神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

讃美の力。-神の力を体験する道-【3】

2021年07月21日 | キリスト教

 さて、今回は第2章「よい知らせを聞きなさい」から学んでいきたいと思いますm(_ _)m

 この「よい知らせ」とはもちろん、英語で「Good News」、イエスさまの福音のことですが、簡単にいえば、わたしたちが何か恐ろしい修行や善行を積んでようやく神の救いが得られるのではなく――ただ、イエス・キリストのことを自分の救い主と認めるだけで、なんの罪も犯していない人が持つのと同じ特権を得、死後には天国へ行くことが約束されるということです。

 特に何もしないでも、ただ「イエス・キリストのことを信じる」というそれだけで、そのことがあなたの魂に起こります。ただ、こう聞いても、すぐにそうと信じられる人は少ないかもしれませんし、また、イエスさまのことを信じ受け容れたあとでも……イエスさまが十字架上で苦しみの極みとともに勝ち取ったこの勝利を、価値などあまりないかのように過ごす、そんなクリスチャンの方もいらっしゃるかもしれません。

 マーリン・キャロザース先生は書いています。そうした方の場合は、イエスさまの無代価の救い、わたしたち人間に無償で与えられた贈り物のことを、10セント程度の価値しかないと思っているようなものだ、と。10セントというとまあ、日本円に換算して10円くらいですか(笑)

 それならばそうした方々が、>>「いったん私たちが罪を許されて永遠のいのちという無代価の贈り物を受けたならば、その後、神は私たちにどの程度まで善良であることを求められるのだろうかと心配するわけです」……そんなふうに考えて、「どの程度まで神に捧げるべきか」、信者として必要最低限のラインをクリアーできてさえいれば、それ以上のことは故意に差し控える――そうした信仰生活でもなんら不思議はないかもしれません。

 もし、イエスさまの福音といったものが、金銭に換算して10円くらいの価値しかないのであれば、クリスチャンの方が声を嗄らして呼びかけようとも、「神など10円くらいの価値しかありはしない」として、目もくれずに通りすぎてしまうのではないでしょうか。

 では、それが一体いくらであれば、わたしたちは振り返って神さまの御言葉に耳を傾けようとするのかといえば……マーリンさんは千ドル(約10万円)くらいもらえるなら、人々はイエスさまの救いに目を向けるのではないか、といったように書いておられます(あ、書き方は違うんですけど、言ってる意味は大体同じということで^^;)。


 >>なぜなら、救われるということは賜物なのです。もし人が善良であることによって救いを得ることができるとすれば、救いは無償とは言えないでしょう。しかし事実、救いは無代価なのです。そのために労し働かない人々に救いが与えられるのです。なぜなら、神は、もし罪人がキリストによって神の怒りから救われるということを信じるなら、その人は神の目に善良であると宣言されるからです。

(ローマ人への手紙、第4章4~5節【リビング・バイブル】)


 >>神の贈り物は、無償・無代価です。パウロは次のように書いています。

「もし私たちが救われるのが神の恵みによるのであるなら、救いは私たちが善良であることによるのではありません。もし善良であることによって救われるとするなら、無代価の贈り物はもはや無代価とはならないでしょう。報いとして得られるのなら、それは無代価ではありません」

(ローマ人への手紙、第11章6節【リビング・バイブル】)


 誰も、神にお金を支払って救いを得ることも、あるいは善良な行いを積み上げることによって、「わたしはこんなに善良です。ですからあなたはわたしを天国へ入れるべきです」と言うことも出来ません。

 何故なら、「救われる」とは、ただ一方的な神さまの恩寵、恵みに他ならないことだからです。人は罪を犯したら、本来であれば裁きを受け、罰を受けなければなりません。ですが、今から約2千年前にイエスさまが十字架にかかってくださり、わたしたちの罪のために罰を受けてくださったことで……そのことを信じる者は(イエスさまがわたしたちの罪の身代わりになってくださったことのゆえに)、本来であれば受けなければならないはずの罪の刑罰を免れることが出来るという、神さまの深い御恵みと恩寵の道が開かれることになりました。

 もし、わたしたちが何かの善行を積み上げることによって、ある種の天国への通行証を得るというのではあれば、確かに救いは無代価ではありません。何故なら、「生きている間に良いことをした」、「善行に励んだ」という代価を支払うことになるからです。

 もちろんこのことは、一度イエスさまのことを信じ、その救いを受け容れたなら、善行などひとつも積む必要はないし、悔い改めれば許されるというのであれば、どんな悪を行ってもいいのではないか……ということを意味してはいません。

 確かにわたしたちクリスチャンはイエスさまを信じた時、神さまから永遠のいのちをいただきました。そしてその<いのち>を今度は神さまのため、イエスさまのため、正しいことのために使うようになるのです。先ほど、福音(神さまからの良い知らせ)がもし千ドル(約10万円)くらいの価値があるとしたら、人はイエスさまの言葉に耳を傾けるのではないかと書きました。

 けれど、最初に信じた動機がそのようなものであったとしても、のちには神さまの無代価の恩寵、無償の贈り物といったものは、「お金で買うことが出来ない」のみならず、これが神さまが人間を愛しておられるがゆえに打ち立てられた完璧にして完全な御計画であることがわかってきます。


 >>誰も、善良なものであろうとして、神に受け入れられるものとなることはできません。なぜなら、神のいましめについて知れば知るほど、私たちはそのいましめに従わないものであることが明白になるからです。

(ローマ人への手紙、第3章20節【リビング・バイブル】)


 >>それでは救いを得るために、私たちは誇りとなる何ができるでしょうか。何もないのです。なぜでしょうか。それは、義と認められるのは、私たちの善行によるのではなく、キリストのなされたこととキリストを信じる私たちの信仰とに基づいているからです。ですから私たちはキリストを信じる信仰によって救われるのであって、私たちのなす善行によって救われるのではありません。

(ローマ人への手紙、第3章27~28節【リビング・バイブル】)


 >>私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。

(ローマ人への手紙、第7章19~25節)


 この世界でただひとり、イエス・キリストだけが、わたしたちをこの死の体から救いだしてくださいます。イエスさまをわたしたちが信じるのであれば、今この瞬間にも、すぐにです。死んで天国へいってから救われるというのではなく――神さまというのは、今この瞬間も生きて働いておられる方だからです。そして罪に体が支配されている惨めさからも、同時にわたしたちを解放してくださるのです。

 わたしたちの救いは、遥か遠い山の上にあるのでもなければ、遥か遠く海の彼方にあるわけでもありません。実はわたしたちの救いは、わたしたちの唇のすぐそばにあります。つまりそれが信仰告白ということであり、神さまの「良い知らせ」に同意するということなのです。


 >>「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」

 これは私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。

 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったことを信じるなら、あなたは救われるからです。

 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 聖書はこう言っています。

「彼に信頼する者は、失望させられることがない」

(ローマ人への手紙、第10章8~11節)


 天の父なる神さま、
 私はあなたを信じます。
 今まで信じて来なかったことを赦してください。
 私は自分が罪びとであることを認めます。
 私の罪の身代わりとなって、
 イエスさまが十字架にかかって死んでくださった事を信じます。
 私のすべての罪を赦し、永遠の命を与えてくださった事を感謝します。
 私は、あなたを私の罪からの救い主、主としてお迎えします。
 約束通りイエスさまが、私の心の中に入ってくださった事を感謝します。
 私のこれからの人生は、あなたのものです。
 私をあなたが望んでおられるような者に変えてください。
 イエスさまのお名前によってお祈りします。
 アーメン。


 主よ、来てください

 では、次回は第3章「無限の力」より学んでいきたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!






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