神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

99.9%ではなく、100%敵を赦す。

2017年12月01日 | キリスト教
【キリストの磔刑】ハンス・バルドゥング


 クリスチャンの方でなくても、「右の頬を殴られたら、左の頬も差しだせ」というイエスさまの教えのことは聞いたことがあると思います。


 >>『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。

 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。

 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。

 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

(マタイの福音書、第5章38~48節)


 わたしも、自分がクリスチャンになる前から一応話として何か聖書にはそんなことが書いてあるらしい……くらいなことは知っていたのですが、そのことを「実践」するのがどういうことか――ということは、そんなに深く考えたことはありませんでした(^^;)

 イエスさまが弟子たちやのちにキリスト教徒となるわたしたちに教えてくださった、「主の祈り」にはこうあります。


 >>天にまします我らの父よ。
 ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
 御国を来たらせたまえ。
 みこころの天になるごとく、
 地にもなさせたまえ。
 我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
 我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
 我らの罪をもゆるしたまえ。
 我らをこころみにあわせず、
 悪より救いだしたまえ。
 国と力と栄えとは、
 限りなくなんじのものなればなり。
 アーメン。

(マタイによる福音書、第6章6節)


「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」……この世界には、何かのことで「負い目」を感じていない人などおそらくひとりもいないでしょうから、そのことを思えば、自分に罪をおかした人のことを赦してあげなさい……ということだと思うのですが、実践するというのはなかなかどころか本当に難しいことだと思います。
 
 また、これはたとえ話ですので、実際のところ、軍隊レベルのしごきによってというのではなく、誰かから右頬をはたかれたというくらいなら、正直わたし、左の頬も差しだせるかもしれません。また、1スタディオン行くよう強いる人に、もう1スタディオン行くよう強制されたとしても、その2スタディオンを行けるかもしれません。

 でも、どちらかというそういうことではなくて……自分にあまり思いあたるところのない噂話を流されて、たとえば学校のひとつのクラスなり、職場の8割くらいの人がそのことを信じたとしたら、その当の噂を流した人のことを赦したり、恨んだりしないでいられるものでしょうか。

 こういう種類のことに関して「99.9%ではなく、100%完全に赦す」、「赦しきる」というのはなんとも難しいことのような気がします(^^;)

 わたしも大体、これと似たようなことを経験したことがあって、でもこういう種類のことって、「ううん。わたし、全然そんなこと思ってないのよ」とか「みんなの誤解よ!」だのってわざわざ言うのも変だし……みたいなケース、結構多いと思いませんか?

 まあ、人生を長く生きていますと、こういう種類のことって一度だけじゃなく何度か起こったりしますよね。

 わたしも何度かあるんですけど、一度目にそうしたことが起きた時には、イエスさまの「相手を赦してあげなさい」という教えのことは知っていながらも、本当に赦しきったという感じではなかったと思います。大体相手のことを70~80%赦した……というだけでも、自分は一角の人物ではないかと思うところもありましたし、二度目の時には80~90%赦したというくらいでも、自分のことをやはり大人物のように感じたかもしれません(^^;)

 対人関係において、自分が100%正しくて、相手が100%悪いといったことはまずもってないとは思うのですが、わたしの場合、これ、8~9割方、自分は悪くないんじゃないか……と思う部分がありましたので、「こんなにも赦してやっている」と感じるところがあったのかもしれません。

 でも、三度目にこうしたことが起きた時、この時は相手のことをほとんど何も知りませんでしたので、「う~ん。これ、わたしのほうがやっぱり正しいよね?」と思いつつ、神さまに祈っていました。大体のところ要約すると、「神さまの栄光の勝利の業が現れますように」といったことを……。

 そのですね、前に同じようなことが許された時には、わたしは人間関係の波のようなものに負けて敗北したといっていいと思います。そうしたことで職場を辞めたということもあったわけですけど、今度のケースの場合は「ほとんど知らない人」(その後、一か月以上が過ぎるまで、相手の顔もわかりませんでした)ということで、このことをまずはいつも通り神さまに感謝しました。

 でもまあ、似たケースが過去に起きても、何か神さまの大逆転の勝利といったものが現されたというわけでもありませんでしたから、実際のところ、今回もそうかな……と思ったりしました。もちろん、人によっては「神さまァァー、のわぜですかあ~。わたしはこんなに祈っているのにィィィッ!!」みたいになる場合もあると思います。

 でもわたしの場合、「神さまの勝利の業が100%現されなくても、まあ、人の世というのはどこもそんなものだ☆」との思いが物凄くあったので、なんていうか、「自分にとって都合のいい勝利」というか、そういうものが現されなくても、「主よ、そのことも感謝します」としか思わなかったというか。。。

 そして、三度目……実はこれ、今も現在進行中なのですが、まあわたし、神さまの勝利が現されて、(実際にはまったくに近いくらいよく知らない)人々の誤解が解けなくても、まったく不思議に思ってはいません。何故かというと、人は自分にとって見たい事実を見たい角度からのみ眺めたいものですし、その首の角度を変えて、「この角度から見れば、あなたにも真実が見えるわ!!」と強制することは出来ないっていうんですかね(^^;)

 ただやっぱり、大体人間関係的なことについて似たことが起きる……ということは、自分にも問題があるのだろうなと思うところがありまして(^^;)、腹が立つというよりも、このことに関して「相手を赦す」ということを今回考えてみることにしたというか。

 それで、今読み返すとこの記事もなんか自分的に微妙だなとは思うのですが、ダビデがシムイという男に呪われた時、彼が取った態度のことを取り上げてみたいと思います(※参考記事はこちらになります=「聖書における地獄にいそうな人々。(笑)」)。

 この時ダビデは、彼が呪った言葉について、「主が彼にそうさせているのだから、言わせておきなさい」といったように言っています。ここを読むたびにダビデの心がけを立派と思うのですが、それと同時に、わたしだったらまず間違いなく「あとで覚えておけよ、シムイ」としか思わないんじゃないかと思うんですよね。

 なんにしてもわたし、あとから「そっか。これを神さまは学ばせたかったのかな……」と思うところがありました

 イエスさまは十字架上で、70%でも80%でも90%でもなく、さらには99.9%でもなく――100%、もっというなら120%とか1000%とか、一億兆%以上をも、わたしたち人間のことを、わたしのこともあなたのことも、赦してくださっています。

 この方の十字架上で成し遂げた御業、その血潮の力を信じるなら、わたしがこれまでの人生でおかした罪のすべては赦され、まだ罪をおかす以前の、赤ん坊にも等しく汚れのない状態に神さまはしてくださいます。

 ですから、その恵みのことを思えば、他のどのような人がどのような種類の罪をわたしにおかそうとも……イエスさまのことを手本として、相手のことを赦してあげなさい、ということですよね

 ただわたし、以前も書いたのですけれども、いわゆる悪魔(サタン)・悪霊の働きによって苦しめられる……という部分も確かにあったりするんですよなんというか、「この人、もしや何かが取り憑いているのだろうか」といったようにしか思えない人に同じことを繰り返し言われて悩まされる……っていうことがありまして、こうしたことはわたしがクリスチャンになる前までは明らかになかったことでした。

 ですので、以前もいくつかの記事にお書きしたとおり、聖書に書かれているイエスさまの悪霊追いだしのことについては心から信じていながらも、ちょっとそのことと自分の間には距離があって、この方面に関して何か「積極的に学びをしよう」といったようにはずっと思ってこなかったのです。

 でも、牧師さまの「悪魔(サタン)・悪霊」のことに関するお話には熱心に耳を傾ける気持ちが当然あり、その後レベッカ・ブラウンさんの「サタンのわな」という本との出会いがありまして、今こうしたことに関しても学びはじめているところだったりします(^^;)

 実はわたし、この本も「海外のカルトについて書かれた本だろう」と思い、「海外のカルトはどうなっているのか」を知ろうと思って古本屋さんでこの本を手にしたのですが、実際は「悪魔(サタン)・悪霊」の働きに関して賜物を持った方の書かれた本でした

 なんにしても、99.9%相手を赦したつもりでも、最後の残り、0.1%を赦していなかったがゆえに――まるでオセロの盤面が四つ角のところからバーッと一気に変わっていくみたいに……「赦したつもりでいた相手のほんの一言でまた、怒りが再燃して手がつけられなくなる」とか本当にありますから、とにかくひたすらにイエスさまの血潮の力に縋って、「こんなわたしのことをもイエスさまはこれほどまでの愛をもって赦してくださったのだから」ということを思い返し、いつでもそのような理想の精神状態でいられたらいいなと思っています(言うまでもなく、そんなふうに出来るのは、マーリン・キャロザース先生の「感謝と賛美の教え」のお陰だったり♪

 えーとですね、今回のわたしのこの記事はかなりのとこ微妙なものですが(汗)、「雲の間にある虹」にはこうした事柄に関しても「神さまの栄光の勝利が現された」といった経験談がたくさん載っていますし、がんといった病いのことについても、マーリン・キャロザース先生の感謝と賛美の教えを実践しつつ、イエスさまに癒しを祈ったら癒された……といった体験談がいくつも掲載されています。

 また、教会ではそうした証しについて語られる機会もありますし、「人生上で何か問題が起きたら、イエスさまに相談」するというのが、一番の解決の早道かなと思います♪(^^)

 それではまた~!!





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