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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

マーリン・キャロザースさんの感謝と賛美の教え-【3】-

2016年12月10日 | キリスト教
【モーゼの発見】ローレンス・アルマ=タデマ


 そういえば、著者のマーリン・キャロザースさんがどのような方か、先に書いておくべきだったかもしれません(^^;)

 でもマーリンさんの映像を見ると、本当に心が朗らかで明るく、マーリンさんの存在自体が神さまを感謝し賛美することの象徴そのもの……といった強いオーラを感じます。

 また、マーリンさんの世界的大ベストセラー「獄中からの讃美」を読むと、マーリンさんの生い立ちやイエスさまを信じるに至るまでの経緯などがわかると思うのですが、ここには、「獄中の讃美」の本の後ろのほうにあるマーリンさんの経歴について、参考までに書き記させていただきたいと思いますm(_ _)m


 >>1943年米国陸軍へ入隊。第Ⅱ大戦中、爆薬処理のエキスパートとして、第82空挺師団と共に、フランス、ベルギー、ドイツを転戦。ドイツ戦車隊との間にくりひろげられたバルジの戦いにも参加している。終戦後、ドイツに駐留し、アイゼンハワー元帥の護衛を勤める。

 1946年退役し、インディアナ州マリオンのマリオン大学に入学。同大卒業後、ケンタッキー州ウイルモアのアズベリー神学校に学ぶ。神学校卒業後、インディアナ州クレイプールのメソジスト教会で三年間牧会。

 1953年、陸軍チャプレンとして米国陸軍に再入隊し、ドイツ、韓国、ドミニカ、パナマ、ベトナムに従軍。1968年、ベトナムより帰国、ジョージア州フォート・ベニング陸軍基地に配属され、1971年に退役するまで、5,000人の士官候補生及び3,000人の下士官候補生よりなる、幹部候補生旅団付チャプレンを勤める。

 90回以上の落下傘降下を経験し、マスター・パラシューティスト賞を受賞。民間航空パトロール隊のパイロットの資格も持つ師は、一男一女の父でもあり(※この本「獄中からの讃美」の発行当時)、現在、各地の教会やセミナーで広く用いられている主の器である。

(「獄中からの讃美」より)

 


 ええと、ここからマーリンさんのメッセージについて触れたかったのですが、今回は前回の記事について少し補足(?)しておこうかなと思いました(^^;)

 ギデオンが成し遂げたことについては、いずれまた触れてみたいと思うのですが、神さま(イエスさま)が与える勝利のパターンには聖書を通してみるとある<型>のあることがわかります。

 つまり、モーセが紅海を割ってイスラエル民族をエジプトの奴隷状態から解放したことはあまりにも有名な話ですが、普通に考えた場合、いくら相手が神さまでも「そんなことできるわけないっしょ!」と思うのが普通ですよね(^^;)

 けれどモーセは、「わたしは口べただから、リーダーに向いていません」といったことを申し上げたのち、結局のところ神さまに聞き従う道のほうを選んでいます。そしてこの点はギデオンも一緒だと思うんですよね。


 >>「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖が、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました」

 すると、主は彼に向かって仰せられた。

「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか」

 ギデオンは言った。

「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちでもっとも弱く、私は父の家で一番若いのです」

(士師記、第6章13~15節)


 わたしたちにも、「神さまがおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか」と思うことが本当にたくさんあります。モーセにしてもきっと同じ気持ちだったでしょう。彼は若い頃、自分の同胞であるイスラエル人のことを思って、エジプト人を殺すという罪さえ犯しました。

 そしてその後、ミデヤンの地へと逃れて、そこで結婚し家族を養い……おそらくここで自分の生涯は終わるのだと思っていた頃、なんと八十歳にして神さまから「イスラエル民族をエジプトから救え」との命令を受けます。わたしが思うに、モーセはそのことに関しても神さまに色々と申し上げたかったのではないでしょうか。「神よ、何故<今>なのですか。どうせなら、わたしがもっと若く壮年であった頃になら、もっとあなたに聞き従いやすかったでしょうに」と……。

 けれど、主には年のヤング・ミドル・オールド(笑)、勇敢か臆病かといったことは関係がないのだと思います。

 実際、モーセは>>(百二十歳にして)彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。と聖書にありますし、神さまに聞き従うために一歩踏み出すことの決意をすると、「あとはわたしの力がどうこうじゃない。わたしが何かをするんじゃなくて、あとは神さまが成し遂げてくださるのだから」というのが、本当に信仰の力を使うことのコツといっていいのではないでしょうか。

 ただ、イエスさまのことを信じることもそうですが、「キリスト教のことはまだよくわからないけど、とりあえず信じてみよう」という時には、わたしたちの意志の力も必要かもしれません。また、それと同じで神さまが「~~しなさい」とおっしゃる時も、最初に意志の力が必要になってきます。

 わたしたちには探せばいくらでもあるのですよね。「わたしは~~だから、神さまの働きに相応しくない」とか、「そのような役目はとても無理です、神さま」とか、その他色々……けれど、イエスさまを信じて聖霊さまをいただくというのは、人の人生にとってこれ以上のことはないとわたしは思っています。

 何故かというと、イエスさまや聖霊さまといったものとは別の霊に継ぎ合わされていて、とても苦しんでいる人がたくさんいるからです。もちろん、イスラム教を信じていて、裕福でアッラーを敬い、とても幸福に暮らしている人もいますし、仏教を信じることで、日々心穏やかに暮らしている方もたくさんいるでしょう。

 けれど、それとは別に、何か暗く悪いものに自分自身の霊が継ぎ合わされてでもいるように、とても苦しんでいる方がたくさんいます。言うなれば、聖霊さまを通してイエスさまに祈るというのは、一針一針丁寧に織物を織り、その元のところがしっかりと神さまと繋がっているように感じることかもしれません。けれど、他の霊的なものや、自分自身の欲望とが混ざったようなものと継ぎ合わされて、いくら一生懸命織物を織ってもなんにもならないといった苦しみと悩みに継ぎ合わされ、かといってそれを自分ではもうどうすることも出来ない……こんな毎日しかないのなら、いっそ死んでしまおうかと考えるといった、そうした種類のことが本当にあるのです。

 もちろん、「自分の今の人生、そこまでひどくないぞ」という方は、それでいいと思うんですね。でも、こうした種類のことに心当たりがあるという方は、イエスさまのことを信仰告白し、聖霊さまによって救われ、他の霊との交わりや関わりを断ち、イエスさまの霊に継ぎ合わされるほうが――必ず幸せになれるというか、最初はそう思えなくても、確実にそのように一歩一歩人生のステージが上がっていく何かを感じ取れる人生へと変わってゆけると思います。

 まあ、わたし自身何か「霊的に」といった言葉を使った時点で、人からうさんくさい……といったように思われるのはわかっているのですが、けれど、まず間違いなく確実に「そうした種類のことに心当たりがある」という方がおられると思うので、少し書いてみることにしました。。。

 ではでは、次回は再びマーリンさんのメッセージから学んでいきたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!





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