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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

喜べない日。

2018年09月21日 | キリスト教
 エレナ・ポーター著「少女パレアナ」に関するネタバレ☆があります。一応念のため、御注意くださいm(_ _)m


 >>順境の日には喜び、
 逆境の日には反省せよ。

(『伝道者の書』、第7章14節)


 わたしの好きな小説に、『少女パレアナ』という本があるのですが、パレアナの言っていることはマーリン・キャロザース先生の<感謝と賛美の教え>と大体というか、まったくと言ってもいいほど、同じことだと思います♪(^^)

 ちなみに、当ブログ内でも『少女パレアナ』の本については以前取り上げているので……お話の内容を知りたい方は、『少女パレアナ』でブログ内検索とかしてみてくださいm(_ _)m

 それで、ですね……パレアナは『ハウス世界名作劇場』さんのほうでアニメ化されてまして、そちらのタイトルのほうが『愛少女ポリアンナ』なんですよねなので、パレアナというよりも『ポリアンナ』と聞いたほうが、「あー、はいはい」みたいになられるかもしれません。

 パレアナは、どんな悪い出来事の中にも、「こんな良いところがあるわ!」ということを主張し、まわりの人々を明るく変えてゆく、健気な11歳の少女です♪

 病気で寝たきりのミセス・スノーの心を変え、偏屈な母親の犠牲になってきた、ミセス・スノーの娘さんの心を変え、気難し屋ジョン・ペンデルトンの心を変え、教会での牧会がうまくいっていなかったポール・フォード牧師の心を明るくし、離婚寸前の危機にあったペイトン夫妻を救い……また、パレアナの<喜びのゲーム>によって救われた人々は、ベルテングスヴィルの町に他にもたくさんいたのです!

 けれども、「どんなことにも何か必ず良いことがある」というその部分を見つめ、一見悪いとしか見えないことを心の持ちようによって良いほうへと変えてゆく――という魔法をまわりの人たちにかけてきたパレアナでしたが、そんな彼女にもとうとう「喜べないこと」、「喜べない事態」が起きてしまいました。

 それが交通事故で、パレアナはその轢き逃げによって足が動かなくなってしまったのです。これまで、どんな悪いことにもきっと何か良いところがあるわ……と言って、まわりの人を明るく励ましてきたパレアナですが、そんな彼女自身が「もう何も喜べない」といった状態に陥ってしまったのです。

 もちろん、交通事故に遭って足が動かなくなったとしたら、喜べる人は誰もいないでしょう。死んだお父さんと一緒に始めた、「喜びのゲーム」の最初は、慰問箱に松葉杖が入ってきたことがきっかけでしたが、その時パレアナはお父さんと<松葉杖を使わなくてもいいこと>を喜んだのです!

 そして、この話をパレアナから聞いた人々は感動し(こんな小さな子が、慰問箱に人形ひとつ入ってるでもなく、松葉杖の入っていることを、「それを使わなくて済むこと」を喜んだというのですから!)、自分たちもその「喜びのゲーム」をしてみようと、パレアナに申し出たのです。

 パレアナが、あの、自分たちに「寝たきりの状態でも喜べることはある」と教えてくれた少女が、石のように堅く閉ざされた心に光を導き入れてくれた天使のような少女が「もう喜べない」と言っていると聞いて……ベルデングスヴィルの町の人々はとても悲しみました。

 そして、パレアナによって変えられた人々はみな、パレーおばさんの家にそのことでお礼を言うために訪れました。あんまりたくさんの人々がまったく似たようなことを話していくもので、パレーおばさんは彼らの口にする「喜びのゲーム」というのがどういうことなのか……パレアナに直接聞くということにしました。

 実をいうとパレアナは、そのことをパレーおばさんには話していませんでした。というのも、引きとられた最初の頃に『自分の前でお父さんの話はしないように』と言われていたもので、本当はいの一番に愛するおばさんにこそこの話をしたかったのに――パレアナは話すことが出来ていなかったわけでした。

 そして、パレーおばさんは性格的にそうしたことを受け入れないタイプの人なのですが(少なくとも、パレアナが引き取られたばかりの頃にこの話をしていたら……『喜びのゲームだって!?馬鹿バカしい』とでも言って一蹴していたことでしょう)、可愛い姪が自分の足の動かないのを嘆くのを見て――「わたしもその<喜びのゲーム>をしますよ」と、180度すっかり心を変えてしまったのです。

 あの気難し屋のジョン・ペンデルトンも、本当はパレアナのことを引き取りたかったのですが、代わりに彼女の望んでいたとおり、孤児のジミー・ビーンのことを引き取っていました。こうして、町じゅうの人たちの心が変えられていったのです。たったひとりの少女がはじめた『喜びのゲーム』によって!

 パレーおばさんはパレアナに言いました。


 >>「ねえ、パレアナ、いまでは町じゅうがおまえといっしょにその遊びをしているんじゃないかと思うよ――牧師さんまでもね!まだ、おまえに話す折がなかったけれど、けさ、村へいったとき、フォードさんにお会いしたのだよ。そうしたら、おまえがあの方に話した聖書の中の八百の喜びの句のことをまだ喜んでいるとおっしゃったよ。ほらね、それもおまえのしたことなのだよ。町じゅうがこの遊びをして、町じゅうが前よりもおどろくほど幸福になっている――これもみな、人々に新しい遊びとそのやり方を教えた、たった一人の小さな子供のおかげなのだよ」

(『少女パレアナ』エレナ・ホグマン・ポーター著、村岡花子さん訳/角川文庫より)


 それで、パレアナは気がついたのです。まだ自分にも喜べることがあることを……パレーおばさんが自分と一緒に<喜びのゲーム>をしてくれる!それに、自分の足は前までは動いていたということも喜ぶべきことだといったように……そして、「いかにも児童文学らしい」と誰もが思うかもしれませんが、最終的に物語は大団円で終わります。

 パレアナはその道の腕のいいお医者さんに診てもらうことになり、パレーおばさんはかつて行き違いのあったチルトン先生と再び結ばれ、パレアナも足が動くようになった……というハッピーエンドで、物語のほうは幕を閉じます♪

 ちょっと前置きが長くなりましたが(汗)、先日、胆振東部地震が起きたことで――ちょっと色々考えることがありまして(^^;)

 やっぱり、電気・ガス・水道が止まった、コンビニやスーパーに買うものがない(実際は数日間の品薄状態でしたが)……それがどれほどのことなのか、一日二日その状態でもこれだけ大変なのに、そうした状態がもっと長く続くどころか、避難生活をされている方がどのくらい大変だったか、今も大変か――いえ、テレビのニュースを見ていて「想像を絶する大変さ」と思っていましたが、本当に「想像を絶している」とあらためて思いました。

 つまり、パレアナは寝たきりのスノー夫人には「他の人が自分のようでないことを喜べる」と言ったわけですが、いざ自分が同じようになってみると「そんなことは到底喜べない」ことが初めてわかったのです。

 けれども、つむじ曲がりのスノー夫人がパレアナの純真な心によって変えられたように、<問題>というものは大抵の場合なかなかそこから動きません。それが動くようにと、叩いたり蹴ったりするよりも、<問題に対する>自分の心の持ちようをわたしたちのほうで変える時……そうした瞬間にこそ神さまの御手はもっともよく動く、というのは、多くのクリスチャンの方が同意されることだと思います。

 それが何故なのかはわたしにもわかりません。第一、神が神なら最初から問題を起こさないようにしてくれる方法もあったはずだ――といったようなことで、多くの方が躓いてしまうかもしれません。でも、悩むのに疲れたり、苦しみすぎてもう何も考えられなくなったような時に、「これ以上何も悪くなりようはないのだから」と、マーリン・キャロザースさんの「あらゆることについて、神さまを感謝し賛美する」ということを行なった時に……人生が変えられていったという証人の方が次々と起こされていったのです。

 もちろん、これは突き詰めていうと「ガンになったことを感謝する」とか「子供が無脳症で生まれたことを感謝します」ということであり、すべてのことに感謝する……そんなこと、出来るわけがないじゃないか……でも、このまま何もしなくても、結局状況は変わらないんだ……だったら、やるだけやってみよう……と、マーリン・キャロザースさんの教えを実践したところ、人生の絶望からの回復といった経験を多くの方がしたということでした。

 マーリン・キャロザース先生の教えについては、ブログの中で結構取り上げている気もするのですが、かなり下のほうに沈んでしまっているもので(汗)、『マーリン・キャロザース』でブログ内検索をかけていただけると、たぶん色々記事が出てくるかなと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!





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