【ダビデとゴリアテ】
手に力をこめて
世に立ち向かってゆきました
ダビデほどの力はありませんが
私の方が二倍も勇敢でした
小石に狙いをつけました
だが倒れたのはこの私だけ
ゴリアテが大きすぎたのでしょうか
私が小さすぎたのでしょうか
(『エミリ・ディキンスン詩集~続自然と愛と孤独と~』中島完さん訳/国文社刊)
サムエル記に記されている「ダビデとゴリアテ」のお話は、とても有名な聖書のお話のひとつとであり、この箇所が好きだという信仰者の方はとても多いのではないかと思います♪(^^)
まずは、聖書からこの箇所について引用をばm(_ _)m
>>ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。
ペリシテ人はダビデに言った。
「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが」
ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。
ペリシテ人はダビデに言った。
「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」
ダビデはペリシテ人に言った。
「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」
そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。
こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。
ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。
(サムエル記第一、第17章42~51節)
このペリシテ人は、背の高さが六キュビト半あったそうですから、一キュビトが四十四センチということは……6×44+22=286センチ、つまり2メートル86センチある、三メートル近い化物――じゃなくて、そのくらい背の高いペリシテ人側の勇士だったようです。
そして彼は言うわけですね、イスラエル陣側からも誰か同じように代表戦士を出して、それで決着をつけようではないか、と。
このペリシテ人は、>>頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅で五千シェケル(一シェケルは11.4グラムですから、11.4×5000=57キログラム)。足には青銅のすね当てを着け、肩には青銅の投げ槍を背負っていた。槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は、鉄で六百シェケル(11.4×600=約6.8キログラム)。盾持ちが彼の先を歩いていた――とあります。
当然、このような大男の怪力野郎(笑)と一対一で戦って勝てると思えるような戦士がイスラエルの陣営には見当たらなかったわけですが、そこへのちにイスラエルの王となる、この時はまだ一羊飼いの紅顔の美少年、ダビデ君がやって来ます。
彼は八人兄弟の末っ子だったのですが、当時イスラエルの王さまだったサウルに従い、上の三人のお兄さんが戦いに出ていたため、そこへ父親の頼みで食糧を届けにいったのです。年とった父親のエッサイは、上の三人の息子たちが戦場でどうしているかと心配だったのでしょう。ダビデに対し、千人隊長にチーズ十個を渡して、兄の安否を調べるようにと言って彼のことを送りだします。
そして、我がイスラエルの陣営がこのペリシテ人の大男のために恐れ惑っているのを目の当たりにした若きダビデは雄々しくも、こう言い放つのでした。
>>「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう」
サウルはダビデに言った。
「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから」
ダビデはサウルに言った。
「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。
このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから」
ついで、ダビデは言った。
「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます」
サウルはダビデに言った。
「行きなさい。主があなたとともにおられるように」
(サムエル記第一、第17章32~37節)
――こうして、ダビデはイスラエルの陣営が「あのような大男の勇士になどとても勝てぬ」と怖じ惑っていたペリシテ人に大勝利を収めました(♪タラタラッタラー)←勝利のラッパの音(ドラクエ風に☆笑)
このダビデの勝利の鍵は、おそらくダビデがその信仰により「主の霊が彼とともにあった」からなのだろうという気がします。
実際、このダビデの信仰心は並ではないですよね。神による信仰の勝利の度合いというのは、多くが神さま(イエス・キリスト)にどのくらい信頼しているかというその深さ・強さにかかってくるところがあると思うのですが、この時のダビデは「主にまったく信頼していた」ものと思われます。
そして、ここでディキンスンの詩のほうに目を移してみますと、実際は「この世」というものに精一杯小さな石でもって勇敢に立ち向かっていったにも関わらず――「信仰の人、ダビデのように神さまに信頼して立ち向かっていったのに」、倒れたのは自分だけだった……ということが、よくあるものですよね。いえ、これもまた現代の信仰あるあるだと思います(^^;)
>>なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です。
(ヨハネの手紙第一、第5章4節)
と聖書には記されていますし、また同じくヨハネの手紙第一の第五章には、
>>何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
(ヨハネの手紙第一、第5章14節)
とも記されています。
けれども、クリスチャンのすべてが世に打ち勝つのをわたしたちは今現在この目で見てはおりませんし、ある祈りについては叶えられ、ある願いについてはどんなに必死に激しく祈っても、叶えられないことを多くの人が知っています。
けれども、わたしは主を信じ、主を愛していますし、それはエミリー・ディキンスンもそうだったろうと思うんですよね。
では、祈りが聞かれない理由というのは、何故なのでしょうか。
わたしたちの信仰が小さいから、それとも祈りが足りないからなのでしょうか?
この理論にはおそらく、クリスチャンであってもなくても、あるいは他の宗教を信じている方でも、うんざりしていることが多いような気がします
祈りは 小さな道具
これを用いて 人は
入るのを拒まれた場所へと行き
これを助けとして
神の耳へと 言葉を投げる――
もしこれで 神がお聞き入れになるとするなら
このことは 祈りの仕組みを
端的に物語るのだ
(『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~第4集』中島完さん訳/国文社刊)
鶏が先か、卵が先かとばかり、自分が神に相応しい者となった時にこそ、祈りは応えられるに違いない……と考えるのは、基本的には間違いだと思います。また、神が自分の祈りに応えてくれさえすれば、私はその時こそ神に相応しい者となることが出来、そのあとでなら神さまの御用のためになんでもしようというのも、間違った考え方だと思うんですよね。
まず、キリスト教における祈りの原理というのは、<御心の祈り>ならば応えられるというものであり、また祈りが応えられる<時>というのを人間の側では選べませんから、すぐに応えられることもあれば、自分が我慢できうる範囲内で待たされたのちに応えられることもあり、またさらには我慢の限界を遥かに超えたそのあとで応えられる……ということもあるかと思います。
そしてさらに、それより多いのが<御心でない祈り>にいつまでも拘りいつか成就するのを待つ――ということがあるかもしれません。けれども、とにかく毎日祈ってさえいれば、「それは叶えられませんよ」といったように聖霊さまが教えてくださいますし、自分の欲望について中心的に祈っているような場合にも、時の経過とともに「そもそも祈り方が間違っていた」といったように気づいていくものだと思います。
もちろん、「そんなんなら祈ること自体が時間の無駄」と思う方もあるでしょう。
けれど、わたし自身は祈ることが好きですし、とても面白いことだとも思っています♪(^^)
そして、大変不思議に思われるかもしれませんが、毎日祈ることが習慣になっていくと、自分のことや自分のために祈っていく項目が少なくなっていったり、あるいは自分に関する何かを祈るということがつまらなくなっていくことに気づきます。
何故といって、他の人のことや教会という群れ全体の必要について祈ったりですとか、そうしたあとにわたしも自分の必要について祈っていくのですが、実は自分のことについては言葉数はそんなに多くなくていいのです。むしろそれ以外のことについて多く祈れば祈るほど、神さまはその当人の必要を聖霊さまを通して満たしてくださる……どうやらそうした側面があるようなので。
といっても、わたしもやっぱり自分のことや周辺の環境のことについては祈りますし、そのことも神さまが喜んでくださっていることがわかります。両親が、小さい子供が少しくらいおかしなことを話しても、笑って受け止めてくれるように――神さまはどんなことでも聞いてくださいますし、むしろ祈らなければ、というか、祈らない人というのは神さまにとって存在していないも同然の者として扱われることになるのではないか……と時に思うことさえあります。
久しくとりなしてきた唇も
もはやその祈りも無駄だと分れば
懇願しなくなる――
<わが子よ また祈りなさい>
といって落胆させるだけの御言葉より
<かなえてはやれぬ>の方がより麗しい剣なのに
(『ディンキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社より)
もちろん わたしはお祈りしました
そして神様はきいて下さったでしょうか?
空で鳥が足を踏み鳴らして
「ちょうだい!」と叫んだ
その程度ぐらいはね!
(『エミリ・ディキンスン評伝』トーマス・H・ジョンスン著、新倉俊一・鵜野ひろ子さん訳/国文社刊)
もちろん、ディキンスンのこうした気持ちもよくわかりますよね(^^;)
また、こうしたことが原因で祈りが三日坊主になったり、やがては祈らなくなっていく……ということが時にあると思うのですが、聖霊さまを与えられているキリスト教信者というのは、何かのことが自分の祈ったとおりでなくて、ふてくされたにしても――やっぱりまた三日後くらいには祈っているものだと思います。
なんにしても、もし仮に100%必ず祈りが聞かれる方程式のようなものがあったとすれば、この時のダビデがそうだと思うんですよね。<主は必ず我々に勝利を与えてくださる>という、ダビデのような完全な信頼があった時に初めて、どのような巨人のように思われる大きな問題も、小さな小石ひとつで倒すことが出来る……でも、ここまで神さまに信頼して恐れというものを完全にシャットアウトするというのは、人間にはとても難しいというか(^^;)
彼がわたしを愛しているから、
わたしは彼を助け出そう。
彼がわたしの名を知っているから、
わたしは彼を高く上げよう。
彼が、わたしを呼び求めれば、
わたしは、彼に答えよう。
わたしは苦しみのときに彼とともにいて、
彼を救い彼に誉れを与えよう。
わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、
わたしの救いを彼に見せよう。
(詩篇、第91編14~16節)
恐怖の極みにある時でも、いつもこのように主の恵みを思い出すことが出来たなら、と思います。
それではまた~!!
手に力をこめて
世に立ち向かってゆきました
ダビデほどの力はありませんが
私の方が二倍も勇敢でした
小石に狙いをつけました
だが倒れたのはこの私だけ
ゴリアテが大きすぎたのでしょうか
私が小さすぎたのでしょうか
(『エミリ・ディキンスン詩集~続自然と愛と孤独と~』中島完さん訳/国文社刊)
サムエル記に記されている「ダビデとゴリアテ」のお話は、とても有名な聖書のお話のひとつとであり、この箇所が好きだという信仰者の方はとても多いのではないかと思います♪(^^)
まずは、聖書からこの箇所について引用をばm(_ _)m
>>ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。
ペリシテ人はダビデに言った。
「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが」
ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。
ペリシテ人はダビデに言った。
「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」
ダビデはペリシテ人に言った。
「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」
そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。
こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。
ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。
(サムエル記第一、第17章42~51節)
このペリシテ人は、背の高さが六キュビト半あったそうですから、一キュビトが四十四センチということは……6×44+22=286センチ、つまり2メートル86センチある、三メートル近い化物――じゃなくて、そのくらい背の高いペリシテ人側の勇士だったようです。
そして彼は言うわけですね、イスラエル陣側からも誰か同じように代表戦士を出して、それで決着をつけようではないか、と。
このペリシテ人は、>>頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅で五千シェケル(一シェケルは11.4グラムですから、11.4×5000=57キログラム)。足には青銅のすね当てを着け、肩には青銅の投げ槍を背負っていた。槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は、鉄で六百シェケル(11.4×600=約6.8キログラム)。盾持ちが彼の先を歩いていた――とあります。
当然、このような大男の怪力野郎(笑)と一対一で戦って勝てると思えるような戦士がイスラエルの陣営には見当たらなかったわけですが、そこへのちにイスラエルの王となる、この時はまだ一羊飼いの紅顔の美少年、ダビデ君がやって来ます。
彼は八人兄弟の末っ子だったのですが、当時イスラエルの王さまだったサウルに従い、上の三人のお兄さんが戦いに出ていたため、そこへ父親の頼みで食糧を届けにいったのです。年とった父親のエッサイは、上の三人の息子たちが戦場でどうしているかと心配だったのでしょう。ダビデに対し、千人隊長にチーズ十個を渡して、兄の安否を調べるようにと言って彼のことを送りだします。
そして、我がイスラエルの陣営がこのペリシテ人の大男のために恐れ惑っているのを目の当たりにした若きダビデは雄々しくも、こう言い放つのでした。
>>「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう」
サウルはダビデに言った。
「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから」
ダビデはサウルに言った。
「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。
このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから」
ついで、ダビデは言った。
「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます」
サウルはダビデに言った。
「行きなさい。主があなたとともにおられるように」
(サムエル記第一、第17章32~37節)
――こうして、ダビデはイスラエルの陣営が「あのような大男の勇士になどとても勝てぬ」と怖じ惑っていたペリシテ人に大勝利を収めました(♪タラタラッタラー)←勝利のラッパの音(ドラクエ風に☆笑)
このダビデの勝利の鍵は、おそらくダビデがその信仰により「主の霊が彼とともにあった」からなのだろうという気がします。
実際、このダビデの信仰心は並ではないですよね。神による信仰の勝利の度合いというのは、多くが神さま(イエス・キリスト)にどのくらい信頼しているかというその深さ・強さにかかってくるところがあると思うのですが、この時のダビデは「主にまったく信頼していた」ものと思われます。
そして、ここでディキンスンの詩のほうに目を移してみますと、実際は「この世」というものに精一杯小さな石でもって勇敢に立ち向かっていったにも関わらず――「信仰の人、ダビデのように神さまに信頼して立ち向かっていったのに」、倒れたのは自分だけだった……ということが、よくあるものですよね。いえ、これもまた現代の信仰あるあるだと思います(^^;)
>>なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です。
(ヨハネの手紙第一、第5章4節)
と聖書には記されていますし、また同じくヨハネの手紙第一の第五章には、
>>何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
(ヨハネの手紙第一、第5章14節)
とも記されています。
けれども、クリスチャンのすべてが世に打ち勝つのをわたしたちは今現在この目で見てはおりませんし、ある祈りについては叶えられ、ある願いについてはどんなに必死に激しく祈っても、叶えられないことを多くの人が知っています。
けれども、わたしは主を信じ、主を愛していますし、それはエミリー・ディキンスンもそうだったろうと思うんですよね。
では、祈りが聞かれない理由というのは、何故なのでしょうか。
わたしたちの信仰が小さいから、それとも祈りが足りないからなのでしょうか?
この理論にはおそらく、クリスチャンであってもなくても、あるいは他の宗教を信じている方でも、うんざりしていることが多いような気がします
祈りは 小さな道具
これを用いて 人は
入るのを拒まれた場所へと行き
これを助けとして
神の耳へと 言葉を投げる――
もしこれで 神がお聞き入れになるとするなら
このことは 祈りの仕組みを
端的に物語るのだ
(『エミリ・ディキンスン詩集~自然と愛と孤独と~第4集』中島完さん訳/国文社刊)
鶏が先か、卵が先かとばかり、自分が神に相応しい者となった時にこそ、祈りは応えられるに違いない……と考えるのは、基本的には間違いだと思います。また、神が自分の祈りに応えてくれさえすれば、私はその時こそ神に相応しい者となることが出来、そのあとでなら神さまの御用のためになんでもしようというのも、間違った考え方だと思うんですよね。
まず、キリスト教における祈りの原理というのは、<御心の祈り>ならば応えられるというものであり、また祈りが応えられる<時>というのを人間の側では選べませんから、すぐに応えられることもあれば、自分が我慢できうる範囲内で待たされたのちに応えられることもあり、またさらには我慢の限界を遥かに超えたそのあとで応えられる……ということもあるかと思います。
そしてさらに、それより多いのが<御心でない祈り>にいつまでも拘りいつか成就するのを待つ――ということがあるかもしれません。けれども、とにかく毎日祈ってさえいれば、「それは叶えられませんよ」といったように聖霊さまが教えてくださいますし、自分の欲望について中心的に祈っているような場合にも、時の経過とともに「そもそも祈り方が間違っていた」といったように気づいていくものだと思います。
もちろん、「そんなんなら祈ること自体が時間の無駄」と思う方もあるでしょう。
けれど、わたし自身は祈ることが好きですし、とても面白いことだとも思っています♪(^^)
そして、大変不思議に思われるかもしれませんが、毎日祈ることが習慣になっていくと、自分のことや自分のために祈っていく項目が少なくなっていったり、あるいは自分に関する何かを祈るということがつまらなくなっていくことに気づきます。
何故といって、他の人のことや教会という群れ全体の必要について祈ったりですとか、そうしたあとにわたしも自分の必要について祈っていくのですが、実は自分のことについては言葉数はそんなに多くなくていいのです。むしろそれ以外のことについて多く祈れば祈るほど、神さまはその当人の必要を聖霊さまを通して満たしてくださる……どうやらそうした側面があるようなので。
といっても、わたしもやっぱり自分のことや周辺の環境のことについては祈りますし、そのことも神さまが喜んでくださっていることがわかります。両親が、小さい子供が少しくらいおかしなことを話しても、笑って受け止めてくれるように――神さまはどんなことでも聞いてくださいますし、むしろ祈らなければ、というか、祈らない人というのは神さまにとって存在していないも同然の者として扱われることになるのではないか……と時に思うことさえあります。
久しくとりなしてきた唇も
もはやその祈りも無駄だと分れば
懇願しなくなる――
<わが子よ また祈りなさい>
といって落胆させるだけの御言葉より
<かなえてはやれぬ>の方がより麗しい剣なのに
(『ディンキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社より)
もちろん わたしはお祈りしました
そして神様はきいて下さったでしょうか?
空で鳥が足を踏み鳴らして
「ちょうだい!」と叫んだ
その程度ぐらいはね!
(『エミリ・ディキンスン評伝』トーマス・H・ジョンスン著、新倉俊一・鵜野ひろ子さん訳/国文社刊)
もちろん、ディキンスンのこうした気持ちもよくわかりますよね(^^;)
また、こうしたことが原因で祈りが三日坊主になったり、やがては祈らなくなっていく……ということが時にあると思うのですが、聖霊さまを与えられているキリスト教信者というのは、何かのことが自分の祈ったとおりでなくて、ふてくされたにしても――やっぱりまた三日後くらいには祈っているものだと思います。
なんにしても、もし仮に100%必ず祈りが聞かれる方程式のようなものがあったとすれば、この時のダビデがそうだと思うんですよね。<主は必ず我々に勝利を与えてくださる>という、ダビデのような完全な信頼があった時に初めて、どのような巨人のように思われる大きな問題も、小さな小石ひとつで倒すことが出来る……でも、ここまで神さまに信頼して恐れというものを完全にシャットアウトするというのは、人間にはとても難しいというか(^^;)
彼がわたしを愛しているから、
わたしは彼を助け出そう。
彼がわたしの名を知っているから、
わたしは彼を高く上げよう。
彼が、わたしを呼び求めれば、
わたしは、彼に答えよう。
わたしは苦しみのときに彼とともにいて、
彼を救い彼に誉れを与えよう。
わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、
わたしの救いを彼に見せよう。
(詩篇、第91編14~16節)
恐怖の極みにある時でも、いつもこのように主の恵みを思い出すことが出来たなら、と思います。
それではまた~!!
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