神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

人生の一貫性と神との関係性について。

2021年09月16日 | キリスト教

 人間は一日の間、意識・無意識の両方において、たくさんの選択をしていると言います。

 朝、何時に起きるか、起きてベッドから起きる時、右足から下りるか左足から下りるか、朝食は和食か洋食か、目玉焼きは半熟か、それとも……毎日同じことを繰り返していると、たま~に「もう全部、自動でやってくんないかな」と自分に対して思うことさえあるかもしれません(^^;)。

 けれどもそういうわけにもいきませんので、一応わたしたちは「考える」わけですよね。そしてその中で、「これが一番良いと思われる」最善の選択肢を選ぶわけですが――このあたりのことはもしかしたら、将来的にはAIがやってくれるようになるかもしれません。

 つまり、「今日の晩ごはん、何にしたらいいと思う?」と聞くと、「ご家族全員の今朝の健康チェックから総合して思いますのに、△□などいかがでしょう?」、「じゃあそれ、作っておいてくれる?」……というところまでいくには、あと何十年、何百年かかるかわかりませんが、SF小説の中ではとりあえず実現されてるような気がします(笑)。

 ところで、今回のタイトルは「人生の一貫性と神との関係性について」です。

「今日のわたし」というものは、大体のところ明日も似たような「わたし」であるでしょうし、明後日だって、似たりよったりの「わたし」でしょう。これがまあ、いわゆる「人生の一貫性」というつまらない連続に当たるものとします。ところで、人間にとって「幸福」は何かというと、基本的にはそうした「見通し」の元、より良い状態で自分という存在を保存し続けられることだ……と言うことが出来るそうです。

 でも、このあたりの「人生の質」といったものは人によって上下するのが普通と思いますし、明日も明後日も似たりよったりのつまらない人生――というくらいならいいですが、わたしたちの「人生の質」なるものが下降する一方であったり、さらにはそれより「悪くなる」見通ししかないように感じられる時……人はそれを不幸と呼んだり、絶望と呼んだりするのではないでしょうか

 そして、「神さま」という存在が人の脳内に登場する回数が多くなるのは、人間が明るい見通しの元、それなりに楽しく人生をやれている時ではなく、こうした人生の質が下降する一方の時、そのどこかで「助けて欲しい」と思う瞬間と思います。

 この求めは相当切実なものなので、「神さま、なんでもいいからとにかく助けて!」と思うのと同時、なかなか事態が好転しなかった場合――「そもそも神の奴はなんでオレをこんな目にあわせるんや!」とか、「オレが一体どんな悪いことしたっちゅうねん!」といったように、疑問や文句も平行して飛び出してくるかもしれません。

 簡単にいうとすればまあ、「人が人生で神さまを切実に求める時」というのは……「人生の一貫性のバランスが崩される時」といっていいのではないでしょうか。

 これは前回の記事「神が、脳をつくった」とも関連することですが、「神は、脳がつくった」という本を読んで、わたしが総合的に思うのは――「神を信じられない人よりも、神さまを信じている人のほうが、おそらく幸福度のほうは高いだろう」ということです。

 もちろん、無神論の人の中にも幸せな方は数多くいるでしょう。けれど、基本的な脳の構造について書かれた文章などを読んでいると、「人間の脳はそのように配線されている」ため、天気が晴れているとなんとなく神さまに祝福されているように感じたり、逆に嵐や雷に遭遇する時には、「神さまが怒ってらっしゃるんだわ。わたし最近、何か悪いことしたっけ……」なんて考えたりしてしまうわけです。

 こうした、人間の草花に妖精を見、雲や月や星々を擬人化する傾向の先に、人の心が「神々を造りだそうとする心理」があるそうですが、その本能的な配線を強い理性によって否定するというのは、結構強いストレスのかかることですし、むしろ自然にただなんとなーくぼんやーり、「いるかいるかはわからないけど、でもいるかいないかでいったらいるんじゃないかな」と、ゆる~い感じで神さまを信じている……くらいなのが、人間にとっては脳の感じ方と照らし合わせてみても極めて自然だ、ということです。

 ただ、自分の外部の環境が突然悪くなったりすることで、生活の質が下がり、不幸や絶望を経験すると――「神がいるのか・いないのか」問題というのは、「わたしが生きていることにどんな意味があるのか」、「そもそもこの世界が<ある>、存在していることに意味はあるのか?」、「もし意味があるというのであれば、わたしのこの不幸や絶望にも意味があるのだろう。だが、わたしは今絶望のあまり、すべてのことに意味があるなどとは到底信じられない」……「この世界が<ある>ということには意味はなく」、「ゆえにわたし自身の存在にも意味などなく」、「ということはこの虚しい世界に神なぞ存在するはずがない」、「いや、もしいても人間の苦悩や絶望には指一本触れないという神であれば、そんな神、存在していても意味などないではないか」……等々。これが、人生の一貫性が崩れた時の人間の心理状況ではないでしょうか。


・神はいる→この世界の存在には意味がある→わたしにも、存在している意味がきっとある。だって、海というのは小さな一滴から出来ているものだから……

・神なぞいない→この世界には意味なぞない→よく考えるがいい。歴史上、貧乏で苦しみのどん底にあり、なんの報いもなく犬死にするように死んでいった人間どもの数を。そして今、わたしもそうした人間のひとりに数えられようとしているのだ……


 まあ、前者が脳の状態が比較的良い状態で、後者は脳にストレスのかかっている状態です。もちろん、人間には誰しもちょっとしたことで落ち込んだり、悩んだりすることはあるにしても――基本的には「意味がある」世界に属する側へと本能的に戻ろうとするものだと思うんですよね。

 人間の脳の中に<神>という存在が認知されたのは、ここ8千年とか1万年くらい前とか、そのくらいからではないかと言われているそうです。それ以前の人類というのは、今のわたしたちほど脳のほうが進化してなく、より複雑に進化した脳によって「神を生みだす」その手前あたりにいたということらしく……そもそも、恐竜の滅んだのが今から約6600万年前、地球の誕生したのが46億年前、宇宙の誕生するビッグバンが起きたのが138億年前――こう考えていくと、神さまが人間を地上に置かれるまでに「相当長い間待っていた」ことがわかるわけですが、地球に人類が誕生するまで、神さまはおそらく少しも退屈などしなかったのではないかと思います(笑)。

 何故なら、神さまにもし脳があったとして、神さまの脳の感じ方や考え方などは、わたしたちのそれとは明らかに異なっているだろうからです。昔、神さまに「頭や肩やたくましい腕……そうした上半身があることは想像が容易だが、問題はそこから下だ。わたしは神に大腸があるとか、さらには肛門があるなどとは――いや、そんな存在はすでに神でないとしか思えないのだ」といった文章を読んだことがありましたが、こうしたことというのは、神さまという存在を人間の有限な想像力の檻に閉じ込める好例なのではないでしょうか。

 キリスト教では、神さまは時間と空間のすべてを支配し、永遠の存在である……と言われています。ですから、神が宇宙を創造したというのであれば、ビッグバンを起こしたのも神のはずである――というのも、わたしは人間の想像力の有限性を示すものだ、といったように思っています。

 結局のところ、究極的に突き詰めていったとすれば、「そんなことは誰にもわからない」と言いますか、これまでにも科学で証明されてきたことが、その後覆されたことがありますし、宇宙の果ての外側にまでいって戻ってこれたとして……もし仮にそこに神が存在していたとして、神さまは自分を誰にお現しになるかをご自分で決められるのでしょうから、ある者は「そこに神がいた」と言い、また別の者は「宇宙の果てには虚空以外何もなかった」と言うかもしれません。

 おわかりになりますでしょうか?(笑)。もしそうなのであれば――わたしたちが今「神さまっているのかなあ、いないのかなあ」と考えている状況と、わたしたち以上に遥かに科学が進歩した人々の住む世界でも、<神>という方はその存在を変えられていないということになるわけです。

 また、そうした形でかなり強引(?)に神と出会えたとしても……神さまというのは万能の方なので、その人間から「宇宙の果てで<何か>恐ろしい存在と出会ったが、その<何か>がなんであったのかが思いだせない」といった状態にわたしたちを陥らせることなど簡単なわけです(ようするに、その部分の記憶だけを消すか、あるいは記憶のすべてを消す、思いだそうとするとなんとも言えぬ底知れぬ恐怖が感情に湧き上がってくる……というわけですよね^^;)。

 こうしたことは、わたしが最近読んだSF小説からの連想にすぎませんが(笑)、それはさておき、「人生の一貫性」について。わたしたちが「人生の一貫性」を求める時、その出発点を手繰り寄せていくと、究極<神さま>という存在にぶち当たります。ゆえに、<神さま>という存在をなんらかの形によって肯定し、あるいは半信半疑といった形でも十分と思いますが、そこを出発点とし、自分の人生をある程度肯定の連続上に置くことが出来れば――その方は自身ではそう強く自覚しなかったにせよ、それなりに幸福な人でないかと思います。

 また、この「人生の一貫性」が世界存在の否定、人生の否定、神も否定……といった形で分断している場合、ようするにその方は不幸なわけです。科学というのはどう考えても神を否定する方向に今後も動いていくわけですが、それはわたしたちの脳に本能的にセットされていることをバラバラにしていくことでもあるので――現代人と呼ばれる人々はこの部分をなんらかの形によって<再統合>する必要があるのではないでしょうか。

「神などいなくても、自分は~~で、△□だから幸福だ」というように、空白になった<神>の座に、何か別のものを据えたり、それまで<神>と呼ばれる存在が座っていた椅子に別の何かを座らせる必要があるわけです。実際、ここに自分自身が座っていたり、あるいは札束を積んで拝んでいる方というのもたくさんいらっしゃるかもしれません。

 また、キリスト教の『原罪』というのは、もしかしたらそれまで玉座に座っていた<神さま>をそこから蹴飛ばして追いだし、別のものをわたしたちの心の中心に据える……と言い換えることも出来るでしょう。「神よ、おまえなぞもう用なしだ!」というわけですね(^^;)

 けれど、実際にはここから人間の不幸のすべてがはじまり――「どうか神さま、もう一度我々の玉座にお戻りください!」とわたしたちが再び願う時……そこには虚空と塵と暗闇しかないのかもしれません。。。

 それではまた~!!






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