
【聖なる三位一体】コッラード・ジアキント
イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。
「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください」
そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群集がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
【中略】
イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。
「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」
イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。
「恐れないで、ただ信じていなさい」
そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中にはいって、彼らにこう言われた。
「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです」
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。
そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である)。
すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。
(マルコの福音書、第5章21~43節)
引用が長くなると思ったので、【中略】の部分に挟まっている<長血の女性の癒し>については、次回にまた記事にしたいと思いますm(_ _)m
さて、中風の人を癒したり、盲人の方の目を見えるようにしたり、悪霊に支配された人をその支配から解放してあげたりと……次々と奇跡を起こしていかれたイエスさまですが、なんと!ここでは一度死んだ少女をを甦らせています
わたしの持っている聖書の注釈のところには、
>>会堂管理者のひとり=ヤイロは、イエスが出席されたカペナウムの会堂の長老として、会堂の建物の管理と礼拝の準備の責任を負っていた。
とあるのですが、わたしが想像するに、こうした立場の方がイエスさまに何かお願いごとをするというのは、実はとても勇気が必要だったのではないでしょうか。ユダヤ教の会堂の管理者のひとりであるということは、イエスさまと敵対するパリサイ人やサドカイ人を敵に回すということになるでしょうし、もしそうなったらユダヤ人社会から締め出されるという可能性がありますよね
でもヤイロさんにはそんなことを言っていられない、気に留めていられない事情がありました。
十二歳のひとり娘が今にも死にそうになっていたのです。
この<ひとり娘>というのは、ルカにだけ言及のあることなのですが、ここからあるひとつのことが推測されないでしょうか。
昔はもっと子だくさんなのが普通だったと思うのですが、ヤイロさんにはこの娘さんのあとにおそらくひとりも子供が生まれなかったか、病気などで亡くなってしまっていたのでしょう。あるいは生後間もなく亡くなった、流産だったといったような悲しいことがあったのかもしれません。
そんな中、この十二歳の娘さんだけが生き延びたのに――そんなにも大切にしてきた小さな子供が死のうとしていたのです。
ヤイロさんはきっとなりふり構ってなどいられなかったのでしょう。
イエスさまの御前に自分のすべてを投げだして、彼ならきっと娘のことを救ってくださると信じ、一生懸命に主の御前に願ったのです。
もちろんイエスさまはヤイロの信仰に応えてくださいました。
けれど、その前にひとつの残酷な事実が彼に告げられてしまいます。
「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」……この時、ヤイロさんはどうしたでしょう。心の中でどう思ったことでしょう。
『嗚呼、間に合わなかった』……そう絶望とともに心の中で呻いていたのではないでしょうか。
けれど、イエスさまはそんなヤイロさんに言われるのです。
「恐れないで、ただ信じていなさい」
なんていう力強い言葉でしょうか。
きっとヤイロさんも諦め、絶望の海に沈みそうだった心に、一筋の光が差し込んでくるのを感じたことでしょう。
そして、ヤイロさんの娘はイエスさまの手によって死んでいたのが甦ります。
もちろん、「きっと仮死状態だったのではないか」と推測される方は多いかもしれません。
でも仮に仮死状態であったとして――イエスさまの時代に仮死状態の人をすぐに甦らせるような医療技術があったでしょうか。
そして、自分の家族や誰か身近な人が同じ状態だった場合、実際理屈などはどうでもいいのです。
死んだと思っていた娘が甦った……ご両親にとって、これ以上に素晴らしい、嬉しい、喜ばしい奇跡が他にあるでしょうか。
イエスさまはたくさんの人の中から、ヤイロさんがいかに切迫した願いをもって自分の前に出てきたかをすぐに見抜いて、彼と彼の小さな娘とを助けてくださったのです。
わたしもキリスト教徒になる前はよく思ったものでした。神さまの元に届く祈りはあまりにも数多くて、いくら祈ったところで叶えられるのは六十億飛んで二十八番目とか、何かそんな感じなのではないかと……。
けれどそうではなく、まわりにどんなに大勢の人がいようとも、イエスさまがヤイロさんの切なる願いに応えてくださったのと同じことを、神さまは必ず行ってくださるのです。
>>御霊(聖霊)も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
(ローマ人への手紙、第8章26~28節)
もちろん、わたしたちはおそらく合理的にこう考えるでしょう。
この世界で一番大変で重大な悩みを抱えている人から順に、神さまはその祈り・願いを叶えていくべきだと……。
けれど、誰か神さまに「あなたは~~すべきだ」といったように命じることの出来る人間は地上に誰もいません。
ただ、わたし自身にわかっているのは、聖霊さまを通して、御心にかなう祈りをした場合には、その祈りは絶対的に叶えられるということだったでしょうか。
この祈りの法則を知っていることは、とても重要だと思います。
何故といって、わたしはキリスト教徒になるずっと以前、小さな頃から祈ることが好きな子だったのですが、誰が本当の神さまなのかわからなかったため、自分なりに考えだした色々な方法で祈っていました。
けれど、クリスチャンになって聖霊さまを通して祈るということを知った時、「自分のこの祈りは本当に聞かれているんだろうか」といったような疑念はなくなり、ひたすらこの方に縋って祈っていればいいのだとはっきりわかったことは、とても素晴らしい恵みでした。
これからもずっとこの方を通して祈り、その衣の裾に縋って生きていきたいと思っています。
それではまた~!!
イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。
「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください」
そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群集がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
【中略】
イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。
「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」
イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。
「恐れないで、ただ信じていなさい」
そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中にはいって、彼らにこう言われた。
「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです」
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。
そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である)。
すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。
(マルコの福音書、第5章21~43節)
引用が長くなると思ったので、【中略】の部分に挟まっている<長血の女性の癒し>については、次回にまた記事にしたいと思いますm(_ _)m
さて、中風の人を癒したり、盲人の方の目を見えるようにしたり、悪霊に支配された人をその支配から解放してあげたりと……次々と奇跡を起こしていかれたイエスさまですが、なんと!ここでは一度死んだ少女をを甦らせています

わたしの持っている聖書の注釈のところには、
>>会堂管理者のひとり=ヤイロは、イエスが出席されたカペナウムの会堂の長老として、会堂の建物の管理と礼拝の準備の責任を負っていた。
とあるのですが、わたしが想像するに、こうした立場の方がイエスさまに何かお願いごとをするというのは、実はとても勇気が必要だったのではないでしょうか。ユダヤ教の会堂の管理者のひとりであるということは、イエスさまと敵対するパリサイ人やサドカイ人を敵に回すということになるでしょうし、もしそうなったらユダヤ人社会から締め出されるという可能性がありますよね

でもヤイロさんにはそんなことを言っていられない、気に留めていられない事情がありました。
十二歳のひとり娘が今にも死にそうになっていたのです。
この<ひとり娘>というのは、ルカにだけ言及のあることなのですが、ここからあるひとつのことが推測されないでしょうか。
昔はもっと子だくさんなのが普通だったと思うのですが、ヤイロさんにはこの娘さんのあとにおそらくひとりも子供が生まれなかったか、病気などで亡くなってしまっていたのでしょう。あるいは生後間もなく亡くなった、流産だったといったような悲しいことがあったのかもしれません。
そんな中、この十二歳の娘さんだけが生き延びたのに――そんなにも大切にしてきた小さな子供が死のうとしていたのです。
ヤイロさんはきっとなりふり構ってなどいられなかったのでしょう。
イエスさまの御前に自分のすべてを投げだして、彼ならきっと娘のことを救ってくださると信じ、一生懸命に主の御前に願ったのです。
もちろんイエスさまはヤイロの信仰に応えてくださいました。
けれど、その前にひとつの残酷な事実が彼に告げられてしまいます。
「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」……この時、ヤイロさんはどうしたでしょう。心の中でどう思ったことでしょう。
『嗚呼、間に合わなかった』……そう絶望とともに心の中で呻いていたのではないでしょうか。
けれど、イエスさまはそんなヤイロさんに言われるのです。
「恐れないで、ただ信じていなさい」
なんていう力強い言葉でしょうか。
きっとヤイロさんも諦め、絶望の海に沈みそうだった心に、一筋の光が差し込んでくるのを感じたことでしょう。
そして、ヤイロさんの娘はイエスさまの手によって死んでいたのが甦ります。
もちろん、「きっと仮死状態だったのではないか」と推測される方は多いかもしれません。
でも仮に仮死状態であったとして――イエスさまの時代に仮死状態の人をすぐに甦らせるような医療技術があったでしょうか。
そして、自分の家族や誰か身近な人が同じ状態だった場合、実際理屈などはどうでもいいのです。
死んだと思っていた娘が甦った……ご両親にとって、これ以上に素晴らしい、嬉しい、喜ばしい奇跡が他にあるでしょうか。
イエスさまはたくさんの人の中から、ヤイロさんがいかに切迫した願いをもって自分の前に出てきたかをすぐに見抜いて、彼と彼の小さな娘とを助けてくださったのです。
わたしもキリスト教徒になる前はよく思ったものでした。神さまの元に届く祈りはあまりにも数多くて、いくら祈ったところで叶えられるのは六十億飛んで二十八番目とか、何かそんな感じなのではないかと……。
けれどそうではなく、まわりにどんなに大勢の人がいようとも、イエスさまがヤイロさんの切なる願いに応えてくださったのと同じことを、神さまは必ず行ってくださるのです。
>>御霊(聖霊)も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
(ローマ人への手紙、第8章26~28節)
もちろん、わたしたちはおそらく合理的にこう考えるでしょう。
この世界で一番大変で重大な悩みを抱えている人から順に、神さまはその祈り・願いを叶えていくべきだと……。
けれど、誰か神さまに「あなたは~~すべきだ」といったように命じることの出来る人間は地上に誰もいません。
ただ、わたし自身にわかっているのは、聖霊さまを通して、御心にかなう祈りをした場合には、その祈りは絶対的に叶えられるということだったでしょうか。
この祈りの法則を知っていることは、とても重要だと思います。
何故といって、わたしはキリスト教徒になるずっと以前、小さな頃から祈ることが好きな子だったのですが、誰が本当の神さまなのかわからなかったため、自分なりに考えだした色々な方法で祈っていました。
けれど、クリスチャンになって聖霊さまを通して祈るということを知った時、「自分のこの祈りは本当に聞かれているんだろうか」といったような疑念はなくなり、ひたすらこの方に縋って祈っていればいいのだとはっきりわかったことは、とても素晴らしい恵みでした。
これからもずっとこの方を通して祈り、その衣の裾に縋って生きていきたいと思っています。
それではまた~!!

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