さあてきょうから10月です。
月日の経つのは早い。
では台風で途切れていた
話しの続きを書いていきます。
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太子道を南下しています。
聖徳太子は愛馬である黒駒に乗って
この道を通ったんでしょうねえ。
これは是非ともまた別の機会に
歩いてみようと思います。
距離は全長28キロ。
う~ん、二回に分けて走破かなあ。
とまあ、そんな昔の道を思い描いているうちに、
さらにもう一つこの辺りに面白い話があります。
安堵町の役場の近くを通り、
飽波神社に向かっている時です。
この辺りにはほんの少し前、
といっても100年前ですが、
「天理軽便鉄道」
が走っていたという歴史があります。
軽便鉄道(けいべんてつどう)とは、
一般的な鉄道よりも規格が簡便で、
安価に建設された鉄道です。
法隆寺駅あたりから天理市を結ぶ
鉄道だったそうです。
それがどうもこの辺りを
通っていたそうです。
路線の地図は今も残っていて、
その痕跡をたどる歩きもできるそうです。
例えば、法隆寺駅のこの辺りが
当時の軽便の駅で、
そのすぐ近くの川に、
軽便鉄道のレンガの橋脚が
残っていたりしていました。
また途中JRを超えたところに
あった池にはこんな堰堤も残っています。
また他にも金属製品が各地に残っていて、
それを探すのも結構楽しそうだったりするそうです。
あの、ずっと訪ねて歩いた
大仏鉄道のことを思い出しますねえ。
この線路跡もまたしっかりと
訪ねることにしましょう。
もうここにきて次のテーマが太子道、
軽便鉄道とまた膨らみましたねえ。
ここが安堵町役場でそこから
県道を超えて狭い村中に
入っていったところに
「飽波神社」があります。
聖徳太子創建といわれています。
神社名は、この辺りは湿地が多く
「アク」といわれる土地が多くあり、
そこがもう泥で波打っている
という意味で「アク波」という名に
なったのだろうということです。
太子道の途中で当時から聖徳太子も
よく訪れたのでしょう。
今はかかしが置かれていますが、
「太子腰掛け石」何かもあります。
ここに腰かけて政治のことを考えたのかなあ。
そんな太子の面影を想像しながら
進んでいきましょう。
ここから迷路のような細い村中の道を
くねくねと通って行きます。
ああ、ここには鍾馗さんが
置かれていますねえ。
そして村中には
「安堵町歴史民俗資料館」があります。
奈良県は江戸の前期に
堺県として扱われていた時期がありました。
当時奈良県は大阪府の大和地区
みたいな扱いだったのですが、
それを再度奈良県に戻すために
尽力した運動家
今村勤三の生家をこんな風な
資料館にしたものです。
せっかくだから入場料を払って
入っていきましょう。
古い民家の中を色々と区切って、
江戸時代から伝わる古文書や、
日々の生活で人々が使用した
民具の数々を展示しています。
そして中でも面白い展示が
当時のこの地方の産業であった
「灯芯引き」の展示です。
いぐさの表皮をひき裂き、
取り出した“ズイ”の部分を
「灯芯」といい、灯明や
和ろうそくの燃え芯として
利用されました。
この灯芯を取り出す技術
「灯芯ひき」が伝えられた
安堵町において特産物(品)と
なった灯芯の歴史などについて、
展示をおこなっています。
へ~こんな技術もあったんですねえ。
ろうに使われている灯芯なんかも
こうして作られていたんですか。
意外でした。
時期によってはこの資料館で
こんな灯芯引きの教室なんかも
されているようです。
ああ勉強になりました。
そしてなんとこの資料館では
天理軽便鉄道の展示もありましたよ。
こんな感じで模型も置かれています
(ネットから)。
2月には走らせたりもするそうです。
いいですねえ。
ここではこんなものの展示館に含めて、
昔の会議室が貸し出されていたり、
当時の庭がきれいに残っていたり
もしましたね。なかなかいい所でした。
続く