
【天国】モーリス・ド二
>>そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。
『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです』
しかし、賢い娘たちは答えて言った。
『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい』
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
(マタイの福音書、第25章1~13節)
ええと、今回の記事は一応、前回の続きです(^^;)
この十人の乙女たちのたとえは、色々解釈があるそうなのですが、とりあえずわたしが牧師さんのお話を聞いて知ったのは、油=聖霊のたとえだということだったんですよね。
乙女十人のうち、五人は賢く、五人は愚かだった……そして、愚かな娘のほうは花婿(イエスさま)がやって来た時に油を切らしてしまいそうになっているわけですが、この十人の乙女は片方がクリスチャンで、片方がノンクリスチャンだとか、そういうことではありません。
十人とも自分の花婿がイエス・キリストであると信じ告白しているという意味では、同じキリスト教徒なわけです。
けれども、愚かな娘五人は最後、そのイエスさまから『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言われ、御国から締め出されてしまいます。「ちょっと神さま、それは冷たすぎるのでは?
」という気もしますが、これはある意味、ただイエス・キリストが自分の主であることを信じ告白しているというだけでは、信仰として不十分である……ということなのではないでしょうか。
このお話のあとに、タラントのたとえが出てくることからも、おそらくそうであろうと思うのですが、信仰熱心であるならば、油(聖霊)が絶えることってないはずなんですよ(^^;)
ここからはあくまでもわたし個人の解釈であって、教会で牧師さんがそうおっしゃってたとかではないのですが、愚かな乙女たちが賢い娘たちに「油を分けてください」と言った時……賢い娘たちが断ったので、もしかしたら「この娘たちは賢いかもしれないが、心がちょっと冷たいのでは?」と思う方もおられるかもしれません。
けれども、これはそうしたことではなく――<信仰>っていうのはどう考えても、誰かに分けてあげられるものではないと思うんですよね(^^;)
もちろん、同じクリスチャン同士で信仰の証しを分かちあう、祈りを分かちあう、ともに賛美して主を讃える……そのような形で互いに信仰を分かちあって強められるということは当然あるにしても、わたしが今持っている信仰の一部を油を分けてあげるようにしては、他の人にあげることは出来ないというか。
救いとか信仰っていうのは、究極的には本当に個人的なもので、わたしが家族のためにいくら「救われますように」と祈ったとしても、最終的にそのことに同意したり、心から本当にイエスさまのことを信じることが出来るかどうかというのは、家族ひとりひとりの判断や決断にかかってきます。
つまり、わたしが父や母といった家族にかわって二人分洗礼を受けますから、それでどうか両親が天国に入れるように救ってくださいとか、そういう形で油=聖霊を分けることは出来ないというか。
もちろん、この愚かな娘たちの場合は、すでにイエスさまのことを信じて聖霊さまのことも一度は受けたのだと思います。けれども、花婿がなかなかやって来なかったことから、信仰の態度が怠慢になったりしていたのでしょう。そこで、「そら、花婿だ!」との声を聞いた時……準備が整っていなかったという、そういうことなのだと思います。
その点、賢い娘たちはイエスさまはまだ来そうにない、来るにしてももっとずっとあとだろう……という時にも、信仰熱心であり続け、いつでも心が聖霊さまに燃やされていたのだと思います。そして、こうした個々人の信仰的行ないの差って、油のようには他の人に分けてあげられないものだっていうことだと思うんですよね。
そして、花婿の態度が冷淡に感じられることにも当然、理由があると思います。何故といって、賢い娘と愚かな娘をまったく同列に扱うというのは、どう考えても不平等ですし、わたし個人が思うにこうした信仰的行為の<差>については、神さまはとても厳しく正しくあられる……といったように感じます。
また、言うまでもなく、この<花嫁>というたとえは、教会のことを指しており、信仰が眠っているような教会、イエスさまのことを信じてはいるが、聖霊さまの働きがまるで活発でない教会というのは、同じようにイエス・キリストを主と仰いでいても、目を覚ましていなければ携挙に与ることは出来ない……ということを意味しているのではないでしょうか。
それで、ですね。前回、十字架のペンダントを胸にかけていながら、ヴァンパイアに襲われてしまった娘と、信仰心を持っていて十字架のペンダントをつけていた娘との<差>っていうのが、こういうことではないのかな、と自分的に思ったというか(^^;)
わたし、基本的にホラー映画って苦手なんですけど……でも、欧米のホラー映画ってキリスト教の思想が出てくるものが結構多いので、「いや~ん。コワイ~☆
」という気持ちを少しばかり抑えて見てみると、なかなか信仰的に考えさせられるところがあったりします。。。
それではまた~!!
>>そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。
『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです』
しかし、賢い娘たちは答えて言った。
『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい』
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
(マタイの福音書、第25章1~13節)
ええと、今回の記事は一応、前回の続きです(^^;)
この十人の乙女たちのたとえは、色々解釈があるそうなのですが、とりあえずわたしが牧師さんのお話を聞いて知ったのは、油=聖霊のたとえだということだったんですよね。
乙女十人のうち、五人は賢く、五人は愚かだった……そして、愚かな娘のほうは花婿(イエスさま)がやって来た時に油を切らしてしまいそうになっているわけですが、この十人の乙女は片方がクリスチャンで、片方がノンクリスチャンだとか、そういうことではありません。
十人とも自分の花婿がイエス・キリストであると信じ告白しているという意味では、同じキリスト教徒なわけです。
けれども、愚かな娘五人は最後、そのイエスさまから『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言われ、御国から締め出されてしまいます。「ちょっと神さま、それは冷たすぎるのでは?

このお話のあとに、タラントのたとえが出てくることからも、おそらくそうであろうと思うのですが、信仰熱心であるならば、油(聖霊)が絶えることってないはずなんですよ(^^;)
ここからはあくまでもわたし個人の解釈であって、教会で牧師さんがそうおっしゃってたとかではないのですが、愚かな乙女たちが賢い娘たちに「油を分けてください」と言った時……賢い娘たちが断ったので、もしかしたら「この娘たちは賢いかもしれないが、心がちょっと冷たいのでは?」と思う方もおられるかもしれません。
けれども、これはそうしたことではなく――<信仰>っていうのはどう考えても、誰かに分けてあげられるものではないと思うんですよね(^^;)
もちろん、同じクリスチャン同士で信仰の証しを分かちあう、祈りを分かちあう、ともに賛美して主を讃える……そのような形で互いに信仰を分かちあって強められるということは当然あるにしても、わたしが今持っている信仰の一部を油を分けてあげるようにしては、他の人にあげることは出来ないというか。
救いとか信仰っていうのは、究極的には本当に個人的なもので、わたしが家族のためにいくら「救われますように」と祈ったとしても、最終的にそのことに同意したり、心から本当にイエスさまのことを信じることが出来るかどうかというのは、家族ひとりひとりの判断や決断にかかってきます。
つまり、わたしが父や母といった家族にかわって二人分洗礼を受けますから、それでどうか両親が天国に入れるように救ってくださいとか、そういう形で油=聖霊を分けることは出来ないというか。
もちろん、この愚かな娘たちの場合は、すでにイエスさまのことを信じて聖霊さまのことも一度は受けたのだと思います。けれども、花婿がなかなかやって来なかったことから、信仰の態度が怠慢になったりしていたのでしょう。そこで、「そら、花婿だ!」との声を聞いた時……準備が整っていなかったという、そういうことなのだと思います。
その点、賢い娘たちはイエスさまはまだ来そうにない、来るにしてももっとずっとあとだろう……という時にも、信仰熱心であり続け、いつでも心が聖霊さまに燃やされていたのだと思います。そして、こうした個々人の信仰的行ないの差って、油のようには他の人に分けてあげられないものだっていうことだと思うんですよね。
そして、花婿の態度が冷淡に感じられることにも当然、理由があると思います。何故といって、賢い娘と愚かな娘をまったく同列に扱うというのは、どう考えても不平等ですし、わたし個人が思うにこうした信仰的行為の<差>については、神さまはとても厳しく正しくあられる……といったように感じます。
また、言うまでもなく、この<花嫁>というたとえは、教会のことを指しており、信仰が眠っているような教会、イエスさまのことを信じてはいるが、聖霊さまの働きがまるで活発でない教会というのは、同じようにイエス・キリストを主と仰いでいても、目を覚ましていなければ携挙に与ることは出来ない……ということを意味しているのではないでしょうか。
それで、ですね。前回、十字架のペンダントを胸にかけていながら、ヴァンパイアに襲われてしまった娘と、信仰心を持っていて十字架のペンダントをつけていた娘との<差>っていうのが、こういうことではないのかな、と自分的に思ったというか(^^;)
わたし、基本的にホラー映画って苦手なんですけど……でも、欧米のホラー映画ってキリスト教の思想が出てくるものが結構多いので、「いや~ん。コワイ~☆

それではまた~!!

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