地名で天下茶屋といえば、
だいたいが天下茶屋駅周辺と
西成の中~西部を包括的に
示しているのだが、
場合によっては阿倍野区の
松虫なんかも入ってくる場合がある。
なので地名的に「天下茶屋」といえば
この地域と決まっているわけではない。
じゃ、なぜ「天下茶屋」という
名前があるのかというと、
これはまあだいたい決まった経過がある。
昔、この辺りは大きな森でした。
その片隅で、楠木家の子孫が
茶屋を出したそうです。
そこにやってきたのが豊臣秀吉で、
千利休に銘じてここでお茶を
点てさせるととてもおいしい
と感じたそうです。
それゆえここに玄米年30俵を
与えるようになり、関白殿下の
「殿下茶屋」
あるいは天下人の
「天下茶屋」の名で
呼ばれるようになったということです。
そして、さらにこの地で
「天下茶屋の仇討」という事件が起こり、
それが歌舞伎なんかでも
取り上げられるようになり
「天下茶屋」の名は一気に有名になったのです。
その天下茶屋が縮小されつつも
部分的に残っているのがこの場所だ。
そこには小さな祠と立派な
クスノキが生えていましたねえ。
あ、石の像も立っていますねえ。
ああ、これが天下茶屋の痕跡なんですねえ。
そしてその先のチンチン電車の
走る道の方を見ると、森が見えています
ので近づいてみましょう。
そこにあるのが「天神の森天満宮」でした。
先ほどの天下茶屋の地図から見ると、
この辺りが天神の森で、
池なんかもあったようですね。
秀吉が「恵の水」と名付けた池ですね。
ここにある子安石に安産も祈願して、
秀頼公が生まれたことから
「子安天満宮」とも呼ばれています。
その神社の入り口あたりにある宝篋印塔が、
「天下茶屋の仇討」の証のもので、
道路建設の時にここに移設されたものだそうです。
ではこの神社の中も見学していきましょう。
これが小安石ですね。
秀吉も参拝したようです。
doironも孫の無事の生誕を
ちょっと前なら祈ったかもしれません。
まあ孫の無事と二人目の孫を祈っておきましょう。
ぐるりと一通りお参りして、
参拝した後はまたもとの
出入り口に戻ります。
すると、そこに立っていたのが
「紀州街道」の石碑です。
そういえばこの辺りの700m位東には
熊野街道が通ていましたねえ。
安倍晴明神社や阿倍野王子神社が
あったところですねえ。
そうかあ、あの道のこんな近くに
紀州街道が通っていたのですねえ。
そのそして向かい側には
「天下茶屋跡」の石碑も立っていますねえ。
さらにはこんな案内板も
立っているんですねえ。
街中をじっくり見ていると、
まあいろんな思いで過去の痕跡を
提示しているものですな。
さあ、ではここから北向いて
新世界の方を目指しましょう。
事前に地図で、うまい具合に
ここに一本道が通っているんやなあ
と思いながら線を引いて
地図を造っていたんですけど、
その道は紀州街道だったんですね。
岸里東の交差点から
なおもまっすぐ進んでいくと、
こんな狭い道に入っていきます。
ああ、昔の街道って感じですねえ。
近隣の人たちの生活が目に入ってきます。
高齢者のおばあさんたちが、
ところどころに集まって
何やら話をしていますし、
建築士が屋根を見上げて何かを言ってます。
台風の影響なんかもあったのかなあ。
そんなところをカメラ持って
歩くのんてちょっと抵抗あるけど、
ここはまあ大きな顔をして
歩いていきましょう。
あ、ここにはこんな風呂屋もあるけど
開いてませんね。
商店街は、ちょっと興味ありますねえ。
でもまだまだまっすぐ行きましょう。
この辺りから、自転車に乗った
警察官の姿がとても増えてきます。
あの富田林から逃走した容疑者も
捕まったしなあ。
その警戒ではないんですねと続く。