神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

君はキャピキャピ☆してないね。

2022年06月03日 | キリスト教

 わたしが22歳くらいだった頃、正社員として雇っていただいた会社の社長さんに「君は若者らしくないなあ。なんていうかこう、もっとキャピキャピ☆しなきゃ」みたいに言われたことがありました(笑)。

 いえ、正社員として雇っていただいにも関わらず、すぐ辞めちゃった職場なのですが、今だったらたぶん「若者だからってキャピキャピ☆しなきゃならねえ義務はねえよ」とでも、そのことをあとから友人にでも言って笑っていたと思います

 でもこの頃わたし、真剣に自殺しようとか考えてる時期だったので、人が話してること自体、そもそも結構耳スルーな感じだったんですよね。かといって、「キャピキャピ☆してませんが、それが何か?」と思っていたわけでもなく……なんとな~く曖昧に笑って終わりみたいな、そんな感じだったと思います。

 なのでわたし、二十歳の成人式の時、友達に「え~っ!行かないの?一緒に行こうよ」と言われてたにも関わらず、成人式って出席してません。何故かというと、毎日「いつ死ぬか」とか、「死ぬにしてもどうやって(なるべく迷惑かけずに)死ぬか」といったことを考えるのに忙しく、内心では「成人式?それどころじゃないよ」という感じだったと思うんですよね。

 それで、ここのところ新型コロナウイルスのせいで成人式が中止になったりしてたと思うのですが、その前というと、割と若い方の問題行動(?)が毎年取り上げられてたような気がします。でも、自分的に思うに……あんまり行き過ぎてるものは確かに問題とは思うものの、特に女の子だったら綺麗な振袖を着たりとか、楽しいイベントごととも言えますし、なんていうか、「馬鹿みたいなことやって、軽いノリで盛り上がれるくらいがちょうどいい」と思ったりするわけです。

 そのくらいキャピキャピ☆してるほうが、そのくらいの年ごろの子としては絶対にいい――と、個人的には本当にそう思いますし、少なくともわたしのように「自殺することを考えるので忙しいので、成人式なんてどーでもいいです」とかいうより、遥かに良いことだと思うわけです。

 そして、つまりはそれが「平和」ということだと思いますし、結構昔のことになりますが(笑)、昭和時代に戦争を経験した方が、「今どきの若者についてどう思いますか?」みたいに聞かれて、「平和ボケ?結構なことじゃないかね。若者がみんな馬鹿になったり腑抜けになったとしても、戦争が起きるよりは遥かにいい」とおっしゃっていたことがありますが、本当にそうだろうなあ……と、自分的に思ったりもするわけです(^^;)

 ただ、わたしみたいに十代の頃からくら~く、「生きるべきか死すべきか」みたいに考えたり悩んだりするタイプの人間が自殺したりした場合、「まあ、あの子が自殺したのはなんか、わかんなくもない」みたいになると思うのですが、割とこの<キャピキャピ☆>タイプの方が何かのことで自殺しようと考えるほど追いこまれるほうが――より大変なところがあるんじゃないかなという気がしたり。

 まあ、わたしも表面的に<キャピキャピ☆>してない割に、そういう時って大体誰でも「いつもの、他の人がこうと思っているわたし自身」を演じる傍ら、いつでも頭のどこかで死ぬとか自殺するっていうことを考えていたり、部屋にひとりきりになるとそのことで頭の大半が占められたりするわけですけど……もともとキャピキャピ☆してる感じの方が、その<キャピキャピ☆>ゾーン(?)から転落すると言いますか、他のもっと若いキャピキャピ☆勢が現れて座を譲るといった時に――自殺するというほどでなくても、ある種の焦りですとか、見た目的に何も問題のない振りをしていたとしても、精神的に落ち込むとか、問題を抱える場合があるかもしれない……と思ったりもします。

 ようするに落差が激しいということですよね。わたしみたいに暗いタイプの人間だと、わりとその暗さが一定(?)だったりするわけですけど、キャピキャピ☆タイプの方は、いつもそれ以上にテンション高く生きてるところがあって、そこから深い水の底にダイブする感じだと、あとから水面に上がって来れたら「やっぱり生きてて良かった!!」となるにしても、悩みの藻か何かに足を取られて上がってこれないと……やっぱり、人の助けってすごく大切なことになってくると思うわけです。

 しかも、精神世界では藻に足を取られて溺れそうなのに、表面のいつもの現実生活では「何も問題なんかありませんとも~♪」みたいな、周囲の期待する元気いっぱいの自分を演じてたりとか……こういう時って、わたし自身の経験でいうと、ある日突然精神の糸がプツッ☆と切れる瞬間っていうのがあると思うんですよね。

 本人(わたし)的には頑張れるところまでは頑張ろうといった意識でずっと頑張ってきてるわけですけど、ある瞬間に「もうこれ以上気を張って頑張って生きる気力が湧いてこない」となって、次の日に出社する元気とか登校する気力が一切湧いてこなくなるわけです。

 よく、「自殺する力があるなら、それをもっと別の方向に向けられなかったのか」という言葉を聞くことがありますが、それはまったくの別問題です。ずっと前、確かアナウンサーをされていた方で(わたし自身はちょっと名前存じあげませんでした)、練炭自殺された方がいたと思うんですよね。やっぱりアナウンサーをされていただけあって、容姿的にもお綺麗だし、アナウンサーにもなれるくらい学歴のほうも素晴らしく、死ななきゃならないほどの要素が一切何も見当たらないように見える方が自殺されたと知った時、そのことに関するブログコメントで驚いたことがありました。

「わたしが彼女だったら絶対死なない」というか、「あんなに美人で」、「学歴も立派で」、「アナウンサーという夢も叶えていて」……一体何が不満なんだというか、死ぬんだったらそうした容姿や学歴や才能のすべてを自分が欲しいくらいだ――みたいな書き込みがあって、自分的にちょっとびっくりしたわけです。

 人にはそれぞれ表面的には伺い知れない内面世界と言いますか、よほど親しくなった方でもない限り見せないというくらいがむしろ礼儀……といった心の領域があって、わたし自身はこの方もきっと「問題なんて何もありません。今日もわたしは完璧だから大丈夫!」といった振りをしながら、水面下ではとても苦しかったのだろうなって勝手ながら想像しました。

 もちろん、自殺を考えるっていうのは、一般に「脳の不具合が原因」と言われていたりもして、「自分で自分を殺そうとする異常」が脳内に発生してもいるわけですよね。だから、その異常の生じる原因が何かを分析して緩和する方法を模索する、また、比較的軽~中度の悩みであれば、その苦悩の嵐をある一定期間耐え忍ぶことで、あとから「あの時死ななくて良かった」となる場合もとても多いと思うわけです。

 悩みの藻に足を取られている間、とても苦しいし、むしろもがくのをやめたほうが楽になるのではないかと思う瞬間があったり、さらにはようやくからまっていた藻が足から離れたにも関わらず、もう水面まで上がる力が残ってなかった……そうしたこともあると思います。

 また、周囲の人にそのサインに気づけとか、あとから何故気づかなかったのかと責めるのはとても残酷なことで、自殺しようとする人って、家族とか、一番大切な人から順に「自分には悩みなどない。今日も元気だ」みたいな振りをするものだと思います。だから、むしろ気づくほうがすごく難しいというか。。。

 先日、とある知り合いの方から「最近、ニュースとか一切見ない。見るとしたら天気予報くらいなもんだね」と何かの会話の流れから聞きました。「だって、そうでしょ?戦争のニュースとかさ、自分がそういうの見て暗い気持ちになるのが嫌だっていうんじゃないんだよ。でも、こんなに悲惨な現状があるってどんなに言われても……個人の力じゃどうにもできない。それに最近、それじゃなくても悲しくてつらいニュースが多すぎるよ」とのことでした。

 やっぱり、いわゆる世相と言いますか、心が美しくて繊細な方ほど、そうしたところからも影響を受けて、自殺しようという気持ちが強まったり、実行に移す契機となった……ということもあると思うので、今後とも、根気強く祈り続けていきたいと思っています

 それではまた~!!







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