【天使とヤコブの闘い】レンブラント・ファン・レイン
わたしたちの信仰的祖先、族長ヤコブは神さまに選ばれ、愛された人でした。
ヤコブには双子のお兄さんであるエサウがいました。まず、誕生の時、ヤコブはお母さんの胎から兄のかかとを掴んで出てきたのですが、この時点で、というよりも胎内にいる頃からすでにヤコブは神さまからの預言によって――「兄が弟に仕える」との――兄エサウより優れた者となることが約束されていました。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と、マラキ書の第1章2~3節と、ローマ人への手紙、第9章13節にありますが、ちょっとここだけ読むと「神さま、ひどーい!そんなのえこひいきじゃーん」と感じてしまいますが、実際のところ、エサウは物凄くお腹のすいた時に、自分の長子としての権利をパンやレンズ豆の煮物と交換してしまっています。
>>さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。
エサウはヤコブに言った。
「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから」
それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。
するとヤコブは、
「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」
と言った。
エサウは、
「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」
と言った。
それでヤコブは、
「まず、私に誓いなさい」
と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。
ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。
(創世記、第25章29~34節)
こうして、ある意味双子の兄の弱い部分を突いて長子の権利を手にしたヤコブ。そして、父のイサクの死期も近い頃、神さまの御名によって長男であるエサウを祝福しようとした時……母リベカの入れ知恵により、先にヤコブがこの長子としての祝福に与ってしまい、それよりも遅れたエサウには、神さまからの祝福は残っていませんでした。
>>エサウは父に言った。
「お父さん。祝福はひとつしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください」
エサウは声を上げて泣いた。
(創世記、第27章38節)
実をいうと父イサクは、弟のヤコブよりも兄のエサウのほうを愛し、お母さんのリベカは兄よりも弟のヤコブのほうを愛していたという、そうした関係性でした。
ゆえに、お腹がぺこぺこだった時、パンとレンズ豆の煮物欲しさに長子の権利を売っても、結局のところ父のイサクが自分を祝福してくれると、エサウとしてはそのような考えだったのではないでしょうか。
ところが、老いて目の悪くなっていたイサクを騙し、長子としての神さまからの祝福を得たヤコブではありましたが、このことで双子の兄が自分を殺したいほど憎んでいると知り、母の実家があるほうへ逃げるということになります。
ヤコブの生涯について見てみますと、彼はかなりのところ頭が良く、自己中心的な人物でなかったかと思われるわけですが――このヤコブの我が強くて自己中心的、という性格というのは、多くの方にとって「確かに、わたしにもそうしたところはあるなあ」と心当たりのあるものなのではないでしょうか。
ヤコブは確かに長子の権利である神さまからの祝福を受けはしましたが、同時に父を騙したことに対する罪の刈り取りをも、こののちすることになりました。目の悪くなっている父が「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」と聞いた時、ヤコブは疑う父に対し、二度もしっかり「わたし(エサウ)です」と答えています。
ヤコブとしては、以前兄が自分に長子の権利を売っていたことから、「当然のことだ」との思いがある一方、死期の近い父を欺いたのを心苦しく思うところもあったに違いありません。けれどもそれ以上に、神さまからの祝福があるのとないのではその後の人生が雲泥の差となることがわかっていたのでしょう。あるいはもしかしたら、ヤコブとしては兄といっても年の差のない双子の兄ですから、母の胎を先にでたか後にでたかの違いによって祝福を受けられないだなんて、そんなのおかしいとの思いもあり、事を行うのに良心があまり痛まなかったという可能性もあります。
けれども神は正しい方であり、確かに「兄が弟に仕える」との預言が最初からあったとはいえ、父イサクを騙したことについては、ヤコブはこののち罪の刈り取りをすることになったようです。長子としての神の祝福を得たのですから、その1秒後から「おお、これこそ神の祝福!!」とばかり、ラッキーなことばかりが起きても良さそうなものなのに(笑)、ヤコブの場合、彼はまず兄の憤りを恐れて故郷を追われるということになったのです。
これはなんと言いますか、おそらく信仰者の<型>のひとつという気がします(^^;)
現代のクリスチャンも、祈りや聖書、日曜礼拝などを通して、神さま、イエスさまの語りかけを聖霊さまによって受けることがありますが――そうしたイエスさまからの祝福の言葉があったので、「よしよし、これでこれからの自分の人生は安泰に違いない」なんてるんるん♪していると、むしろ逆に「神さまのあの祝福の言葉は聞き間違いだったのだろうか」というような、ひどく落ち込む経験をすることがあります。
特に信仰初期の頃は、むしろ逆に神さまの言葉が与えられるというのは、「その御言葉から試される」というところがあり、神さまからの言葉が与えられる=信仰のテストを受ける……といった場合がとても多いのではないでしょうか。
この時のヤコブもちょうどそうで、聖書に詳しく記載はなくても、父や母の元を離れて故郷をあとにせざるをえなかったヤコブは、孤独の中で、神さまと祈り対話するということが一度のみならず、きっと何度となくたくさんあったに違いありません。
そして、母リベカの兄、ラバンの元に身を寄せたヤコブでしたが、ここでヤコブは羊やヤギを飼う羊飼いの仕事をすることになりました。ですが、このラバンという人がなかなかに狡猾な人であり、ヤコブは彼の中に自分の犯した罪の片鱗を見る思いがしたのではないでしょうか。
かつて狡猾に兄のエサウを騙したヤコブですが、このラバンというヤコブの母方のおじは、簡単にいえば甥を労働力として便利使いをしたということですよね(^^;)
けれども、こうした日々の大変な労働の中にあっても、ヤコブには喜びがありました。それはラバンの娘のラケルに恋をしたことでした。ところが、ラバンはヤコブのことを労働力として自分の元へ留め置くために、一計を案じます。
まず、ヤコブに姉のレアを与えたのです。ラバンはこのことの釈明をヤコブから求められた時、「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです」と言っていますが、間違いなくラバンは確信犯です(^^;)
何故といってそのあとラバンは、「もう七年わたしに仕えたなら、ラケルもあなたにあげましょう」と言っているのですから。このことのうちにも、なんとも言えない神さまの微妙な摂理が働いているような気がします。このレアとラケルという姉妹から、イスラエルの十二部族が生まれたこともそうですが……天幕が暗くてヤコブは妹のラケルと姉のレアを間違えてしまったわけですから、これはまるで彼が父イサクのことを騙した時の状況を思い起こさせるところがあるからです。
さらにもう七年、便利な労働力として使われたヤコブですが、さらにこののち、ラバンが自分の下で働くよう強要しそうなところを、ヤコブはレアやラケルといった自分の家族と一緒に逃げだします。ラバンは追ってきましたが、ヤコブに自分の扱いの正しくなかったことを咎められると、ようやくのことで彼らを行かせることに同意しました。
>>三日目に、ヤコブの逃げたことがラバンに知らされたので、彼は身内の者たちを率いて、七日の道のりを、彼のあとを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。
しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現われて言われた。
「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」
ラバンがヤコブに追いついたときには、ヤコブは山地に天幕を張っていた。そこでラバンもギルアデの山地に身内の者たちと天幕を張った。
(創世記、第31章22~25節)
「事の善悪を論じないように気をつけよ」……このあとラバンはヤコブの一行と話し合いの場を持ちますが、ヤコブに溜まりに溜まった不満をぶちまけられ、ようやくのことで自分の中の悪いところを思い知らされたようです。けれども、こんなことはラバンにとってはわかりきったようなことであり、その上でヤコブのことをこき使っていたわけですから、もし神さまが夢に現れていなかったら、きっとラバンはなんのかのと言いかがりをつけ、ヤコブを自分の元へ留め置く努力をやめなかったに違いありません。
>>ヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに口答えして言った。
「私にどんなそむきの罪があって、私にどんな罪があって、あなたは私を追いつめるのですか。
あなたは私の物を一つ残らず、さわってみて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もしあったら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たちふたりの間をさばかせましょう。
私はのこ二十年間、あなたといっしょにいましたが、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、あなたの群れの雄羊も私は食べたことがありませんでした。
野獣に裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かないで、私が罪を負いました。あなたは私に責任を負わせました。昼盗まれたものにも、夜盗まれたものにも。
私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。
私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。
もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです」
(創世記、第31章36~42節)
けれどもここに、神さまの祝福の御手が入って、ラバンのことを裁き、ヤコブに正当な祝福を与えました。ヤコブは二十年かかってようやく神さまの取り扱い期間を終え、神さまの祝福を受けるに相応しい人格者となりつつあったようです。
これもクリスチャンの方にとっては<信仰の型>として馴染み深いものではないでしょうか。流石に二十年という長期に渡ることはそうしょっちゅうあるわけではないと思いますが(教会に与えられている神さまの御言葉であればあることですけれども)、それでも、神さまから与えられた祝福の御言葉が実現するのに、1~2年、あるいは3~4年、5~6年かかってようやく成就した……といった種類のことはよくあると思います。
また、神さまからのより具体的な祝福を多く受けはじめたかに思われたヤコブですが、そのためにはまず兄のエサウと和解する必要がありました。もう二十年も昔のことになりますが、今も兄のエサウが顔を合わせれば自分を殺そうとするだろうとヤコブは恐れていたのです。
そこで、兄、エサウへの贈り物を先に行かせ、自分はその後ろにつくことにしたのですが、この途中、ヤコブはヤボク川の渡しを渡ろうとする時、天使と格闘することになりました。
>>ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
するとその人は言った。
「わたしを去らせよ。夜が明けるから」
しかし、ヤコブは答えた。
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」
その人は言った。
「あなたの名は何というのか」
彼は答えた。
「ヤコブです」
その人は言った。
「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」
ヤコブが、
「どうかあなたの名を教えてください」
と尋ねると、その人は、
「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」
と言って、その場で彼を祝福した。
そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。
「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」
という意味である。
彼がペヌエルを通りすぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。
(創世記、第32章24~31節)
もちろん、「え?天使って、人間みたいに肉体があるってこと?」と、不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかもこの時、ヤコブは天使に勝っています(笑)。天使はヤコブの我がどうにも強い(どうしても自分の考えのとおり、思いの通りにしたい)のを見て、ヤコブの腿のつがいを打ってどうにか逃れようとするわけですが――しかもその上、「祝福してくださるまでは離しません」という、ヤコブの自己中心的な思いまでもが聖書のこの箇所からは読み取れるにも関わらず、そんなヤコブのことを天使は祝福しています。
「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」……これが現在中東にあるイスラエルの国の名前の由来です。意味のほうは、「神に勝つ者」、「神が支配する者」、「神の戦士」、「神の王子」といった意味があるそうです。
さて、この時ヤコブが天使と格闘した理由についてですが、ようするにヤコブはあれから二十年が過ぎた今も、兄のエサウが自分を殺したいほど憎んでいるのではないかと怖れていたわけです。聖書には言及がありませんけれども、この時もしかしたら、自分の故郷に戻るのではなく、進路を変えて別のところで一家で暮らしてゆきたい……との思いさえ、もしかしてヤコブの怖れる心にはあったのではないでしょうか。
結果から見た場合、ヤコブはこの時、実際には怖れる必要はなかったわけです。けれども、神さまからそのことを指摘されても、ヤコブの兄を怖れる心にまったく変化はなかったのでした。そして、天使から祝福された翌日、ヤコブは確かに神さまの言葉に聞き従い、自分が先に進み、兄への贈り物はそのあとに続かせるということにしました。
これはキリスト教信仰のない方にとっては、「ほんのちょっとの違い」にしか見えないかもしれません。けれども、「小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実である」と、これも聖書に書き記されているように――神の言葉を先にして実際にそれを行うか、それとも自分の思いを先にするのかには、それこそ本当に雲泥の差といっていい、その後に結ぶ実の違いがあります(^^;)
そしてこの時のヤコブが結局どうなったかというと……エサウはヤコブの一行がやって来るなり、弟のことを抱きしめ、そして口接けしたのでした。
>>ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。ヤコブは子どもたちをそれぞれレアとラケルとふたりの女奴隷とに分け、女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをそのあとに、ラケルとヨセフを最後に置いた。
ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。
エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。
エサウは目を上げ、女たちや子どもたちを見て、
「この人たちは、あなたの何なのか」
と尋ねた。
ヤコブは、
「神があなたのしもべに恵んでくださった子どもたちです」
と答えた。
それから女奴隷とその子どもたちは進み出て、おじぎをした。
次にレアもその子どもたちと進み出て、おじぎをした。最後に、ヨセフとラケルが進み出て、ていねいにおじぎをした。
それからエサウは、
「私が出会ったこの一団はみな、いったい、どういうものなのか」
と尋ねた。
するとヤコブは、
「あなたのご好意を得るためです」
と答えた。
エサウは、
「弟よ。私はたくさん持っている。あなたのものは、あなたのものにしておきなさい」
と言った。
ヤコブは答えた。
「いいえ。もしお気に召したら、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。
どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから」
ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。
(創世記、第33章1~11節)
つまり、神さまの語ってくださっていたとおり、ヤコブはまったく怖れる必要はなかったのです。エサウは感情の激しい、激情型の性格の人だったようですが、こうした人に限って最初の怒りのスパークが過ぎると、その後はあまり根に持たない……といった感じになるのを、普段わたしたちのまわりでも時々見たりしませんか?(^^;)
また、このことでエサウが随分長く怒り続けていたにしても――何分あれから二十年もの時が流れています。確かに長子の祝福をヤコブは奪ったかもしれませんが、たとえば、イサクの腹違いの子であるイシュマエルを、約束の子ではなかったとしても神さまは別の形で祝福してくださったように……長子の権利はなくても、エサウのことはエサウのこととして、神さまは彼には彼の祝福を与えてくださったのではないでしょうか。
けれども、このあたりの対応を間違ってしまうと、現代を生きるわたしたちクリスチャンも、神からの最善の約束を失ってしまうことがよくあります。わたしもそうですが、神さまから聖霊さまを通して語られたことが自分にとって都合が悪かったりすると聞かなかった振りをしたり、あるいは実行しようとしても、恐れや不安や恥をかきたくないといった思いが強すぎるあまり……行きなさいと言われた場所まで行ったものの、ドアの直前までいって帰ってくるなど、実際そうしたことというのはありえます。
ただ、本当にエサウが「お父さん。祝福はもうひとつないのですか」と泣いて言ったように――この世界には、神はただおひとりきり、イエス・キリストだけです。この方を通してでなくては、神さまからの真の祝福はないように、わたしたちが真実罪を赦され、天国へ行ける御名は、この方以外には絶対にありえません。
イサクと腹違いの息子、イシュマエルは、現在のイスラム教を信じる人々にとっての祖先とされるそうですが、キリスト教としては、そもそも彼は神さまの約束の子でないのです(^^;)けれども、彼らの子孫のことは彼らの子孫のこととして、「彼もまたアブラハムの子なのだから」ということで、神さまは祝福してくださったのではないでしょうか。
けれども、アブラハム、イサク、ヤコブの神の直系の子孫であるイエス・キリスト、さらにまたその霊的子孫であるわたしたち現代のクリスチャンは、現在に至るまで神さまの最善のお約束を相続しています。つまり、それこそがエサウの逃してしまった祝福であり、ヤコブが兄から奪った神さまからの最善の祝福でした。
生まれる前から、神さまからの約束の言葉があったとはいえ、ヤコブの神さまの祝福の奪い方は、褒められるやり方ではなかったかもしれません。けれども、これも聖書に「すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます」とあるとおり、いつかわたしたちが死にゆこうという時には、究極「神・天国」以外、価値あるものなどなくなるのです。
ヤコブは神さまからの真の祝福に相応しい者として整えられるまで、二十年もおじのラバンに仕えました。このラバンとヤコブのエピソードというのは、実に現代の雇用主と被雇用者との間にも、今もよく見られるものである気がします(^^;)ラバンは他に行くべきところとてないヤコブのことを、自分にとって都合のいいようにこき使い続けたのですから。
けれども、ヤコブのそうした苦労の最中にも神はともにおられ、羊やヤギの群れを増やすことで彼を祝福してくださいましたし、ヤコブは危うく神さまに聞き従えないことで、神さまの最大の祝福を逃すところでさえあったわけですが、彼が信仰の失格者とならずにすんだこともまた、神さまの恵みによりました。
今回のトップ画である、「ヤコブと天使の闘い」を見てみますと、天使が微笑んでいるのが、見る方によっては不気味に見えるかもしれません。何故といって、微笑みながらヤコブの腿のつがいを打とうとしているわけですから(^^;)
けれども、実際には神さまには当然、ヤコブの腿のつがいを打つどころか、そもそも彼に勝つことも簡単に出来ることなはずなのに――むしろこれは、ヤコブが自分に聞き従えるよう、エサウのように祝福を逃す者とならないよう、神さまの優しい御手の中で起きた出来事だったのです。
この時ヤコブはある意味、自分の我を押し通すことと、神さまの祝福の両方を得ようとして天使と格闘し、天使のほうでは「あなたの我を離しなさい」と再三言ったにも関わらず、彼は己の我を離そうとせず、天使は「あなたの我を押し通す力には勝てない」として、腿のつがいを打ったのです。
けれども腿のつがいを打たれたことで、ヤコブには神さまの優しい御手の取り扱いがわかり、それでこの翌日には神さまのおっしゃることに聞き従えたのだと思います。わたしたちもよく、神さまの御思いよりも自分の思いや我といったものを押し通したい時があるものですが、腿のつがいを打たれてでも聞き従えたヤコブは幸いだったと思います。
何故といって、わたしたちもなかなか聞き従えないでいる時に、体のどこかを怪我するなどして、「ハッ。そうか!神さまはこのことを悟らせたかったんだ」となればいいですけれども、そうではなく、神さまのお約束に背を向けては後悔して振り返り、「今度こそは聞き従えますように!」と祈りながらも、足が竦んで実行するまでには至らない……そうしたことっていうのは、よく気をつけていないとしょっちゅう起こることなものですから(^^;)
そして、創世記のヤコブの生涯については、彼が「我が強く自己中心的」な人物であるにも関わらず、神さまに祝福された――ということを思う時、自分の身を振り返って「わたしもまったく我が強く、自己中心的だけれど、ヤコブのように祝福されるためにも信仰のポイントを逃してはいけない」ということを強く思わされます。
ではでは、自分でも何故突然ヤコブの信仰について書くことになったのか軽く謎なのですが、それなりにまとめることが出来たので、これはこれでこのまま上げてしまおうかなって思います♪(^^)
それではまた~!!
わたしたちの信仰的祖先、族長ヤコブは神さまに選ばれ、愛された人でした。
ヤコブには双子のお兄さんであるエサウがいました。まず、誕生の時、ヤコブはお母さんの胎から兄のかかとを掴んで出てきたのですが、この時点で、というよりも胎内にいる頃からすでにヤコブは神さまからの預言によって――「兄が弟に仕える」との――兄エサウより優れた者となることが約束されていました。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と、マラキ書の第1章2~3節と、ローマ人への手紙、第9章13節にありますが、ちょっとここだけ読むと「神さま、ひどーい!そんなのえこひいきじゃーん」と感じてしまいますが、実際のところ、エサウは物凄くお腹のすいた時に、自分の長子としての権利をパンやレンズ豆の煮物と交換してしまっています。
>>さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。
エサウはヤコブに言った。
「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから」
それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。
するとヤコブは、
「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」
と言った。
エサウは、
「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」
と言った。
それでヤコブは、
「まず、私に誓いなさい」
と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。
ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。
(創世記、第25章29~34節)
こうして、ある意味双子の兄の弱い部分を突いて長子の権利を手にしたヤコブ。そして、父のイサクの死期も近い頃、神さまの御名によって長男であるエサウを祝福しようとした時……母リベカの入れ知恵により、先にヤコブがこの長子としての祝福に与ってしまい、それよりも遅れたエサウには、神さまからの祝福は残っていませんでした。
>>エサウは父に言った。
「お父さん。祝福はひとつしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください」
エサウは声を上げて泣いた。
(創世記、第27章38節)
実をいうと父イサクは、弟のヤコブよりも兄のエサウのほうを愛し、お母さんのリベカは兄よりも弟のヤコブのほうを愛していたという、そうした関係性でした。
ゆえに、お腹がぺこぺこだった時、パンとレンズ豆の煮物欲しさに長子の権利を売っても、結局のところ父のイサクが自分を祝福してくれると、エサウとしてはそのような考えだったのではないでしょうか。
ところが、老いて目の悪くなっていたイサクを騙し、長子としての神さまからの祝福を得たヤコブではありましたが、このことで双子の兄が自分を殺したいほど憎んでいると知り、母の実家があるほうへ逃げるということになります。
ヤコブの生涯について見てみますと、彼はかなりのところ頭が良く、自己中心的な人物でなかったかと思われるわけですが――このヤコブの我が強くて自己中心的、という性格というのは、多くの方にとって「確かに、わたしにもそうしたところはあるなあ」と心当たりのあるものなのではないでしょうか。
ヤコブは確かに長子の権利である神さまからの祝福を受けはしましたが、同時に父を騙したことに対する罪の刈り取りをも、こののちすることになりました。目の悪くなっている父が「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」と聞いた時、ヤコブは疑う父に対し、二度もしっかり「わたし(エサウ)です」と答えています。
ヤコブとしては、以前兄が自分に長子の権利を売っていたことから、「当然のことだ」との思いがある一方、死期の近い父を欺いたのを心苦しく思うところもあったに違いありません。けれどもそれ以上に、神さまからの祝福があるのとないのではその後の人生が雲泥の差となることがわかっていたのでしょう。あるいはもしかしたら、ヤコブとしては兄といっても年の差のない双子の兄ですから、母の胎を先にでたか後にでたかの違いによって祝福を受けられないだなんて、そんなのおかしいとの思いもあり、事を行うのに良心があまり痛まなかったという可能性もあります。
けれども神は正しい方であり、確かに「兄が弟に仕える」との預言が最初からあったとはいえ、父イサクを騙したことについては、ヤコブはこののち罪の刈り取りをすることになったようです。長子としての神の祝福を得たのですから、その1秒後から「おお、これこそ神の祝福!!」とばかり、ラッキーなことばかりが起きても良さそうなものなのに(笑)、ヤコブの場合、彼はまず兄の憤りを恐れて故郷を追われるということになったのです。
これはなんと言いますか、おそらく信仰者の<型>のひとつという気がします(^^;)
現代のクリスチャンも、祈りや聖書、日曜礼拝などを通して、神さま、イエスさまの語りかけを聖霊さまによって受けることがありますが――そうしたイエスさまからの祝福の言葉があったので、「よしよし、これでこれからの自分の人生は安泰に違いない」なんてるんるん♪していると、むしろ逆に「神さまのあの祝福の言葉は聞き間違いだったのだろうか」というような、ひどく落ち込む経験をすることがあります。
特に信仰初期の頃は、むしろ逆に神さまの言葉が与えられるというのは、「その御言葉から試される」というところがあり、神さまからの言葉が与えられる=信仰のテストを受ける……といった場合がとても多いのではないでしょうか。
この時のヤコブもちょうどそうで、聖書に詳しく記載はなくても、父や母の元を離れて故郷をあとにせざるをえなかったヤコブは、孤独の中で、神さまと祈り対話するということが一度のみならず、きっと何度となくたくさんあったに違いありません。
そして、母リベカの兄、ラバンの元に身を寄せたヤコブでしたが、ここでヤコブは羊やヤギを飼う羊飼いの仕事をすることになりました。ですが、このラバンという人がなかなかに狡猾な人であり、ヤコブは彼の中に自分の犯した罪の片鱗を見る思いがしたのではないでしょうか。
かつて狡猾に兄のエサウを騙したヤコブですが、このラバンというヤコブの母方のおじは、簡単にいえば甥を労働力として便利使いをしたということですよね(^^;)
けれども、こうした日々の大変な労働の中にあっても、ヤコブには喜びがありました。それはラバンの娘のラケルに恋をしたことでした。ところが、ラバンはヤコブのことを労働力として自分の元へ留め置くために、一計を案じます。
まず、ヤコブに姉のレアを与えたのです。ラバンはこのことの釈明をヤコブから求められた時、「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです」と言っていますが、間違いなくラバンは確信犯です(^^;)
何故といってそのあとラバンは、「もう七年わたしに仕えたなら、ラケルもあなたにあげましょう」と言っているのですから。このことのうちにも、なんとも言えない神さまの微妙な摂理が働いているような気がします。このレアとラケルという姉妹から、イスラエルの十二部族が生まれたこともそうですが……天幕が暗くてヤコブは妹のラケルと姉のレアを間違えてしまったわけですから、これはまるで彼が父イサクのことを騙した時の状況を思い起こさせるところがあるからです。
さらにもう七年、便利な労働力として使われたヤコブですが、さらにこののち、ラバンが自分の下で働くよう強要しそうなところを、ヤコブはレアやラケルといった自分の家族と一緒に逃げだします。ラバンは追ってきましたが、ヤコブに自分の扱いの正しくなかったことを咎められると、ようやくのことで彼らを行かせることに同意しました。
>>三日目に、ヤコブの逃げたことがラバンに知らされたので、彼は身内の者たちを率いて、七日の道のりを、彼のあとを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。
しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現われて言われた。
「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」
ラバンがヤコブに追いついたときには、ヤコブは山地に天幕を張っていた。そこでラバンもギルアデの山地に身内の者たちと天幕を張った。
(創世記、第31章22~25節)
「事の善悪を論じないように気をつけよ」……このあとラバンはヤコブの一行と話し合いの場を持ちますが、ヤコブに溜まりに溜まった不満をぶちまけられ、ようやくのことで自分の中の悪いところを思い知らされたようです。けれども、こんなことはラバンにとってはわかりきったようなことであり、その上でヤコブのことをこき使っていたわけですから、もし神さまが夢に現れていなかったら、きっとラバンはなんのかのと言いかがりをつけ、ヤコブを自分の元へ留め置く努力をやめなかったに違いありません。
>>ヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに口答えして言った。
「私にどんなそむきの罪があって、私にどんな罪があって、あなたは私を追いつめるのですか。
あなたは私の物を一つ残らず、さわってみて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もしあったら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たちふたりの間をさばかせましょう。
私はのこ二十年間、あなたといっしょにいましたが、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、あなたの群れの雄羊も私は食べたことがありませんでした。
野獣に裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かないで、私が罪を負いました。あなたは私に責任を負わせました。昼盗まれたものにも、夜盗まれたものにも。
私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。
私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。
もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです」
(創世記、第31章36~42節)
けれどもここに、神さまの祝福の御手が入って、ラバンのことを裁き、ヤコブに正当な祝福を与えました。ヤコブは二十年かかってようやく神さまの取り扱い期間を終え、神さまの祝福を受けるに相応しい人格者となりつつあったようです。
これもクリスチャンの方にとっては<信仰の型>として馴染み深いものではないでしょうか。流石に二十年という長期に渡ることはそうしょっちゅうあるわけではないと思いますが(教会に与えられている神さまの御言葉であればあることですけれども)、それでも、神さまから与えられた祝福の御言葉が実現するのに、1~2年、あるいは3~4年、5~6年かかってようやく成就した……といった種類のことはよくあると思います。
また、神さまからのより具体的な祝福を多く受けはじめたかに思われたヤコブですが、そのためにはまず兄のエサウと和解する必要がありました。もう二十年も昔のことになりますが、今も兄のエサウが顔を合わせれば自分を殺そうとするだろうとヤコブは恐れていたのです。
そこで、兄、エサウへの贈り物を先に行かせ、自分はその後ろにつくことにしたのですが、この途中、ヤコブはヤボク川の渡しを渡ろうとする時、天使と格闘することになりました。
>>ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
するとその人は言った。
「わたしを去らせよ。夜が明けるから」
しかし、ヤコブは答えた。
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」
その人は言った。
「あなたの名は何というのか」
彼は答えた。
「ヤコブです」
その人は言った。
「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」
ヤコブが、
「どうかあなたの名を教えてください」
と尋ねると、その人は、
「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」
と言って、その場で彼を祝福した。
そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。
「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」
という意味である。
彼がペヌエルを通りすぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。
(創世記、第32章24~31節)
もちろん、「え?天使って、人間みたいに肉体があるってこと?」と、不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかもこの時、ヤコブは天使に勝っています(笑)。天使はヤコブの我がどうにも強い(どうしても自分の考えのとおり、思いの通りにしたい)のを見て、ヤコブの腿のつがいを打ってどうにか逃れようとするわけですが――しかもその上、「祝福してくださるまでは離しません」という、ヤコブの自己中心的な思いまでもが聖書のこの箇所からは読み取れるにも関わらず、そんなヤコブのことを天使は祝福しています。
「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」……これが現在中東にあるイスラエルの国の名前の由来です。意味のほうは、「神に勝つ者」、「神が支配する者」、「神の戦士」、「神の王子」といった意味があるそうです。
さて、この時ヤコブが天使と格闘した理由についてですが、ようするにヤコブはあれから二十年が過ぎた今も、兄のエサウが自分を殺したいほど憎んでいるのではないかと怖れていたわけです。聖書には言及がありませんけれども、この時もしかしたら、自分の故郷に戻るのではなく、進路を変えて別のところで一家で暮らしてゆきたい……との思いさえ、もしかしてヤコブの怖れる心にはあったのではないでしょうか。
結果から見た場合、ヤコブはこの時、実際には怖れる必要はなかったわけです。けれども、神さまからそのことを指摘されても、ヤコブの兄を怖れる心にまったく変化はなかったのでした。そして、天使から祝福された翌日、ヤコブは確かに神さまの言葉に聞き従い、自分が先に進み、兄への贈り物はそのあとに続かせるということにしました。
これはキリスト教信仰のない方にとっては、「ほんのちょっとの違い」にしか見えないかもしれません。けれども、「小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実である」と、これも聖書に書き記されているように――神の言葉を先にして実際にそれを行うか、それとも自分の思いを先にするのかには、それこそ本当に雲泥の差といっていい、その後に結ぶ実の違いがあります(^^;)
そしてこの時のヤコブが結局どうなったかというと……エサウはヤコブの一行がやって来るなり、弟のことを抱きしめ、そして口接けしたのでした。
>>ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。ヤコブは子どもたちをそれぞれレアとラケルとふたりの女奴隷とに分け、女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをそのあとに、ラケルとヨセフを最後に置いた。
ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。
エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。
エサウは目を上げ、女たちや子どもたちを見て、
「この人たちは、あなたの何なのか」
と尋ねた。
ヤコブは、
「神があなたのしもべに恵んでくださった子どもたちです」
と答えた。
それから女奴隷とその子どもたちは進み出て、おじぎをした。
次にレアもその子どもたちと進み出て、おじぎをした。最後に、ヨセフとラケルが進み出て、ていねいにおじぎをした。
それからエサウは、
「私が出会ったこの一団はみな、いったい、どういうものなのか」
と尋ねた。
するとヤコブは、
「あなたのご好意を得るためです」
と答えた。
エサウは、
「弟よ。私はたくさん持っている。あなたのものは、あなたのものにしておきなさい」
と言った。
ヤコブは答えた。
「いいえ。もしお気に召したら、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。
どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから」
ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。
(創世記、第33章1~11節)
つまり、神さまの語ってくださっていたとおり、ヤコブはまったく怖れる必要はなかったのです。エサウは感情の激しい、激情型の性格の人だったようですが、こうした人に限って最初の怒りのスパークが過ぎると、その後はあまり根に持たない……といった感じになるのを、普段わたしたちのまわりでも時々見たりしませんか?(^^;)
また、このことでエサウが随分長く怒り続けていたにしても――何分あれから二十年もの時が流れています。確かに長子の祝福をヤコブは奪ったかもしれませんが、たとえば、イサクの腹違いの子であるイシュマエルを、約束の子ではなかったとしても神さまは別の形で祝福してくださったように……長子の権利はなくても、エサウのことはエサウのこととして、神さまは彼には彼の祝福を与えてくださったのではないでしょうか。
けれども、このあたりの対応を間違ってしまうと、現代を生きるわたしたちクリスチャンも、神からの最善の約束を失ってしまうことがよくあります。わたしもそうですが、神さまから聖霊さまを通して語られたことが自分にとって都合が悪かったりすると聞かなかった振りをしたり、あるいは実行しようとしても、恐れや不安や恥をかきたくないといった思いが強すぎるあまり……行きなさいと言われた場所まで行ったものの、ドアの直前までいって帰ってくるなど、実際そうしたことというのはありえます。
ただ、本当にエサウが「お父さん。祝福はもうひとつないのですか」と泣いて言ったように――この世界には、神はただおひとりきり、イエス・キリストだけです。この方を通してでなくては、神さまからの真の祝福はないように、わたしたちが真実罪を赦され、天国へ行ける御名は、この方以外には絶対にありえません。
イサクと腹違いの息子、イシュマエルは、現在のイスラム教を信じる人々にとっての祖先とされるそうですが、キリスト教としては、そもそも彼は神さまの約束の子でないのです(^^;)けれども、彼らの子孫のことは彼らの子孫のこととして、「彼もまたアブラハムの子なのだから」ということで、神さまは祝福してくださったのではないでしょうか。
けれども、アブラハム、イサク、ヤコブの神の直系の子孫であるイエス・キリスト、さらにまたその霊的子孫であるわたしたち現代のクリスチャンは、現在に至るまで神さまの最善のお約束を相続しています。つまり、それこそがエサウの逃してしまった祝福であり、ヤコブが兄から奪った神さまからの最善の祝福でした。
生まれる前から、神さまからの約束の言葉があったとはいえ、ヤコブの神さまの祝福の奪い方は、褒められるやり方ではなかったかもしれません。けれども、これも聖書に「すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます」とあるとおり、いつかわたしたちが死にゆこうという時には、究極「神・天国」以外、価値あるものなどなくなるのです。
ヤコブは神さまからの真の祝福に相応しい者として整えられるまで、二十年もおじのラバンに仕えました。このラバンとヤコブのエピソードというのは、実に現代の雇用主と被雇用者との間にも、今もよく見られるものである気がします(^^;)ラバンは他に行くべきところとてないヤコブのことを、自分にとって都合のいいようにこき使い続けたのですから。
けれども、ヤコブのそうした苦労の最中にも神はともにおられ、羊やヤギの群れを増やすことで彼を祝福してくださいましたし、ヤコブは危うく神さまに聞き従えないことで、神さまの最大の祝福を逃すところでさえあったわけですが、彼が信仰の失格者とならずにすんだこともまた、神さまの恵みによりました。
今回のトップ画である、「ヤコブと天使の闘い」を見てみますと、天使が微笑んでいるのが、見る方によっては不気味に見えるかもしれません。何故といって、微笑みながらヤコブの腿のつがいを打とうとしているわけですから(^^;)
けれども、実際には神さまには当然、ヤコブの腿のつがいを打つどころか、そもそも彼に勝つことも簡単に出来ることなはずなのに――むしろこれは、ヤコブが自分に聞き従えるよう、エサウのように祝福を逃す者とならないよう、神さまの優しい御手の中で起きた出来事だったのです。
この時ヤコブはある意味、自分の我を押し通すことと、神さまの祝福の両方を得ようとして天使と格闘し、天使のほうでは「あなたの我を離しなさい」と再三言ったにも関わらず、彼は己の我を離そうとせず、天使は「あなたの我を押し通す力には勝てない」として、腿のつがいを打ったのです。
けれども腿のつがいを打たれたことで、ヤコブには神さまの優しい御手の取り扱いがわかり、それでこの翌日には神さまのおっしゃることに聞き従えたのだと思います。わたしたちもよく、神さまの御思いよりも自分の思いや我といったものを押し通したい時があるものですが、腿のつがいを打たれてでも聞き従えたヤコブは幸いだったと思います。
何故といって、わたしたちもなかなか聞き従えないでいる時に、体のどこかを怪我するなどして、「ハッ。そうか!神さまはこのことを悟らせたかったんだ」となればいいですけれども、そうではなく、神さまのお約束に背を向けては後悔して振り返り、「今度こそは聞き従えますように!」と祈りながらも、足が竦んで実行するまでには至らない……そうしたことっていうのは、よく気をつけていないとしょっちゅう起こることなものですから(^^;)
そして、創世記のヤコブの生涯については、彼が「我が強く自己中心的」な人物であるにも関わらず、神さまに祝福された――ということを思う時、自分の身を振り返って「わたしもまったく我が強く、自己中心的だけれど、ヤコブのように祝福されるためにも信仰のポイントを逃してはいけない」ということを強く思わされます。
ではでは、自分でも何故突然ヤコブの信仰について書くことになったのか軽く謎なのですが、それなりにまとめることが出来たので、これはこれでこのまま上げてしまおうかなって思います♪(^^)
それではまた~!!
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