【失楽園】ジェームズ・ティソ
「私がこの地を滅ぼさないために、石垣を築き、私の前で破れ口に立つ一人の人を、私は彼らの中に探したが、見つからなかった。そして私は彼らの上に私の憤りを注ぎ、私の怒りの火で彼らを滅ぼし尽くし、彼らの行ないを彼らの頭に報いた、と主、ヤーウェが言われる」
(エゼキエル書、第22章30~31節)
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
(ヘブル人への手紙、第4章12~13節)
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
(コリント人への手紙第一、第15章42~44節)
これは天と地が創造されたときの経緯である。
神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。
その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。
一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
(『創世記』、第2章4~10節)
聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
(最後のアダム=イエス・キリスト)
最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。
第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。
土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。
私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。
(コリント人への手紙第一、45~49節)
>>堕落する前の最初のアダムは、物質世界と関わり、またそれを見ることができたのと同じくらい容易に、霊の世界とも関わりまたそれを見ることができました。どのようにしてでしょうか?彼が自分の霊のからだを使うことによってです。このことは彼がエデンの園で神といっしょに歩み、神といっしょに話すことが容易にできたことによって論証されます。
彼は自分の肉体を意識して知っていたのと同じように、自分の霊のからだをも意識して知っていました。彼のたましい(意識のある知性と意志)が、彼の霊のからだと肉体との両者を支配(コントロール)していました。けれども、アダムが堕落した時、霊的死が起こりました。すなわち、アダムは自分の霊のからだをもはや意識して知ることがなくなり、かつてしていたような主とのコミュニケーションは持つことができなくなりました。
私たちがイエス様を自分の主また救い主として受け入れてふたたび生まれる時、聖霊が入って来られ、私たちの霊のからだは新生して、堕落前のアダムがしていたような主とのコミュニケーションを持つことができるように、活性化されるのです。私たちが神と(聖霊の助けによって)コミュニケーションを持つのは、私たち人間の霊を通してであることを、次のみことばがはっきり示しています。
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」
(ヨハネの福音書、第4章23~24節)
ですから、霊だけが霊の世界と交わる(コミュニケーションを持つ)ことができ、霊であられる父なる神を礼拝することができるのです。
みことば(詩篇、第104編4節、ヘブル人への手紙、第1章13~14節、マタイの福音書、第25章41節)からもわかるように、神は霊であられるばかりでなく、他にも天使と呼ばれる霊の存在があり、ある者は神に仕え、ある者はサタンに仕えているのです。
私たちの霊のからだは、私たちと霊の世界をつなぐものです。なぜなら霊の世界は目に見えず、どんな物質的なものによっても測ることができないからです。
これらの概念を理解するのがむずかしいのは、『霊』がどんな『物質的なもの』とも非常に異なっており、私たちが慣れ親しんでいるのは、見たり、触れたり感じたりする物質世界の経験だけだからです。
聖霊を通して私たちの霊は神とコミュニケーションを持ち、神を礼拝することができます。けれども、ヘブル人への手紙、第4章12節のみことばからすれば、私たちが今の罪の状態でこの地上にとどまる間、私たちがふたたび自分の霊のからだを意識して支配(コントロール)するようになるのは、神のみこころではありません。
それゆえ、御霊の剣(神のことば)がたましいと霊を分ける(分断する)のです。いったん分けてしまえば、たましいは、もはや霊のからだをコントロールできなくなります。主がテサロニケ人への手紙第一、第5章23節で、私たちのたましいや肉体と同じく、私たちの霊もイエス・キリストの完全な主権のもとに置かなければならないことをはっきり示しているのもそのためです。
(『サタンのわな』レベッカ・ブラウンさん著/エターナル・ライフ・ミニストリーズ刊より)
(※レベッカ・ブラウンさんの文章について一部、「いや、これ異端、あるいは異端的考え方なのでは?」と感じるクリスチャンの方もおられるかもしれません。ですが、言葉の主旨としては、このあとにアストラル・プロジェクション(幽体離脱)のことが書かれており、血肉の体から霊の体を離す、そこにサタンが介在し、霊の体をコントロールすることを教え、そのことがサタンの支配下にわたしたちの霊の体を置くことに繋がる――といったことが書かれています。また、このことについては、また別の記事にて、わたしのほうでも補足したいと思っていますm(_ _)m)
人間は、目に見える【血肉の体】、それから目に見えない【たましい】、【霊】とから出来ていると聖書は教えています。
そして、簡単に説明したとすれば、悪魔(サタン)・悪霊の主要な目的というのは、神(キリスト・三位一体の神)以外の霊のくびきの下に、この【たましい】や【霊】を置くということてす。
この理論にはおそらく、抵抗を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、かつてアダムとエヴァはエデンの園にて、この【血肉の体】、また【たましい】と【霊】によって、創造主なる神とコミュニケーションを取ることが出来ていました(「旧約聖書、創世記」より)。
ところが、エヴァが蛇にあざむかれて善悪の知識の木の実を食べてしまったことから、アダムとエヴァはこの楽園から追い出され、かつてのように【霊】によっても神さまと交わりを持つことが出来なくなってしまいました。
このことは言ってみれば、現在のわたしたちがありとあらゆる偶像の神に取り囲まれていることの理由でもあると思います。つまり、真の神を【霊】によっても知るという道が閉ざされてしまったため、わたしたちの【血肉の体】にある脳は、【たましい】の声を聞きながら、自分たちの「真実の神を知りたい」という欲求を満たそうと、様々な神話を作り上げ、またそれのみならず、そうした神々を祀った神殿等を数限りなく作り続けてきたといっていいと思います。
もちろん、創造主である父なる神には、このアダムとエヴァの失楽園からすでに、御自身の御子であるイエス・キリストをいずれは地上へ送り、全人類を救おうとの御計画があったのではないかと思われます。
そして、このことにも抵抗を覚える方は多いと思いますが、わたし自身もまた、イエスさまのことを自分の救い主として教会で受け容れるまでは、霊的には死んだ者でした。けれども、イエスさまのことを信じ、聖霊を受けた時――この死んでいた霊が聖霊さまによって活性化し、<神を知る>、<イエス・キリストこそ、この世の救い主である>ということがはっきりわかったのです。
これがキリスト教でいう<新生>ということですが、悪魔(サタン)・悪霊の企てというのは実に巧妙なもので、彼らは「(本当の)イエス・キリスト以外の霊」との関係性の中に人間を迷いこませ、その人の【たましい】や【霊】といったものを自分の支配下、くびきの下に置くという領域に関して、日々実に活発かつ勤勉に活動しています。
「悪魔や悪霊が勤勉?」などと聞くとわたしも笑ってしまうのですが(笑)、実際のところ、これは本当に事実と思います。彼らは人間を真理へと至る道から迷いこませる、苦しめ悩ませる……ということに関しては、実に勤勉かつ365日24時間、まるでコンビニ営業でもあるかのように、無勤無休で働き続けています。
また、悪魔・悪霊のくびきの下にあるからといって、その人が必ずしも不幸であるとは限りません。たとえば、ある神社仏閣をお参りしたのちに株や宝くじなどが大当たりした場合、おそらくそこに自分に味方してくれる神がいるのだと信じる方は多いでしょうし、新興宗教の教祖の方など、ご本人は実に壮健、またこの方のご家族も優秀で、家族仲も良好かつ祝福されている――といった場合もあると思います。
悪魔・悪霊の目的というのは、わたしたちの【霊】が真の神であるイエス・キリスト以外のものに結びつくことですので、キリスト以外の他の神を礼拝するならこのような祝福がある……といった方向性に導くことも多いでしょうし、「この世の富はこの世の神であるサタンに任されている」ものでもありますので、彼らにその裁量権が与えられているというのも本当のことです。
もちろん、それが偽りの神であったとしても、人には信仰の自由があるのだし、キリストを信じているがゆえに、常にサタンの攻撃にさらされ、不幸に見える人よりも、それが偽りの神に対する信仰であれ、幸福な人生を送れるほうがずっといい――との考え方もあるかもしれません。
けれども、自身の霊を悪魔・悪霊のくびきの下に置くということは(大抵の場合、無自覚である場合が多いと思いますが)、わたしたちの【血肉の体】が滅んだ時、その後【霊の体】が悪魔・悪霊の自由になることを意味しています。
おそらく、ノンクリスチャンの方でここまでこの文章を読んだ方は、「馬鹿らしい」と感じる方が大半だと思います。けれども、わたしたちクリスチャンが<破れ口>に立ち、祈りなどを通してこの悪魔・悪霊と戦っていかなければならないのは、このことが一番の大きな理由といっていいと思います。
>>イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。
行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。
あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
(マタイの福音書、第10章6~8節)
わたしも他のすべてのクリスチャンの方と同じく、イエス・キリストの十字架の福音をただで受けました。当時住んでいたわたしの実家がある市に、「The Light of Eternal Agape(ザ・ライト・オブ・エターナル・アガペー)教会」(旧・主の十字架クリスチャンセンター)の牧師さん御夫妻が開拓伝道に来ておられて、本当に偶然救われることが出来たのです。
言い方を変えてみれば、その地方に当時「主の十字架クリスチャンセンター」はありませんでしたから、イエスさまの愛を伝える拠点を増やす、つまりは<破れ口>を塞ぐためにこの牧師さん御夫妻が来られていなかったら、まずもってわたしの場合、救われていなかったと思います。
何故かというと、その後、福音派の教会などに行ってみてわかったことですが、多くの教会はこうした悪魔・悪霊に対する<霊的対応>はしていない場合がほとんどで、そのゆえにおそらく他の教会でわたしが「イエス・キリストこそ真実の神である」という真理を受け容れていたとしたら――「わたしは真実の神であるイエス・キリストを受け容れたのに、何故こんなことが起きるのだろう?」といったことでボロボロになり、信仰こそ捨てなかったにせよ、相当苦しんだだろうと思うんですよね。
悪魔・悪霊というのは、こうした種類のことがサディスティックなまでに本当に好きです。過去にわたしたちが悩んだり苦しんだことを今さらながらに思い起こさせて苦しませたり、孫悟空の頭の輪っかと同じく、そうすることでわたしたち人間をギリギリ苦しめ、死後もずっと手放す気はないと言っているのです。
世の中にはいわゆる霊能者と呼ばれる方がいて、こうした方々は【たましい】の感覚が鋭敏で、【血肉の体】の他に、それに対応する形で【霊の体】があることに気づいており、そちらから情報を得て色々と不思議なことを語ったり、病気を癒すなどの業をなす場合もあると思いますが、それらの道もまた結局のところは滅びの道に通じていると思ってください。
また、こうした事柄に心当たりがあり、「わたしが苦しみ・悩んでいるのはまさにこのためではないか」と、なんとなく感じられた方は、是非教会でイエスさまのことを信じる告白をして救われてほしいと思います
何故なら、キリスト教の伝える福音というのは単純明快なもので、イエスさまこそが神さまのただひとりの御子であり、この方の十字架の血を信じる告白をしただけで――すべての罪が赦されるだけでなく、死後に魂が天国へ行くことをも約束されているからです。
この福音を信じさえすれば、わたしたちの【霊の体】には、「この者はイエス・キリストのものである」との証印が押され、死により【血肉の体】が滅んだあと、【霊の体】のほうはそのまま天国へ行くことが可能となるのです。
また、こうして書いてくると、救われるにはある意味「たったそれだけのこと」が必要のように思われますが、実際のところはだからといって神さまの元へ来る方の数というのはそう多くないわけです。
その理由のひとつは、天国だの地獄だの、そんな死後のあるかどうかもわからない世界のことを論じたところで、生きている間には永久に答えの出ないことなわけですから、そのような論議を「愚か」であるとして、切り捨てたがる人のほうが多いからではないでしょうか。
けれども、人生の躓きや、「何故こんなことになったのかわからない」という人生上の苦しみを通し、いつでも人が「神はいるのか、いないのか」と悩み、心の内に問いかける時……究極的にはこうしたことはどういうことなのか、どんな意味を持つことなのかと、哲学書や宗教の本を読まれる方は多いでしょう。
実をいうと、わたしが教会へ行くことになった直接の言葉は、聖書の中にはありません。こうした宗教のことを学びたいと考え、図書館で聖書の解説書を借りた時、そこに挟まっていた冊子に「汝、散文の美しさゆえに聖書を読む者を友とするなかれ」とあったのです
「汝、散文の美しさのゆえに聖書を読むなかれ」じゃないんですよ(笑)
当時、わたしはこの言葉に相当ハッとして、神さまに心の底の底までを見通された気がしたものでした。何故かというと、わたしは一種の文学として聖書のことを学びたいと思っていたからですし、べつにキリスト教徒になろうという気はなかったからです。
けれども、聖書やキリスト教というのは、個人的に学ぼうとして理解できるものではないとすぐに悟り、そこで教会へ行くことにしました。その頃もずっと悩んでいたり苦しんでいたりすることがありましたし、それらの問題が解決したら、キリスト教の神こそ神であると認めてやろうといったことではなく――とにかく、一度教会へ行ってみて、「何か少しでもおかしな気配を感じたら逃げ帰ろう」と思っていたにも関わらず、実際には一度行ってみただけで、神さまの恵みと憐れみにより、救われることが出来たのです
以降、わたしの望みと願いは、ひとりでも多くの方が、イエスさまの福音に触れて救われることになりました。けれども、周知のとおり、日本の多くの方は葬式仏教徒であり、またそれのみならず、キリスト教の中では異端とされている宗派のほうが特に有名で、「キリスト教=おかしな宗教」と感じる方のほうが圧倒的に多いという状況にあります。
また、霊的な縛りもきつく、どんなに有名な宣教師の方が来られても、なかなか人が救われてこない……という霊的背景もあるわけですが、とにかくわたし自身も祈りの中で、いつでもそう出来るというわけではないにしても、イエスさまがそれを許してくださった時に「<破れ口>に立って祈」り、悪魔(サタン)・悪霊の拠点を打ち壊すための力の一部となれるよういつでも願っています
ではでは、次回以降は「悪魔・悪霊」に関することから離れようと思うのですが、個人的にこの分野には重荷を感じていますので、これからもさらに学び続けていきたいと思っています
それではまた~!!
「私がこの地を滅ぼさないために、石垣を築き、私の前で破れ口に立つ一人の人を、私は彼らの中に探したが、見つからなかった。そして私は彼らの上に私の憤りを注ぎ、私の怒りの火で彼らを滅ぼし尽くし、彼らの行ないを彼らの頭に報いた、と主、ヤーウェが言われる」
(エゼキエル書、第22章30~31節)
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
(ヘブル人への手紙、第4章12~13節)
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
(コリント人への手紙第一、第15章42~44節)
これは天と地が創造されたときの経緯である。
神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。
その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。
一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
(『創世記』、第2章4~10節)
聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
(最後のアダム=イエス・キリスト)
最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。
第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。
土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。
私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。
(コリント人への手紙第一、45~49節)
>>堕落する前の最初のアダムは、物質世界と関わり、またそれを見ることができたのと同じくらい容易に、霊の世界とも関わりまたそれを見ることができました。どのようにしてでしょうか?彼が自分の霊のからだを使うことによってです。このことは彼がエデンの園で神といっしょに歩み、神といっしょに話すことが容易にできたことによって論証されます。
彼は自分の肉体を意識して知っていたのと同じように、自分の霊のからだをも意識して知っていました。彼のたましい(意識のある知性と意志)が、彼の霊のからだと肉体との両者を支配(コントロール)していました。けれども、アダムが堕落した時、霊的死が起こりました。すなわち、アダムは自分の霊のからだをもはや意識して知ることがなくなり、かつてしていたような主とのコミュニケーションは持つことができなくなりました。
私たちがイエス様を自分の主また救い主として受け入れてふたたび生まれる時、聖霊が入って来られ、私たちの霊のからだは新生して、堕落前のアダムがしていたような主とのコミュニケーションを持つことができるように、活性化されるのです。私たちが神と(聖霊の助けによって)コミュニケーションを持つのは、私たち人間の霊を通してであることを、次のみことばがはっきり示しています。
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」
(ヨハネの福音書、第4章23~24節)
ですから、霊だけが霊の世界と交わる(コミュニケーションを持つ)ことができ、霊であられる父なる神を礼拝することができるのです。
みことば(詩篇、第104編4節、ヘブル人への手紙、第1章13~14節、マタイの福音書、第25章41節)からもわかるように、神は霊であられるばかりでなく、他にも天使と呼ばれる霊の存在があり、ある者は神に仕え、ある者はサタンに仕えているのです。
私たちの霊のからだは、私たちと霊の世界をつなぐものです。なぜなら霊の世界は目に見えず、どんな物質的なものによっても測ることができないからです。
これらの概念を理解するのがむずかしいのは、『霊』がどんな『物質的なもの』とも非常に異なっており、私たちが慣れ親しんでいるのは、見たり、触れたり感じたりする物質世界の経験だけだからです。
聖霊を通して私たちの霊は神とコミュニケーションを持ち、神を礼拝することができます。けれども、ヘブル人への手紙、第4章12節のみことばからすれば、私たちが今の罪の状態でこの地上にとどまる間、私たちがふたたび自分の霊のからだを意識して支配(コントロール)するようになるのは、神のみこころではありません。
それゆえ、御霊の剣(神のことば)がたましいと霊を分ける(分断する)のです。いったん分けてしまえば、たましいは、もはや霊のからだをコントロールできなくなります。主がテサロニケ人への手紙第一、第5章23節で、私たちのたましいや肉体と同じく、私たちの霊もイエス・キリストの完全な主権のもとに置かなければならないことをはっきり示しているのもそのためです。
(『サタンのわな』レベッカ・ブラウンさん著/エターナル・ライフ・ミニストリーズ刊より)
(※レベッカ・ブラウンさんの文章について一部、「いや、これ異端、あるいは異端的考え方なのでは?」と感じるクリスチャンの方もおられるかもしれません。ですが、言葉の主旨としては、このあとにアストラル・プロジェクション(幽体離脱)のことが書かれており、血肉の体から霊の体を離す、そこにサタンが介在し、霊の体をコントロールすることを教え、そのことがサタンの支配下にわたしたちの霊の体を置くことに繋がる――といったことが書かれています。また、このことについては、また別の記事にて、わたしのほうでも補足したいと思っていますm(_ _)m)
人間は、目に見える【血肉の体】、それから目に見えない【たましい】、【霊】とから出来ていると聖書は教えています。
そして、簡単に説明したとすれば、悪魔(サタン)・悪霊の主要な目的というのは、神(キリスト・三位一体の神)以外の霊のくびきの下に、この【たましい】や【霊】を置くということてす。
この理論にはおそらく、抵抗を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、かつてアダムとエヴァはエデンの園にて、この【血肉の体】、また【たましい】と【霊】によって、創造主なる神とコミュニケーションを取ることが出来ていました(「旧約聖書、創世記」より)。
ところが、エヴァが蛇にあざむかれて善悪の知識の木の実を食べてしまったことから、アダムとエヴァはこの楽園から追い出され、かつてのように【霊】によっても神さまと交わりを持つことが出来なくなってしまいました。
このことは言ってみれば、現在のわたしたちがありとあらゆる偶像の神に取り囲まれていることの理由でもあると思います。つまり、真の神を【霊】によっても知るという道が閉ざされてしまったため、わたしたちの【血肉の体】にある脳は、【たましい】の声を聞きながら、自分たちの「真実の神を知りたい」という欲求を満たそうと、様々な神話を作り上げ、またそれのみならず、そうした神々を祀った神殿等を数限りなく作り続けてきたといっていいと思います。
もちろん、創造主である父なる神には、このアダムとエヴァの失楽園からすでに、御自身の御子であるイエス・キリストをいずれは地上へ送り、全人類を救おうとの御計画があったのではないかと思われます。
そして、このことにも抵抗を覚える方は多いと思いますが、わたし自身もまた、イエスさまのことを自分の救い主として教会で受け容れるまでは、霊的には死んだ者でした。けれども、イエスさまのことを信じ、聖霊を受けた時――この死んでいた霊が聖霊さまによって活性化し、<神を知る>、<イエス・キリストこそ、この世の救い主である>ということがはっきりわかったのです。
これがキリスト教でいう<新生>ということですが、悪魔(サタン)・悪霊の企てというのは実に巧妙なもので、彼らは「(本当の)イエス・キリスト以外の霊」との関係性の中に人間を迷いこませ、その人の【たましい】や【霊】といったものを自分の支配下、くびきの下に置くという領域に関して、日々実に活発かつ勤勉に活動しています。
「悪魔や悪霊が勤勉?」などと聞くとわたしも笑ってしまうのですが(笑)、実際のところ、これは本当に事実と思います。彼らは人間を真理へと至る道から迷いこませる、苦しめ悩ませる……ということに関しては、実に勤勉かつ365日24時間、まるでコンビニ営業でもあるかのように、無勤無休で働き続けています。
また、悪魔・悪霊のくびきの下にあるからといって、その人が必ずしも不幸であるとは限りません。たとえば、ある神社仏閣をお参りしたのちに株や宝くじなどが大当たりした場合、おそらくそこに自分に味方してくれる神がいるのだと信じる方は多いでしょうし、新興宗教の教祖の方など、ご本人は実に壮健、またこの方のご家族も優秀で、家族仲も良好かつ祝福されている――といった場合もあると思います。
悪魔・悪霊の目的というのは、わたしたちの【霊】が真の神であるイエス・キリスト以外のものに結びつくことですので、キリスト以外の他の神を礼拝するならこのような祝福がある……といった方向性に導くことも多いでしょうし、「この世の富はこの世の神であるサタンに任されている」ものでもありますので、彼らにその裁量権が与えられているというのも本当のことです。
もちろん、それが偽りの神であったとしても、人には信仰の自由があるのだし、キリストを信じているがゆえに、常にサタンの攻撃にさらされ、不幸に見える人よりも、それが偽りの神に対する信仰であれ、幸福な人生を送れるほうがずっといい――との考え方もあるかもしれません。
けれども、自身の霊を悪魔・悪霊のくびきの下に置くということは(大抵の場合、無自覚である場合が多いと思いますが)、わたしたちの【血肉の体】が滅んだ時、その後【霊の体】が悪魔・悪霊の自由になることを意味しています。
おそらく、ノンクリスチャンの方でここまでこの文章を読んだ方は、「馬鹿らしい」と感じる方が大半だと思います。けれども、わたしたちクリスチャンが<破れ口>に立ち、祈りなどを通してこの悪魔・悪霊と戦っていかなければならないのは、このことが一番の大きな理由といっていいと思います。
>>イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。
行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。
あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
(マタイの福音書、第10章6~8節)
わたしも他のすべてのクリスチャンの方と同じく、イエス・キリストの十字架の福音をただで受けました。当時住んでいたわたしの実家がある市に、「The Light of Eternal Agape(ザ・ライト・オブ・エターナル・アガペー)教会」(旧・主の十字架クリスチャンセンター)の牧師さん御夫妻が開拓伝道に来ておられて、本当に偶然救われることが出来たのです。
言い方を変えてみれば、その地方に当時「主の十字架クリスチャンセンター」はありませんでしたから、イエスさまの愛を伝える拠点を増やす、つまりは<破れ口>を塞ぐためにこの牧師さん御夫妻が来られていなかったら、まずもってわたしの場合、救われていなかったと思います。
何故かというと、その後、福音派の教会などに行ってみてわかったことですが、多くの教会はこうした悪魔・悪霊に対する<霊的対応>はしていない場合がほとんどで、そのゆえにおそらく他の教会でわたしが「イエス・キリストこそ真実の神である」という真理を受け容れていたとしたら――「わたしは真実の神であるイエス・キリストを受け容れたのに、何故こんなことが起きるのだろう?」といったことでボロボロになり、信仰こそ捨てなかったにせよ、相当苦しんだだろうと思うんですよね。
悪魔・悪霊というのは、こうした種類のことがサディスティックなまでに本当に好きです。過去にわたしたちが悩んだり苦しんだことを今さらながらに思い起こさせて苦しませたり、孫悟空の頭の輪っかと同じく、そうすることでわたしたち人間をギリギリ苦しめ、死後もずっと手放す気はないと言っているのです。
世の中にはいわゆる霊能者と呼ばれる方がいて、こうした方々は【たましい】の感覚が鋭敏で、【血肉の体】の他に、それに対応する形で【霊の体】があることに気づいており、そちらから情報を得て色々と不思議なことを語ったり、病気を癒すなどの業をなす場合もあると思いますが、それらの道もまた結局のところは滅びの道に通じていると思ってください。
また、こうした事柄に心当たりがあり、「わたしが苦しみ・悩んでいるのはまさにこのためではないか」と、なんとなく感じられた方は、是非教会でイエスさまのことを信じる告白をして救われてほしいと思います
何故なら、キリスト教の伝える福音というのは単純明快なもので、イエスさまこそが神さまのただひとりの御子であり、この方の十字架の血を信じる告白をしただけで――すべての罪が赦されるだけでなく、死後に魂が天国へ行くことをも約束されているからです。
この福音を信じさえすれば、わたしたちの【霊の体】には、「この者はイエス・キリストのものである」との証印が押され、死により【血肉の体】が滅んだあと、【霊の体】のほうはそのまま天国へ行くことが可能となるのです。
また、こうして書いてくると、救われるにはある意味「たったそれだけのこと」が必要のように思われますが、実際のところはだからといって神さまの元へ来る方の数というのはそう多くないわけです。
その理由のひとつは、天国だの地獄だの、そんな死後のあるかどうかもわからない世界のことを論じたところで、生きている間には永久に答えの出ないことなわけですから、そのような論議を「愚か」であるとして、切り捨てたがる人のほうが多いからではないでしょうか。
けれども、人生の躓きや、「何故こんなことになったのかわからない」という人生上の苦しみを通し、いつでも人が「神はいるのか、いないのか」と悩み、心の内に問いかける時……究極的にはこうしたことはどういうことなのか、どんな意味を持つことなのかと、哲学書や宗教の本を読まれる方は多いでしょう。
実をいうと、わたしが教会へ行くことになった直接の言葉は、聖書の中にはありません。こうした宗教のことを学びたいと考え、図書館で聖書の解説書を借りた時、そこに挟まっていた冊子に「汝、散文の美しさゆえに聖書を読む者を友とするなかれ」とあったのです
「汝、散文の美しさのゆえに聖書を読むなかれ」じゃないんですよ(笑)
当時、わたしはこの言葉に相当ハッとして、神さまに心の底の底までを見通された気がしたものでした。何故かというと、わたしは一種の文学として聖書のことを学びたいと思っていたからですし、べつにキリスト教徒になろうという気はなかったからです。
けれども、聖書やキリスト教というのは、個人的に学ぼうとして理解できるものではないとすぐに悟り、そこで教会へ行くことにしました。その頃もずっと悩んでいたり苦しんでいたりすることがありましたし、それらの問題が解決したら、キリスト教の神こそ神であると認めてやろうといったことではなく――とにかく、一度教会へ行ってみて、「何か少しでもおかしな気配を感じたら逃げ帰ろう」と思っていたにも関わらず、実際には一度行ってみただけで、神さまの恵みと憐れみにより、救われることが出来たのです
以降、わたしの望みと願いは、ひとりでも多くの方が、イエスさまの福音に触れて救われることになりました。けれども、周知のとおり、日本の多くの方は葬式仏教徒であり、またそれのみならず、キリスト教の中では異端とされている宗派のほうが特に有名で、「キリスト教=おかしな宗教」と感じる方のほうが圧倒的に多いという状況にあります。
また、霊的な縛りもきつく、どんなに有名な宣教師の方が来られても、なかなか人が救われてこない……という霊的背景もあるわけですが、とにかくわたし自身も祈りの中で、いつでもそう出来るというわけではないにしても、イエスさまがそれを許してくださった時に「<破れ口>に立って祈」り、悪魔(サタン)・悪霊の拠点を打ち壊すための力の一部となれるよういつでも願っています
ではでは、次回以降は「悪魔・悪霊」に関することから離れようと思うのですが、個人的にこの分野には重荷を感じていますので、これからもさらに学び続けていきたいと思っています
それではまた~!!
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