歴史を風土に学ぶ中で佐藤一斎という儒学者がいたことを知り、幾度もその郷里『岩村』を尋ねました。地元でたいへんな熱量を持ち続けて活動されている鈴木先生と出会い、さらに学びが深くなりました。
佐藤一斎の門下生の中で二傑と称されたのが佐久間象山と山田方谷でした。
佐藤一斎が別れの際山田方谷に渡したと言われる書『盡己』(己を尽くす)
その山田方谷を終生師と仰ぎ続けた人物が長岡藩河合継之助でした。約1年の交わりで継之助が得たものは計り知れません。その後戊辰戦争が始まり、負けるとは承知しつつも長岡戦争に突入。只見で命を落とします。その時に使者に伝えたと言われる言葉。
『方谷先生に伝えてくれ。継之助は最後まで先生の教えを貫き通しましたと。』
世の中が平穏になったころ、継之助の顕彰碑を建てることになりました。その碑文の依頼が山田方谷の元に届いたときに詠んだ詩が、
『碑(いしぶみ)に 書くも恥ずかし 死に遅れ』
でした。
・・・子弟関係の極みを感じました。
唯一人名が駅名となっている方谷駅は、方谷の住まいと長瀬塾があったところ。継之助もここにいました。
別れの時も立っていた榎。『見返りの榎』と言われています。方谷駅側から見るとこの先がカーブになっていて長瀬塾が見えなくなる地点にあります。じわーっと湧き上がるものを感じました。
私も、熱く、生きたい。
ではまた。
おさむ
北澤工務店ホームページhttps://www.e-kitazawa.com/
佐藤一斎の門下生の中で二傑と称されたのが佐久間象山と山田方谷でした。
佐藤一斎が別れの際山田方谷に渡したと言われる書『盡己』(己を尽くす)
その山田方谷を終生師と仰ぎ続けた人物が長岡藩河合継之助でした。約1年の交わりで継之助が得たものは計り知れません。その後戊辰戦争が始まり、負けるとは承知しつつも長岡戦争に突入。只見で命を落とします。その時に使者に伝えたと言われる言葉。
『方谷先生に伝えてくれ。継之助は最後まで先生の教えを貫き通しましたと。』
世の中が平穏になったころ、継之助の顕彰碑を建てることになりました。その碑文の依頼が山田方谷の元に届いたときに詠んだ詩が、
『碑(いしぶみ)に 書くも恥ずかし 死に遅れ』
でした。
・・・子弟関係の極みを感じました。
唯一人名が駅名となっている方谷駅は、方谷の住まいと長瀬塾があったところ。継之助もここにいました。
別れの時も立っていた榎。『見返りの榎』と言われています。方谷駅側から見るとこの先がカーブになっていて長瀬塾が見えなくなる地点にあります。じわーっと湧き上がるものを感じました。
私も、熱く、生きたい。
ではまた。
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