さて、今日の沖縄話。
テーマは戦争です。
沖縄には、
戦争に関する施設がいろんな形で残っています。
ひとつは、慰霊塔。
なかでも「ひめゆりの塔」が有名ですが、
沖縄に行くと
特に南の地域に実に数多くの
“塔”が点在しています。
“ずいせんの塔”や“東京の塔”
といった名前のものまであり、
その数はかなりのものです。
なぜ、こんな塔がたくさんあるのか、
それはやはり
第二次世界大戦の終戦直前に
上陸した米軍との戦いが、
いかに壮絶なものであったかを物語っています。
広島の原爆では、
一瞬にして約14万人の命が失われたが、
沖縄では約3ヶ月もの戦いが続き、
じわじわと非戦闘員も含めて、
約18万人以上の命が失われた。
1945年3月26日、
沖縄本島北部から徐々に南下しながら、
沖縄を掃討していく米軍の作戦は
アイスバーグ作戦といわれ、
各地域に作られた地下壕では、
戦闘と自決で次々と人が亡くなっていった。
その各地域ごとに“塔”なる
慰霊塔が設置されたのだ。
今回訪れたひめゆりの塔も
そのひとつで、
敷地内には当時の病棟である
“壕”が今も残っている。
北から侵攻してきた米軍に追い詰められ、
南の果てまで来た島民たちは、
ついに意を決して
海に面した絶壁から次々に海に飛び込んでいく。
そんな光景を彷彿させる絶壁群の景色がこれだ。
サトウキビ畑の間の
車一台がようやく通れるような道を、
縫うように走ってたどり着いた喜屋武岬からの景色です。
平和の塔の裏側に下りてみて、
断崖の上から下をおそるおそる覗き込むと、
潮溜まりがまったくこの世とは思えないような
青い水を湛えていました。
鬼畜米兵に追い込まれた人々にとって、
崖の上から見たこの景色は
まるで天国のように見えたのかもしれません。
戦争に関する施設を語るときに
忘れてはいけないのが、
米軍関係施設。
あの遺伝子まで傷つけるような
悲惨な戦いの名残がそこにはある。
沖縄本島に米軍の飛行場は2つ。
嘉手納と普天間だ。
そのうち、普天間飛行場が
今名護市にある
キャンプシュワーブの先、
辺野古の海への移設で騒がれている。
では、辺野古とはどんなところなのか、
と前から興味があったので行ってみた。
途中、ナビを見ていると、
地図がまるで海の上の
一本道を走っているようになっているのだが、
周りはどう見ても山!
あれーナビが狂ってるのか?
新しい衛星「みちびき」がないと
こんなことになるのか
などと思っていると、
どうやらナビ上で海に見えたのは、
米軍領でした。
少し小高いところに車を止め、
眺めたのだが
どう見ても海に出て行く幹線道路はない。
そこで、車を走らせながら
エイやとばかりに
狭い路地を海側に曲がり、
狭い生活道路をくねくね走って
何とか海岸線に出ることができた。
眼前に広がるのはきれいな珊瑚の海。
そうかあ、
この景色が基地に替わるのかと思うと、
地元の人間でなくても
悲しくなってくるってもんだ。
海岸を眺めてみると、
塀のように海まで突き出た鉄条網が、
日本と米軍領をわけており、
その鉄条網には日本語で
たくさんの祈りが書かれた旗が
巻きつけられていた。
TVや新聞でいろいろ見聞きするけど、
現場にはさすがに緊迫感と
悲壮感が漂っていました。
沖縄各地に点在する米軍施設は
今も沖縄の人々の心の傷を
逆なでし続けているんだろうなと
戦跡を訪ねた後では
容易に想像がつきました。
基地がある限り
あの忌まわしい戦闘の記憶は
消えることはないだろう。
私達が思っている以上に
沖縄の人たちにとって
基地問題は
大きく、そして重いものなんだと
あらためて考えさせられた旅でした。