神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

祈れる幸せ。

2017年05月06日 | キリスト教
【ネモフィラ】(花言葉:どこでも成功、可憐、あなたを許す)


 今読んでいる本の中に少し面白いことが書いてあったので、そのことをヒントに、無神論者の方の神を信じられない理由について書いてみたいと思います(笑)

 この全宇宙から地球を見た場合――人間はその地表に張り付いている無数の細菌のようなものである。ゆえに、その無数の細菌がいちいちあーしただのこーしただの、こう思っただのああ思っただの、神は顕微鏡を通して常に監視しているというのかね?いや、ありえない。そんなことはありえないよ、わっはっはっ!!……いえ、神を信じる人々というのはそれを「ありえる」と信じている人々なのだと言っていいのではないでしょうか(^^;)

 もっとも、神さまはわたしたち人間の心を調べるのに顕微鏡を使ったりはされていないと思います。

 前にも大体同じようなことを別の記事でも書きましたが、神さまのお使いになっているのは聖霊のネットワークです。父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神の、三位一体の神の中の第三位格が聖霊さまなのですが、イエスさまのことを信じて聖霊のバプテスマを受けた時に、信者のひとりひとりにこの聖霊が下ると言われています。

 わたしの場合、初めていった教会の牧師さんご夫妻が「聖霊のバプテスマを求めて祈るといいよ」とおっしゃっており、とにかく「聖霊のバプテスマが与えられますように」と祈っていました。クリスチャン個々人によってケースは異なるようなのですが、わたしの場合はずっとそう祈っていたらある時、「あーっ、これが聖霊さまっていうことだ!!」と理解できたという、何かそんな感じだったと思います(笑)


 >>御霊(聖霊)も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

(ローマ人への手紙、第8章26~27節)


 一度イエスさまのことを信じて聖霊さまが与えられてみると、色々なことが理解できるようになってきます。

 つまり、かつての昔の幼稚な考え――神さまはとてもお忙しい方なので、仮にどんなに祈ってもわたしのお祈りを聞いてくださる順番がまわってくるのは、60億7890番目とか、何かそんな感じなのだろう……といった考えをむしろ馬鹿らしいとして捨てるようになる、ということです。

 この理論を無神論者の方に割とわかりすやく説明すると、一番いいのがコンピューターやインターネットにたとえるということかもしれません。

 わたしが仮にある芸能人の方の名前をぐーぐる☆に入れて検索した場合――その方に関する情報がいくつもたくさん出てきます。神さまは当然人間が開発したこのコンピューターよりも劣っているということはありませんから、神さまがお持ちの情報というのは常に真実で間違いも狂いもなく新しいものだと言っていいでしょう。

 あまりこういう言い方はしたくないのですが、これもあくまでわかりやすく言ったとすれば……イエスさまに聖霊さまを通してお祈りし、ある罪について悔い改める時――イエスさまのほうではその罪をまったくないものとして「削除」してくださるも同然なのだといっていいのではないでしょうか。

 イエスさまのほうで眺めておられるのは、わたしたちが何時何分何秒にどのようなことについて祈ったのかの内容のようなものです。そしてそうした事柄をご覧になって色々なことを判断されるのではないでしょうか。

 また、わたしたち人間がそんなふうにひとりひとりの人間の情報を細かく調べたりするのは長く時間のかかることでしょうが、神さまには一瞬なのです。七十億の人間が仮に同時に祈ったとしても、人間の作ったコンピューターなどとは違い、サーバーがパンクするとか、そんなことは絶対にありえません。

 たとえば、わたしがぐーぐる☆に何か打ち込みますと、その検索結果が出るまでに何秒かかったか――0.38秒などと表示されます。でも神さまが聖霊さまのネットワークをお使いになると、これよりも遥かに早くご自分のお知りになりたい情報、その人の心・精神・魂・霊についての情報を一秒とかからずして読み取ることがお出来になるのです。

 正直なところを言って、こうした理屈は実はどうでもいいのだと思います。イエスさまのことを信じ、聖霊さまを与えられた瞬間に、何が真実で何が真実の神と関わりないことであるかがわかるという、そのことが重要なのです。何故聖霊さまを受けると、そのようなことがわかるのか、言葉では到底言い表せません。ただ、わたしにわかっているのは、この同じ経験をしたクリスチャンの方が世界中にたくさんいて、「ああ、あなたもあの体験をされたのですね」ということで一致しているという、そのことだけです。

 神さまがいるかいないか、そうした無駄な論議に自分の思考や時間を無駄に費やすことなく、「神さまが今も生きておられる」という生きた実感というのは、聖霊さまを通してしか決して与えられないものだと思います。


 >>ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。

 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。

(コリント人への手紙第一、第12章2~3節)


 わたしも、自分がキリスト教徒になってみる前までは、もともと宗教的な傾向の強い人間でしたので、仏教の決まりごとを守ったり、あるいは神社で拝んだりすることが大好きでした。何故なら、他に神さまがいるということを知りませんでしたので、神棚や仏壇などに手を合わせるといった宗教行為によってしか「心を清められたような幸せな感じ」というものを味わえませんでした。

 けれど、自分なりに信じているそうした神さまに祈っても、継続して長く祈るということは出来ずに終わりました。いつも、何かのことで祈ったり、「これこれのことをお捧げしますので、願いごとを叶えてください」といったように祈っては、その捧げたことをもう一度自分の元に戻したりして、むしろ罪悪感しか残らなかったと思います。

 でも、イエスさまにはなんでもお祈りしていいし(「○△さんが明日不幸になりますように」といったこと以外では)、神さまはとても公平で「取引」ということをなさいませんので、とにかくなんでも、神さまから一方的に恵みがくだるような、そのような祈りの体験をこれまで随分してきたと思います。

 また、わたしたち人間に何かの「取引」を持ちかけるのは、聖書に書かれているサタン・悪魔・悪霊といった存在であり、そのような祈り方をしたりしてはいけない、そのようなことを持ちかけるのは偽の神であって、それがすなわち偶像礼拝であるということも、聖書を通して、聖霊さまを通して、教会や牧師さんのお話などを通して、すぐにわかったことでした。

 なんにしても、わたしは今、祈れて幸せなのです。自分の力で一生懸命努力して……とかいうのは虚しいですし、大変ですが、神さまが聖霊さまを通して祈るよう促される時、かつて自分が他の神に祈っていて虚しかった時のことなどを思いだし、その比較によって神さま、イエスさま、聖霊さまのくださる恵みがどれほど深いものかがわかるのです。

 もっとも、わたしのほうではすっかり城砦のような祈りの城ができるなどと思ってる割に、今ようやく土台を建て終わったとか、そんな感じかもしれませんが、イエスさまなら三日で神殿を建ててくださいますから、このことも何も心配はいらないのです。

 それではまた~!!





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