神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神経症からの「回復の物語」~森田療法を学び支えあった人たちの成長の記録~

2019年12月02日 | キリスト教


 ふたつくらいの下にある「決して味わえぬ、という人生」という記事の中で、会食恐怖症のことに少し触れたのですが、今「神経症からの『回復の物語』~森田療法を学び支えあった人たちの成長の記録~」(岸見勇美さん著・生活の発見会監修/白揚社より)という本を読んでいて、「雑談恐怖症」なる症状もあるとお読みし、神経症という病いのバリエーションの深さに、あらためて驚いたような次第です(^^;)

 神経症の症状としては、強迫神経症(対人恐怖、赤面恐怖、視線恐怖、表情恐怖、確認恐怖、不潔恐怖など)、不安神経症(パニック障害、広場恐怖、乗り物恐怖、外出恐怖、先端恐怖、高所恐怖など)、その他抑うつ神経症や普通神経症など、あるいはこうした中からいくつか組み合わさったものが症状として出てくる……神経症の根深さや頑固さ、しつこさといったものは、実際にそうした病いになった方でなくても――「こうしたことで悩んでいる」、「苦しんでいる」と聞くと、誰でも妙に「うんうん」と頷くことが出来る場合が多いと思います。

 もちろん、潔癖症(不潔恐怖症)の方が何度も手を洗ったり、ガス栓を締め忘れた、鍵をかけ忘れた……といったことを確認恐怖症の方が何度も主張する時、周囲の方はそうした<不安>をある程度理解しながらも、「またはじまった」とうんざりされるかもしれません。

「雑談恐怖症」の場合でも、人となんでもないようなことをなんとなく話すのが苦手――くらいのことなら、誰にでもある程度理解できることだと思います。また、普段おしゃべり好きで、性格も外交的に見える方が、まったく知らない人の輪の中に参加する……といった場合においてのみ、その会合の何日も前からくよくよ悩む姿というのを、わたしも見たことがあります。

 神経症の症状だけに限ったことではなく、「こんなことで悩んでいるのは自分だけだ」と思ったり、自分の過去の失敗した部分だけを取り上げて、顕微鏡で拡大するみたいに眺めまわしてはくよくよする……といった経験のない方というのは、おそらく世の中にひとりもいないことでしょう。

 さて、雑談恐怖症についてですが、以前に別の本でこんなことで悩んでいる十代だったか、二十代くらいの男の子の話を読んだことがあります。つまり、対人恐怖を持っていて、「人と会話の続かない」ことが悩みということで、カウンセラーの先生に相談されているのですが、彼の価値観としては――「天気の話でもしてみたら?」、「だって先生。天気の話だなんて、そんなの外を見れば晴れてるのか曇っているのか、雨が降っているかなんて、わかりきったことじゃないですか」ということなんですよね。第一、そんなことを話したところで、そのあとが続かないと。

 普段、割とおしゃべり好きな方でも、それはある程度仲のいい人とだけで、たとえば職場であるとか、別のシチュエーションにおいてはまったく無口になる……という方は何人もいらっしゃいますから、それが「病気」の域にあるとはどういうことか、もしかしたらわかりにくいかもしれません。

 つまり、「雑談」というのは、大体のところ2~5人も人が集まれば、なんとなくしてることなわけですよね。でも、その「なんとなく」を強烈に意識してしまい、そうしたシチュエーションの生まれる状態を徹底的に避けるですとか、そのような状況に自分が放り込まれることを想像しては恐怖する……また、そんなことでは人間社会で生きていけないわけですが、それゆえに引きこもって部屋から出てこない、あるいは出てくるにしても、そのような状態を自分が経験することを想像しては気分が鬱々としてくる、ごはんも食べたくない、夜も眠れない――などなど、こうした領域までやってくると、それは「神経症」や「鬱病」と病院で診断されるまでになってくるわけです。

 わたしは専門家ではありませんが、これがたぶん社会不安障害と言われる状態のひとつと思うんですよね。「雑談恐怖症」の方でも、「電話で話すのは平気」という方もおられれば、社会不安障害の方の中には、会社で電話が鳴るたびに、それを取ることに極度の恐怖を感じる方もおられると思います。

 この症状には、「電話恐怖症」との症状名があるようなのですが、ここまで来ると「なんでも名前つければいいってもんじゃねえだろ!」とお怒りになる方もおられるかもしれません。けれども、携帯(スマホ)全盛期の現代、この「電話恐怖症」を持っておられる方は、軽度の方も含めると、決して少なくないと聞いたことがあります。

 つまり、普段スマートフォンではぺらぺらしゃべっているような若者でも、会社の電話に出ることに対しては、家の電話に出ることもなく育ってきたので、勝手が違って恐怖感を覚える――電話が鳴るたびにドキッとするなど、そうした症状の出る場合があるそうです。

 対人恐怖症も雑談恐怖症も電話恐怖症も、「ようするに今流行りのコミュ障(コミュニケーション障害)じゃーん!」と、今時のお若い方であれば、そうおっしゃるかもしれません。でも、そのくらい言葉としても一般化してるって、見方を変えると怖くないですか?(^^;)

 その証拠に、という言い方はおかしいかもしれませんが、「神経症」関連の本は爆発的にではなくても、大体継続して順当に売れるそうです。そして、わたしが今回この本を手にしたのも――実は、そうした「神経症」に悩み、御自身も過去に悩んだことがある方の本を読んで、でした。「自分の場合は「森田正馬」の本など、不安神経症について書かれた本を何度となく読んだことで治ったところがある」みたいに書かれている一行を偶然読んだからなんですよね。

 こうした何かしらの神経症の症状に悩まされていて、病院へカウンセリングへ行ったり、自身で治そうと努力されている方で、「森田正馬(もりたまさたけ)」の名前をご存知ない方はいないと思います。わたしも、強迫神経症の一種に悩まされるようになってから、最初に「神経症の時代~わが内なる森田正馬~(渡辺利夫さん著)」という森田療法について書かれた本を読んで初めて「森田療法」なるものがあると知った口です。

 もちろんその時も、症状は違いながらも「強迫的症状につきまとわれる」感じについてはまったく同じなため、他の多くの方と同じく「まるで自分のことについて書いてあるようだ」と思って読了したものでした

 けれども、この「神経症からの『回復の物語』」もそうですが、自分とまったく同じ原因・症状を抱える方のお話は出てこないため、今も「わたしなどよりもよほど大変な症状を複数抱え、苦しんでおられる方がたくさんいる」とわかりはしても、それで共感してがんばろう……といった時期は、実はとっくの昔に過ぎているわけです(^^;)

 それでも、今回この本を手に取ったのは「神経症についての本を繰り返し読むことで治った」という方の言葉と、そもそも自分も森田療法のことは本で知ったということ、また、森田療法について書かれた本をすべて熟読した――というところまでは、自分はまるで至っていないなということがありました。

 また、こうして記事として書くことで……「実は自分も同じことで悩んでいた!」という方がもしおられた場合、何かの生きるヒントにでもなればと思い、神経症関連のことについて少し書いてみようと思った次第ですm(_ _)m

 それではまた~!!





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