神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

お昼ごはん、だれと食べますか?

2023年09月26日 | キリスト教

 前回、少し触れた「お昼休みに誰とごはん食べるか問題」なんですけど……その後も「仕事にはなんの問題も不満もないが」、「唯一昼休みだけ同僚とごはんを一緒に食べるのが苦痛でやめてしまった」という話がラジオで語られていて、自分的にちょっとびっくりしました

 いえ、わたし的に「そんなの自分だけだろうな」とか思ってたので、やっぱり他にもいらっしゃるんだな……とそう思ったのです。確かに友人で、某デパート内の店舗のひとつ(いゆやるデパ地下)で働いていたところ、いつも昼休みは他のベテランふたりと三人になるのが苦痛だ、という話は聞いたことがありました。というのも、彼女たちは仲が良くて、ふたりだけでベタベタしゃべりまくって仲間に入れてもらえないし、かといって雰囲気的に「わたし、ひとりで過ごしますんで」と言える感じじゃないっていうんですよね。

 まあ、わたしもデパートでパート勤務したことあるのでわかるんですけど、外に出ようと思ったら持ち物検査というか、軽くチェックされたりなんだり、面倒くさいし、かといって中のお食事系のお店で食事するとしたら、お金がかかりすぎます。でも、一緒に食事休憩に入った人と同じ食堂のスペースにいて、ひとりだけ離れてるってわけにもいかないじゃないですか。となると、やっぱりなんとなく話したりしながら、一緒にお弁当広げて食べるとか、そんなふうにせざるを得ないんですよね。

 わたしの場合、その時には仲良く話してくれたり、食事時間合わせて一緒に食堂で食べる方がいたので、今にして思うとそのことはすごく有難いことだったと思ってます。でも、そうしたデパート関係で働いたことのある方ならわかると思うんですけど、大体近くのテーブルから聞こえてくるのは「同僚の悪口とか上司への不満」とか、パートのおばさんたちもそれにプラスして家庭の不満を話してることが多くて、それだけでもメンタルやられる方の気持ちは物凄くわかります。

 デパートとか、出入りする職員の方の数がすごく多いので、食堂もなんかすごくガヤガヤしてるし、昼休みに一時間昼休憩といっても、全然気なんか休まらないという……食堂の他に、休憩できるスペースもあるんですけど、そこも似た雰囲気がありますし、ごはん食べてロッカー戻って、そこでちょっと休んで忙しなく今度は午後の業務とか、今も日本中でそんなふうに「一生懸命働いてる人がいる」から、この国は成り立ってるんだ……と言われれば、確かにそれはその通りと思うわけです。

 でも、そこについていけないとか、実はお昼休みはトイレでごはん食べてますとか、自分的には物凄くよくわかるというか。多目的トイレとか、実は赤ちゃんのオムツ交換といったことではなく、完全に休まりたいがゆえに、明らかにちょっとそこで15分くらい昼寝してから出てくるとか、本来の使用目的でない使い方をしてることが結構ある……ということが、清掃係の方の見回りからわかっているそうです。たぶん、そうした方の中には昼休憩といっても、12時~1時で取ってるとは限りませんから、13時~14時の休憩時間のうち、最後の20分くらいをトイレで過ごしてスマホをちょっと見たりとか、きっとあるんだろうなと思います。

 便所飯、という言葉を以前聞いたことがありましたが、大体その頃からだったでしょうか。「似たような方はやっぱりいるんだな」と思いましたし、職場の人間関係がギスギスしていて、その人たちと一緒に食事していても、全然神経が休まらない――ということがあると思いますし、そこまでひどくなくても、「なーんか居ずらいんだよな~」、「昼休みくらい、それこそ「休み」なんだから、自分ひとりで自由に休みたい」といったことを言われる方の数が多くなってきた……というよりも、実は心の中ではみんなそう思ってたけど、声を大にしたところで何か変わるってわけでもないんだから、「世の中そんなものだ」と思って諦めてきたってことなんでしょうね、たぶん。

「おひとりさま」という言葉を聞いた時も、「へえ~。世の中変わってきたなあ」と思ったりしたのですが、わたし、十代の頃までは喫茶店とかラーメン屋さんとか、ひとりで行けないタイプの人でした。なんていうか、「誰も友達とかいないのかしら。カワイソウ」的に思われそう……とか思ってたんでしょうね(笑)。でも、確か二十歳くらいの時に喫茶店でアルバイトしたことがあったわけです。で、その時に気づいた。ひとりで来てコーヒーを一杯頼んでねばる人、雑誌を読みながら煙草を吸う人、食事の味だけ楽しんでとっとと帰る人など、色んな人がいて、自分もウェイトレスなので、「そろそろセットメニューの食後のコーヒー持ってかなきゃ」とかいうことは気にするものの、お客さんひとりひとりのことなんて、誰も気にしてないんですよ。

 もちろん、常連さんや必ず大体同じ時間帯に来る方とか、マスターと仲が良くて必ずカウンター席に座る人とか、そうした方はいるにしても――まあ、大体気にしないんですよね。お客さんがひとりで来ようがふたりで来ようが、三人で来ようが四人で来ようが……わたし自身、店員さんなどの態度が感じ良くて親切でも、顔自体はすぐ忘れてしまいます。で、その時に「なーんだ。そんな程度のことかあ~。いちいちそこまで気にされるかもとか、自意識過剰すぎてむしろ恥かしいんじゃね?」という感じで、そこの喫茶店のアルバイトやめてからは、自分ひとりでも色んなお店でごはんとか食べられるようになりました(笑)。

 ただ、ひとつの職場で長く続くかどうかの問題については、結構食事の問題って大きいとは今も思うんですよね。なんでかっていうと、昼休みが楽しい的パターンの時は大体、そこの職場の人間関係がそこそこうまくいってるからだと思うんですよね。そこのフロアに所属してる40人全員と……とかじゃなくて、あくまでも仲良く話せる人が2~3人くらいいて、その中の誰かが休んでも、他のもうひとりか二人と一緒に楽しく過ごせるとか、そういう場合は結構長く働き続けられるような気がします。

 で、わたしも一応逆のパターンみたいのを経験したことがありました。東京からやって来た正社員の若い女性で、そこの売場では同じ売場同士の人が固まってお昼ごはん食べてたので、その中の誰かの姿を見かけたら一緒にごはん食べる――みたいのが結構普通だったわけです。でも、わたしが相手じゃなくても、他の誰が一緒でも、態度がツンとしてて無駄な話というのをほとんどしない方だったとか。

 何かの嫌味ということもなく、「東京の人ってあんなもんなのかね~」と他の人としゃべったりしてたのですが、美人で仕事も出来る方だったので、特に誰かとベタベタするでもなく、仕事だけきっちりして帰る……とかでもたぶん、全然平気だったのかもしれません。それで、ふと自分のことを思い返してみて思ったわけです。お昼ごはんを一緒に食べてコミュニケーションはかるとか、仕事が終わったあとに「やれやれ。めんどくせえな」とか思いつつも飲み会へ行くとかっていう例のアレは――いい意味では自分の身を守るためですよね。

 仕事だって、いつでも完璧に出来るなら、コミュニケーションっていらないかもしれない。でも、みんな何かしら必ず失敗やミスというのはある。そうした時に互いに「いいよ、いいよ。そのくらいのミス、誰でもやるくらいのもんじゃん」といった感じでカバーしあえる関係っていうのは、お昼ごはん食べながら冗談言いあえるとか、そのくらい人間関係が円滑な場合だと思います。みんな、そのあたりの空気感についてはわかってるから、飲み会で醜態をさらす、下ネタ話で盛り上がるなどして、犬でいうところの腹見せ行為を互いにしあうというか(腹見せ行為=互いの弱いところを見せあい、自分はこんだけ気を許していると周囲にアピールする、の意)。

 なのでまあ、人間関係うまくいってる方の場合は、そもそも「昼休み、誰と食べるか」的なことではたぶん、悩まないと思います。いわゆるコミュ力高い方の場合は(笑)。それよりも、「どんな美味しいもの食べるか」しか考えてないというか、職場での人間力高い方は大体そうなんじゃないかなと思ったりします。

 ただ、わたしみたいに心身症であるとか、大きな声で宣言したりするとかえって周囲の人に気を遣わせるし、かといって自分だけで我慢しててもどうにもなんないしな~といった方や、他に神経症のひとつに「会食恐怖症」という病気もあります。症例のひとつとして言えば、小学生の時に給食を急かされたことが原因で、「みんなと一緒にごはんを食べる」こと自体に恐怖心を持つ、といった場合もあるということでした。

 こうした方の場合、職場で昼休みに大人数で食べること自体が苦痛だったりして、仕事内容にもお給料にもなんの不満もなかったとしても、それが苦痛だということで職場を辞めてしまうことがあるんですよね。「え?そんな理由!?」って思われそうなんですけど、やっぱり「一緒にごはん食べる」って、人間のコミュニケーションとして大きいと思います。なんでかっていうと、わたしも今まで仲良くして来た人のことを考えてみても、まずは一緒にどこかへ何かを食べにいく……っていうパターンが圧倒的に多い、というか。なので、「一緒に何かを食べる=それが超苦痛だ」となった場合、人間関係はそれ以上進展しないどころか、「あの人、いつもこっちの誘いを断るってことは、自分のことキライなのかな?」と思われる場合もあると思う。

 また、同じく神経症で、食べる時のぺちゃくちゃいう音が他人に不快なんじゃないかと気にするあまり、本当の意味で食事を味わって食べられるのはひとりでいる時だけで、それ以外では実はあんまり味とかわかってない――など、色々な悩みや苦しみがあるものだと思います。

 まあ、「誰と一緒にお昼ごはん食べるか?」そんなことでなんて悩んでみたこともない……という方にはまったく関係のない記事ですけど、今は不登校勢、引きこもり勢など、以前は「学校行かない奴が悪い」とか、「引きこもってるのが悪い」といった感じで、全体の中では少数と思われてきた側が、グレーゾーンの方含めすごく増えてきたことで――少しずつ色々なことが変わりつつあるんだなと思っています。

 ここはキリスト教について何か書くっていうブログなので、本当は「そんな絶望的な状況からでも、イエスさまのことを信じて聖霊さまを受けることで変わってくるよ!」ということを書かなきゃならないんですけど……ここまで書いてくるだけでも結構長くなってしまったので、そのあたりは過去記事をご参照ください、ということで(すみません^^;)。

 それではまた~!!






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