【ジョン・ウェスレー】ウィリアム・ハミルトン
さて、今回も早速マーリン・キャロザース先生の「聖なる楽しみ」、第10章「訓練された弟子たち」より学んでいきたいと思いますm(_ _)m
>>それから、イエスは弟子たちに言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」
(マタイの福音書、第16章24節)
この第10章でマーリンさんはまず、人の耳に聞こえのいいことを語るのではなく、イエスさまの十字架を中心に語ることの大切さについて述べておられます。
>>マジソン通りで働く重役連中なら、イエス様に広告の基本的原則をこう説明することでしょう。
「いいですか!決して否定的な部分を強調してはいけませんよ。自己否定なんてこの国では、はやらないんですから。彼らが求めているものを掲げなさい。必要なら、新しく造りだしてもいいんですよ。でもどうか決して、十字架なんか提供しないでくださいよ」
「イエス様のイメージを利用するのはいいことですよ。でも死のイメージはちょっといただけませんね。成功をお望みでしたら、あなたが建てていらっしゃる天国のマンションのことを特に強調したらいいでしょう。天国………祝福…平和…愛…喜び、こういったところでしょうか。いいですか、十字架は忘れてくださいよ」
しかしイエス様はテレビを見たり、雑誌を読んだりしませんから、このようなコマーシャルの広告技法には左右されることはありません。「自分を捨てなさい。そして自分の十字架を背負って私について来なさい」と、もっとはっきり言われます。この世の広告の仕方は賢いと言えます。というのは大衆に訴えるよう造られているからです。イエス様は特定の人に訴えられます。ほんの一握りの人たちでよいのです。イエス様のように喜んでなりたいという弟子たちを望んでおられます。そのためにイエス様は十字架にかかられたのです。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
もちろんわたし、アメリカにおけるキリスト教の現状について、詳しく知っているわけでもなんでもありません(^^;)
ただ、伝え聞いたところによると、「イエス・キリストのことをどう思うか?」といった質問を誰かにした場合、その方があまり宗教に熱心な方じゃなくても、「うん。もちろんイエスのことは好きだよ!」みたいな答えが返ってくると聞いたことがあります。
でも、キリスト教についての実質というか、イエスさまが十字架上で血を流されたのは、わたしたち人類ひとりびとりのためだった……といったことの本当の意味について<悟る>ことがないよう、表面的で聞こえがいいように若干加工されている、またサタンの惑わしがそのような形で入りやすい、という部分がおそらくあるっていうことなのではないでしょうか(^^;)
そのですね、アメリカってキリスト教を国教としてますし、真実本当にイエスさまのことを信じて毎週教会へ通う熱心な信徒の方がいる一方、「そうした堅苦しくて面倒なのは嫌だーっ!!」という方もいらっしゃって、パターンAとしては、「イエスのこと?ああ、もちろん知ってるよ。ま、教会にはたまに気が向いた時に行く程度だけど」といった、知識として知ってるけど、聖霊のバプテスマを受けてはいないといったタイプの方、そしてパターンB、こちらがちょっとややこしく、学校の教育その他でキリスト教の歴史その他、ある程度のところはわかっているものの、あえて否定している……というのがあると思うんですよね。。。
いえ、このABだけに分けられるっていうほど単純な話ではないと思うんですけど(汗)、たとえば、アメリカでは「牧師の息子は駄目になる」という話があるそうで、それは両親が堅苦しい生活を送りつつ、教会の信徒の方から色々苦しめられたりするのを見て育ち、「自分はあんなふうにはなりたくない」と両親の生き方を否定したり、あるいは敬虔な両親に育てられたからこそ、そうしたキリスト教の型に嵌まった生活から大人になってようやく解放された時、「本当に自分は自由で、他に幸せになれる道はいくらでもあると思った」……といった方もいらっしゃるっていうことなんですよね(^^;)
なので、マーリンさんも確かご講演の中で「わたしたちの仕事は難しいものになってきています」とおっしゃっていたと思うんですけど、<信じ方>の問題として、「自分はキリスト教徒です」と名乗りつつ、復活祭やクリスマスなど、ある程度宗教的行事は守っているけれども、毎週必ず教会へ行くということまではしようと思わない、むしろ「毎週教会で日曜礼拝を守らないと地獄へ落ちると思ってる人はカワイソウだと思う☆」といった、キリスト教が国教であればこその難しさっていうんでしょうか。これはどんなに優れた宣教師がやって来ても人がなかなか救われないという、日本とはまた別の<信じ方>の難しさなのかなって思います。。。
でもマーリンさんは、そうした方々の「耳に聞こえのいい」ことを言って救いに導くというのではなく、あくまで「自分を捨てなさい。そして自分の十字架を背負ってわたしについてきなさい」というキリスト教のもっとも核心的なメッセージを語るよう、神さまに語られていたわけですよね。
>>私たちの十字架は、たとえどんなものであっても、いつ見ても重そうに見えます。それは難しい仕事であったり、不幸な結婚であったり、愛せない親戚であったり、自分たちが嫌な肉体の欠陥であるかもしれません。時には、その十字架を下に置きたいという誘惑にかられるかもしれませんが、私たちはそれを死ぬまで運んでいかなければなりません。だからこそ、神様の力が必要なのです。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
そうなんですよね。自分で自分の力を握って自分の人生をコントロール出来ている、またそうして一体何が悪い……といった人生を送られている方ならおそらく、「いやまあ、イエスって悪い奴じゃないし、むしろいい奴だよね。だから俺も信じたい気持ちはあるけどさあ。でも、女の裸見るたんびに片目抉ってらんないし、そこまでのことを求められるのは嫌ってことなんだよ」――といったような、何かそんな感じなのかもしれません。
でも、ある程度人生を学んだ方、あるいはひどい苦境や困難を経験した方ならわかるでしょう。わたしも「何故こんなものを押しつけられることになってしまったのだろう」といったような十字架を日々背負っていますし、その十字架は自分自身が犯した罪の結果である場合もあれば、自分でもどうにも出来ない運命の力によって押しつけられたようなものである場合もあると思います。また、<罪の十字架>などと聞くと、人が一般に思い浮かべるのは、何か重苦しいイメージだと思うんですよね。
このあたりのキリスト教の十字架のメッセージを誤解している方はおそらく多いと思うのですが、イエスさまが十字架にかかって血を流されたのは、そのわたしたちの罪の十字架が神さまの愛の力によって祝福や恵み、愛、希望……実はそういったものに変わるためなのです!
それであればこそ、イエスさまはあれほどの十字架の苦難を耐え忍ばれたのですし、またそのことこそが、「我々人類すべてのためにイエスは十字架にかかられた」という意味のすべてなのです。このイエスさまの十字架の血潮の力を信じ、その血を受けた者は「まったく罪なし」とされ、天国へ行くことが出来ます。そうなのです。ただ、イエスさまのことをそのような福音をもたらされた方であると知り、<信じる>ことさえしたら、ただそれだけで!
>>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章28節)
たとえば、今現在目に見える形、あるいは目に見えない形で「(実際に)刑務所に入っている」、「己の罪ゆえに心の牢獄で暮らすような生活を送っている」方にとっては、「イエス・キリストを信じれば、その感謝できない状態を感謝できるようになり、さらにはそのことが後にあなたの人生にとって益となる」と言われても、到底信じられないと思います。
けれども、本当の意味での罪からの解放の力は、イエスさまの十字架の血潮の力のみによってしかもたらされることはありません。そして、この神さまからの祝福のメッセージをひとりでも多くの方に伝えるために、「弟子として訓練される必要がある」とマーリンさんは語っておられます。
たとえば、マーリンさんが「テレビを見る時間を捨て、もう一度前と同じくわたしに仕えなさい」と語られた時、もしマーリンさんがその言葉に聞き従っていなかったとしたら、わたしはこの「聖なる楽しみ」という本を読んでいなかったでしょうし、あるいはもしかしたら、マーリンさんの「感謝と讃美の教え」のことも知らずにいたままでいたかもしれません。
そしてそれと同じように、マーリンさんはメソジストですから、章の後半のほうで、メソジストの創始者であるジョン・ウェスレーのことに触れて、彼が福音宣教の情熱に燃やされた人生を送った方であったからこそ、自分も自分の父親もイエスさまのことを主として受け容れたのです、と書かれておられます。
>>この神の人について書かれた本をもう一度読んでみると、さらによく理解できました。ここにイエス様の弟子として生きた人の姿がありました。五十年以上も、朝四時に祈りをし、五時に説教をした人でした。365日毎日そうでした。私のメソジスト教会の創始者であるこの人のことをすっかり忘れていました。
ジョン・ウェスレーには目標がありました。全ての人に福音を語ることでした。それに人生を懸けていました。彼が85歳の時、雨が降ったら風邪を引くので、馬で出歩かないよう彼の友だちは頼んだ。しかしジョンは次から次へと人々がイエス様を信じて救いに預かるようにと飛び回ったのです。ジョン・ウェスレーは当時の人たちに弟子になるよう呼びかけました。誰でも彼の指導のもとに来るなら、喜んで彼らを訓練しました。
当時の宗教指導者たちは大学の学位がなかったら、説教するなんて不届きだと考えていました。しかしジョンは「それは違う。イエス様は全ての人に弟子になるよう呼ばれた」と反論しました。ジョンはその人が準備万端だと思ったら、説教者が必要なところどこへでも送りました。その人たちの何人かは新しい土地、後にアメリカと呼ばれる所まで出かけていったのです。
このホヤホヤの説教者は植民地を燃やしてまわったのです。ある歴史家は「茂みの中で何か動いているのが聞こえたら熊かメソジストの説教者だ」と言ったものです。この説教者たちの一人がペンシルバニア州のウォータンバーグまで行き、小さな田舎の教会を設立しました。そこで私の父親はイエス様を救い主として受け入れ、その息子の私もイエス様を主として受け入れたというわけです。
もしジョン・ウェスレーがのんびりした人生を送っていたら、ひょっとしたら私は福音を聞くこともなかったかもしれません。彼は当時もっとも格式の高いオックスフォード大学の教授職を退き、地位も、名声も、富をも捨てて、主に従い人間を取る漁師になったのです。ジョンは様々の「方法」でもって、神様に最高に仕えることが出来ると信じました。
彼にとって、方法は結果を生みだすので、どんな方法を用いても、人をイエスさまに導くのに結びつけました。イギリス国教会から追い出され、伝道の締め出しを食ったとき、彼は外に出かけて行きました。宗教指導者たちは、野外説教は冒とく行為だと考えていましたが、ジョンはいつでもどこでも説教したのです。
まもなく、何百人、何千人の人が集まり、中には何日もかけて、彼の説教を聞きに来る人もいました。雨が降っても、雪が降っても、何時間も立って、巨漢ウェスレー氏の信仰による救いや聖い生活について耳を傾けました。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
そして、第10章の「訓練された弟子たち」は、次のような文章によって終わっています。
>>「あなたが自分の時間をどのように使うか、その決断が多くの人にも影響を与えることでしょう」と聖霊様が語って下さいました。これはどのクリスチャンにも当てはまることです。あなたが自分の時間をどのように使うか、その決定が多くの人の永遠の運命を決定することにもなるでしょう!
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
ジョン・ウェスレーがいなかったら、マーリンさんはもしかしたらイエスさまのことを信じることはなかったかもしれませんし、そうなると、わたしもまたマーリンさんの「感謝と讃美の教え」について知らないままだったかもしれません。
そう考えていくと、本当に時間をどう使うか、最優先事項として常に神さま、イエスさまのことを何より最上位に置くというのは非常に重要なことと思います。人というのは一日何もすることがないと、とりあえず習慣に従って動く……というのは、よく知られた事実ですよね。わたしの場合、何がなくても聖書、あるいはマーリンさんの書かれた本、その他キリスト教関係の本を読み、そのあと祈る――ということが中心にない生活というのは、今はもう考えられなくなりました。そして、何もこれは自分の肉体や精神を打ち叩いて苦しみ呻きつつ日々そうしているのではなく、そのこと自体が恵みであり喜びであり、信仰の源泉であるイエスさまから流れてくる泉の水に聖霊さまによって常に触れていることでもあるわけです。
わたし個人はこのことを「とても良い習慣」、あるいは「最高の習慣」と感じていますが、もしかしたら毎日好きな時に漫画を読んでゲームをし、パソコンに向かってインターネットをし、その間好きな時間に好きなものを食べるのがわたしにとっての最高の幸せだ……といった方もいらっしゃるかもしれません。
個人的に、他に仕事をしていて、休暇の間くらいそのようにしてもいいだろう、といったことはあると思います。また、家に引きこもってずっとそのようにしている、ということも、個人的に「悪い」といったようには思いません。けれども、わたしも人に偉そうなことは言えませんが、そうした時間が「永遠に続く」ということはないと思うのです。
むしろ逆に「今はこうしていても(自分の好きなことだけしていても)、終わりの時というのは必ず訪れる」というのは、多くの方が意識していることだと思います。そして、その時にどうしたらいいかというのは、「永遠なる方」、「永遠なる神」である方であるイエスさまのことを信じて聞くのが一番いいと思うんですよね(^^;)
また、「この子はこんなことでどうなってしまうんだろう」など、子供、あるいは父親や母親や兄弟姉妹など、家族についての悩みは尽きないものだと思います。そしてこうした悩みのすべてについても、イエスさまの十字架の足下へ持っていく時、イエスさまは聖霊さまを通して必ず解決を与えてくださる方でもあるのです。
それでは、次回は第11章「時のあがない」より、マーリンさんの教えをさらに学んでいきたいと思いますm(_ _)m
ではまた~!!
さて、今回も早速マーリン・キャロザース先生の「聖なる楽しみ」、第10章「訓練された弟子たち」より学んでいきたいと思いますm(_ _)m
>>それから、イエスは弟子たちに言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」
(マタイの福音書、第16章24節)
この第10章でマーリンさんはまず、人の耳に聞こえのいいことを語るのではなく、イエスさまの十字架を中心に語ることの大切さについて述べておられます。
>>マジソン通りで働く重役連中なら、イエス様に広告の基本的原則をこう説明することでしょう。
「いいですか!決して否定的な部分を強調してはいけませんよ。自己否定なんてこの国では、はやらないんですから。彼らが求めているものを掲げなさい。必要なら、新しく造りだしてもいいんですよ。でもどうか決して、十字架なんか提供しないでくださいよ」
「イエス様のイメージを利用するのはいいことですよ。でも死のイメージはちょっといただけませんね。成功をお望みでしたら、あなたが建てていらっしゃる天国のマンションのことを特に強調したらいいでしょう。天国………祝福…平和…愛…喜び、こういったところでしょうか。いいですか、十字架は忘れてくださいよ」
しかしイエス様はテレビを見たり、雑誌を読んだりしませんから、このようなコマーシャルの広告技法には左右されることはありません。「自分を捨てなさい。そして自分の十字架を背負って私について来なさい」と、もっとはっきり言われます。この世の広告の仕方は賢いと言えます。というのは大衆に訴えるよう造られているからです。イエス様は特定の人に訴えられます。ほんの一握りの人たちでよいのです。イエス様のように喜んでなりたいという弟子たちを望んでおられます。そのためにイエス様は十字架にかかられたのです。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
もちろんわたし、アメリカにおけるキリスト教の現状について、詳しく知っているわけでもなんでもありません(^^;)
ただ、伝え聞いたところによると、「イエス・キリストのことをどう思うか?」といった質問を誰かにした場合、その方があまり宗教に熱心な方じゃなくても、「うん。もちろんイエスのことは好きだよ!」みたいな答えが返ってくると聞いたことがあります。
でも、キリスト教についての実質というか、イエスさまが十字架上で血を流されたのは、わたしたち人類ひとりびとりのためだった……といったことの本当の意味について<悟る>ことがないよう、表面的で聞こえがいいように若干加工されている、またサタンの惑わしがそのような形で入りやすい、という部分がおそらくあるっていうことなのではないでしょうか(^^;)
そのですね、アメリカってキリスト教を国教としてますし、真実本当にイエスさまのことを信じて毎週教会へ通う熱心な信徒の方がいる一方、「そうした堅苦しくて面倒なのは嫌だーっ!!」という方もいらっしゃって、パターンAとしては、「イエスのこと?ああ、もちろん知ってるよ。ま、教会にはたまに気が向いた時に行く程度だけど」といった、知識として知ってるけど、聖霊のバプテスマを受けてはいないといったタイプの方、そしてパターンB、こちらがちょっとややこしく、学校の教育その他でキリスト教の歴史その他、ある程度のところはわかっているものの、あえて否定している……というのがあると思うんですよね。。。
いえ、このABだけに分けられるっていうほど単純な話ではないと思うんですけど(汗)、たとえば、アメリカでは「牧師の息子は駄目になる」という話があるそうで、それは両親が堅苦しい生活を送りつつ、教会の信徒の方から色々苦しめられたりするのを見て育ち、「自分はあんなふうにはなりたくない」と両親の生き方を否定したり、あるいは敬虔な両親に育てられたからこそ、そうしたキリスト教の型に嵌まった生活から大人になってようやく解放された時、「本当に自分は自由で、他に幸せになれる道はいくらでもあると思った」……といった方もいらっしゃるっていうことなんですよね(^^;)
なので、マーリンさんも確かご講演の中で「わたしたちの仕事は難しいものになってきています」とおっしゃっていたと思うんですけど、<信じ方>の問題として、「自分はキリスト教徒です」と名乗りつつ、復活祭やクリスマスなど、ある程度宗教的行事は守っているけれども、毎週必ず教会へ行くということまではしようと思わない、むしろ「毎週教会で日曜礼拝を守らないと地獄へ落ちると思ってる人はカワイソウだと思う☆」といった、キリスト教が国教であればこその難しさっていうんでしょうか。これはどんなに優れた宣教師がやって来ても人がなかなか救われないという、日本とはまた別の<信じ方>の難しさなのかなって思います。。。
でもマーリンさんは、そうした方々の「耳に聞こえのいい」ことを言って救いに導くというのではなく、あくまで「自分を捨てなさい。そして自分の十字架を背負ってわたしについてきなさい」というキリスト教のもっとも核心的なメッセージを語るよう、神さまに語られていたわけですよね。
>>私たちの十字架は、たとえどんなものであっても、いつ見ても重そうに見えます。それは難しい仕事であったり、不幸な結婚であったり、愛せない親戚であったり、自分たちが嫌な肉体の欠陥であるかもしれません。時には、その十字架を下に置きたいという誘惑にかられるかもしれませんが、私たちはそれを死ぬまで運んでいかなければなりません。だからこそ、神様の力が必要なのです。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
そうなんですよね。自分で自分の力を握って自分の人生をコントロール出来ている、またそうして一体何が悪い……といった人生を送られている方ならおそらく、「いやまあ、イエスって悪い奴じゃないし、むしろいい奴だよね。だから俺も信じたい気持ちはあるけどさあ。でも、女の裸見るたんびに片目抉ってらんないし、そこまでのことを求められるのは嫌ってことなんだよ」――といったような、何かそんな感じなのかもしれません。
でも、ある程度人生を学んだ方、あるいはひどい苦境や困難を経験した方ならわかるでしょう。わたしも「何故こんなものを押しつけられることになってしまったのだろう」といったような十字架を日々背負っていますし、その十字架は自分自身が犯した罪の結果である場合もあれば、自分でもどうにも出来ない運命の力によって押しつけられたようなものである場合もあると思います。また、<罪の十字架>などと聞くと、人が一般に思い浮かべるのは、何か重苦しいイメージだと思うんですよね。
このあたりのキリスト教の十字架のメッセージを誤解している方はおそらく多いと思うのですが、イエスさまが十字架にかかって血を流されたのは、そのわたしたちの罪の十字架が神さまの愛の力によって祝福や恵み、愛、希望……実はそういったものに変わるためなのです!
それであればこそ、イエスさまはあれほどの十字架の苦難を耐え忍ばれたのですし、またそのことこそが、「我々人類すべてのためにイエスは十字架にかかられた」という意味のすべてなのです。このイエスさまの十字架の血潮の力を信じ、その血を受けた者は「まったく罪なし」とされ、天国へ行くことが出来ます。そうなのです。ただ、イエスさまのことをそのような福音をもたらされた方であると知り、<信じる>ことさえしたら、ただそれだけで!
>>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章28節)
たとえば、今現在目に見える形、あるいは目に見えない形で「(実際に)刑務所に入っている」、「己の罪ゆえに心の牢獄で暮らすような生活を送っている」方にとっては、「イエス・キリストを信じれば、その感謝できない状態を感謝できるようになり、さらにはそのことが後にあなたの人生にとって益となる」と言われても、到底信じられないと思います。
けれども、本当の意味での罪からの解放の力は、イエスさまの十字架の血潮の力のみによってしかもたらされることはありません。そして、この神さまからの祝福のメッセージをひとりでも多くの方に伝えるために、「弟子として訓練される必要がある」とマーリンさんは語っておられます。
たとえば、マーリンさんが「テレビを見る時間を捨て、もう一度前と同じくわたしに仕えなさい」と語られた時、もしマーリンさんがその言葉に聞き従っていなかったとしたら、わたしはこの「聖なる楽しみ」という本を読んでいなかったでしょうし、あるいはもしかしたら、マーリンさんの「感謝と讃美の教え」のことも知らずにいたままでいたかもしれません。
そしてそれと同じように、マーリンさんはメソジストですから、章の後半のほうで、メソジストの創始者であるジョン・ウェスレーのことに触れて、彼が福音宣教の情熱に燃やされた人生を送った方であったからこそ、自分も自分の父親もイエスさまのことを主として受け容れたのです、と書かれておられます。
>>この神の人について書かれた本をもう一度読んでみると、さらによく理解できました。ここにイエス様の弟子として生きた人の姿がありました。五十年以上も、朝四時に祈りをし、五時に説教をした人でした。365日毎日そうでした。私のメソジスト教会の創始者であるこの人のことをすっかり忘れていました。
ジョン・ウェスレーには目標がありました。全ての人に福音を語ることでした。それに人生を懸けていました。彼が85歳の時、雨が降ったら風邪を引くので、馬で出歩かないよう彼の友だちは頼んだ。しかしジョンは次から次へと人々がイエス様を信じて救いに預かるようにと飛び回ったのです。ジョン・ウェスレーは当時の人たちに弟子になるよう呼びかけました。誰でも彼の指導のもとに来るなら、喜んで彼らを訓練しました。
当時の宗教指導者たちは大学の学位がなかったら、説教するなんて不届きだと考えていました。しかしジョンは「それは違う。イエス様は全ての人に弟子になるよう呼ばれた」と反論しました。ジョンはその人が準備万端だと思ったら、説教者が必要なところどこへでも送りました。その人たちの何人かは新しい土地、後にアメリカと呼ばれる所まで出かけていったのです。
このホヤホヤの説教者は植民地を燃やしてまわったのです。ある歴史家は「茂みの中で何か動いているのが聞こえたら熊かメソジストの説教者だ」と言ったものです。この説教者たちの一人がペンシルバニア州のウォータンバーグまで行き、小さな田舎の教会を設立しました。そこで私の父親はイエス様を救い主として受け入れ、その息子の私もイエス様を主として受け入れたというわけです。
もしジョン・ウェスレーがのんびりした人生を送っていたら、ひょっとしたら私は福音を聞くこともなかったかもしれません。彼は当時もっとも格式の高いオックスフォード大学の教授職を退き、地位も、名声も、富をも捨てて、主に従い人間を取る漁師になったのです。ジョンは様々の「方法」でもって、神様に最高に仕えることが出来ると信じました。
彼にとって、方法は結果を生みだすので、どんな方法を用いても、人をイエスさまに導くのに結びつけました。イギリス国教会から追い出され、伝道の締め出しを食ったとき、彼は外に出かけて行きました。宗教指導者たちは、野外説教は冒とく行為だと考えていましたが、ジョンはいつでもどこでも説教したのです。
まもなく、何百人、何千人の人が集まり、中には何日もかけて、彼の説教を聞きに来る人もいました。雨が降っても、雪が降っても、何時間も立って、巨漢ウェスレー氏の信仰による救いや聖い生活について耳を傾けました。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
そして、第10章の「訓練された弟子たち」は、次のような文章によって終わっています。
>>「あなたが自分の時間をどのように使うか、その決断が多くの人にも影響を与えることでしょう」と聖霊様が語って下さいました。これはどのクリスチャンにも当てはまることです。あなたが自分の時間をどのように使うか、その決定が多くの人の永遠の運命を決定することにもなるでしょう!
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
ジョン・ウェスレーがいなかったら、マーリンさんはもしかしたらイエスさまのことを信じることはなかったかもしれませんし、そうなると、わたしもまたマーリンさんの「感謝と讃美の教え」について知らないままだったかもしれません。
そう考えていくと、本当に時間をどう使うか、最優先事項として常に神さま、イエスさまのことを何より最上位に置くというのは非常に重要なことと思います。人というのは一日何もすることがないと、とりあえず習慣に従って動く……というのは、よく知られた事実ですよね。わたしの場合、何がなくても聖書、あるいはマーリンさんの書かれた本、その他キリスト教関係の本を読み、そのあと祈る――ということが中心にない生活というのは、今はもう考えられなくなりました。そして、何もこれは自分の肉体や精神を打ち叩いて苦しみ呻きつつ日々そうしているのではなく、そのこと自体が恵みであり喜びであり、信仰の源泉であるイエスさまから流れてくる泉の水に聖霊さまによって常に触れていることでもあるわけです。
わたし個人はこのことを「とても良い習慣」、あるいは「最高の習慣」と感じていますが、もしかしたら毎日好きな時に漫画を読んでゲームをし、パソコンに向かってインターネットをし、その間好きな時間に好きなものを食べるのがわたしにとっての最高の幸せだ……といった方もいらっしゃるかもしれません。
個人的に、他に仕事をしていて、休暇の間くらいそのようにしてもいいだろう、といったことはあると思います。また、家に引きこもってずっとそのようにしている、ということも、個人的に「悪い」といったようには思いません。けれども、わたしも人に偉そうなことは言えませんが、そうした時間が「永遠に続く」ということはないと思うのです。
むしろ逆に「今はこうしていても(自分の好きなことだけしていても)、終わりの時というのは必ず訪れる」というのは、多くの方が意識していることだと思います。そして、その時にどうしたらいいかというのは、「永遠なる方」、「永遠なる神」である方であるイエスさまのことを信じて聞くのが一番いいと思うんですよね(^^;)
また、「この子はこんなことでどうなってしまうんだろう」など、子供、あるいは父親や母親や兄弟姉妹など、家族についての悩みは尽きないものだと思います。そしてこうした悩みのすべてについても、イエスさまの十字架の足下へ持っていく時、イエスさまは聖霊さまを通して必ず解決を与えてくださる方でもあるのです。
それでは、次回は第11章「時のあがない」より、マーリンさんの教えをさらに学んでいきたいと思いますm(_ _)m
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