(な、懐かしい……!!)
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
(エペソ人への手紙、第5章15~16節)
この時代を支配しようと必死になって、御国とこの世の主権との霊的戦いはこれからも続くと私は思います。いずれにしても、神様だけが大切なことを知っておられると思ったら大間違いで、敵も、私たちが誰のために時間を使い、また何に時間を費やしているのか知っています。そして、いつ私たちの時間を盗んで、自分のものにしたらよいかもよく知っています。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
今回も早速、マーリン・キャロザース先生の「聖なる楽しみ」、第11章「時のあがない」より、学んでいきたいと思いますm(_ _)m
この章でマーリンさんは主に、限られた人生の中の「時間の使い方」について述べておられるのですが、神さまに真実お仕えしていくためには、自分の好きなことをすべて行ったあと、その残りの時間を少しばかり神さまのためにも使う――というのではなく、まず、神さまのために最良の時間を一番に捧げて、残りの時間を少しばかり自分のためにも使う……といったように、思考や行動をチェンジする必要があるのだと思います。
とはいえ、仕事やお子さんの世話や、その他介護など……人にはそれぞれ色々な立場があって、一日に祈る時間を一時間――いや、三十分や二十分でもひねり出すのが大変だ、という方はたくさんいらっしゃると思うんですよね(^^;)
けれどもこのことも、聖霊さまを通して祈りの中で「どうか神さま、わたしに祈る時間をお与えください」と求めるなら、不思議な形で神さまは祈る時間や聖書を読む時間を与えてくださると思います。
つまり、心の中で神さまに捧げる時間を第一位にする、と決めたその瞬間から、「そのためにどうしたらいいですか」とイエスさまに祈り聞くなら、むしろそうした時から何故か他の事柄もスムーズに循環してうまくいくようになったとか、何かしらの「神さまの不思議な御業」を体験していくことが出来ると思うのです。
マーリンさんも、テレビを見る時間を神さまに奉仕する時間に変えてから、再び聖霊さまからの強い霊の注ぎかけがあったわけですが、マーリンさんはテレビの他に、ラジオを聞く時間や娯楽小説を読む時間、ゴルフを楽しむ時間の切り換えなど、すべてにおいて神さまに聞き従っていかれました。
もちろん、マーリンさんもその後一切テレビを見ず、ラジオも聞かず、ゴルフもしなくなった……というわけではありませんし、ただ「どんな娯楽もリラックスが過ぎると怠惰という名の毒になる」ということを神さまから示され、注意されたということですよね。
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」
次にはこれです。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
この二つより大事な命令はほかにありません。
(マルコの福音書、第12章30~31節)
>>神様を心を尽くして愛し、隣人を無償の愛で愛するには、自分たちの時間を全て捧げずしてはできないことを神様は知っておられました。そして、全ての力をもってするようにと言われたのです。私たちが一分一分のうちに出した力こそ私たちの人生を築いていくことになることを神様は知っておられました。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
「人は習慣の動物である」という言葉がありますが、本当にその通りだと思います。
それと、今の<この世>というのは、誘惑の極めて多い、複雑な世の中でもありますよね(^^;)
たとえば十代の息子さんや娘さんに、「どうしてずっとゲームしてちゃいけないの?」とか、「インターネットばかりしてて、何が悪いの?」と聞かれた場合、言葉によって説明し、なおかつ相手にそのことを納得してもらうのはかなりの困難を要するのではないでしょうか。
むしろ、特にこちらで何もそう強く働きかけなくても、子供たちがゲームやインターネットはそこそこに勉強してくれたり、スポーツに熱中してくれたりして、バランスの取れた生活を送っていてくれたとすれば、親御さんとしてはこれほどほっとすることはないと思います。
その……わたしが何より「人類もここまで来たか」と感じるのは、このあたりのことって、<脳の構造の問題>とも関連性があると思うからなんですよね(^^;)
今のお子さんたちって、小さな頃からスマホ慣れしてますし、わたしのように小さな頃はまだ携帯なんてなかった、パソコンもインターネットも今ほど普及してなかった……といった世代と違って、デジタル的なものから脳が刺激を受けて、「それがないともう生きられない」というか、もうそれが<習慣>として自分の内側に取り込まれているがゆえに、中毒になった時によりそうしたものから引き離すのが難しいと思うのです。
もちろん、「そんなの大人だって同じだよ」とおっしゃる方も多いと思うのですが、たとえば、一流のアスリートの方、あるいはスポーツで一流を目指す子供たちの場合――これはピアノやヴァイオリン、バレエなどの習い事をしているお子さんもそうかもしれませんが、親御さんのほうで相当厳しくスマホを見る時間やインターネットをする時間、ゲームをする時間を制限するっていいますよね。
これも「そんなの、どこの家庭だって同じだよ」という話でもあるのですが、ただわたし、この時にも<脳の構造の問題>っていうことについては、とても強く意識する必要があるような気がしています。
つまり、ラインなどもそうだと思うんですけど、一度相手からすぐ返事の来るコミュニケーションを覚えてしまうと、「もうそれなしでは生きられない」というか、「ないとどうしても物足りない」……みたいに、脳が禁断症状を起こすわけです。
でも、このあたりのことをとても強く意識して、先にすぐ脳に快楽を与えるのではなく、自分のすべきこと、やるべきことをやってからご褒美としてそれらのものを与える――という習慣が自分の中で確立されると、これは本当に相当すごくいいんですよ(^^;)
何故かというと、「自分のすべきこと、やるべきこと」に着手する前にただなんとなく快楽的なものがやって来る……ということに対して脳が習慣として違和感を覚え、むしろ「ただなんとなく快楽的なものが来る」ことを脳が拒んだ結果として、しっかり十分勉強したり何かの練習をしてからご褒美としてゲームやインターネットをする、みたいに自然となるからなんですよね(言い換えると、「ちょっと我慢する→ご褒美」というふうに脳が覚えて、その時に出す快楽物質が「ただなんとなく快楽を与えられる」時よりも強くなり、もっと上質の快楽物質を求めるなら、我慢する率を上げる、さらに達成感という名の快楽物質が脳から出る……という無限循環を習慣として持つようになる、ということなんですけど)。
もちろん、こうしたことを強制的に子供さんに教えるのは大変なことなわけですけれども、それと同じように神さまのことを行動の起点として第一にしてからその他のことに着手する――といったように意識を変えていくと、「祈ったり聖書を読んだりするよりも、あれやこれやのほうが大事!」という生活を変えていけると思うのです。
しかも、神さま、イエスさまのことを第一に、中心としていくことが確立すると、人生の他の分野においても祝福されていくのですから、本当に不思議です
けれども、わたしたちが快楽中心、自分がしたいこと中心主義に陥ると、一度心が砂漠化するようなことが起きても、どこからも水が湧いてこない苦しみを経験することになると思います。いえ、それ以上の苦しみ――水はたくさんあるのに、自分だけはそれを飲むことが出来ない、他の人はみんなそうしているのに、どうして自分は駄目なのか……といった心の窮乏を経験することにすらなるかもしれません。
もちろん、多くのクリスチャンの方が、最初から神さま・イエスさまを中心にすることが当たり前、というより、なんらかのそうした信仰的、人生の失敗を通して、こうしたことを理解し、その後は聖霊さまを通したイエスさまのおっしゃることを第一にすることの大切さを知っていく……体験として理解していく、という段階を通っているっていうことだったりするわけですけど(^^;)
マーリンさんのおっしゃっているのは大体そうしたことについてではないかと思うのですが、章の冒頭のほうで<敵もそのことを知っている>とマーリンさんが書かれているとおり、インターネットは宣教の強力な武器であるのと同時に、それ以外のことで使用する時には特に気をつける必要があるのだと思います(もちろん、わたしもこうした事柄について、人にあれこれ言えなかったりするんですけど^^;)。
ギャンブルや麻薬などもそうかもしれませんが、一度脳がその快楽を覚えて、「それなしではいられない」といった中毒状態が形作られると――そこから抜けだすというのは、本当に相当大変なことだと思うのです。。。
ではでは、次回は第12章「バランスの取れた生活」より、さらにマーリンさんの教えについて学んでいきたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
(エペソ人への手紙、第5章15~16節)
この時代を支配しようと必死になって、御国とこの世の主権との霊的戦いはこれからも続くと私は思います。いずれにしても、神様だけが大切なことを知っておられると思ったら大間違いで、敵も、私たちが誰のために時間を使い、また何に時間を費やしているのか知っています。そして、いつ私たちの時間を盗んで、自分のものにしたらよいかもよく知っています。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
今回も早速、マーリン・キャロザース先生の「聖なる楽しみ」、第11章「時のあがない」より、学んでいきたいと思いますm(_ _)m
この章でマーリンさんは主に、限られた人生の中の「時間の使い方」について述べておられるのですが、神さまに真実お仕えしていくためには、自分の好きなことをすべて行ったあと、その残りの時間を少しばかり神さまのためにも使う――というのではなく、まず、神さまのために最良の時間を一番に捧げて、残りの時間を少しばかり自分のためにも使う……といったように、思考や行動をチェンジする必要があるのだと思います。
とはいえ、仕事やお子さんの世話や、その他介護など……人にはそれぞれ色々な立場があって、一日に祈る時間を一時間――いや、三十分や二十分でもひねり出すのが大変だ、という方はたくさんいらっしゃると思うんですよね(^^;)
けれどもこのことも、聖霊さまを通して祈りの中で「どうか神さま、わたしに祈る時間をお与えください」と求めるなら、不思議な形で神さまは祈る時間や聖書を読む時間を与えてくださると思います。
つまり、心の中で神さまに捧げる時間を第一位にする、と決めたその瞬間から、「そのためにどうしたらいいですか」とイエスさまに祈り聞くなら、むしろそうした時から何故か他の事柄もスムーズに循環してうまくいくようになったとか、何かしらの「神さまの不思議な御業」を体験していくことが出来ると思うのです。
マーリンさんも、テレビを見る時間を神さまに奉仕する時間に変えてから、再び聖霊さまからの強い霊の注ぎかけがあったわけですが、マーリンさんはテレビの他に、ラジオを聞く時間や娯楽小説を読む時間、ゴルフを楽しむ時間の切り換えなど、すべてにおいて神さまに聞き従っていかれました。
もちろん、マーリンさんもその後一切テレビを見ず、ラジオも聞かず、ゴルフもしなくなった……というわけではありませんし、ただ「どんな娯楽もリラックスが過ぎると怠惰という名の毒になる」ということを神さまから示され、注意されたということですよね。
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」
次にはこれです。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
この二つより大事な命令はほかにありません。
(マルコの福音書、第12章30~31節)
>>神様を心を尽くして愛し、隣人を無償の愛で愛するには、自分たちの時間を全て捧げずしてはできないことを神様は知っておられました。そして、全ての力をもってするようにと言われたのです。私たちが一分一分のうちに出した力こそ私たちの人生を築いていくことになることを神様は知っておられました。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
「人は習慣の動物である」という言葉がありますが、本当にその通りだと思います。
それと、今の<この世>というのは、誘惑の極めて多い、複雑な世の中でもありますよね(^^;)
たとえば十代の息子さんや娘さんに、「どうしてずっとゲームしてちゃいけないの?」とか、「インターネットばかりしてて、何が悪いの?」と聞かれた場合、言葉によって説明し、なおかつ相手にそのことを納得してもらうのはかなりの困難を要するのではないでしょうか。
むしろ、特にこちらで何もそう強く働きかけなくても、子供たちがゲームやインターネットはそこそこに勉強してくれたり、スポーツに熱中してくれたりして、バランスの取れた生活を送っていてくれたとすれば、親御さんとしてはこれほどほっとすることはないと思います。
その……わたしが何より「人類もここまで来たか」と感じるのは、このあたりのことって、<脳の構造の問題>とも関連性があると思うからなんですよね(^^;)
今のお子さんたちって、小さな頃からスマホ慣れしてますし、わたしのように小さな頃はまだ携帯なんてなかった、パソコンもインターネットも今ほど普及してなかった……といった世代と違って、デジタル的なものから脳が刺激を受けて、「それがないともう生きられない」というか、もうそれが<習慣>として自分の内側に取り込まれているがゆえに、中毒になった時によりそうしたものから引き離すのが難しいと思うのです。
もちろん、「そんなの大人だって同じだよ」とおっしゃる方も多いと思うのですが、たとえば、一流のアスリートの方、あるいはスポーツで一流を目指す子供たちの場合――これはピアノやヴァイオリン、バレエなどの習い事をしているお子さんもそうかもしれませんが、親御さんのほうで相当厳しくスマホを見る時間やインターネットをする時間、ゲームをする時間を制限するっていいますよね。
これも「そんなの、どこの家庭だって同じだよ」という話でもあるのですが、ただわたし、この時にも<脳の構造の問題>っていうことについては、とても強く意識する必要があるような気がしています。
つまり、ラインなどもそうだと思うんですけど、一度相手からすぐ返事の来るコミュニケーションを覚えてしまうと、「もうそれなしでは生きられない」というか、「ないとどうしても物足りない」……みたいに、脳が禁断症状を起こすわけです。
でも、このあたりのことをとても強く意識して、先にすぐ脳に快楽を与えるのではなく、自分のすべきこと、やるべきことをやってからご褒美としてそれらのものを与える――という習慣が自分の中で確立されると、これは本当に相当すごくいいんですよ(^^;)
何故かというと、「自分のすべきこと、やるべきこと」に着手する前にただなんとなく快楽的なものがやって来る……ということに対して脳が習慣として違和感を覚え、むしろ「ただなんとなく快楽的なものが来る」ことを脳が拒んだ結果として、しっかり十分勉強したり何かの練習をしてからご褒美としてゲームやインターネットをする、みたいに自然となるからなんですよね(言い換えると、「ちょっと我慢する→ご褒美」というふうに脳が覚えて、その時に出す快楽物質が「ただなんとなく快楽を与えられる」時よりも強くなり、もっと上質の快楽物質を求めるなら、我慢する率を上げる、さらに達成感という名の快楽物質が脳から出る……という無限循環を習慣として持つようになる、ということなんですけど)。
もちろん、こうしたことを強制的に子供さんに教えるのは大変なことなわけですけれども、それと同じように神さまのことを行動の起点として第一にしてからその他のことに着手する――といったように意識を変えていくと、「祈ったり聖書を読んだりするよりも、あれやこれやのほうが大事!」という生活を変えていけると思うのです。
しかも、神さま、イエスさまのことを第一に、中心としていくことが確立すると、人生の他の分野においても祝福されていくのですから、本当に不思議です
けれども、わたしたちが快楽中心、自分がしたいこと中心主義に陥ると、一度心が砂漠化するようなことが起きても、どこからも水が湧いてこない苦しみを経験することになると思います。いえ、それ以上の苦しみ――水はたくさんあるのに、自分だけはそれを飲むことが出来ない、他の人はみんなそうしているのに、どうして自分は駄目なのか……といった心の窮乏を経験することにすらなるかもしれません。
もちろん、多くのクリスチャンの方が、最初から神さま・イエスさまを中心にすることが当たり前、というより、なんらかのそうした信仰的、人生の失敗を通して、こうしたことを理解し、その後は聖霊さまを通したイエスさまのおっしゃることを第一にすることの大切さを知っていく……体験として理解していく、という段階を通っているっていうことだったりするわけですけど(^^;)
マーリンさんのおっしゃっているのは大体そうしたことについてではないかと思うのですが、章の冒頭のほうで<敵もそのことを知っている>とマーリンさんが書かれているとおり、インターネットは宣教の強力な武器であるのと同時に、それ以外のことで使用する時には特に気をつける必要があるのだと思います(もちろん、わたしもこうした事柄について、人にあれこれ言えなかったりするんですけど^^;)。
ギャンブルや麻薬などもそうかもしれませんが、一度脳がその快楽を覚えて、「それなしではいられない」といった中毒状態が形作られると――そこから抜けだすというのは、本当に相当大変なことだと思うのです。。。
ではでは、次回は第12章「バランスの取れた生活」より、さらにマーリンさんの教えについて学んでいきたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます