神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

アダムとエバ。

2018年04月18日 | キリスト教
【楽園のアダムとイブ】ピーテル・パウル・ルーベンス


 ロシア系ユダヤ人、レオン・マジン牧師の聖会でのメッセージを聞きました♪(^^)





 聖霊さまの満たしを感じる、とても素晴らしいお説教でした。お説教のポイントとして大切なところはいくつもあったと思うのですけれども、自分的にヘブロンが人類の祖先であるアダムとエバの置かれたところ……という説がとても興味深かったです。

 それで、お説教のお話から自分的に色々と連想されるところがあって――今回の記事はそんなお話です(^^;)

 確か科学的なことによると、人類の発祥の地ってアフリカって言われてたりしますよね?そしてそこから野を越え山越え海を越え……とうとう日本にまで到達した人々がいたという、そういうことだった気がするのですが、もし間違ってたらすみません

 それはさておき、聖書において神さまは、最初に人類の祖としてアダムをお造りになり、次に彼の助け手となるように、アダムのあばら骨から女性のエバを造ったといいます。まあ、今の男性優位の社会を形作ったのは、元を辿るとこうした聖書のそもそもの思想に辿り着く……という、フェミニストの方の言い分はさておくとしても(いえ、この話もすごく面白いんですけどね^^;)、新約聖書のはじめ、マタイの福音書には、イエス・キリストに至るまでのアブラハムからはじまる系図が記されています。

 そして旧約聖書の創世記第5章には、アダムからノアに至るまでの系図が書かれ、創世記の第11章にはノアの息子セムからアブラハムに至る系図について記されているんですよね。

 それで……ノアの方舟のお話は誰でも聞いたことのある有名なお話なので詳細は省くとして、創世記の第6章第5~8節には、こうあります。


 >>主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

 そして主は仰せられた。

「わたしが創造した人を血の面(おもて)から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで、わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ」

 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。

(創世記、第6章5~8節)


「しかし、ノアは、主の心にかなっていた」……いえ、すごいですよね。聖書のノアの時代より、おそらく人口的には今という現代のほうが人間の数だけは多いと思うのですけれども、このノアのように神さまが「心を認められる」、「あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである」(創世記、第7章1節)とおっしゃることの出来る人ってどのくらいいるものだろうかと思ったりします(^^;)

 そしてアブラハムは、神さまからのたくさんの約束と同時に、神さまから「友」と呼ばれた我々の信仰の祖先でもあるわけですが――わたし、聖書を読んでいて時々思うことがあるんですよね。

 ちなみにこれは、お説教の中でレオン牧師が「これはレオンのファンタジーです」と言ってるみたいに、これはわたしのファンタジーなのですが(笑)、神さまの御心にかなう「心の正しい者」というのでしょうか。ノアの時代には、神さまの御心にかなう者が他にいなかったため、神さまはノアの一族以外を滅ぼしてしまったわけですよね。でも、もしノア以外にも神さまの御心にかなう者がいれば、神さまはその人も助けたのでしょうし、アブラハムの時代にしても、彼と同じくらい神さまにその信仰を義を認められる人間がいれば、神さまはその人をも祝福したはずです。

 けれども、このような事情によって、神さまはユダヤ人を神さまの特別な民としてお選びになり、その系図は最後のアダムであるイエス・キリストにまで続きます。

 わたしがクリスチャンになって新約聖書、そして次に旧約聖書を読んだ時に驚いたのは……こうした種類の神さまの「正しさ」だったかもしれません。ちょっと不遜な想像ですけれども(汗)、わたしがもし神さまで、自分が造った地上に人を置き、その子孫が増え広がっていく歴史を見守っていた場合、自分を示すのに相応しい者として選ぶのはやはり、「心が清く正しい者」だと思うのです。

 そして、地上にひとりだけそのような者を見つけ、アブラハムに約束されたとおり神さまは、彼の子孫を海辺の砂のように増やされました。そしてさらにその子孫であるイエス・キリストを、この世を救う救い主(メシア)としてお遣わしになったのです。

 いえ、アブラハムは年老いてようやく出来た息子のイサクを捧げるよう神さまに言われた時……本当に訳がわからず、これ以上の苦しみはなかったろうなと想像します。けれども、このことは神さまがいずれこの世に御自身の御子であるイエス・キリストをお遣わしになる「型」であり、アブラハムやイサクはきっと、天の御国からそのことを知った時、神さまの偉大さを崇めたことと思います。

 その他、アブラハム、イサク、ヤコブの時代について創世記は伝えているわけですが、創世記の次の出エジプト記は、説明などする必要もなく、モーセの時代について伝えています。そして、モーセはエジプトの圧制から自分の生まれの民族(ユダヤ民族)を救おうとして、神さまの御声に聞き従い、紅海の底を渡りました。このあたりのことはノンクリスチャンの方でも、映画「十戒」を見てご存知の方も多いと思うのですが、割れた紅海を渡り、約束の地へと旅を続ける途中……これほどまでの大きな神さまの御業を経験し、エジプトの奴隷であった身分からも解放されたのに、この人々は指導者であるモーセや彼の兄アロンの言うことになかなか聞き従いませんでした。

 そのあたりのことについては、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記といったように続いていくわけですが、神さまはこの中で幕屋の建て方などについても細かく指示をお与えになっており、また、神さまに生贄を捧げる時の規定などについても、随分うるさく(?)おっしゃっておられます(^^;)

 いえいえ、このうるさくというところが実はひっじょーに重要でして……正直わたし、キリスト教というものを信仰抜きでひとつの知識として学ぼうとする方が、旧約聖書を最初の創世記から読みはじめた場合……躓くのは大体レビ記あたりではないかと睨んでおります(笑)

 なんというかまあ、人間的に読んだ場合、アダムとエバのお話だって進化論を否定するものであり、「え?じゃあ何、あんたもしかして人類は近親相姦で増え広がったとか言いたいわけ??」と思うのが普通の人の反応でしょうし、でも、読んでいく途中でいくつも湧き上がるそうした疑問を我慢しつつ読んでいったとしても、大体レビ記あたりで、どんな読書好きな方も嫌気が差すんじゃないかなーなんて……。。。

 そうなんですよね。もし仮に人間的な読み方をした場合、幕屋の造り方についての記述とか、生贄の捧げ方の細かい規定などは、クリスチャンのわたしたちが読んだ場合でも、ちょっと退屈なところがあり……いやいや、なんて言っちゃーいけないのですが、とにかくわたしが言いたいのは、その退屈なところもすべて読んでみると、新約聖書の最後に至るまで、すべてが繋がっているというところが聖書のすごいところだと思うのです

 幕屋はのちに建てられる神殿の「型」ということですし、羊とかヤギの生贄を捧げる規定や、祭司が生贄を捧げる「捧げ方」というのも……いずれ、イエスさまが十字架上で神さまの宥めの生贄となるという「型」を示したものですし、旧約聖書は創世記からはじまり、イスラエル民族(ユダヤ民族)の歩んだ歴史について語られつつ、最後はマラキ書で閉じられるわけですが――このマラキ書に書かれていることがまたすごいんですよね(^^;)

 どういうふうにすごいかというのは、ちょっと説明長くなるので、ノンクリスチャンの方には図書館ででも読んでもらうしかないのですが(汗)、ものっそ簡単に書いた場合、神さまに選ばれた民イスラエルは「生贄をあー捧げろだのこー捧げろだの、十分の一の規定がどーの、律法を全部ちゃんと守れとか神、マジうぜーわww☆」的なことをつぶやきまくったわけですよね(わかりやすくするためとはいえ、すごく語弊のある書き方でごめんなさい

 つまり、心が清く正しい者を神さまは愛され、そこからイスラエル(ユダヤ民族)ははじまったはずなのに……神さまの再三に渡る救いの御業や戒めや罰など、様々な経験をしていながら、イスラエル民族は神さまの御目にかなわぬ民族として堕落していきました(旧約聖書というのは、簡単にいえば、神さまに選ばれた民族イスラエルの背信の歴史書といっていいと思います^^;)

 つまり、これもまた簡単につづめて言ったとすれば、神さまがモーセにお与えになった律法の規定等が、イスラエルが神さまに聞き従わなかったことにより、実質無意味なものに限りなく近づいた時……神さまは、おそらく「もはやこれまで」とお思いになり、御自身の御子であるイエスさまのことをこの罪深き地上にお遣わしになったのだと思います。

 お話が長くなるので、イエスさまの御生涯については今回触れませんが、わたしのファンタジーとして思うに――神さまの選ばれたのが、もしイスラエル(ユダヤ民族)でなかったとしても、これが他のどんな民族でも、やっぱり誰もが同じ堕落の道、神さまの道に聞き従えない堕落の歴史を歩むことになったんじゃないかな……って、旧約聖書を読むといつも思うんですよね、わたし(^^;)

 そもそも、アダムとエバも神さまの言いつけを守らなかったことで失楽園してるわけですし、イエスさまの十字架の力による罪の赦しと復活という救いの道があるとはいえ……人類の全体としてはやっぱり、緩やかな堕落と滅びの道を人間は辿っているのではないでしょうか。

 そして、新約聖書は黙示録という、この世の終わりについて書かれた啓示の書によって閉じられるのです(^^;)

 この時、イエスさまは雲に乗ってやって来られ、御自身を信じる者を救い、地上に残された者には悲惨な運命が待っているわけですが……いえ、旧約聖書の最初の書である創世記は神さまの御手による天地創造からはじまるわけですが、新約聖書はこの世の終わりについて書かれて終わってるわけですよね。

 聖書は、そのすべてが神さまからの霊(聖霊)によって霊感されて書かれた書物と言われるわけですが、キリスト教徒が何故その一言一句についてそのどこをも否定しないのか、その理由はこうしたところにあるといっていいと思います。

 もちろん一番の理由は、聖霊を受けた信者が神さまからの霊により霊感された書物を読むわけですから、同じように霊が「一致する」ことがわかるということですが、レオン牧師のお説教もそうした「霊的一致」というのがとても感じられると思うんですよね(^^;)
 
 そして、仮に血筋はそうでなくても、イエスさまのことを主と告白する霊を持つ人というのは……そのすべての人か霊的な意味ではイスラエル人なわけです(笑)

 いえいえ、気が狂っていると人から言われようとも、イエスさまの名によって国籍がすでに天に移されているという以上の喜びはこの世に存在しませんし、わたしは肉においては日本人で、戸籍も日本にあるわけですが、一度死んだとすれば霊的にはイスラエル人として天国の書物に自分の名前のあることを――この上もない祝福と思いつつ、地上での残りの日々を生きたいと願っています♪

 それではまた~!!





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