おさむのひとりごと2015-6
田んぼは満々と水をたたえ、小さな稲の揺れる姿が美しいです。間もなく梅雨の季節。いかがお過ごしでしょうか。
私は25歳よりこの建築の仕事をしています。もう23年もやっていることになります。その間お客様や職人の皆さんから言われた言葉の中で、脳裏に焼き付いている言葉がたくさんあります。それらはとてつもなく嬉しい言葉もあれば、どん底に落ちるほどの気持ちになった言葉もあります。思い付くままに書いてみたいと思います。
『おさむくんの未来にかけたんだよ』
北澤工務店に入社後一年間大工仕事を見習い、その後現場監督を2年やり、そして外回りの営業を担当することになりました。営業といってもそう簡単に受注できるわけがありません。受注できない理由を会社の仕組みのせいにしたり父の古い体質に矢印を向け、だから俺は受注できないんだ!と言い訳ばかりしていました。挙句には外回りに行くふりをして仕事をサボり、会社に帰ってきては父に喧嘩を売り、家に帰っては愚痴をこぼす・・・そんな毎日。
兄の紹介でやっと受注に結びつく兆しが見えたのがT様邸。しかし3社相見積もりで我が社が一番高い。でもなんとかしたいと一所懸命関わらせていただきました。訪問の度にお手紙を書き、日光まで一緒に輸入建材の視察に行ったり、とにかくひつこいくらいに関わらせていただきました。そして初めての受注。
その後の工事では恥ずかしいほどミスを繰り返し、散々ご迷惑をおかけしてきたT様とのエピソードは、これまでにも何度かご紹介させていただきました。お引渡し後10年くらいしてからでしょうか、当時を振り返ってT様と談笑しているとき。『北澤さん。うちのお父さんにね、なんで北澤さんに決めたの?って訊いたらね、「おさむくんの未来にかけたんだよ」って。』
ぼくは思わず涙が吹き出しました。この時に感じた自分自身に恥じぬ仕事をこれからもやっていきます。
『北澤さん、生きてて良かったよ・・・』
くも膜下出血により記憶を喪失してしまったF様。障害を持つふたりの子供と共にこれから生きていく励みが欲しい・・・奥様が選んだのは『お家を建てること』でした。
順調に家づくりが進んでいた中盤戦。奇跡的にいのちを取り留めたご主人の記憶も少しずつ回復してきました。そこでぼくはF様ご夫婦が出会った学生時代の思い出の場所に旅に出ることを思い立ちました。長野県の美ヶ原です。
うねうねと続く山並みを進んでいくうちに、後ろ座席からすすり泣きが聴こえてくるようになりました。『北澤さん、そこを右に曲がってくれないか。曲がると池があると思うんだ。』『北澤さん、そこを曲がると・・・・ほら見えてきた!あの電波塔が美ヶ原・・・』F様の記憶がどんどん蘇ってくるんです。一つ一つの記憶を取り戻すたびに涙を流されていました。
その晩、別所温泉に泊まりました。お酒も飲めませんからまるで静かな夕食でした。そんな時Fさんが言ってくださったんです。『北澤さん、おれこいつら道連れにして死のうと何度も思ったよ。でも北澤さん、今日はありがとう。生きてて良かったよ・・・。』
家づくりの仕事をしていて、ほんとうに良かった。家づくりという仕事の意味と価値を深く感じた瞬間でした。
『うちは、振袖なんて着せてもらってないですよ・・・』
社員に仕事を任せ、社員を育てることが社長の仕事、と耳学問を履き違えていたころの私。K様の現場へは足を運ぶことも少なく、難しい収まりや地形地質的に困難が重なり、事故が多発しました。当初は笑顔で受け入れてくださっていたK様ですが、その場しのぎの対応や社員任せの私の対応にいらだちを募らせられました。
そしてまた問題が発生したときのこと。『北澤さん。ぼくは北澤さんを信頼して仕事を頼んだんです。北澤さん・・・うちは、振袖なんて着せてもらってないですよ・・・』悔しさに言葉を詰まらせながら、震える声で私に言ってくださいました。
ほんとうに申し訳ない。本当に申し訳ない。自分が甘かった。無責任だった。。。その後、社員や職人と共に床下にもぐり、一緒に汗をかき問題を乗り越えてすばらしいお家が完成しました。あの出来事があったからこそ、K様と深くつながることができました。私自身が北澤工務店の中心として、責任者として、共に家づくりをしていくことの大切さを教えていただきました。
思い出していくといっぱい浮かんでくるものですね。『どーせ専務なんか何もわかんねぇんだから・・・』私がいないと思ってお茶飲みの席で笑ってたK大工さん。『北澤工務店はファミリーです。』と言ってくださったY様・・・・。いっぱい浮かんできます。ぼくにとって『言霊』とも言うべき珠玉の数々を、また機会があったら書いてみたいと思います。
ではまた。
おさむ