神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

人は、我の強さによって負けていく。

2024年03月19日 | キリスト教

 >>知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。

 あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。

(申命記、第9章6~7節)


 時々、何かの本の中や、あとは牧師さんのお説教の中でも聞いた記憶があるのですが、「ユダヤ人というのは、実にうなじのこわい民なんですね」とか、「そう言われてるんですね」といった表現について読んだり聞いたりすることがあります(他に「世界一頑なな民と言われています」など)。

 もちろんこれは、今という現代を生きるユダヤ人の方に対して「ユダヤ人ってみんなそうだよね~」と言っているわけではなく、あくまで「そのくらい厳格にユダヤ教というものを守ってきた」とか、「そのようなユダヤの人々であっても、聖書にそう書き記してあるとおり、いずれ彼らもイエスさまのことを信じるでしょう」……といったような文脈によって語られるものです。

 それはさておき、今回書きたかったのはそうした宗教的な事柄に関連したことではなく――クリスチャンと呼ばれる人々はみな、その全員が「霊的イスラエル人」なわけですから、聖書に書き記されている「実にあなたはうなじのこわい民だ」という言葉は、実はキリスト教徒にもそのまま用いられることだったりもするわけです。

 また、そうして言われてみれば……「あなたは実に我の強い人間だ」なんて、普段滅多に言われることはないにせよ、「確かにな~。わたしは我の強い人間だよな~」と、日常生活において何かの折にふと思うことが、わたし自身はよくあります。

 まあ、自分のことに関して言えば、「自分にとって大切な心の絶対領域」以外のことにおいては、大抵人に譲ることが多いような気がしますし、性格的な傾向としてこれは小さい頃からそうでなかったか、というような気もします。

 ところが、ですね。普段大抵のことにおいて人に譲っていると――今度は、「きっとこのことにおいてもこの人は譲ってくれるのではあるまいか」と思い、そのように頼まれるなりなんなりした場合……もしそれがわたしの「心の絶対領域」に関わることであったとしたら、わたしは絶対譲らないわけです。その部分の岩盤のようなものは、ダイヤモンドの原石か何かのように硬く、絶対に「ノー」と言ったら「ノー」なわけです。

 そして、これは誰でもそうであって、こうした事柄について心当たりのない方というのはおそらくいらっしゃらないと思います。でも、人はひとりで生きているわけではありませんから、とにかく日々ある程度のところで妥協をしなければならない……その「せめぎあい」の部分がどの程度のものかによって、「こっちゃあぜってえ譲らねえぞ!!」、「そんなこと言ったらこっちもだ!!」、「おとといきやがれ、てやんでい!!」といった江戸っ子のように腕をまくりあげての大喧嘩となるのか、それともお互いどの程度の妥協点を探っていくのか……ということになってくると思うわけです。

 わたし自身の人生のことで言うと、最初に自分のダイヤモンドの原石と相手のそれがぶつかった時、「絶対に譲らない」という態度を貫き通しました。何故かというと、普段の日常生活において人に譲ってることのほうが多いわけですし、「ここまで譲ることは自分には出来ない」という部分があったわけです。ところがですね、そんなの大抵誰でも同じなんですね(笑)。わたしと喧嘩になった人も、普段人に譲ってばかりいる心の優しい人。それなのに、何故そんな人同士で心を傷つけあうことになったのか――といったような話。

 でもたぶん、人生でこうした地点を通らない人はいないもので、やっぱりそうした経験を通して人は学ぶというか。そして、次からは「二度とこんなことにならないよう、この学びを生かそう」と思うようになる。まあ、人間は懲りない生き物なので、一度か二度学んだくらいではダメで、何度か学んでようやく――「我を通すっていうのは、どうもよくないもんだな」ということがわかってくるような気がします。

 ネットでググってみると、「我を通す」っていうのは、

 (1) 我意を張り通す。
 (2) あることをなしとげようと、困難に耐えて努力する。
 (3) 自分の意見を強く押し通す。

 とあり、「我意」とは、

 自分の考えを押し通そうとする気持。わがまま。勝手気ままな心。


 といったようにあります。

 まあ、一般的に言って、(3)の「自分の意見を強く押し通す」というのが、普段わたしたちが日常で使っている意味っぽい気がするのですが、(1)の我意に当たるものというのは、「片意地を張ってる」とかいうことの他に、それがただのワガママ的なものだったとしたら、それは「あの人のほうが間違いなく間違ってる」として、周囲の人にも受け入れられないことのような気がするわけです(^^;)

 でも、それがもし(2)の、「あることを成し遂げようと、困難に耐えて努力する」ということであったとするならば……「我を通す」というのも、決して悪い面ばかりではない気がします。

 そして、よく考えてみると、相手の我とわたしの側の我がぶつかりあうといったような時――もしその人と「今後はもう絶好だ!!」、「別れて二度と顔なんか合わせるものか」という覚悟の元、喧嘩しているということでもなく、ご夫妻だったら「そうは言っても経済的な事情によって別れられない」であるとか、親子であれば、「一度は音信不通になったけれども、何かをきっかけに再び連絡を取り合うようになった」など……まあ、「イヤイヤながらも一緒におらねばならない」とか、「今ならば親の気持ちが痛いほどよくわかる」など、「困難に耐えて努力する」、その耐え忍び方、困難を乗り越えるべく努力する力というのは人それぞれ、色々な時間のかけ方や方法があるような気がしたり。。。

 もちろん、ある程度年を取ると「我を通すのはただのエネルギーの無駄」といったように、悟る部分もあるような気もするのですが、これもまたやっぱり難しいなと、人を見ていても自分のことを思ってみても感じます。何故かというと、わたし自身はまだそうした年ではないとはいえ、いわゆる老人ホームへ行くことになかなか同意されないですとか、とにかく最後まで「自分の家にいたい」ということにがっしりしがみついて離れないというその気持ち、単なる我が儘でないその我の強さ……見ていて、(自分も同じ年齢になったら、絶対そうだよなあ)ということが痛いほどわかり、「我を通そうとしてみてもろくなことはない」と、一度は悟ったつもりでいながら、結局のところは自分もまた「そこだけは譲れない」ことに対しては、やはり同じことを繰り返すのです(^^;)。

 そして、神さまは、このようにうなじのこわい人間たちのことを心から愛してくださいました。イスラエル人(ユダヤ人)は、神さまに選ばれた民です。また、彼らのみならず人間の全体を「うなじのこわくない、神である自分に対して従順な民」とすることも、神さまにであれば、そのように人間を創造することも、きっと簡単だったのではないでしょうか。

 けれど神さまは、このなかなか言うことを聞かない人間のことをこの上もなく深い愛で愛され、「良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう」(イザヤ書、第41章23節)ともおっしゃいました。わたしたちには当然、神さまのスケールによって物事を捉えられたりはしませんが、この宇宙の大きなスケールから見れば、虫ほどの大きさどころか、砂粒ひとつの大きさもない人間に目を留め、「なんでも好きなとおり、思うとおりにやってみよ」と、神さまはそうお考えになったのではないでしょうか。しかも、その人間が犯した罪のすべてを、いずれは神さまのおひとり子であるイエスさまがすべて引き受けることになると、そのことをすでにご承知でありながら……。


 >>神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

(ヨハネの福音書、第3章16節)


 それではまた~!!






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