神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神の国の奥義。

2015年04月10日 | キリスト教
【聖ヨセフ】ジョルジュ・ド・ラトゥール


「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。

 隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。

 聞く耳のある者は聞きなさい」

(マルコの福音書、第4章21~23節)


 ルカの福音書の表現では、


「あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。

 隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません」

(ルカの福音書、第8章16~18節)


 ルカのほうは後半、ちょっと怖いですね(^^;)

 もちろんこれは、神の国の奥義のたとえなわけですが、他に心の秘密ですとか、「実はあの時本当はこうだった……」ということも含むんじゃないかな、という気がしたり。 

 これはわたし個人の考えなんですけど、わたしがクリスチャンになる前から神さまの存在を信じていたのって、この部分が一番大きいような気がしています。

 つまり、人の心の思いのすべてについて知っている方がいて、それぞれの思いのうちのどちらが正しいのかを常にお知りになっている……この<視点>をお持ちになれる方が唯一神さまなのだと。

 ようするに、人間関係って物心ついた時からはじまって、わたし自身は割と誤解の連続っていう部分が多かったように思います。

 人間関係で何を悩むかといえば、「そう言ったらこう思われそう」とか「そういう意味で言ったんじゃないのに、こう思われたみたい」といったようなことが起きる、あるいは起きそうだから前もってこうしておこう、こう言っておこう……といった部分があって、これは親しい人との間にも割と起きることなんですよね。

 う゛~ん。むしろ、大して親しくない社交辞令程度の関係の人と何か誤解が生じた場合は、「でも結局あの人は<本当のわたし>がどんな人間かを知らないんだし」といったように、ある地点で開き直れるかもしれません。あるいは職場の同僚や上司が相手でも、それほど親しくない人が相手であれば、同じように思えます。

 第一、そうした方とはその職場なり仕事なりを離れてしまえば、それっきりバイバイなわけですしね(^^;)

 でも、こと家族の間といった親しい人との間でこうした誤解が生じた場合は、なかなか深刻で根深いものがあるというか。

 一緒に暮らしているにしても、離れて暮らしているにしても、お互いのことをもう大体<知り尽くしている>と思うことで、どれだけ見逃すことが多いか……ようするに近視眼になりすぎてて、大体話していても次に相手が何を言うか、どういう思考法で物を考えているか、ある程度わかっているだけに、なかなか画鋲が外れないのです。

 ようするに、親族でも赤の他人でも、「この人はこういう人!」って心のどこかに画鋲で止めてしまうと、そこから相手のことを動かせないというフリーズ現象があるんですよね。たとえば、旦那さんが奥さんに対してそうだったり、両親が子供に対してそうだったりすることは、割合あると思います(^^;)

 むしろそこから大きく動いてしまわれるとこっちも色々対応しなきゃいけなくて、「あ~もう、面倒くせえな~☆」みたいな。
 
 でも「わたしは本当はこう考えてる」、「それをあなたはこう誤って解釈した」……とか、親しい間柄だと余計、「どうしてもわからせたい」、「わからせずにはおれない」みたいになって喧嘩したりしますよね。

 こうした場合でもやっぱり、両者の気持ち・言い分を完全に把握できるのは神さまだけだと思うのです。

 そして話は少し飛びますが、いじめとかも真実がわかるのは神さまだけだな~と思うことがあります。たとえば、いじめられた側が一方的に色々なことを飲みこんで、泣き寝入りしなくちゃいけないような場合、いじめたほうの側っていうのは割合すぐそれを忘れる気がするんですけど(人間には自分に都合の悪いことはなるべく忘れようとする傾向が強いので)、当然いじめられた側、あるいは割を食わされた側は決して忘れることはないというか。

 キリスト教の教えに忠実にならおうとした場合、そんな人間のことも許せ、ということになると思うんですけど――わたし、やっぱり傷つけられた側の人の気持ちを思うと、程度があんまりひどいものに関してはそう無理して許すことないんじゃないかな……と思っていたりします。

「なぬっ!?なんというクリスチャンらしくない、キリスト教徒らしくない発言」と思われるかもしれませんが、誰か許せないと強く思う人がいたとしたら、「神さま、今はどうしても許せません」でもいいような気がします。もちろん、教会の方などに相談した場合、「感情的には許せなくても、祈りの中の告白としては『許します』と言ったほうがいい。そしたら神さまが働いてくださって、いずれ許せるようになってくる」といったように助言されるかもしれません。そしてもしそれが出来たとしたら、それがベストだとわたしも思います。

 でも、あるんですよね……「え?それを許せって言われても」という問題が。その場合はやっぱり「許せるとしたらいずれ許せる<時>が来るはずだから、それまでは許せないままでいても仕方がない」というふうに、わたし個人はそう思っています。

 いや、この場合も簡単ではないんですよ。神さまが相手のことを許せとおっしゃってるのは結局、「それがあなたのためにもなることだから」という部分が大きいと思うのです。誰かに対して心の中でマイナスの感情を抱いていたり隠し持っているような場合、それは自分のことを傷つけ続けることでもあるわけですから――「許せないままの自分をありのまま受け止める」というのも、実際大変なことなのです。

 話が少しずれてしまいましたが、このイエスさまのお話の中の「隠れているもの」、「隠されているもの」っていうのは、神の国の奥義ということですよね。わたしが持っている聖書の注釈部分を読むと、


・神の国の奥義=イエスのメシアとしての権威を持った教えと行動において、神の国がすでにこの世に来ていること。

・奥義=ギリシャ語「ミュステーリオン」。ヘレニズムの密儀教では、その宗教の会員だけが知ることを許される秘密の教え、の意。新約聖書では、神の啓示によって明らかにされる福音を指す。 


 とあります。

「神の国がすでにこの世に来ている」というのは、イエスさまの血の贖い、十字架上の死、復活といった福音の核心のひとつという気がするのですが、こうしたことって普段、未信者の方、ノンクリスチャンの方には覆い隠されていて目に見えないことだと思います。

 わたし自身、自分がクリスチャンになるまでの間ずっとそうでしたし、風の噂(?)によって聞いたキリスト教のことというのは大体「えっ!何ソレ。キリスト教っておかしくね?」と感じるものが大半でした。

「イエスは神の子」とか聞いても、「ふう~ん。そなんだ☆」と思う程度で、それは本当はどういう意味なのかなんて考えてみたこともなかったと思います。でも覆い隠されていたものがあらわになる瞬間がわたしにもやって来て、「あーっ、そっか。そういうことだったんだ!!」となった瞬間にわたしの場合すでにクリスチャンになっていたというか(^^;)

 う゛~ん。これも表現としてはあまり的確ではないんですよね。理屈として色々わかってから信じたっていうんじゃなくて、聖書にもあるとおり「口で告白して救われた」というか、教会に働く聖霊さまの働きによって救われることが出来たというか、「何がなんだかまだよくはわかってないんだけど、それが自分には必要だと直感的に感じた」という何がしかの力によって信じた……とでも言ったらいいんでしょうか。

 ノンクリスチャンだった頃は、ホテルなどに置いてある聖書をパラパラ読んでみても、「なんでこれが神のことば?」という感じでよくわからなかったのですが、普段は隠されている<神の奥義>がわかるようになる鍵はやっぱり、信じて祈る時に注がれる聖霊さまの力によるところが大きいんですよね(^^;)

 そして多くの方がイエスさまのことを本当の意味で、霊的に目を開かれた状態で知るために、福音伝道ということがとても大切になってくるわけですけど――なかなか難しいんですよね、これがまたやっぱり日本だとエ○バとかモ○モン教、あるいは統一教会などのイメージが強いせいか、「キリスト教」とか「クリスチャン」と聞いただけで、「ヤベェ~。関わりあいにならんとこ☆」みたいになるところがすごくあると思うので。

 わたしもなかなか福音宣教ということには積極的になれずにいるのですが、これから少しずつでも<からし種>の信仰でがんばっていけたらと思っています

 それではまた~!!




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 良い地に蒔かれた種。 | トップ | 手放す幸福、しがみつく不幸。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事