当の自分だって?そんなもん、どこにもいねえさ。今目の前にいる自分だけがすべてだ

でも、ここでテーマとして書きたいのはいわゆる「自分探し」といったことではなく、確かに「本当のわたし」と「そうでないわたし」というのは存在しているものなのではないでしょうか。
たとえば、休日に趣味の世界に没頭している時だけ、自分は「本当のわたし」になれていると感じる方は多いでしょうし、会社では自分はただの働くロボットのようだが、会社の同僚や上司でなく、友達や家族、あるいは恋人といる時だけ自分は「本当のわたし」になれている気がする……といったようなこともよくあるような気がします。
他に、引きこもりの息子さんから暴力を振るわれているといったことがあった場合――お母さんはこう思うと思います。「本当のこの子はこんな子じゃないのに」といったように。そしてこの場合、息子さんの考える「本当の俺」とお母さんの考える「本当の息子」の姿の間には違いがあるかもしれないので……親子の間でそれを埋めていく作業というのが必要になるかもしれません。
実際、自分が「本当のわたし」でいられる時間というのは、一日の中でとても少ないという方というのは多いのではないでしょうか。人にはやっぱり、そのシチュエーションによって演じなければいけない社会的役割というのがあって、まあ、いわゆるペルソナというやつですよね(笑)そうした社会的仮面をつけて、その場その場の空気をそれなりに読んで、本来の自分とは違う「他のわたし」を演じているということは結構あると思います。
>>肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
もし私たちが御霊(聖霊)によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
(ガラテヤ人への手紙、第5章19~26節)
>>この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ人への手紙、第12章2節)
と、聖書にはこうあるわけですが、今は割とこの<この世アレルギー>にかかっている方って、多いのではないかという気がします。
わたしが初めて某会社で社会人として働きはじめた時……花粉アレルギーの人が花粉を恐れるかの如く、「出来るならそうなりたくない(この世アレルギーになりたくない)」といったような願いが直感的にあったような覚えがあります。
そして、二十二、三歳になった頃にはもうわかっていたと思います。(もしわたしが男だったら)週に正社員として最低40時間以上働き、喫煙所で煙草を吸いながら同僚の馬鹿話に同調し、飲みに誘われたら、嫌でもたまには応じて、下ネタ話のひとつも出来ること――どうやらそれが「大人」というものらしい、といったように。
わたし、その頃はまだクリスチャンでなかったのですが、この流れに仮にもし沿っていけないのだとすれば、かなり苦しいことになるだろうな……というのは漠然とわかっていました。
また、「そうとわかっているが、この世の流れに適応できない

でも、わたしもそうですが、問題は大体「仕事」そのものじゃないんですよね(^^;)
わたしもいくつかの仕事を経験してきましたが、「仕事」自体が嫌で辞めたということは、ひとつかふたつくらいだと思います。やっぱり、問題は「人」なんですよね。そこに躓いて「仕事は好きだけど辞める」とか、なんらかの対人トラブルやその予兆を感じとって辞めるなど、そうしたことがありました。
でも、人が評価するのはそこではないというか。「世の中どこ行ったってそんなものだよ


けれども、わたしがまだノンクリスチャンであった頃は、こうした事柄について「神さまはどうお考えになるのだろう」なんて、思ってみたこともありませんでしたが(神さまというのは、人間ひとりひとりのそんなちっぽけな悩みをいちいち顧みていられるほど暇じゃないと思ってましたから)、でも、聖霊さまに相談するようにお祈りすると、イエスさまはそのような人間のちっぽけな悩みでも聞いてくださる方なわけです。
クリスチャンの方の証しの中でも「神さまの御心のアルバイトが与えられますように」と祈りつつ、面接へ行った……といったお話というのがあるわけですが、なんにしても、神さまはわたしたちのこの世の仕事よりも、御自身の「神の働き人」となる人のことを求めておられて、また同時にその両方がわたしたちに必要であるとの事情もわかっておられ――そして、神さまの御元にある時、それは365日、24時間、あるいは毎分毎秒、わたしたちは常にいつでも神さまの御前には「本当のわたし」以外の誰でもないし、また他の誰になることも出来ないわけです。
<この世>という場所と適応して生きていこうとする時、どのくらい適応できるかは、「いかに自分を誤魔化して適応するか」にかかってくると思います。そして、六十五歳で退職するまでの間、「家族のためと自分を誤魔化し、どうにか退職するまで働けてよかった

でも、<この世>という場所が、「いかに自分を誤魔化し他人と同調するか」を社会人として問われる場であるのに対して、神さまの御前には一切なんの誤魔化しも通用せず、人は裸の魂のままで出ていかなくてはならない……わたし自身はそのことはものすごい救いであるといったように、今もとても感じています(^^;)
でも逆に、<この世>という場所にバッチリ適合して生きられるし、そのことが楽しいといった傾向が強い方の場合、神とか死とか裁きとか、そうしたことをあまり考えたくない――といった傾向が強いかもしれません。ただ、<この世>とうまくやれてる方の場合でも、死後の生ですとか、神さまは本当にいるのだろうかといったことは考えておられ、そうした部分は仏教や哲学の思想などを借りつつ、自分なりにバランスを取っている……といった方もたくさんおられると思います。
たぶん、わたしがキリスト教を好きなのは、自分の性格の傾向とも合ったという部分もあるかもしれませんが、わたしがノンクリスチャンだった頃は、「死後の意識は暗闇のような無である。でも、それがいいし、そこが死のいいところだ」といったように思っていました。自分という意識が消滅すれば、あれこれ悩んだり考えたりすることがようやくなくなるわけですから、それで十分だと思っていたのです。
けれども、キリスト教ではイエスさまを信じている者は天国へ行けるのです。それでわたし、もし病気などで死を間近に感じたとすれば、その時は恐れ慄くと思うのですけれども、死んだあとの天国や、イエスさまとある喜びのことや、あるいは聖書に記述のある天国のことを想像しては――いつかそうなる、いつか人はなんの誤魔化しもなく、いつもいつでも、「本当のわたし」である時が来るというのが、とても楽しみなことのように思えてきました。
人の死生観は様々ですので、わたしも自分のそれを人に押しつけようとは思いませんが、もし通りすがりのノンクリスチャンの方などが「まー、そーゆー考え方もあるか☆」と思っていただければ、十分嬉しく思います♪

それではまた~!!

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