神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

あなたの庭にはダイヤモンドが埋まっている。

2018年05月12日 | キリスト教


「いや、そもそもうち、アパート暮らしで庭とかないから」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、これはあくまで一種の比喩ということで(^^;)

 以前、とある本の中に「自分の住んでいる庭にダイヤが埋まっているとも知らず、その土地を売ってダイヤを求め旅に出た男の話」というのがあった気がします(例によって記憶力弱くてすみません

 つまり、遠く旅に出たのにダイヤを獲得できず、彼が旅から帰ってきたところ、自分が売った土地に住んだ男が庭からダイヤモンドを見つけた……といったオチ☆のお話です

「え?それ、ようするにメーテルリンクの「青い鳥」の結末と同じじゃない?」と思われるかもしれませんが、確かに意味としては同じことですよねダイヤモンドを探して旅に出た男の場合、正直多くの方が「馬っ鹿じゃね?」と思われるかもしれません。

 でも、実はそうとも言えない、限らないとも思うのです。確かにこのダイヤモンドを探しに旅へ出た男の話は自分の家の庭に最初からダイヤが埋まっていたと知りがっかりして終わった気がするのですが――小沢健二さんの歌にもあるとおり、「ぼくらが旅に出る理由」は確かにあるものなのではないでしょうか。

 人生は旅に似ていると言いますが、誰かが仮に何かを求めて旅に出た場合……最終的に最初に自分が望んでいたものは手に入らないで終わるかもしれません。けれど、旅の途中で出会った誰かと生涯の友情で結ばれるかもしれませんし、人生をともにする伴侶の方を発見するかもしれない、とにかく旅に出なければ得られなかった豊かな経験を手にするということは、最初に旅に出ようと思わなければ得られないに違いありません。

 そして結局のところ、旅に出てダイヤモンドのように燦然と輝く物を手に出来なかったとしても――大抵の方は「それ以上の何か」を手にされるのではないか……と思うのです。ただし、意外とそのことに本人が気づいていないというのはあるような気がします。


 >>天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。

 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

(マタイの福音書、第13章44~46節)


 相当以前のお話ですが、とある教会の牧師さんが、ご自身のお母さんの話をちらとされていたことがありました。はっきりそうおっしゃったわけではなかったのですが、おそらくクリスチャンの方ではなかったのだと思います。「母は、『自分の人生には何ひとつとしていいことなどなかった』と言って亡くなった」ということだったんですよね。

 確か、当時で大体六十代くらいの牧師さんだった気がするので、お母さんはきっと八十台くらいか、あるいはそれよりもっと若くして亡くなったのではないかと想像します。その牧師さんのお話を聞いていてわたしが思ったのは、「息子さんがこんなに立派な牧師さんとして育たれたのだから、『何ひとつとしていいことがなかった』ということは決してなかったのではないだろうか」ということだったかもしれません。

 とはいえ、わたし自身の母もまたクリスチャンというわけではなく、本人も「自分の人生には何ひとつとして良いことなどなかった」というほどではなくても、それに近いものを持って生きてきたところのある母です。

 そして、これと似た思いを持って生きている……という方というのは意外に多くて、その場合その方が本当に不幸かというと、実はそれは「物の見方による」という部分が大きかったりするような気がします(^^;)

 いわゆる、コップに水が半分しかないと思うのか、それとも半分も水があると思うのかというのと似たようなことで、多くの方が「実はわたしの人生の庭にはダイヤモンドが埋まっていた」ということに気づいてない場合が多いのではないかという気がします。

 そして、マーリン・キャロザースさんの「感謝と賛美の教え」の逆をいく方というのはその多くが、その不満や嘆きやつらさの数を数えて過ごしている……また、周囲の人々もその方の話を聞いていて、彼女(彼)が嘆くのも無理はないという人生を送っていると知っているので、何も意見を言うことすら出来ない――といったようなことです。

 ただ、天の宝というのは地上では目に見えないことが多いとわたし自身は思っています(^^;)

 仮にわたしが自分の庭を見渡して、「わたしはなんて豊かなんだろう!」と思っていたとしても、この世的価値観に生きる方がわたしの人生を見た場合、「あの人はあんな砂漠の荒野にいて、一体何が幸せなんだろう」といったような感じのことです。

 わたしたちは、目に見えない、たとえて言うなら天国へ行ってから初めて換金が可能なもののために信仰に生きているようなものなので、「あんな不毛の地を喜々として買い込むだなんて、あの人は頭がおかしいんじゃないか」といったことのために幸福であったり、喜んでいたりするんですよね。

 キリスト教徒、クリスチャンの喜びというのはそんなふうに隠されていることが多いような気がするのですが、その価値がもし本当にわかっていたなら――本当に、自分の全財産を捨てても、その宝の隠された土地を誰もが買おうとすると思います。

 でも、今現在のこの世的価値観でその土地を眺めた場合は、「砂漠の中の荒野」(笑)のようにしか見えず、と同時にそのくらい「天国について人の目が開かれる」というのは、とても難しいことなのかもしれません。


 >>狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。

 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

(マタイの福音書、第7章13~14節)


 それではまた~!!





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