【ブズのエリフは激怒する】ウィリアム・ブレイク
>>エリフはさらに続けて言った。
あなたはこのことを正義によると思うのか。
「私の義は神からだ」とでも言うのか。
あなたは言っている。
「何があなたの役に立つのでしょうか。
私が罪を犯さないと、どんな利益がありましょうか」と。
私はあなたと、またあなたとともにいるあなたの友人たちに答えて言おう。
天を仰ぎ見よ。
あなたより、はるかに高い雲を見よ。
あなたが罪を犯しても、神に対して何ができよう。
あなたのそむきの罪が多くても、あなたは神に何をなしえようか。
あなたが正しくても、あなたは神に何を与ええようか。
神は、あなたの手から何を受けられるだろうか。
あなたの悪は、ただ、あなたのような人間に、
あなたの正しさは、ただ、人の子に、かかわりを持つだけだ。
(ヨブ記、第35章1~8節)
ええと、今回は前回の記事「マーリン・キャロザースさんの感謝と讃美の教え-【5】-」に書いたことについて、少し補足しておこうかなって思いました(^^;)
ヨブ記のあらすじについては、前回の記事を参考していただくとして……「一体ヨブの何が悪かったのか」、また、彼の神に対する不満の答えが、何故神の「創造の御業」や「自然界を支配する御業」に言及するという、そのような回答だったのか、そのことについて少し触れてみたいと思いますm(_ _)m
なんていうか、わたし自身、クリスチャンになってからまず新約聖書をすべて読み、次に旧約聖書を順番に読んでいくという過程で……ヨブ記までやって来て初めてこの書を読んだ時、とても面白くて興奮したのを覚えています。
何故といって、生まれ落ちたその瞬間から自分は何一つとして悪を行わなかった、悪いことなど一度もしたことがない――というような方は正直誰もいないと思うんですね。これはもちろん、「日本の法律に触れるような悪いこと」といった意味ではなく、普段の日常の人の悪口を言うとか嘘をつくといったことを含めた人の良心の問題において、という意味です。
人は誰しも心のどこかにそうした「やましい」何かを抱えて生きているのが普通だと思います。けれども、そうした中でもヨブは神さまが「地上に彼ほど清く正しい者は誰もいないのだが」とお認めになるくらい、正しい人、義人だったということです。
けれども、息子や娘を失い、また多くの家畜といった財産を失っただけでなく……頭のてっぺんから足の裏に至るまで腫物で打たれてのち、ヨブは神さまに愚痴というか、文句を洩らしはじめます。
>>なぜ、苦しむ者に光が与えられ、
心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。
死を待ち望んでも、死は来ない。
それを掘り求めても、
隠された宝を堀り求めるのにすぎないとは。
彼らは墓を見つけると、
なぜ、歓声をあげて喜び、楽しむのだろう。
神が囲いに閉じ込めて、
自分の道が隠されている人に、
なぜ、光が与えられるのだろう。
実に、私には食物の代わりに嘆きが来て、
私のうめき声は水のようにあふれ出る。
私の最も恐れたものが、私を襲い、
私のおびえたものが
私の身にふりかかったからだ。
私には安らぎもなく、
休みもなく、いこいもなく、
心はかき乱されている。
(ヨブ記、第3章20~26節)
†聖書脚注=私の最も恐れたもの、私のおびえたもの――死ぬことなく、苦しみながら生き続けること。
>>私は安らかな身であったが、
神は私を打ち砕き、
私の首をつかまえて粉々にし、
私を立ててご自分の的とされた。
その射手たちは私を巡り囲み、
神は私の内臓を容赦なく射抜き、
私の胆汁を地に流した。
神は私を打ち破って、破れに破れを加え、
勇士のように私に向かって馳せかかる。
(ヨブ記、第16章12~14節)
>>「私のふしどが私を慰め、(※ふしど=夜寝る所、寝所の意味)
私の寝床が私の嘆きを軽くする」と私が言うと、
あなたは夢で私をおののかせ、幻によって私をおびえさせます。
それで私のたましいは、むしろ窒息を選び、
私の骨よりも死を選びます。
私はいのちをいといます。
私はいつまでも生きたくありません。
私にかまわないでください。
私の日々はむなしいものです。
人とは何者なのでしょう。あなたがこれを選び、
これに御心を留められるとは。
また、朝ごとにこれを訪れ、
そのつどこれをためされるとは。
いつまで、あなたは私から目をそらされないのですか。
つばを飲みこむ間も、私を捨てておかれないのですか。
私が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに私は何ができましょう。
なぜ、私をあなたの的とされるのですか。
私が重荷を負わなければならないのですか。
どうして、あなたはわたしのそむきの罪を赦さず、
私の不義を除かれないのですか。
今、私はちりの中に横たわります。
あなたが私を捜されても、
私はもうおりません。
(ヨブ記、第7章13~21節)
>>私の生まれた日は滅びうせよ。
「男の子が胎に宿った」と言ったその夜も。
その日はやみになれ。
神もその日を顧みるな。
光もその上を照らすな。
やみと暗黒がこれをとり戻し、
雲がこの上にとどまれ。
昼を暗くするものもそれをおびやかせ。
その夜は、暗やみがこれを奪い取るように。
これを年の日のうちで喜ばせるな。
月の数のうちにも入れるな。
ああ、その夜ははらむことのないように。
その夜には喜びの声も起こらないように。
日をのろう者、
レビヤタンを呼び起こせる者が
これをのろうように。
その夜明けの星は暗くなれ。
光を待ち望んでも、それはなく、
暁のまぶたのあくのを見ることがないように。
それは、私の母の胎の戸が閉じられず、
私の目から苦しみが隠されなかったからだ。
なぜ、私は胎から出たとき、
死ななかったのか。
なぜ、私は、生まれ出たとき、
息絶えなかったのか。
(ヨブ記、第3章3~11節)
こうしたヨブの主張というのは、わたしたち読者にとって、あまりにも当然のことであるように感じられますよね
しかも裕福な間は敬ってくれた人々も自分から離れ去り、さらにはかつての友三人に架空の罪まで押しつけられ、実はそんな隠れた罪があったから、今おまえはこんな目に遭っているのだ……などと責められたのでは、たまったものではありません。
何故神さまがサタン(悪魔)を通してこのような出来事を許されたのか――というのは、わたしは神ではありませんからわかりませんが(当たり前・笑)、これはキリスト教界でも割合今も結構起きていることではないかという気がします。
たとえば、大きな教会のトップに立っているリーダーの方などは狙われやすいということですよね。そこで、「あの牧師は△□だ」とか「偽善者め!」といったことを噂話として流されたり、あるいは今はネットがありますから、あることないこと書かれることについては事欠かないかもしれません(そして、キリスト教徒はこうした事柄のあるものは明らかにサタンの働きが関わっているであろう……といったように、普通の日常会話としてしゃべったりします^^;)
それはさておき、ヨブの苦悩はわたしたちにとってわかりすぎるほど共感できるものですが、何故ヨブと三人の友人の会話が尽きたあとに――エリフが彼を責めたのか、そのことには理由があったと思います。エリフがヨブを責める箇所を読むと、一部それまでの四人の会話と重なるところもありますし、そこには若干の違いしか見出されないように感じる方もおられるかもしれません。
けれどもわたしが思うに……ヨブは苦悩の中で悶え叫ぶうちに、確かにある罪を犯しているとは思います。つまり、「神さま、わたしは清く正しく生きてきたのになんで」、「どうしてですか」、「あなたはわたしの今のこの悲惨な状態を見ておられないのですか」、「また見ていたとすれば何故わたしを今救ってくださらないのですか」……と毎日毎時間叫ぶうちに、いつしか自分と神とを同位置に置く、いや、それどころか神よりも自分の主張こそが正しいものであるとして、自分を神よりも上の高い位置に置いたということ、これがヨブの罪であったと思います。
おそらく、わたしだけでなく、神のヨブに対する最終的な答えが、神の創造の御業や自然を支配する力であることに対して、不満を覚える読者は多いと思うんですよね(ちなみに、この点について批難している方の文章を読んだことがある……とわたしが前回書いたのは、実は心理学者のユングのことです)。
けれども、確かに神さまのヨブに対する回答というのは、同時に正しいものでもあるのです。何故ならヨブは、心の中で神さまに愚痴をこぼし、不満と怒りを爆発させただけでなく――確かにそのような過程で、本来は塵にすぎない自分という人間の立ち位置にまで神さまのことを引き下げ、神と顔と顔とを合わせることさえ出来れば、自分の主張を申し上げ、自分は必ず神に勝てると言っているも同然だったのですから……。
そして、ヨブだけでなく、こうした問題を地上に生きるほとんどすべての人が持っているのではないでしょうか。
また、これは戦争時代を生きたユダヤ人のある方の言葉ですが、「もし神がいて、このような苦難を許された理由について、「このような理由があったのだ」といったように説明してくれたとしても――わたしはそれらのことを信じるなど到底できない」とおっしゃっていた方もおられます。
けれども、そうしたことに関しても、戦争というのは神さまがそうと望まれて神さま御自身が起こされるものではありませんし、多くの場合において人間の欲望が後ろで働いていて争いが起きる……ということがほとんどなのではないでしょうか。
でも、わたしたちは思うんですよね。「あなたはそのような者としてわたしたち人間を造られたのではありませんか」とか「戦争を起こさないことも、戦争を止める力も神さまはお持ちのはずなのに、どうして」といったように。
こうした事柄についてもわたしは神さまではありませんからわかりませんが(当たり前です^^;)、ヨブにはあるひとつのことだけは言える気がします。どんなに清く正しい生き方をしていても、ヨブのようにある日突然苦難に出会わなければならないのなら、清く生きることにどんな価値や意味があるのか……またそれはただ、天国へ行ったらその苦難の報いを受けられるとか、そうした証明できないことについてだけなのか、と。
わたしは自分がキリスト教徒だからそういう読み方をするのかもしれませんが、やはりヨブの苦難には意味があったと思います。また、苦難に遭う前までヨブが神に正しい人として認められるくらい清い生き方をしてきたということにも……何故なら、ヨブは間違いなく自分の人生を襲った事柄について、神さまに直接責任を取ってもらうということが出来たからです。
そしてヨブがそう出来たのも、彼がずっと清く正しく生きようと心がけてきたからですし、神さまもまた、そのようなヨブの正しさをわかっていればこそ、滅多にしない御自身の存在を現わして語るということまでなさったのだと思います。
また、前回>>「神は愛です」(ヨハネの手紙第一、第4章16節)、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書、第43章4節)と聖句を引用したことに関連して、この点についても少し補足しておきますね(^^;)
神さまは間違いなく確かに愛だとわたしも思います。ヨブ記に関連してこのことを語るとしますと、神さまの御性質のひとつに<不変性>ということがあると思うんですね。それは、>>「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル人への手紙、第13章5節)、「あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」(イザヤ書、第46章4節)といった聖書の言葉にも表れているかと思います。
つまり、マーリン・キャロザースさんの御著書「讃美の力」からマーリンさんの言葉を引用しますと、
>>「私たちが神を拒絶する時にも、神にそむく時にも、卑劣である時にも、神は私たちを愛されるのです。人生を台なしにしてしまったような時にも神はわたしたちを愛しておられるのです。常に私たちを受け入れ、また許し、ご自身の喜びと平安をもって私たちを満たそうとしておられるのです」
という、そうしたことだと思います。
この世界には、「何か正しいことをしたから」ということが理由で、天国へ入れる人はいません。つまり、生きている間にいかに善行に励んだかが唯一神さまに受け容れられる基準であるとしたなら、わたしたち人間のうちのほとんどが不合格となってしまいます。そのことを当然神さまはご存じでした。
そこで、ヨブが神さま御自身から直接責任を取っていただいたように――イエスさまが地上にお生まれになり、十字架にかかり、わたしたちが本来受けるべき神さまからの刑罰をすべて代わりに背負ってくださった今は、わたしたちの人生上の問題については、イエスさまが責任を持ってくださるのです。
ヨブはイエスさまがこの世界に誕生される以前の、旧約時代の人物ですから、まだそのような道は開かれていませんでした。
けれど、今はヨブのように特別正しい、神さまから目を留められるほどの人だけが彼の受けたような恵みにあずかれるというのではなく……イエスさまのことを神の御子、また彼の十字架の血の贖いを信じるすべての人に、まったく同じ道が開かれているという神さまからの一方的な恵みがあるのです。
そして、それでもなおかつ、わたしたちがヨブ記を読む時に多少の欲求不満を覚えるとすれば……それはこういうことかもしれません(わたしはクリスチャンなのでそうした読み方はしませんが、それでもノンクリスチャンの方がヨブ記を物語として読んだ場合はそうかもしれないといったように思うのです)。
つまり、神さまがヨブのところにやって来られて、「実はサタンとこのような話しあいをしたのだよ。おまえには何一つとして悪いところなどありはしなかったのに、こんなことしちゃってごめんよ」と、謝罪してくださるということです(^^;)
そして、ヨブのほうでも、神さまが直接自分のような塵にすぎぬ存在を訪れてくださったことを喜び感動し――「いえ、そのような、とんでもない。わたしの正しさなど、神さまの目には取るに足らぬもの。今はただ、自分の苦難や苦悩にも意味があったということがわかり、ただあなたの御前に平伏するばかりです。むしろ、わたしはあなたが祝福してくださる人生にいつしか安住し、人を助けることをしながらも心に奢りのあったことを覚えます。ああ、神さま。この地上であなただけが神です。こんなにも罪深いわたしをお赦しください」……ようするに、物語の展開としては、こちらのほうがある意味では妥当だということですよね。
けれど、それがいかに正しい主張であれども、心の中に怒りを蓄え、神を口汚く罵るか、そのような直前にいるといった心理状態に人が陥る時――そのような人が正しいということはないのです。そして、こうした事柄についてはわたしたち人間の誰もが心当たりのあることであり、それであればこそ、そのゆえにこそ、「ヨブ記」は本当に深い、永遠に答えの出ぬ問答にも近い何かをわたしたちに与えるのではないでしょうか。
それではまた~!!
>>エリフはさらに続けて言った。
あなたはこのことを正義によると思うのか。
「私の義は神からだ」とでも言うのか。
あなたは言っている。
「何があなたの役に立つのでしょうか。
私が罪を犯さないと、どんな利益がありましょうか」と。
私はあなたと、またあなたとともにいるあなたの友人たちに答えて言おう。
天を仰ぎ見よ。
あなたより、はるかに高い雲を見よ。
あなたが罪を犯しても、神に対して何ができよう。
あなたのそむきの罪が多くても、あなたは神に何をなしえようか。
あなたが正しくても、あなたは神に何を与ええようか。
神は、あなたの手から何を受けられるだろうか。
あなたの悪は、ただ、あなたのような人間に、
あなたの正しさは、ただ、人の子に、かかわりを持つだけだ。
(ヨブ記、第35章1~8節)
ええと、今回は前回の記事「マーリン・キャロザースさんの感謝と讃美の教え-【5】-」に書いたことについて、少し補足しておこうかなって思いました(^^;)
ヨブ記のあらすじについては、前回の記事を参考していただくとして……「一体ヨブの何が悪かったのか」、また、彼の神に対する不満の答えが、何故神の「創造の御業」や「自然界を支配する御業」に言及するという、そのような回答だったのか、そのことについて少し触れてみたいと思いますm(_ _)m
なんていうか、わたし自身、クリスチャンになってからまず新約聖書をすべて読み、次に旧約聖書を順番に読んでいくという過程で……ヨブ記までやって来て初めてこの書を読んだ時、とても面白くて興奮したのを覚えています。
何故といって、生まれ落ちたその瞬間から自分は何一つとして悪を行わなかった、悪いことなど一度もしたことがない――というような方は正直誰もいないと思うんですね。これはもちろん、「日本の法律に触れるような悪いこと」といった意味ではなく、普段の日常の人の悪口を言うとか嘘をつくといったことを含めた人の良心の問題において、という意味です。
人は誰しも心のどこかにそうした「やましい」何かを抱えて生きているのが普通だと思います。けれども、そうした中でもヨブは神さまが「地上に彼ほど清く正しい者は誰もいないのだが」とお認めになるくらい、正しい人、義人だったということです。
けれども、息子や娘を失い、また多くの家畜といった財産を失っただけでなく……頭のてっぺんから足の裏に至るまで腫物で打たれてのち、ヨブは神さまに愚痴というか、文句を洩らしはじめます。
>>なぜ、苦しむ者に光が与えられ、
心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。
死を待ち望んでも、死は来ない。
それを掘り求めても、
隠された宝を堀り求めるのにすぎないとは。
彼らは墓を見つけると、
なぜ、歓声をあげて喜び、楽しむのだろう。
神が囲いに閉じ込めて、
自分の道が隠されている人に、
なぜ、光が与えられるのだろう。
実に、私には食物の代わりに嘆きが来て、
私のうめき声は水のようにあふれ出る。
私の最も恐れたものが、私を襲い、
私のおびえたものが
私の身にふりかかったからだ。
私には安らぎもなく、
休みもなく、いこいもなく、
心はかき乱されている。
(ヨブ記、第3章20~26節)
†聖書脚注=私の最も恐れたもの、私のおびえたもの――死ぬことなく、苦しみながら生き続けること。
>>私は安らかな身であったが、
神は私を打ち砕き、
私の首をつかまえて粉々にし、
私を立ててご自分の的とされた。
その射手たちは私を巡り囲み、
神は私の内臓を容赦なく射抜き、
私の胆汁を地に流した。
神は私を打ち破って、破れに破れを加え、
勇士のように私に向かって馳せかかる。
(ヨブ記、第16章12~14節)
>>「私のふしどが私を慰め、(※ふしど=夜寝る所、寝所の意味)
私の寝床が私の嘆きを軽くする」と私が言うと、
あなたは夢で私をおののかせ、幻によって私をおびえさせます。
それで私のたましいは、むしろ窒息を選び、
私の骨よりも死を選びます。
私はいのちをいといます。
私はいつまでも生きたくありません。
私にかまわないでください。
私の日々はむなしいものです。
人とは何者なのでしょう。あなたがこれを選び、
これに御心を留められるとは。
また、朝ごとにこれを訪れ、
そのつどこれをためされるとは。
いつまで、あなたは私から目をそらされないのですか。
つばを飲みこむ間も、私を捨てておかれないのですか。
私が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに私は何ができましょう。
なぜ、私をあなたの的とされるのですか。
私が重荷を負わなければならないのですか。
どうして、あなたはわたしのそむきの罪を赦さず、
私の不義を除かれないのですか。
今、私はちりの中に横たわります。
あなたが私を捜されても、
私はもうおりません。
(ヨブ記、第7章13~21節)
>>私の生まれた日は滅びうせよ。
「男の子が胎に宿った」と言ったその夜も。
その日はやみになれ。
神もその日を顧みるな。
光もその上を照らすな。
やみと暗黒がこれをとり戻し、
雲がこの上にとどまれ。
昼を暗くするものもそれをおびやかせ。
その夜は、暗やみがこれを奪い取るように。
これを年の日のうちで喜ばせるな。
月の数のうちにも入れるな。
ああ、その夜ははらむことのないように。
その夜には喜びの声も起こらないように。
日をのろう者、
レビヤタンを呼び起こせる者が
これをのろうように。
その夜明けの星は暗くなれ。
光を待ち望んでも、それはなく、
暁のまぶたのあくのを見ることがないように。
それは、私の母の胎の戸が閉じられず、
私の目から苦しみが隠されなかったからだ。
なぜ、私は胎から出たとき、
死ななかったのか。
なぜ、私は、生まれ出たとき、
息絶えなかったのか。
(ヨブ記、第3章3~11節)
こうしたヨブの主張というのは、わたしたち読者にとって、あまりにも当然のことであるように感じられますよね
しかも裕福な間は敬ってくれた人々も自分から離れ去り、さらにはかつての友三人に架空の罪まで押しつけられ、実はそんな隠れた罪があったから、今おまえはこんな目に遭っているのだ……などと責められたのでは、たまったものではありません。
何故神さまがサタン(悪魔)を通してこのような出来事を許されたのか――というのは、わたしは神ではありませんからわかりませんが(当たり前・笑)、これはキリスト教界でも割合今も結構起きていることではないかという気がします。
たとえば、大きな教会のトップに立っているリーダーの方などは狙われやすいということですよね。そこで、「あの牧師は△□だ」とか「偽善者め!」といったことを噂話として流されたり、あるいは今はネットがありますから、あることないこと書かれることについては事欠かないかもしれません(そして、キリスト教徒はこうした事柄のあるものは明らかにサタンの働きが関わっているであろう……といったように、普通の日常会話としてしゃべったりします^^;)
それはさておき、ヨブの苦悩はわたしたちにとってわかりすぎるほど共感できるものですが、何故ヨブと三人の友人の会話が尽きたあとに――エリフが彼を責めたのか、そのことには理由があったと思います。エリフがヨブを責める箇所を読むと、一部それまでの四人の会話と重なるところもありますし、そこには若干の違いしか見出されないように感じる方もおられるかもしれません。
けれどもわたしが思うに……ヨブは苦悩の中で悶え叫ぶうちに、確かにある罪を犯しているとは思います。つまり、「神さま、わたしは清く正しく生きてきたのになんで」、「どうしてですか」、「あなたはわたしの今のこの悲惨な状態を見ておられないのですか」、「また見ていたとすれば何故わたしを今救ってくださらないのですか」……と毎日毎時間叫ぶうちに、いつしか自分と神とを同位置に置く、いや、それどころか神よりも自分の主張こそが正しいものであるとして、自分を神よりも上の高い位置に置いたということ、これがヨブの罪であったと思います。
おそらく、わたしだけでなく、神のヨブに対する最終的な答えが、神の創造の御業や自然を支配する力であることに対して、不満を覚える読者は多いと思うんですよね(ちなみに、この点について批難している方の文章を読んだことがある……とわたしが前回書いたのは、実は心理学者のユングのことです)。
けれども、確かに神さまのヨブに対する回答というのは、同時に正しいものでもあるのです。何故ならヨブは、心の中で神さまに愚痴をこぼし、不満と怒りを爆発させただけでなく――確かにそのような過程で、本来は塵にすぎない自分という人間の立ち位置にまで神さまのことを引き下げ、神と顔と顔とを合わせることさえ出来れば、自分の主張を申し上げ、自分は必ず神に勝てると言っているも同然だったのですから……。
そして、ヨブだけでなく、こうした問題を地上に生きるほとんどすべての人が持っているのではないでしょうか。
また、これは戦争時代を生きたユダヤ人のある方の言葉ですが、「もし神がいて、このような苦難を許された理由について、「このような理由があったのだ」といったように説明してくれたとしても――わたしはそれらのことを信じるなど到底できない」とおっしゃっていた方もおられます。
けれども、そうしたことに関しても、戦争というのは神さまがそうと望まれて神さま御自身が起こされるものではありませんし、多くの場合において人間の欲望が後ろで働いていて争いが起きる……ということがほとんどなのではないでしょうか。
でも、わたしたちは思うんですよね。「あなたはそのような者としてわたしたち人間を造られたのではありませんか」とか「戦争を起こさないことも、戦争を止める力も神さまはお持ちのはずなのに、どうして」といったように。
こうした事柄についてもわたしは神さまではありませんからわかりませんが(当たり前です^^;)、ヨブにはあるひとつのことだけは言える気がします。どんなに清く正しい生き方をしていても、ヨブのようにある日突然苦難に出会わなければならないのなら、清く生きることにどんな価値や意味があるのか……またそれはただ、天国へ行ったらその苦難の報いを受けられるとか、そうした証明できないことについてだけなのか、と。
わたしは自分がキリスト教徒だからそういう読み方をするのかもしれませんが、やはりヨブの苦難には意味があったと思います。また、苦難に遭う前までヨブが神に正しい人として認められるくらい清い生き方をしてきたということにも……何故なら、ヨブは間違いなく自分の人生を襲った事柄について、神さまに直接責任を取ってもらうということが出来たからです。
そしてヨブがそう出来たのも、彼がずっと清く正しく生きようと心がけてきたからですし、神さまもまた、そのようなヨブの正しさをわかっていればこそ、滅多にしない御自身の存在を現わして語るということまでなさったのだと思います。
また、前回>>「神は愛です」(ヨハネの手紙第一、第4章16節)、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書、第43章4節)と聖句を引用したことに関連して、この点についても少し補足しておきますね(^^;)
神さまは間違いなく確かに愛だとわたしも思います。ヨブ記に関連してこのことを語るとしますと、神さまの御性質のひとつに<不変性>ということがあると思うんですね。それは、>>「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル人への手紙、第13章5節)、「あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」(イザヤ書、第46章4節)といった聖書の言葉にも表れているかと思います。
つまり、マーリン・キャロザースさんの御著書「讃美の力」からマーリンさんの言葉を引用しますと、
>>「私たちが神を拒絶する時にも、神にそむく時にも、卑劣である時にも、神は私たちを愛されるのです。人生を台なしにしてしまったような時にも神はわたしたちを愛しておられるのです。常に私たちを受け入れ、また許し、ご自身の喜びと平安をもって私たちを満たそうとしておられるのです」
という、そうしたことだと思います。
この世界には、「何か正しいことをしたから」ということが理由で、天国へ入れる人はいません。つまり、生きている間にいかに善行に励んだかが唯一神さまに受け容れられる基準であるとしたなら、わたしたち人間のうちのほとんどが不合格となってしまいます。そのことを当然神さまはご存じでした。
そこで、ヨブが神さま御自身から直接責任を取っていただいたように――イエスさまが地上にお生まれになり、十字架にかかり、わたしたちが本来受けるべき神さまからの刑罰をすべて代わりに背負ってくださった今は、わたしたちの人生上の問題については、イエスさまが責任を持ってくださるのです。
ヨブはイエスさまがこの世界に誕生される以前の、旧約時代の人物ですから、まだそのような道は開かれていませんでした。
けれど、今はヨブのように特別正しい、神さまから目を留められるほどの人だけが彼の受けたような恵みにあずかれるというのではなく……イエスさまのことを神の御子、また彼の十字架の血の贖いを信じるすべての人に、まったく同じ道が開かれているという神さまからの一方的な恵みがあるのです。
そして、それでもなおかつ、わたしたちがヨブ記を読む時に多少の欲求不満を覚えるとすれば……それはこういうことかもしれません(わたしはクリスチャンなのでそうした読み方はしませんが、それでもノンクリスチャンの方がヨブ記を物語として読んだ場合はそうかもしれないといったように思うのです)。
つまり、神さまがヨブのところにやって来られて、「実はサタンとこのような話しあいをしたのだよ。おまえには何一つとして悪いところなどありはしなかったのに、こんなことしちゃってごめんよ」と、謝罪してくださるということです(^^;)
そして、ヨブのほうでも、神さまが直接自分のような塵にすぎぬ存在を訪れてくださったことを喜び感動し――「いえ、そのような、とんでもない。わたしの正しさなど、神さまの目には取るに足らぬもの。今はただ、自分の苦難や苦悩にも意味があったということがわかり、ただあなたの御前に平伏するばかりです。むしろ、わたしはあなたが祝福してくださる人生にいつしか安住し、人を助けることをしながらも心に奢りのあったことを覚えます。ああ、神さま。この地上であなただけが神です。こんなにも罪深いわたしをお赦しください」……ようするに、物語の展開としては、こちらのほうがある意味では妥当だということですよね。
けれど、それがいかに正しい主張であれども、心の中に怒りを蓄え、神を口汚く罵るか、そのような直前にいるといった心理状態に人が陥る時――そのような人が正しいということはないのです。そして、こうした事柄についてはわたしたち人間の誰もが心当たりのあることであり、それであればこそ、そのゆえにこそ、「ヨブ記」は本当に深い、永遠に答えの出ぬ問答にも近い何かをわたしたちに与えるのではないでしょうか。
それではまた~!!
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