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南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆寂しい話

2013-06-07 22:04:57 | 思い出

 1603 昔々、私が高校三年の頃、所得倍増論をだみ声でぶち上げた首相がいた。10年で国民の所得を倍以上にするというのだ。その時からというより、その数年前から日本の景気は、放っておいても、良くなっていった。そのあと、私が大学に入ったが、当時、国立大学の工学部へ入りさえすれば、なにも勉強しなくても、就職には困らない、引っ張りだこだと言われていた。事実、先輩連中は、大企業、一流の上場企業に、就職していった。そういう先輩から、就職してからの情報が入ってくる、アメリカやイギリスへ出張で行ったとか、ボーナスで車を買ったとか、景気に言話ばかりだった。ところが、私に一年先輩の就職状況に陰りが見え始めていた。東京オリンピックが終った直後から、極端な不況になってしまったらしかった。わたしが三年の終わりころには。求人がばったりとだえてしまった。四年になってから、大企業は求人ゼロ、中小企業からは、今がチャンスとばかり、求人が舞い込んで来ていた。その頃の就職活動は、ほとんど、教授、助教授などの先生方が、何社かのコネを持っていて、持ちつ持たれつの間柄だったので、紹介してくれる会社の中から選ぶというやり方だった、特に就職活動はしないのが普通だったが、私の時には、その対象が、中小企業になってしまった。

 

就職先は先生の紹介だった、東レ、極東貿易、臼井国際が出資した創業二年目の会社だった。静岡の清水町柿田だったので、遠いが同じ静岡だから、いいかと思ってお世話になることに決めた。大卒新卒の第一号だった。

 

就職二年後、労働組合(組合員は100人弱)の副組合長、三年目から、組合長を務めた。副の時から、団体交渉の主役は私だった。初任給は2万4千円、国立大学工学部卒の標準的な金額だった。高卒で1万5千円くらいだったと思う。

 

就職当時の不景気は、二年ほどで回復方向に向かった、それからは、何とか景気が次々と繰り返された。所得倍増論から五,六年後である。会社の売上も毎年30~50%増えていった。団体交渉は、言いたい放題、労働協約の改定では、10項目以上要求した、ベースアップも30%以上を要求した。二年目の月給は3万でした。三年目の賃上げ交渉では、何と、平均8400円で妥結した。私の給料は4万円になった。四年目には5万円以上になっていて、倍増どころか、それを上回った。当時1千ドル(36万円)カーと言われた、パブリカを月賦で買った。

 

 毎週土日12時間の休日出勤、会社の中にあった寮に住んでいたので、四、五年は、会社とべったり、当時、土曜は休みではなかったが、土曜日の夜8時から日曜の朝8時、日曜の夜8時から月曜朝8時まで休日出勤、月曜日は年休を取るか、そのまま、うつらうつらしながら仕事をした。だから、月給の倍ほどの給料をもらっていた。五年目頃、27歳の頃には、残業、休日出勤を含めて10万円以上になっていた。

 

 7年過ぎに会社を辞めたが、自分で開業する準備をする期間、1年半は、ある会社の12時間、夜勤専門を務めた。結婚していたが、月給は20万円だった。

 30歳で会社の経営者になったが、1年も過ぎないうちに月商200万円を超えて、利益は100万円を超えるようになっていた。もっとも、それらのほとんど、設備増に使った。

 どうですか、当時は、脱サラという流行語が有ったくらいで、大体、何をやっても儲かる時代になっていた。

 

 アベノミクス?ですって、10年後には、150万円所得増だって?それに対する具体策が無いって?大変ですね、1年で15万円でしょ、年金支給が70歳からという、案が浮上しようとする世の中、年15万円増は出来ないでしょう?30年40年前と比べると、寂しい話ですね。

 

 機関投資家が円売りとドル買い、そして、株を買って株価を上げた。約半年後、一般投資家が、手を出し始めた。高値で買った一般投資家は、機関投資家の利食い売りによって、下がってしまった株を抱え込まされてしまった。輸出主体の大企業と機関投資家が美味しいところを待ってゆくのがアベノミクスでしょう。円高、株安に急反転、時代が違う、流れが違う、変化するのは20年後でしょう。

 

 家の前、朝と夜、風船売りが毎朝来る、向かい側にトカン オジュック(バイクタクシー)のたまり場がある。

 今は昔 時代 悪循環

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(^_-)-☆パレンバン

2013-02-02 19:41:51 | 思い出

 1479 記念日である。44年前である。

一昨日のスマトラのパレンバンと言えば、私ですから、もちろん、行ったことがあります。落下傘で降下したわけではありません。ジャカルタから普通の飛行機で行きました。シマトラの南西で、その西にバンカ島、ブリトゥン島があって、バンカ島の対岸にムシ川の河口があり、そこから内陸に70Km以上入ったこところにある、石炭や石油なのど天然資源が豊富な地域です。ムシ川は幅も深さもタンカーが町まで入ることができる大河です。バンカ島もそうだが、錫や鉛の露天掘りの現場もそこここにあり、たまった水が鮮やかな空色に染まっています。

で、なぜ、パレンバンについて書き始めたかと言うと、私が小学校へあがる前に父親からパレンバン作戦、落下傘部隊の降下作戦について、しつこいほどその成果と戦果について聞かされていたからです。“加藤隼戦闘隊”や“空の神兵”などの軍歌はその頃覚えて、盛んに私自身が歌っていたと後に聞かされました。その歌は歌ったことを覚えていない。後にサラリーマンになってから、会社の先輩に習志野の空挺部隊出身の猛者がいて、会社の宴会には必ずそれらの歌を声高らかに歌うので、覚えてしまった。だから、今は歌える。

 

ところで、その、パレンバン作戦とは、日本が、南方の石油基地を確保しようと必死になって精鋭部隊を送った作戦でした。川をさかのぼっていては、到達までの時間がかかりすぎて、オランダ軍が逃走する前に石油基地などを焼き払ってしまう可能性があったので、落下傘部隊を降下させる作戦に出た。日本軍得意な急襲作戦だった。その作戦の成功は日本中を歓喜させた。日本軍、絶頂の時でした。そういう話を聞かされていたので、行ったときに何か記念碑などがあるかと思っていたが、何もなくて、ムシ川の畔の博物館に当時の遺品の数々が展示されていた。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage107.html これが2010年2月の旅行記

写真集は?探して見たがない。ということは、アップするのを忘れていたのでした。先ほど、フォトアルバムに追加した。

http://otaenplaext.net/newpage37.htmlそれがここ。

 

 JABABEKAⅢの様子、三年前にここの貸工場で押出成型をするつもりで物色したことがあった。まだ、新興工業団地なので、塗装が新しく、汚れていない。この中の会社の一社から見積もり依頼が入っていた。もし、ここでやっていれば隣組だった。

昔話 思い出 記念日

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(^_-)-☆一時代終焉

2013-01-03 22:21:12 | 思い出

 1449 もう、何年も前から入っていない、私が小学校へ入る前から、高校卒業まで住んでいた場所、家、そして、両親が、親父が亡くなるまで、住んでいた場所、家、その後は、他人に貸していた家が、間もなく、解体される。更地にして、駐車場と庭にするそうだ。

 

“柱の傷は一昨年の五月五日の~~”の歌のように、小学校の時に、毎年、5月5日に傷をつけていた柱、右側が、四畳半の板の間の子供部屋、子供の時から引きだしは無かったが、木製の机が与えられていて、次の写真のガラス窓に向かって座って勉強をしていた。その板の間で、百人一首のかるた時やトランプ遊びなどをしていた。

 

裏の庭から見た家、右が便所、勉強机が並んでいた右端から外に出てすぐのところにあって、入って、座ると、木目がはっきりした板の壁を目の前にする。底には大きな目玉の牛が私を見ている、大きな目玉の長い口ばしの鶴が下を向いている。そして何より、お袋が鉛筆で書いた“この世の中”という文字。

このガラス窓の前に井戸があった、“釣瓶取られて、もらい水”の詩のような釣瓶があった井戸でした。およそ数メートルの底に透明な水がいつでもあって、緋鯉が数匹、泳いでいた。中学の時は、日陰になっていた、その井戸の脇に椅子を出して、吉川英治や武者小路実篤や井上靖などなどを読みつくした。私がこの家を出た後に埋められてしまった。

 

便所もちょっとだけ外に出たところにあったが、風呂場も左側の3メートルほど離れたところにあった。木製の丸い風呂桶で薪をくべて漏らして沸かしていた。火を付けて沸かすのは私の役目だったと思う。新聞紙に火をつけて、放り込み、火吹き竹で吹いて入れた置いた薪に火をつけるのが、楽しみだった。

 

 思い出が限りなくある、築60年の家が間もなく壊される。トタン屋根で雨が降るとうるさいというより喧しかった。屋根に上ってペンキの上塗りも何回か手伝った。

 時代 月日 思い出

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(^_-)-☆みらいお茶

2012-10-23 22:11:25 | 思い出

 1377サントリーから売り出したボトルのお茶、MIRAIを買って飲んでみた。今まで、インドネシアで幾つも緑茶という売りこみ文句でボトル入りのテーが売りだされたが、全部甘い(甘すぎる)紅茶でした。今度こそ、日本の伝統的なお茶と言って宣伝しているので、日本のボトルのお茶の味が少しはするかと期待したが、期待はずれ、やはり、やたら甘い紅茶でした。生まれも育ちも静岡の人間としては、緑色をしていなければお茶と言ってもらっては困るよ、と思っているし、渋みや苦みが若干なければお茶と言えないと思っている。日本のお茶は体にいいと思って飲んでいるが、インドネシアのこの種のお茶は体に悪いと思って飲まない。

新発売の大宣伝をしている割合には、今までの甘い紅茶となんら変わらない。知らないで飲めば、新しいお茶と思う人はいないでしょう。

インドネシアでお茶と言えばテーです。それもサリワンギという名前のチィーバッグがほとんど、独走している。それに砂糖をスプーンで何杯も入れる。解けなくて底に沈んでいるのが見える。かき回しても飽和状態なのでそれ以上解けないくらいに入れてある。テーマニスと言います。氷を入れて冷たくしたものをエステーマニスと言います。熱いままの物をテーパナスと言います。私はインドネシアのレストランや道端のテント屋台で食事をするときに飲み物としてお茶を頼むなら、テーパナスあるいはテーディンギンのタワールと言います。紅茶だけで他になにも入れないでほしいという意思表示です。黙っていると滅茶苦茶甘いお茶が出てきてしまうからです。

みらいお茶はそのテーマニスです。それも、サンガット マニスです。私にとっては甘すぎるくらいの方がインドネシア人にとっては、合っているのです。サントリーは、それを知って、やたら甘いお茶を売りだしたと思うが、日本の伝統的なお茶と言って宣伝するのは、ちょっと、違うじゃないのと言いたい。こんなに甘いお茶は日本では飲まない。缶紅茶の甘いものでもこんなに甘くない。

 

 26日はイドゥル アドゥハ(犠牲祭)です。また、一年が回って来た。道端のあちこちに牛と山羊と羊が売られている。犠牲になる動物の価格表です。ドンバは羊、サピは牛です。山羊はカンビンですがここには乗っていない。羊より安いと思う。クラスについてはどういう程度なのか全く分からないが牛の価格は羊の七倍くらいのようです。イスティメワはスペシャルという意味です。

 

 韓国人の客が多い“足のマッサージ”の価格表、日本語は無い。私は一番安い一時間4万5千Rpというやつを受けた。若い男がマッサージするからだろうか、10ほどの区切りがあって、私を含めて5人の客だったが、他の四人は韓国の奥様たちでした。日本人の家族連れや奥様同伴の出向者はジャカルタにしか住まない(例外はある)が、韓国の人達はチカラン辺りにも奥さんと一緒に住んでいる。結構、若い人が多い。

 

お茶 もどき テー

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(^_-)-☆突然の再会は

2012-09-15 22:15:41 | 思い出

 1339 10年ほど前に同じMM2100の会社に勤めていたご婦人、デビ夫人のように、インドネシア人の軍人と東京の職場で知り合い、第二夫人として結婚し、インドネシアに住んでいる人です。私と同じ年。通訳兼秘書のような役目で会社へ入って来た。当時、すでに、未亡人になっていて、今、私が住んでいるタマン セントサの奥の方に一人で住んでいた。その人と、偶然、在るリップチカランの日本食レスタランに息子さん家族と一緒に食事に来ていた所に、ばったり会ってしまった。在ってしまったというのも、この方を仕事で頼りにする必要は無かったし、私的にも何も御世話になる必要は無かったが、私が、良いよう利用されたという印象が強かったからだ。

 彼女はインドネシア人という扱いだったので、通勤の足については、会社が手伝うことはしなかった。そういう条件で採用されたので仕方がない。本社から派遣された日本人三人はジャカルタやブカシバラットに住んでいた、それぞれ車が与えられていた。私は自分で買った車を自分で運転して、ルマーアバンから通っていた。彼女はそこに目を付けた。私はチカランバラットのインターから北へジャガバカの工業団地を通りすぎて、ジャバベカゴルフへ右折する交差点も通りすぎて、間もなくクレタアピ(鉄道)ルマーアバン駅の手前に住んでいて、家からインターまでは平均15分掛っていた。彼女の家は、インターから南に向かって10分位のところでした。

 私を毎日送り迎えしてほしい、と、頼まれた。会社の車でもないし、運転手を使っているわけでもないし、インターを通り過ぎて30分余計に時間がかかるから早く家から出発しなければならないし、燃料代も余分にかかるし、何より、気を使わなければならない、そういうことを、ご本人、全く気にしていないで、家が近い?から、当然だわ、というそぶり。断る理由が見つからず、引き受けてしまった。帰りも送ることがほとんどだった。約二年間彼女に使われたという気持ちだった。

 

 その間、ちょっとでも遅れれば、夜更かし、夜遊び、云々を言われるし、当時は煙草を吸っていた。彼女がのっている時には禁煙を言い渡されていたが、家から途中まで煙草を吸っていて、吸い終わってから、車の窓を全開にして匂いを消したつもりだったが、彼女が座るなり、“たばこを吸ったでしょ、臭いわよ“と言われた。そうかとおもうと、家についても彼女が外にいない、どころか、時間を5分過ぎても出てこない。ドアを叩いて呼んだら、しばらくして、今、起きたばかりという、凄まじい形相の本人が、”御免なさい、寝坊してしまったわ”ということも三回あった。車内の温度は彼女が仕切った。急ぎたくて、ちょっとスピードを出せば、“乱暴な運転は止めて“と、言われるし、”前の車に近づきすぎるわよ”と言われたり、帰りに車に乗るときに、“車の中が熱いわね”と言われたりしたこともある。“あんたと運転手じゃないから、乗るころになって車の中を冷やしておくことなんかできないよ“まるで、彼女が雇った運転手だと勘違いしているのではないかと思うほど、躊躇なく思ったことを言う。

 

 毎日朝夕で待ち時間を含めて一時間半の私にとっては無駄な時間をストレス付きで使わされた。もう一つ、彼女の化粧の匂いが私にとっては、耐えがたいものだった。厚塗りから発する臭いは、多分、彼女が煙草の匂いを嫌う以上に、耐えられないものだった。

 そういうことを一言も言えずに、耐えていた。二年間の契約切れで、会社から去っていた時には、本当に、安どした覚えがある。

 

 そういう人に、懐かしいわね、と話しかけられて、名刺をちょうだいと言われたので、作り笑いをしながら、名刺を渡した。三日後に、「懐かしいかった、一緒に食事をしながら、お話しませんか」というSMSが入った。その日は都合が悪かったので、その二日後なら、会えるかもしれないと返事をした。その当日の朝、「足が無いので、私に家まで18:00に迎えに来てほしい」と、SMSが入った。

それを読んで、お会いすることをお断りすることにした。“昔と変わらないな、待ち合わせレストランを指定して、自分はオジェックでもアンコッタでも乗ってくれば、誰にも負担を掛けさせないのに、もう一つ、私に日本食レストランへ連れて行ってもらい、費用は私負担で行こうと思っている”と、思わされた。”話をするだけなら、また、迎えに来て、というなら、自宅でお茶でも飲みながら話をしたらいい “とも、思わされたからである。

サンパイ クテム カパン カパン サジャと、いうことにした。

 

サンライズ、サンセット、東海岸と西海岸、どちらがどちらでしょうか。

 匂い 負担 ストレス

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(^_-)-☆16歳の誕生日

2012-08-21 22:14:27 | 思い出

 1314 1996年8月20日今から16年前にインドネシアに生まれました。独立記念日看板が沢山あちこちの掲げられていて、あれはいったい何ですかと、時のインドネシア人通訳に聞いて、独立記念日が17日だということを知った。折しも昨日がイスラムの元旦でした。私が初めて、ラマダン、レバランを迎えたのは1997年1月から2月の中頃だったと思います。約、半年、移動したことになります。

16年前の今日、朝、名古屋の小牧を7人で飛び立って、バリ経由でジャカルタに着いたのが既に暗くなっていた。そのまま、訳もわからず、リッポチカランのクラウンコートに送り届けられた。社長はブカシバラットのフィラヅアラトス、私を含めた出向の三人はクラウンコート、出張の三人はチトラインでした。

インドネシアでの私の仕事というか、やり遂げたいことが、いつまでたっても、未完成で、満足できないのです。それをやるために、その場所で、自分なりにやろうとしたのですが、数々の障害が私の前にはだかり、なかなか進まなかったのが、16年もインドネシアに係わってしまった原因でした。また、今は、新しい場所で、仕事をするための準備中です。

当時のリッポチカランの様子を振り返ります。直進がタナーアバン方面で500mほど行くと右がイジップの裏口、左がヒュンダイの裏口の変則四差路を通る。右はイジップとデルタシリコンの工業団地へ直接入る。ヤンマーの看板は当時から、つい最近までサンヨーでした。正面右に見えるちょっとしたビルがチトラインです。地下の日本食レストランで時々、出張者と一緒に食事をした。

この交差点は当時、ロータリーになっていて、1998年、大暴動の折には、戦車が二台、一週間ほど警備をしていた。

左に曲がると、リッポチカランの新興都市になっていた。と言っても、目立った建物はホテル サヒッドリッポとその裏のクラウンコート アパートメント向かい側にモール リッポチカランだけでした。その他にはバスターミナルとそれに隣接した消防所、ルコタムリンのルコは一棟だけあった。会社での仕事が終わって各部屋に戻る前にシルクスでも食事をした覚えがある。モールの真ん中の二階にあるフードコートでは休日の昼食や夕食を皆で食べた。モールも裏の二階のハイパーマートは無かった。できる前は、モールの右端にあった、スーパー ヘローで良く買い物をした。今はない。

分譲住宅地のメドグリーンは既にあって、日本人も住み始めていた。奥のガソリンスタンド辺りが開発地の端だった。その向こうは、舗装をされていない、一車線の道があったが、数年前までその奥へいった事は無かったが、日本人の友人を訪ねて行ってみたら、果てしなく奥が深く、どこまでも、分譲住宅地が開発されていた。チカラン以東の高速道路沿いの工業団地に勤める人はこの街に住む傾向になっている・ジャカルタじゃ、大変です。

 

私は赴任して半年でクラウンコートから出てしまって、ずっと、北のルマーアバンと言う町、ジャバベカゴルフやプレジデント大学方面のグラハチカランという分譲地に引っ越した。その時に、車を一台私のために手配してもらうわけにいかないので、買ってしまって運転も自分ですることにした。それ以来、運転手を使ったことが無い。また、ゴルフ場が近いから、暴動のあとメンバーにもなってしまった。時々、ベチャでゴルフ場を往復したくらいに近かった。

 

今また、タマンセントサに住んでいるし、買い物や日本人との食事はリッポチカランが多いので、生活のベースの街になっている。私はインドネシアに生まれたのはこの町でした。長くても数年でしょうから、別の場所に移り住むことは考えられない。

 

生活 地元 継続

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(^_-)-☆富士川の思い出

2011-11-13 22:17:15 | 思い出

1032 日本へ戻って最初の休日、妻の生け花教室があって、生徒や友達が大勢集まるので、例によって、9時頃には家から出ていかなければならなかった。上の子は小学校の行事で母親と出かけてしまったので、下の子の面倒も見なければならなくなり、二人で、車で出かけた。特に行く処も無いので富士山が綺麗だったので、富士川まで行ってみた。生まれ故郷の川原へ孫と行ってみたことになった。

4才までこの近くにいて小学校の時には毎年、おじさんの家に一週間ほど泊って、従兄弟たちと遊んだ。

川原の様子で一番変わっていたことは、サッカーグラウンドがかなり広い範囲に何面も作られていて、それらの全部で若者から年寄りまでプレーしている事でした。私が昔ここにいたのは戦後10年以内ですから、当時は、川原に畑が作られていて今で云う、家庭菜園でした。それが勿論今でもあるが、当時の風景とは全く違う。

私の記憶はこの川原で沢山残っている。今の新幹線、東名、バイパス、水道の橋は無く、一号線と東海道本線の橋しかなかった。その二つの橋の間に多くの畑が作られていて、リヤカーと背負いかごと鍬が道具だった。リヤカーに乗って後ろ向きに足を垂らして坐って、行き帰りをした姿が残っている。薩摩芋やニンジン、トウモロコシ、エンドウ豆など、喜んで収穫や種まきもした。ひもじいとか寂しいとか、つまらないなどという記憶は全くなし、近所のおじいさんやおばあさん、おじさん、おばさんにも可愛がられた記憶ばかりで、畑へ連れて行ってもらったり、米屋でお米、ピーナッツや冷凍イカや炭などの配給がある時には、少し、余分に貰ったりしていた。

本当に恵まれた環境で育ったし、何が足りないなどと思ったことはまっくなし、この富士川付近での幼少時代は静岡に移ってからの生活と重なる部分はあるが、どちらも、恵まれ過ぎるくらい恵まれた環境で育ったと思う。

8月お盆の祭りで、川の真ん中の川原に竹竿の上に籠が着けられ、その籠の中に火が付いた松明を投げ入れるという祭りがあった。其の辺りの青年が大挙して参加し、大騒ぎの雰囲気の中で子供ながら強烈な記憶が残っている。子供は全く近づくことも出来ない。今はその祭りがあるかどうかは知らない。

 この付近の思い出は富士川だけではない。山のミカン狩りや昆虫採集や左目横の大怪我や右足脹脛の大やけどや二歳下の妹の出産の時の様子、石材加工、其の上、お墓や焼き場の様子もはっきり覚えている。

安倍川の富士、富士川の富士、昨日の平地の雨は富士山の頂きにほんのり冠雪した。もう、来年の春まで消えないでしょう。どちらの富士も私の生活の中に日常的にあった。

富士山 記憶 恵み

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(^_-)-☆思い出話

2011-10-12 22:13:52 | 思い出

斜めからインドネシアを見るが、1000回になった。これを機会にこのタイトルは止めることにした。今では結構正面からインドネシアを見ることができるようになったからです。気に入っていないが、日本、インドネシアで半々の暮らしをしているので、インドネシアの様子は、機会ある事に書こうと思う。

 

今から48年前の大学三年の東京オリンピックの頃の思い出。アルバイトと奨学金が私の生活費だったころの話。夏休みアイスクリームの包装を夜勤専門でやっていた。近くに住んでいて科も同じだった友人と一緒に通っていた。ある日の夜勤明けの帰宅途中岡島というデパートのチケット売場の前に50m位の行列ができていた。見て直ぐ、そうだ、今日はオリンピックの入場券の売り出し開始日だと気が付いた。9時から売り出すが通りかかったのは06:30頃だった。私と友人はそれぞれ付き合っていた女性がいたので、四人で陸上を実に行こうと意気投合した。私は500円の一番安い席を二枚買うお金をたまたま持っていたので、列の最後に並んで順番を取ることにしたが、彼はお金を持っていなかったし、私も余分を持っていなかったので、下宿へ取りに行くと云って急いで自転車を走らせた。まだ、十分時間は有ったが、08:00頃には戻ってきた。相当、急いで自転車を走らせたのでしょう。息が切れていた。世間話をしながら並んでいて自分達が買う時になって、彼が、お金が無いと云いだした。ポケットに確かに入れた、その後、一度も確認していなかった。いつどこら辺りで無くしたか、落としたかも全く分からない。本当にポケットに入ったかどうかも確認していなかったらしい。

 

彼のしょげ様は並ではなかった。私も黙っているしかなかった。何も口を利かずにひたすら下宿へ帰った。その夜も一緒にアルバイトへ行ったし、20日ほど過ぎてバイトは終って講義へも、このことには触れず出ていた。このことは誰にも云わなかった。彼の女友達は私も紹介されていたし、すれ違えば挨拶くらいはしていたが、彼女にも云わなかった。私は一緒に行こうと思っていた女性を誘うことためらっていた。陸上競技を見に行く日まで一か月を切ったころ、彼に、一緒に行こう、と、伝えた。彼は飛び上がって喜びがしなかったが、素直に、ありがとう、行かせてもらうよ、と言った。

 

当日は勿論二人で代々木の開会式をやった国立競技場へ出かけて行った。当り前だが、色々な外国人がいたのが印象的だった。依田という80mハードルの選手が走るのを第二コーナーの上段、スタート地点が対角線の先、一番遠いところから見た。その他の記憶は残っていない。その日の夜には二人で甲府へ戻った。

ということで、若き日の思い出、他にも沢山あるが、これは上位に属する。この後も長い長いオマケがある。彼が一緒に行こうとしていた女性が私の妻です。な~~んてね。

 

 間もなく妻の誕生日 当時は知らなかったが、男2人で陸上を見に行った日がその日だった事を後に知った。そんなことなら、私が買った切符を二枚とも彼に上げてしまえばよかったとも思った。そうすれば、その後の道は今と違っていたでしょう。

 

インドネシアのシンボル世界遺産ボロブドゥールと日本のシンボル、富士山?ではなく、東ジャワのマウメレ山、インドネシアにはこういう富士山に似た3000m級の独立峰がいくつもある。雪が積もれば見事だろうがそれは無い。

チケット 記憶 一幕

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(^_-)-☆日本の実態を感じた

2011-02-27 23:28:05 | 思い出

前の前の会社G社の時の話、客先へ行って図面や製品のサンプルを渡されながら見積もり依頼をされた。渡されたご本人、全くできない。勿論、その場で、出来るから、いつまでに見積もりを出しますという返事はしない、首をかしげながら、また、後ほど連絡を入れます。と言っていた。私は直ぐできるが、私がやるやけではないので、余計なことは言えない。それから、二カ月過ぎて、その客先から、その人でなくて、私に問合せが来た。「あの人、じゃ、だめじゃないの、返事が来ないよ、どうなっているの」という内容です。私から、本人に確認した、「本社でも、出来ないと言っていたから、そのままになっています」でした。とんでもない人だと思った。仕事が全くできない人だと思った。

「私がやるから、貰った図面とサンプルを私にください」といったら、「もう、二か月前の話でしょ、図面やサンプルですか、もう、無いと思います」だった、「そんなことじゃ、客先に申し訳ないでしょ、無いなら、あなたから、もう一度頼んで貰ってくださいよ」といったら、「太田さんが必要なら、太田さんから頼んでくださいよ、私にはできません」でした。話にも何もならない。

呆れて、しょうがないから、客先に誤って、図面を貰って、試作に掛ることを伝えて、その後、金型の図面を書かせて、金型を注文した。それが、また、問題、その図面のサインはその人がして、注文してしまった。インドネシア人が勘違いしていて、その人が、金型の事は分かっていて、その人にOKを貰えばその人が金型について責任が取れると思ったのだ。

注文してしまって、二三日後にその図面を見せてもらったら、間違いだらけ、そんな金型では寸法がまったくでない。インドネシア人の金型デザイナーが私の言ったことを反映していなかったのでした。急遽、加工屋さんへ走って、図面の手直しをしてきた。ご本人、経過を何もご存じない。話しても仕方がないので、話をしない。インドネシア人には、私が責任を取るから、その人のサインはサインとして、私に確認してから、外部に出すように頼んだ。

インドネシア人スタッフよる試作が始まっても、まったく見向きもしない。勿論、手も足も出ない。技術的に10年経験者のインドネシア人の方が33年経験者の日本人より遥かに上なのですから。客先には、返事をできずに知らん顔していた製品です。本社に聞いても出来ないと言われた製品です。

全く、日本の技術が落ち込んいることを思わされた。これでは、日本が長期低迷するのは当り前である。その会社は間もなく、インドネシアから撤退した。正解だと思う。

 

最近開店したばかりのリッポチカランのショッピングモール、シティヲークの中のファーマーズマーケットで売っていた果物類、ドラゴンフルーツの中身が白と赤と黄色が区別されて売られていた。このスーパーはちょっと上流階級をターゲットにしていると思う。日本のスーパーマーケットに負けず劣らずのサービスを展開していると思う。

従来から、人気がある近くのハイパーマートとは違う高級な雰囲気があるが、どうでしょうか、近くの住民に受け入れられるでしょうか、私は、庶民が買い物に来るには場所が余りようないし、他の楽しみがないので、若者もあまり来ないのではないかと余計な心配をします。早々と閉店などという事にならないように。スリカヤ、緑色の表面にぶつぶつ出っ張りがある、中味はそのぶつぶつ通り、小さな種に実が付いている。一つ一つ食べていると面倒、いくつもの身を口に入れて、種から実を離し、黒い種を吹き出して食べる。甘いが独特の甘みです。雨季の終わりごろが旬です。スバン辺りの田舎には道端で売っています。もうちょっと、知っていることを書くと、スリカヤという果物がある。中味は殆どスリカヤと同じだが外観はドリアンのような刺とげがあり、色は深い緑です。

私は、インドネシアの果物として、ナンカ、チィムベダックとこのスリカヤを紹介する人は紹介してほしい。

負担 邪魔 不用

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(^_-)-☆集団体操

2010-08-02 21:01:01 | 思い出

 カラ元気というか何も異常が無い振りをしようとしているというか、04:00前に間が覚めてしまって、なんとなく、NHKを見ていたら、日本時間06:30 1000万人のラジオ体操という催しのライブをやっていた。一緒にやってみた。

ラジオ体操はまだテレビが無い時代、私が小学校の二年の時にできた。勿論、毎朝の朝礼で全員で体操をした。夏休みなど長期の休みのときは、町内で朝06:30からラジオ体操を子供会でやった。出席のスタンプを押してもらうのが通例だった。私は、義務的に早起き会などの仕切りをさせられていたので、何の、楽しみもなく、ただ、毎日、親に押し出されるように通っていた苦い思い出がある。第二体操は小学校の5年頃出来たと思う。厄介な体操で、第一に比べると、流れが悪いというか、不自然な動きが多いから難しいと感じた。

 それでも、とにかく毎日、ラジオ体操の歌を歌って、第一、第二と体操をした。体に染み込んでしまった。小学校を出た後は、めっきりやる機会は減ってしまったが、体育祭や卓球の地方大会の開会式の時などたまにやっていた。就職して。毎日の朝礼の時に復活した。会社を辞めてからは、ずっと、ご無沙汰で、たまに、テレビで見ることはあっても、一緒にやることはなかった。

それが今日、出発まで時間があったし、準備運動を兼ねてやってみた。ところが、動きが早い、追いつかない、まともにやっていたら、置いてかれる、少しずつ省略するしかなかった。伸ばすところを伸ばしきれなかったり、廻すところを中途半端のところまでしか、回せなかったり、前かがみ、後ろそりは、気持ちの半分も出来なかった。当り前でしょう。何十年ぶりにやったし、歳も、十分すぎるくらい取っているし、子供のころと変わらず出来ればお化けだ。と、思いながら、また、早く起きてしまったら、やってみようと思う。そろそろ、アルプスの山歩きのトレーニングも必要になる。

 

インドネシアにはラジオ体操のようなものがあるのでしょうか。ラジオから流れる体操はありませんが、学校で揃ってやる体操はいくつかあるようです。やはり、音楽に乗せてやります。従業員がカセットを準備し、会社で何種類か、やったことがあります。いずれも、動きが変で、流れが繋がっていない。一つ一つ独立した動きをする。日本語を縦書きするような流れのラジオ体操第一のような動きは全く会い。日本語を横書きするように文字が繋がらない。いずれも、大変、やりにくい体操という印象がある。それでも、その会社の経営者の方針でいくつかの日系企業でも、始業の前に、外で、体操をやっている。

 

ラジオ体操第一は本当に優れものだと思います。何十年も前に作られて、今までずっと親しまれているし、この間、色々な体操が生み出されたと思いますが、これに変わるほどのものはありません。日本人が全員、この体操で育ち、体つくりをしているのですから、すごいの一言です。誰が作ったのか私は知りませんが、やはり、すごい。

 

 ルマーアバンの駅とその直ぐそばの踏切風景です。この踏切を渡ると国道に当たります。地方都市の雑多な風景は、新しく開発された町と違って、馴染むには抵抗があります。一般の日本人は全く馴染む必要はないし、近付かない方が良いと思います。

 体操  集団  思い出

   

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(^_-)-☆心臓ペースメーカー

2010-07-22 22:43:59 | 思い出

気になっている方の誕生日です。私より一足先に67歳です。女性です。子供のころから、気になっている人で、夏休みに入る日が誕生日と中学校の時に名簿をちらっと覗き込んだだけで、瞬時に覚えてしまった。私のよき理解者でもあった。

静岡で生まれ育った私ですが、スキーが大好きだし、得意です。アイススケートも得意ですが、スキーの方が好きです。学生時代から会社経営をしていた50歳くらいまで毎年平均数回は長野方面のスキー場へ出かけていた。5月の月山でスキーをしたこともなる。インドネシアで仕事をしている間にも、何回か太田化工の人たちと行っていた。

その人と何人かの仲間と何回かスキーに出かけたことがある。40歳を過ぎてからのことである。彼女スポーツウーマンで、当時、女性として40歳過ぎでスキーをする人少なかったが、彼女は、どんな難しいコースでも私に付いてきた。

ある時、二人で滑っていて、彼女、急に胸が苦しいと座りこんでしまった。顔色が悪い。私としてはどうしようもない。救急の診療所を探そう、と言っただけだったが、彼女は、しばらくじっとしていれば治るから、私には、自分を置いて、滑ってきて、というばかり。そんなわけにもいかないから、ただ黙って、そばにいた。その通り、10分もしないうちに治ったようで顔色も良くなって、もう大丈夫と言って滑りだした。下まで行って、休憩をしたが、何事もなかったようにけろっとしている。繰り返したら困ると心配している私を無視して、滑りだした。

次の機会にも、同じことがあったが、死ぬことはないだろうと、心配は前より少なかったが、心臓の病気ではないかと疑って、病院行きを勧めた。案の定、心臓の不整脈が原因だった。結局、彼女、ペースメーカーを埋め込んだ。普通の人の心臓より頑丈になったが、それから、外観的にも、行動的にも、とっても、そうは思えないが、身体障害者一級だと、手帳を見せてくれた。優遇制度があって、特に、彼女が同乗しているだけで自動車道の料金が半額になった。それが理由で誘ったこともあった。スキーに長野方面へ行く時は大変助かった。今は、制度が変わっているので効果は少ないかもしれない。当時の半額はかなりお得感があった。もう、20年以上くらい前の話である。

今も、ペースメーカーを入れた状態で、ママサンバレーや山登りをしていると思う。

インドネシアにいる私は、もう、10年以上、ご無沙汰している。その人だけでなく、多くの人たちにご無沙汰をしている。

 

 ドイツ、スイス行きのティケットを予約した。シンガポール経由のSQである。レバラン休暇で国内国際便全ての航空便は予約が難しくなるい上に、価格が高騰する。比較的低価格のティケットで希望の日に取るには早いと思うくらい早くからブッキングした方が良い、後でキャンセルすればいいのだからと、ダブルブッキングをする人も多い。

 

 ジャカルタの夕映え風景、ドームの建物の中身は何でしょうか、知りません。

 

 不整脈  しっかり者  相棒

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(^_-)-☆一人が好き

2010-06-28 21:41:42 | 思い出
 他に誰もいない工場の端っこ、一号機で、機械装置とにらめっこ。充実した一日でした。
一人が良い。他人に気を使わないで済むから、気が楽である。
40代半ば、正月五日仕事始めの日、従業員は定時に皆帰って、私一人で、試作をしていて、18:00過ぎでした。原料を交換するために押出機の上に乗って、ホッパーから原料を掻きだし、空にした後、押出機の上から飛び降りた。その時、片足がなにかに引っ掛かり1.3mくらいの高さから大股開きで落ちる羽目になった。先に落ちた左足がボキっと音がした。一瞬、折れた、と、思った。
 見回しても誰もいないことは分っていたが、誰かいてくれたらと思って、見回した。やはり誰もいなかった。どうしよう。いつかどこかに書いたと思うが、タクシーを呼んで当局医の処へ行って、骨折(細い方のヒ骨)の手当てをして、タクシーでまた会社へ帰って、車の運転をして家に帰った、翌日流石に休んだが、翌々日は出勤し、いつものように仕事をした。石膏は一週間後に取ってもらって、ブリキの添え板だけにしてもらった。いうのも、腫れがすいて石膏と足が擦れ折れた時より、擦れがいたかった。二週間後の自分で添え板を取ってしまった。医者へ行ったのは、骨折当日と石膏から添え板に替えた時の二回きりでした。
 
そんなことで、私自身は一人で仕事をする方が、他人と一緒より、効率が上がるし、他人に手伝ってもらうと、手伝い方が、私には、気にいらないことが多い、何か、手伝いましょうかと、気が効く人は言ってくれますが、ありがとう、いいよ、一人でできるから、と言いますが、内心は、手伝ってもらっても、手伝いにならないでしょう、かえって、邪魔だと思う。

 従業員には一人で仕事をさせることは絶対しません。必ず二人以上で残業などはさせます。現場の仕事は特に念を押します。責任の問題と言うより、なにかあったときに早期に対処しなければなりませんから。

 と言う私も、一人で住んではいない、マリアさんがいる。やはり、何かが私の身に起きた時に出来るだけ、他人に迷惑をかけたくないし、早期発見をしてもらうためである。
しかし、仕事は別です。私に一番の望みは、家族には申し訳ないが、押出機の傍で、眠るようにSurga(Nirwana)へ行けたらいいなと思う
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
今日の昼食、MM2100の外のカキリマからブンクスで持ち帰ったソプイガ(Sop Iga牛の肩甲骨部の肉というか筋肉)食前食後ですが、骨が大部分で肉が張り付いている、肉だと思ってかぶりつくとそこも骨だった、ガキッという感じ、ソプブントゥットと味付け、味は同じ、おいしいことはおいしい。ご飯込みで、100円(1万Rp)です。安いでしょ。ご飯は食べきれないほど沢山、油紙に包まれている。ソプはホリエチ袋で持ってきたものをドンブリに入れ替えた。

一人  自由  思う通り
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一人でなくて良かった

2010-02-07 18:13:27 | 思い出
 今から思い起こすと大変な試練の日々でした。人の手助けだけを考えて行動している私が、強烈なパワハラの対象とされた事実を一週間にわたって書きます。同じような被害の体験者も多いと思う。今は解散したPT.KITAGAWAの日本本社の人は良く噛みしめて、読んでください。人生が開けます。
 現在 発病以来約三年半近くになります。すでに、ほとんど、普通に戻っています。原因がはっきりし、其れに合った薬を飲み続けているからです。病名はパニック障害(不安症候群)です。原因は過度の筋肉疲労と脳の使いすぎと神経の使いすぎだそうです。神経があちこちで誤動作をしてしまう立派な病気です。
インターネットで検索すれば詳しく知る事ができます。
こんなに分けが分からない大変な病気があったとは、全く知らなかった。あちこちで、いろいろな検査を繰り返しましたが、CTスキャン MRI+MRA 24時間レコーディングホルター、心電図、各種エコー、平衡機能検査、胸部、頚部X線、勿論血液、尿検査も全て異常なし。
インドネシアでは、国立心臓センター(Harapan Kita)、たけのこ、Medikaroka、Siloam、SOS,PERTAMINA ANISSA,それらも、二回三回のところもありました。いずれも、的確な病名を指摘してもらえなかった。すべての科から、数値的には正常として見離された。心臓などはこの位の不整脈は誰にでもあることで、いちいち、騒ぐのは臆病すぎるとまで、言われた。ただし、竹の子とアニッサは神経安定剤を処方してくれたので、若干の効果はあった。
 この間、ずっと私の手伝いをしてくれたのがお手伝いのマリアさんでした。彼女は運転免許を持っていたので、真夜中でもジャカルタの病院へ送ってくれたし、入院中は病院から学校に通ったりして、何時もそばにいてくれた。私の病気は別名、孤独恐怖症候群ともいいます。一人の時、色々な症状が出やすいのです。またそれが恐怖になると、なお、出やすくなる。マリアさんがいてくれてどれほど助かったか知れない。
日本では日本医科大成田空港クリニック、そして、静岡県立総合病院、耳鼻咽喉科、神経内科、循環器科、からは見離され、その代わり、神経安定剤のデパス錠0.5mgを処方してもらった、これがとんでもないことになった7月26日、就寝21:00前に飲んで寝た、27日朝 4:30目がさめた、その時から、ひどいことになった。薬が切れたリバウンドだった。息苦しい、両手足はしびれ、痙攣し、しばらく我慢しようかとも思ったが、ただごとではないと感じ、タクシーで県立病院の救急医療室に飛びこんでしまった。
これが、ラッキーだったというか。救急医療室に着いたとたん、ほとんど、意識がなくなってしまったが、医者の診断は過呼吸障害だという。血液中の酸素が多すぎ炭酸ガスが足りないという。呼吸をできるだけ止めるように言われた。紙袋を顔に被せられた。息苦しいのは酸素が多すぎるのに、一生懸命呼吸をしようとするから、なお、酸素が多くなってしまう。初めて知った。(インドネシアではこんな症状が何度もあって、其の都度、死の恐怖を感じた。)
間もなく、正常に戻った。血液検査、胸のX線写真も全く問題なし、その他もやはり、全部正常。明日の朝、総合診療科にかかるようにアドバイスされ、家に戻った。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの開店案内はこちらから。MM2100内の場所の地図を加えました。
果物はCimpedakです。今が旬です。臭いはドリアン、姿はナンカ、味は独特の甘さです。
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生みの親

2010-02-03 19:42:41 | 思い出
 ENGNEEARING PLASTIC(エンプラ)を高機能樹脂と訳していますが、これに対し汎用樹脂というのがあります。PVC(塩化ビニール)、PE(ポリエチレン)PP(ポリプロピレン)などがそれです。エンプラより10年ほど前に使われだして、水用のパイプや台所用品などが一般の人たちに使われるようになりました。1950年ころにバケツや茶碗や洗濯たらいなどが登場し始めました。現在でもこれらの樹脂の使用量が圧倒的に多い。
 
 私が、40年以上泳いできた世界は、汎用樹脂では熱に耐えられないとか、摩耗してすぐ使えなくなってしまうとか、直射日光に長時間耐えられないとか、静電気が濃く安いので火花が出やすいとか、その他の理由でも、汎用樹脂は使えないというという場合に使える特殊な樹脂の成型をします。

 その中でも、射出成型で作る製品は多くの会社で成形機を買ってくればできますが、押出成形をできる会社は日本でも数社しかありません。そのうち、なんでも、断らないで作るという会社は私が作った太田化工しかありません。ですから、勿論、インドネシアに限らず、東南アジアで、何でも引き受けることができるという人は私しかいません。実際に、私に相談されて、品質的にも価格的にもできませんと断ったことは、25歳の結婚したころから、どこにいても、ありません。
 K工業のエンプラのナイロン6を原料とする、エッジング、グロメット
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0201.html
を26歳のときに私が日本ではじめて作りました。真似をする会社はありますが、未だに、私が作った方法以外で、品質を超えて作っている会社はありません。K工業の発展の基礎になった商品で、未だにコンスタントに売れている商品です。K工業の殆どの社員はそんなことは知りませんし、私のことも知りません。K工業のインドネシア工場ではパワハラにあって、すごすごと逃げ出したのです。
 でも、インドネシアで多くの方に期待されていることが分かります。技術を持っていて、人にやさしいということは、どこにいても、必要とされます。死ぬまで必要とされるでしょう。インドネシアでなくても、ベトナムでもインドでもバングラディッシュでも、多分その期似れば中近東でも、東欧、アフリカの国でもどこでも必要とされるでしょう。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの開店案内はこちらから。MM2100内の場所の地図を加えました。

 写真は、其の売れない会社と、売れて間もなく看板を変える会社です。
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かざはな 風花

2010-01-15 19:39:53 | 思い出
書くのが今になってしまったが、昨年12月31日のゴルフ、まいった。もう、31日は最初で最後である。
 大変寒い、風が強い。コンディションは悪い方だと思う。インドネシアのコンディションとは真反対である。厚着の上になおジャケットを着ても、寒いものは寒い。顔は無防備、鼻水が止まらない。途中から,風花(かざはな、静岡独特の名前だし、現象だと思うが、上空に雪雲はないが、寒く風の強い日に、どこからか、雪のようなものが、舞い落ちてくる)が舞ってきた。家でくつろいでいる時なら風流なのですが、ゴルフ場では寒さが強烈に増す。
 これだけなら、まだいい。ところがこの日はセルフサービス、31日である。当然と言えば当然で、料金は前払。キャディーはなし、レストランは開いているが、ケータリングだけ、途中の売店もクローズ、ゴルフショップも閉っているので、温かい飲みものも買えない。
 これだけなら、まだいい。四人でプレーしたが、カートのリモコンを操作しようとする人が他にいないので、雰囲気で知らん顔できず、私が引き受けるしかない。インドネシアに住んでいる私は、日本のカートのリモコンで操作したことがないのに、である。カート道が先々どうなっているのか知らないし、どこで、自動的に止まるかも知らないのに、である。一番下手で、一番飛ばないのに、である。皆さん先輩なので、どこで、止めておいたらいいか、他の人のボールの位置を読みながら、決める。歩く人もいるし、打った後、必ずカートへ戻る人もいる。その人がたまに、歩くこともある。
 これだけなら、まだいい。クラブはたくさん持って行ってもらうが、パターまでは、持って行く人はいない。どうしても、グリーンの近くで、本人がカートまで行って持ってこなければならないということは分かっている。しかし、カート道の反対側から打ってオンした場合やエッジに付いた場合はグリーンを通り過ぎて取りに行って、また、グリーンまで戻らなければならない。そういう状態のとき、何もしないで見ているわけにいかない。私が、その人たちとカートの間にいるなら、私が、カートまで行って、皆さんの要望を聞いてパターなり、ピッチングなりを、持ってきて渡すことになる。他の人が、そういうことをやる、やらない、ということは考えない。自動的に、私はそうしてしまうのです。だから、鼻水を垂らしながら、かなりの距離を走るのです。それでも、暑くはならない。ただ、寒く、ただひたすら、早く、終わってほしいと思っていた。

 そんな日で、二度とやりたくないが、結構、楽しかったし、終わった後の温泉が極楽々々でした。
 
  静岡市の平野部には雪が降れば何年ぶりという話になるが、上空に雲ひとつない快晴で、かざはな(風花)は、何回か舞う、降るとは言わずない、舞うという。小学校の頃、授業中に校庭にかざはなが舞うのを見て、皆で大騒ぎをしたものでした。積ることはない。手のひらに乗って瞬時に溶けてしまった。
 地元の人間でなければこういう景色を見ることができない。安倍川の西、吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)という、遠足の行き先になるちょっとした名所から、静岡市の平野部を見下ろしている。手前が安倍川餅で有名な安倍川です。子供のころ褌姿でよく泳ぎました。
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