不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆最大の花

2015-01-08 23:32:29 | 思い出

 2183 私が初めて見たRafflesia Patmaラフレシア パトゥマ,Bunga bangkaiです。1997年、初めてパンガンランへ行った。目的は、インド洋のリゾート地に行って泳いでみたかったからでした。

その三カ月ほど前に、pelabuhan Ratuへ行っていた。ジャカルタから、ほぼ、真南のインド洋のリゾートでした。インド洋から打ち寄せる波の高さにびっくりさせられた。今、近眼は、完全に直っているが、当時は酷い近眼だったので、泳ぐ時、私はメガネをかけたままだった。何回か、高い波を潜って沖へ出るが、メガネはそのままだった。ところが、何度か沖へ行ったり来たりしているうちに、岸に近いところで、強烈な波にみまわれ、完全に波に翻弄されてしまい、海中に沈みこませれた。自分が回転しているのは分かっていた、そのまま、目の前に泡がくるくる回っていて、収まるのを待った。回転しなくなって、上に向かった。海面に顔を出し、そのまま、岸に向かった。直ぐに、メガネをかけていないことに気が付いた。暫く、捜してみたが、見つけるはずがない。帰りに車の運転は、慎重だった。それ以来、二回行っているが、海では泳いでいない。

 

それから、雰囲気が気に入って数回、泳いだり、ヌサカンバンガンへ行ったり、山の方の滝までトレッキングしたりしていた。その内、ここのジャングルの中に、ラフレシアがあることを知った。それまで、スマトラにしかないと思っていた。小学校の時の植物図鑑には、確かに、インドネシア、スマトラとしか書いてなかった。ジャワ島とは書いてなかったし、ましてや、パンガンダランなどということが書いてあるはずがなかった。

 

チャガール アラムは国立公園で、ジャングルに許可だれたもの以外に入らないように、森林を伐採し、見通しを良くしておいて、見はり櫓が二つあって、常に、見張っていた。フレシアを盗み出す被害にあっていて、ラフレシアの数が少なくなっていたのだそうだ。

http://otaenplaext.net/newpage33.html

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page238.html

 

私が初めて、ラフレシアに会うためにチャガール アラムに入った時に出会ったラフレシアです。半開き、脇の木が邪魔していて、開ききれないのでした。それでも、開き始めて10時間以内の状態でした。臭くないと思った。感激、こんなに綺麗なものかと思った。植物図鑑の通りだ。ついに、小学校当時の願いがかなったと思った。

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage00086.html

ラフレシア ブンガバンカイ 臭くない

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆覚えている歌

2014-10-31 22:30:15 | 思い出

 2114 三畳の畳の部屋、炬燵が無くて、電気コンロ300KW一つで、一時間ほど、暖を取るだけだった。始めて、経験した-10℃以下の温度。独立、自立の原点でした。奨学金とアルバイトで生計を立て始めた。

この歌を知っている人は非常に少ないと思います。カラオケにも入っていないのではないでしょうか。検索してもなかなか出てこないと思う。

 

“一人ぼっちが寂しくて、お使い帰りに、故郷の赤いリンゴを買いました。上野の駅でかじったら、雪の匂いに泣けました。

赤い手袋ほほ寄せりゃ、小指のつぎにも故郷の母の温もり感じます。夜学の帰り星空に、青い五月を呼ぶのです。

遠い故郷、雪解けにハコベの花が咲くように、強く明るく生きること、しっかり今は根を張って、花の盛りは美しく。“

 

暇だというか、時間が余っているというか、何故か、突然、思い出した歌がある。間違っていないと思うが。どうでしょうか。メロディーは単純なので、今でも、自然に歌うことが出来ます。

伊東ゆかりさんの歌でNHKのラジオから流れていたと思う。1961~2年、家から始めて出て、下宿生活を始めた時によく、一人で歌った歌でした。当時は東北地方から集団就職といって、中卒の子供たちが、関東地方に、就職列車でやってきた。その人たちの気持ちを歌った歌だったのですが、私の状態に似ていたのでした。人生を細かく、いくつかに分けたとすれば、第二の始まりの時でした。今は、いくつめでしょうか、最終章に近い、8回目か9回目の始まり直前というところでしょうか。現在、高齢者の一人暮らし、それも、インドネシア、自炊、掃除。洗濯、洗濯板は使わないが、全てを一人でやっている情況が苦にならないのは、18歳の時の私と同じだなと思いながらやっているからです。というより、できる私は面白いと思う。

 

おバカさんの相手をしなくていい。ま、自由はいいね。50何年前に歌ったきりの歌を覚えている。まだ、ボケはほとんどなしを確認。

 

静岡県では唯一のエボラ出血熱疑い患者の受け入れに指定されている病院、静岡市立病院です。その筋向いにあるNHK静岡支局。

 

どうでもいいかもしれないが、「半端ない」という言葉、違和感を感じる。「半端じゃない」と言ってもらいたい。

記憶 まだまだ インガッ

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆夢の途中38 1

2014-04-17 22:35:53 | 思い出

 1917 その頃、仕事は軌道に乗っていて、忙しかった。いわゆるバブルの初期、大いに儲かっていた。押出成形機40mmφ一台で、当時でも200万円売りあげていた。3分の2以上が荒利で半分以上が純利益だった。それも原料価格、PCが900円/Kgしていた。それを毎月3~5トンこなすのですから、面白いように儲かった。勿論、2千円くらいした12ナイロンや11ナイロンも扱っていた。軟ポリのスパイラルチューブも原料が100円/kgで500円以上で売れていた。上げた利益で装置を買って、特別償却で一年目に50%償却というやり方をし、設備も増やした。

 

始めた当初は、商社からの要求で、原料を購入する前に半額ほどの前金を振り込んでいて、入荷したと同時に残金を支払っていた。しかし、入金の全てが月末締めの翌月払い、そして、90日の約束手形だった。極端な場合、原料を購入してから5カ月後にならないと現金を受け取れない事になっていた。最初半年ほどで手持ちの資金がほとんどなくなってしまったが、半年後からは、預けておいた手形から当座預金に現金が入るようになってきたので、ずいぶん楽になった。その上、一年後からは、回し手形で良いよと言われ、毎月の売り上げの半分くらいを回して、請求金額より少し多く払いながら、半分は銀行に預けるようになっていた。

 

それ以後、静岡に移ってから、50歳で社長を止めるまで、銀行から小切手帳は貰っていたが手形帳は貰ったことが無かった。10万円以下は現金、それ以上は裏判を押して手形を回して支払っていた。手形を割る事も全く必要なかった。預けた手形の期日が来るまで十分資金は残っていた。私が止めた時の株の評価は、20倍以上になっていた。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage007.html

38歳ころから、ずっと、安定成長をしていった。前にも書いたが、当時は、二人で仕事をしていたので、私が朝8時から夜8時まで、もう一人(現在セピックの社長)に夜の仕事をしてもらっていた。週二回、夜8時に出荷、納品に出かけた。先ず、厚木の向こうの海老名市まで、22時に厚木プラスチック到着、行きは東名、帰りは節約のために御殿場街道を使った。家に帰るのが0時を回っていた。朝5時に家から出て、御殿場の神場(じんば)というところにある東方電材という会社に6時前に納品し会社に向かい、7時頃会社に着いていた。その他の出荷は、運送屋に頼んでいた。

 

発展し続けるリッポチカランエリア。ホテル チトライン(このホテルは1996年には既にあった。このあたりでは、サヒッドとここしか、外国人が泊まれるようなホテルはなかった。)の前の道を南に行くと右にEJIPへの入り口、左にHYUNDAI工業団地への入り口、その先に、大規模なショッピングモールの姿が現れてきた。ちょっと遠くからだが、リッポチカランモールに3倍くらいは在りそうだ。

手形 小切手 現金

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆夢の途中22 3

2014-03-12 22:41:40 | 思い出

 1881 H-PVC(硬質塩ビ)のパイプ、電線配管用に良く見られるものです。この製品の値段が1kg当たり27000Rpで売られている。10Mほど買った時の小売価格です。私がメーカーに頼んで原料を1トン作ってもらうと、1Kg当たり、 24000Rpです。どうなっているの、このカラクリは。もし、私が、小売価格27000Rpで売るには、13000Rp以下で仕入れなければならないと思う。では、メーカーは、その価格で売るには原料を6000Rp(55円)以下で仕入れることが出来なければならないと思う。リサイクル品とは見えない。何か安い増量剤が入っているのでしょう。例えば、そこら辺にある土とか。燃やして残りカスを見れば分かるが、分析する気にもならない。

 

入社したその年の10月に組合役員の改選があって、私は執行部の教育宣伝部長に押された。そして、その直後、代休優先という規則を撤廃させた。また、週休二日制も毎年一日ずつ土曜休みを増し、五年間で、完全週休二日制になるようにした。残業、休日出勤手当も15%から3年かけて25%になるようにした。「太田君、お手柔らかに頼むよ」。親会社の東レ並みが目標だったので、あまり考えることなく、行け行けの時代だった。

 

入社半年を過ぎて、私の配属先が示されなかった。創立3年めで、とにかく、大学工学部の新卒を受け入れるのは、初めての会社、私をどう、扱っていいのか、困っていたようだった。で、ずーっと前に書いたかもしれないが、大学の時の恩師が言われた事、「不良の山は宝の山と思え」の通り、押出部門に不良の山が沢山あったので、製造部長に頼んで、班長の一人が体調にすぐれず、私に、日勤になりたいとこぼしていたので、これ幸いと、いきなり、押出部門の三交替勤務の班長にしてもらった。工具の名前も知らなかった。プライヤー、ヤットコ、シャコマン、メガネ(レンチ)、パイレン(パイプレンチ)、ニッパーなどなど、化学では、知っているはずがなかった。『26のメガネを持ってきて』と言われて、“え??”だった。

中卒高卒の数人の部下から、仕事を教えてもらいながら、金型の事や樹脂の特徴、製品を繋げるコツや金型から樹脂を剥がすコツなど、どんどん吸収した。夜勤の時は大変、仕事が面白かった。10や15φ丸棒の金型、20本取りだ、複雑な金型、解体整備には、相当のコツが必要だった。が、私は、丸棒が詰まってしまって、生産続行が出来なくなった金型を夜勤中にばらしてしまって、その後、セットできなくなってしまって、そのままにしてしまい、次の月曜日、朝勤になった時に、上司から、「しょうがないな」くらいの事を言われるだけだった。何日か前の事になるので、怒りが、和らいでいるのでした。

 

半年後には、製品の立ち上げは、私の班からするようになった。生産途中で、NGになり、治せない時には、私の班から再スタートした。営業担当者に、新しい製品の引き合いがあった時には、私の上司達ではなく、私にできるかどうか聞きに来るようになった。見積もりの根拠となる金型費用や生産速度や歩留まりを答えた。典型的な例が、先日お亡くなりになった北川工業の前社長さんとの対面でした。6ナイロンのエッジング、グロメットでした。  

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0201.html

 

このころの、何でもやってみよう、出来るかできないか分からなくても、取りあえず、出来ますと言って、引き受けてしまう生き方、この年になっても、仕事に対する姿勢は変わっていない。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page231.html

スマトラ島の最北端に近い町、バンダアチェ2004年、地震と津波で10万人以上が犠牲になった町、世界中からの支援を受けて、あっという間に、2年後には、震災の面影はほとんどなくなった。それに引き換え東日本の震災、3年過ぎた。未だに、問題が山積みで、復興の足取りは重くて遅い、原因は“日本”だからでしょうね。絆の精神は保ち続けてほしいものです。最近オープンしたホテル。

 

チカランバラットインターチェンジ近くのカルフールの隣です。オープンしたばかりの、ホテル サンティカSantikaです。

 

ジャバベカ2のチカランバルにあるマスターバッチ製造会社、本社はスマランにある。今日、緊急で注文したら、スマランからエアーで送られ、明日の昼前に届けてくれるという。本当だろうか、期待して待つことにする。

勢い 若さ 無鉄砲

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆夢の途中22 2

2014-03-11 22:31:01 | 思い出

 1880 三日続いた深刻な悩みが、幸いにも、先ほど夕方解消した。何とかなった。ホッ、である。

 

戻るなり、看護婦が食ってかかってきた。私が行方不明になってしまったので、捜しまくったり、会社に電話したり、大騒ぎになっていたらしい。とにかく、平謝りに謝るしかなかった、あなたみたいな人は始めてだ、全く、という具合だった。

 

月曜日の朝、医者が巡回してきた。昨日の事を報告されていなのか、期限が悪そうに「君、何故ここにいるの?」と、聞かれて、「とにかく泊まって行けと言われたから」いったら、「君、何でもないようだから、出て行きなさい」と言われて、間髪をいれずに退院をした。下着や洗面道具を入れた大きめの紙袋を小脇に抱え、会社まで500mくらい歩いて帰った。まだ、10時前だった。事務所の扉を開け、20人ほどの人たちがいる前で、「お騒がせしました」と頭を下げ、直ぐに、寮へ行き、寮母にもお礼を言い、そのまま、作業服に着替えて、仕事場の検査室に行って仕事を始めた。

 

その直後、事務部長から、通達が出された。原則として、残業は4時間以内しか認めないと。要するに一日の拘束時間12時間以上は、だめだということになった。私も無茶をしたと思うが、あまり反省はしていなかった。

 

検査室の次に押出成形部門にはいった。昼間の勤務だったが、忙しくて、毎週土曜日日曜日の夜勤12時間勤務をした。土曜日、昼間の勤務が終わって、寮に帰り、20時に出勤、日曜の朝8時に終了、日曜に20時出勤、月曜日の朝8時終了、月曜日の昼間は年次有給休暇を取って休み、火曜日から土曜日までは通常の日勤、二ヶ月間続けた。平日、日勤の残業を含めれば一週間に30時間以上のオーバータイムをした。一週一回年休を使って月曜は、休むわけだから、一遍に年休が無くなってしまった。それを知った会社の事務部長が、「年休より代休を優先する」という、新たな通達を出してきた。要するに休日出勤をしてその代わりに休む時には代休といって、給料が引かれる休みの方を使いなさい、ということにしたのです。私が予想外の無茶をするので、事務長も大変だったと思う。何かあったら、自分の責任になるかもしれないと思ったのでしょう。

 

とにかく、当時は、夜勤で連続運転をしない時でも、日曜日には出勤していた。連続運転の時は勿論誰かに昼間出てもらわなければならない、私一人ではなかった、というより、他の人に休日出勤をお願いしていたので、私が率先してでなければならないと思っていたからでした。本当は、私の上司が、やることだと思っていたが。

 

当時は、まだ、土曜日は休日になっていなかった。私のオーバータイム、もし、土曜日が休日になっていたなら、一月12×4で48時間+されていたことになる。

 

MM2100へ日本へのエアーティケットを買いに行ってきた。行きも帰りも、交通状態は、閑散過ぎ。一時間半で用事を済ませて会社へ戻った。チカランバラットの出口も、閑散過ぎ、あたかも、天変地異の予感で動物が姿を消す現象のよう。

率先 使命 義務

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆夢の途中22 1

2014-03-10 20:53:56 | 思い出

 1879 大学をでて、入社して直ぐから、会社の各職場を一か月毎に、巡って、いた。射出成型、プレス成型、ガラス繊維入りペレット製造、そして、四か月後、四か所目、検査室にいた。押出成形部門のボビンスリーブという製品の不良返品が山になっているし、返品も半端じゃなかった。大学は化学だったが、品管の手法を使った卒論を書いた私としては、何とかしなければと、思ってしまった。三交替で24時間生産の現場で付きっきりで、不良の種類と原因の究明と対策、解決方法を見つけようと、生産につきあった。昼間、他の人に8時間任せ、私は16時間夜勤を中心にデータ取りをした。土日を含めて二週間の予定だった。

 

13日目が終わった土曜日、明け方、勤務を終えて寮(寮は敷地内に会って仕事場から100mくらいしか離れていなっかった)に戻ったと同時に、強烈な腹痛に見舞われた、どうにも我慢ができない。七転八倒、寮母も何事かと駆け付けてきてくれて、痛み止めを呑んだが、一向になおらない。会社の事務所(ここも100mくらいの距離)に知らせに行ってくれて、車で直ぐ近くの国立東静病院へ送ってくれた。ところが、病因まで分くらいの距離だが、車に乗ったころから痛みが和らいで、病院についた時には、痛みがどこかへ行ってしまっていた。痛くもかゆくもなくなっていた。大騒ぎをした手前、今さら帰るわけにもいかずに救急受付にはいった。

 

看護婦しかいない、専門の先生はいない、とにかく入院しなさいと言われ、そのまま、病室のベッドに寝かされた。看護婦に、どこが痛いかと聞かれ、痛かった場所を押さえて見せた。結局、「専門医が学会へ出かけてしまっていて、月曜日出勤だし、返してしまうわけにいかないから、泊って行って下さい」ということになった。そして、昼食、夕食、重湯を少ししか出してくれない、日曜の朝になって、車を持っていた先輩、友人が見舞いに来た、「そんなにお腹が空いているなら、今から、長岡へバーベキューを食いに行こう」となって、看護婦に外出すると言って、片道1時間ほどの中伊豆の温泉地、長岡の山の中の野外バーベユーまで行ってたらふく食べて戻ってきたのが夕方5時ごろだった。 

 

北のゴルフ場から、途中、昨日もよったトコ バングナンに今日も寄って買い物をし、リッポチカラン方面に帰る途中、ジャバベカ1を左に見ながら通過、そのすぐ後、前が塞がれていてまっ直ぐ南に向かえなくなっていて、左に曲がって、ジャバベカ2に入る。そして、しばらく行ったところでUターンし、先ほど、左に曲がった場所まで戻って、リッポチカラン方面に向かう。かなりの遠回りだ。今日は日曜なので、空いていたが、普段は、大渋滞の連続で、こちらの方面には、出来るなら来たくない。

無茶 規則 無鉄砲

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆夢の途中48 2

2014-03-05 22:39:58 | 思い出

 1874 集中治療室で目が覚めた。痛い、お腹が痛い、強烈な痛み、我慢できない。痛み止めの注射を肩に、お尻に座薬を入れた。夜になった。隣の鼾が凄い、痛みは、酷いまま、眠れるわけがない、夜勤の看護婦に座薬を入れてくれと頼んだが、「太田さん、さっき入れたでしょ、堪え性がない人ね、我慢しなさいよ」と叱られた。結局、朝まで眠れなかった。鼾は相変わらず、朝出勤の看護婦に、痛く眠れなかったことと、鼾が煩いから、一般病棟に移してくれと頼んだ。座薬を入れてもらえることになった。「あら、太田さん、座薬が入っていなかったみたい、落ちていますよ、よく、一晩中我慢したわね、こんな人初めて、我慢強いのね」と感心されてしまった。何だよ、昨日の看護婦、とんでもないやつだ、と、思っているうちに痛みがなくなった。それと同時に隣の鼾がぷつっと止んだ。朝ごはんの時間らしい、扉の外をカートが通る音がする。深い眠りについた。夕方目が覚めた。妻や母親が私を見ていた。隣のおばあさんのベッドが空いていた。「移したの」と聞いたら、「今朝、なくなったのよ、手術をしようと開腹したが、手の施しようがなくて、何もしないで閉じたのよ、麻酔を沢山効かせて、眠って貰っていたの、太田さんには、迷惑だったでしょ」と、いうことだった。ドラマだね、こんな狭い空間で、こんな短時間に、色々、あるな、それを感じるのは、生きている証拠だなと。

 

一か月後に10kgやせた状態で退院した。その間、私に死んでもらっては困る人達が大勢見舞いに来てくれた。同行二人の人も来てくれた。牢名主ではないが、入院患者の代表者みたいな状態にもなっていた。よろず相談も引き受けていた。偶に、抜け出して、碁会所へも行っていた。見舞いに来た人で、行方不明の私に会えなかったほともいた。

 

禁煙をしていたが、帰りの車の中で運転をしながら、吸った。美味しかった。その翌日から、会社に出ていた。6月の初旬だった。お腹の皮膚が突っ張った時に痛みを感じる程度、他は、普通だった。

 

それから、約10日後、夜中に、急に下腹に強烈な痛みを感じた。我慢できない、運転して、病院へ向かった。緊急入院、顔なじみになった看護婦が、「やっぱり来たわね」という、そういえば、退院する時、看護婦から「また、会えるかもしれないね、きっと、戻ってくるよ」と、分けのわからない事を言われていた事を思い出した。聞くところによると、胃の手術は、小腸が邪魔になるので、掴んで、寄せるのだそうで、その、掴んだ場所の小腸の粘膜が剥がれ、本来、滑りやすくて、小腸同士がくっついてしまうことはないが、粘膜が剥がれると、くっ付いてしまい、その場所が、閉塞するのだそうだ。腸閉塞です。一週間、点滴だけで、なにも口にしなかった。X線チェックで、閉塞がなくなって、退院できた。

それから、また、一か月後、同じ事を繰り返した。腸閉塞の痛みは胃の手術の後より、痛かった。脂汗タラタラの痛みだった。それ以後、その病院へ行く事態には、なっていない。

76Kgあった体重が60Kg以下まで落ちた。体重に関しては、その後半年で65Kgになって、それ以後、現在まで、63Kg±2kgで安定している。

 

8月に二つの結婚式の媒酌人を務めた。結納の時の写真と結婚式の時の写真では、使用前、使用後のような風貌だった。

 

超早期発見、早期手術、そして、ほとんど胃を取ってしまったので、胃癌の心配はない、だから、インドネシアで今も普通に(パニック障害を除いて)生活出来ている。人生、色々あるうちの一コマでした。

 

ついでだから、書いておくが、今になっても、胃を切ったという話をすると、「胃はまた大きくなるんでしょ」と、ほとんど人はいう。胃を切った、私の父親も、自分で、「切った直後より、一度に食べやれる量が増えていったから、胃は大きくなっている」と言っていた。事実は、『胃が再生することはあり得ません』ただし、切った直後より次第にキャパシティは大きくなります。一度に食べることができる量は増えます。何故でしょうか、十二指腸がラッパのように膨らむからです。カメラで見ると、蛇腹のラッパが見えます。当たり前ですが、胃の消化液は増えません、動きもありません。胃で消化する栄養素は未消化のまま、吸収されず、通過します。だから、食べる量が増えても太る確率は少ないのです。いくら食べても太らない。異常な肥満の人は、胃を切って取ることが、究極のダイエット方法です。そして、胃がんに掛かるし心配もなくなります。良いことずくめです。切った胃は再生しません。トカゲの尻尾ではありません。

 

またインドネシアに登場したおちゃ、日本茶ではない、しかし、日本のお茶だと宣伝している。

 

伊豆の狩野川沿いの早咲きの河津桜が満開だとか。間もなく、桜の季節、日本にいる予定だ。手ぐすね引いて私を待っている方と桜の下でゴルフ、いいでしょう。

痛い 強烈 我慢強い

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆大学生の時

2014-02-04 22:48:33 | 思い出

 1845 高校時代については以前書いたが、大学生活についてです。定量分析や定性分析などをする機会が多かったので、穴だらけになった汚い白衣?をはおって学内を闊歩していた学生時代、先日、その場所に何十年振りかに行ってみたことは書いたが、本当は、本分なる勉強をほとんどしていなかった。ほとんど、遊んでいた。クラブは卓球部、一年の最初からレギュラーだったので、真面目に練習もしなかった。高校時代、やっていたどころか、運動もしていなかった人達が、大学へ入ったら、それほど、きつそうではない卓球部へでも入ってみるかとか、教育学部(当時は学芸学部といっていた)の人は、教員になった時に、何か運動部にはいっていた方が採用試験で有利などの感覚で大勢新入部員がいたが、そういう人を相手にする気が無かったので、練習はいい加減だった。上級生も似たりよったりで、私より上か同等の人は二人しかいなった。

で、同じ体育館でバドミントン部も練習していた。中に甲府二高(当時は女学校)バドミントン部にいた女子が二人新入部員として入って来ていた。二人とも上手で、いきなりレギュラーになっていた。可愛くて恰好もよかったので、直ぐに、話しかけて、練習はそっちのけで話をして、ちょっと、時になっていたり、卓球部の先輩、四年四年生に、私としてはかなり美人と思う人がいた。女性に中では一番上手で、他の女性部員では相手として不足だったのでしょう。私がいると必ず彼女から相手として指名された。髪を伸ばし始めたが、まだ坊主頭の私を可愛いと思ったのでしょうか、また、彼女が望む強さら、方向に打ち返すことができた私は練習相手として適当だったのでしょう。私はちょっと面倒だなという顔をしながら、結構、満足していた、彼女が部から離れるまで半年ほど続いた。後で知ったが、彼女には卒業した卓球部の先輩と既に婚約していたのでした。その先輩、結構、ハンサムで、休日や合宿などに現れて、何かと、指導をしていたが、地元にいる先輩は多いと思うが、その人以外は、だれも来ない。面倒見のいい人だなと思っていたが、彼女目当てだったのでした。

 

卓球ばかりでは付き合いが狭いと思って、書道部にもはいった。子供のころから書道は得意だったので、書道部にはいっても、あまり練習もせず、逆に教育学部の女性部員を指導していることが多かった。五十人ほど部員がいたが、工学部からは私ともう一人いただけだった。それでも、卓球部のキャプテンをしていたので、書道部では、部長の補佐をする機会が多かった。“学書展“といって、山梨県では相当権威のある、小中学生一般の人も対象に、書道展を山梨大学書道部が主催してやっていた。相当歴史もある展覧会です。各学校から出された書き初めを県の書道家の権威の方々にしんしてもらって、席書大会に来てもらう人を決めてもらい、席書大会会場は大学の付属小学校の教室を使った。300人くらいの児童生徒が山梨県中から集まった。学校対抗という賞もあったので、引率の先生も大変、燃えていたし、山梨大学の出身者が多かったこともあって、先生同士の争いにもなっていたようだった。賞に入った人たちの作品やや審査員の意見を載せるための小雑誌の広告費を集めて回ることもした。各、後援団体、例えば、県教育事務所や商工会議所やらへ出かけて行って、私が手書きした賞状に県知事とか教育長の大きな印鑑だけ押してもらった。

 

夏は合宿やら遠征で忙しく、冬は武田神社の右隣のある灌漑用水、竜が池でアイススケートを毎朝講義が始まる前に楽しんでいたし、長野ヘスキーをしに行っていた。愛宕山の展望台まで一週間に3回ほどは登っていた。ブドウの季節にはブドウ棚になっているブドウを手が届けば、とっと頂いて、食べながら行った。道端の垣根の外に、はみ出している柿やイチジクや枇杷やザクロなども大いに腹の足しにさせてもらった。合宿の時の牛カエル(食用ガエル)私は始めてその泣き声を聞いた。捕まえ食べてしまった、美味しかった。その後、泣き声を聞くたびに出動して食べていた。

家庭教師もいくつかやっていたし、奨学金も貰っていたし、頼めば親からも資金援助をしてもらえると思っていたし、自立の始まりでもあった。この時の生活環境が、今のインドネシアの環境とよく似ていると思っているので、この時も今も何の不自由も感じていなかったし、感じていない。勿論、友人にも恵まれた。この中で妻とも知り合った。思い出は、まだまだ、山ほどある、全てが、何のストレスも感じない自由で貴重は時間でした。人間関係などと言ったことは全く頭になかった。どうしてもやらなければならないなどということもなかった。自分がやれる事、やりたい事だけをやって過ごした四年間でした。そのままサラリーマンになってしまったので、務まるわけが無かった。

もう、50年も前の事です。当時の事は毎日日記を書いていたので大学ノートで5冊、今も残っている。

 

毎年の凸凹が今年も酷いことになっていて、たったの数百Mのこの場所通過するのに30分以上かかっている。やっとロードローラーが到着した、だからと言って、この強い雨の連続、舗装を修復するのか容易ではない。いつ直し始めるのでしょうか。

 

この通り、どこでしょうか、分かる人は相当、リッポチカランの裏道を知っている人です。

無菌 自由 自立

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆最後かも

2014-01-03 22:46:03 | 思い出

 1813 私としてはどうでもいいことだが、取りあえず、習慣として、浅間神社へ初詣に行くことになっているので、みんなで出かけた。当然、ここには、静岡市をはじめ、相当広範囲からお参りに大勢の人が来る。車でいって、境内の駐車場に止めようとすると、最後尾についてから1時間以上行列の中にいなければならないことは分かっているので、私たちは、目的地から1kmくらい離れているが、元静大の跡地の公園まで行って駐車する。ここは、旧制静岡高等学校。戦後、静岡大学文理、教育学部があったところで、その後、日本平(にほんだいら)の山麓に移転したので、今は、城北公園?になっている。

そこから、歩いた地走ったりして浅間さんの石鳥居に向かう、途中、冨春院というお寺がある。中学一年の時の担任が住職をしていた。鈴木宗元先生だったと思う。地図の事を地理付図と言っていたことが印象的だったが、奥さんが他界されたときに、普通の日だったが、クラス代表で私はこのお寺に来てお悔やみを述べたことがあった。その時、初めて、坊さんが10人以上見えてシンバルや太鼓で賑やかに御経を唱えている場面に会った事を思い出す。

 

写真は、賤機山(しずはたやま)の百段を上って、4か所目の展望台広場からのパノラマです。遠くには、左に富士山、清水の町、日本平、駿河湾が見える。その手前は、静岡市街北部、谷津山、静岡市街中心部。足元には、城北高校、従北公園、静岡高校、駿府城跡などが見える。素晴らしい展望でしょ。中学高校時代は、おそらく毎年50回以上は、この景色を見ていた、実際には、走っていた。その度に100段は5往復はしていた。だから、浅間神社へ来た時には、必ず山へ登るし、駆け足で登るってしまう。今日も、ところどころで休んだが、自然に駆け足になってしまった。百段を下りる時もかけ足だ。孫たちと競争だった。

 

境内に大きな池が有って、その真ん中のくびれたところに赤い橋がある、かがみばし、という。走ってきて、この橋の上で、透明の水で泳ぐ鯉や噴水の周りの岩で甲羅干しをしている亀をなんとなく眺めながら、青春を語った墓所です。そこで、今の家族の全員の影が映っている水面です。

 

  ということで、初詣は理由であって、目的ではない、目的は、百段を上がって、出来るだけ上まで行くことです。それも、出来るだけ駆け足で。そして、まだできるということを確認するためでした。今回が最後になるかもしれない、と、思いながら。もっとも、パンガンダランまで出かけて行って、ジャングルの中でラフレシアを捜しまわることができていれば、こんなところは、全然、問題なし。

と、もうひとつ、懐かしの地に来て、若かりし日々を思うことです。この山の上の西側と東側に私の楽しいまたちょっと物足りない物語が数え切れないほど、次々と浮かんでくるほど詰まっているからだ。

浅間さん 賤機山(しずはたやま)百段

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆貴重な一日

2013-12-21 22:34:09 | 思い出

 1800 葬式に参加した。山梨の甲府、妻の一番上の兄さんが亡くなった。84歳だそうだ。大腸癌が全身に転移していて、分かってから2カ月足らずで亡くなったそうだ。何時に何処出を確かめず、妻が4時に出発と言うので、そうした。妻と娘と孫二人一緒で5人の旅、7:15に到着してから、妻は08;45から告別式が始まるという。それが分かっていれば05:30ころ出発していればよかった、と、文句を言ったが仕方がない。この余った時間が幸いをした。先ず、武田神社へ、ここ、何年振りだろうか、色々な建物が増えていた。トイレも綺麗になっていた。何十回とここへは来ていたし、その向かって左となりの相川小学校、小学校の6年の時に、海の子山の子交流で、夏に、この小学校の当時、教頭の子供が私の家に泊まり、海へ一緒にいった、秋には、私がこの学校の裏手にある塚原というところの、その子の家に泊めてもらって、昇仙峡などに行ったりした。懐かしの場所だ、大学を選んだのは、その縁も無関係では無かった。それから6年後、山梨大学に入って、すぐに、その家を訪ね、大歓迎された。

 

♪うすむらさあきの ふじだなの しいたでうたあった アベマリア♪武田神社から山梨大学に寄った。車を止める所が無かったので、藤棚直ぐ下の大学のコンビニの駐車場に止めた。多分、もう、冬休みだろうし、朝早いので、客はほとんどなく、6~7台しか止められないが一台も駐車していなかった。直ぐ上の藤棚には、その駐車場からコンビニの上の入り口の前を通ってゆくことができた。私が居たころは、その今の階段の丁度下に石の階段があって、その階段で、クラス全員の写真を撮ったし、校内を移動する時にはその階段を上り下りした。そして、その藤棚は今も、全く、様子が変わらず残っていた。孫に「おばあちゃんとここで、友達も一緒に、話をしたよ」と言ったら、「ここで好きになったの?」という、「そうだよ、もし、おばあちゃんとここで会っていなければ、あなた達のお母さんも、この世にいなかったし、あなた達も勿論、影も形もなかったよ」といってやった。「良かったね、ここで会って、だから、私たちが居るんだね、ここへもこれたんだね」と、上の子が言ってくれた。彼女たちが今日の事を覚えていてくれるとは思わないが、それでも、甲府へ早く着いてしまって、こういう会話ができたとこと良かったと思う。

 

工学部の正門、工学部と書いてある右側の門柱のすぐ裏に藤棚がある。

 

時刻通りに会場に入って、後は普通の流れ、斎場へ9時ごろ向かい、斎場から11時過ぎに戻って、食事後、13;00から、葬儀、告別式、14;30頃から初七日、そこで、義理の兄弟ら甥姪と話ができた。ま、皆さん、相当な歳の人ばかり、中には、具合が悪くて来られない方もいた。誰も、言わないが、次、一人を除いて、また、会う機会が直ぐ来るのじゃないかと思う。その一人は、誰かということはないが。インドネシアに多くの時間いる私にとっては、この中に、会うのは、今日が最後になる人もいるのではないかと思う。出来るだけ全員と握手を交わしながら、手を握りながら、帰る時の挨拶をさせてもらった。

19:00過ぎに家に戻った。

葬儀 再会 記憶

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆思い出ついで

2013-11-14 20:23:08 | 思い出

 1763 私にとって、変な先輩がいた。小学校の高学年になったころから、この人の事を意識するようになった。一学年上で、児童会の役員をいつもやっていた。私の姉が卒業するときに彼が送辞を読み、姉が答辞を読んだ。その彼が卒業するときに私が送辞を読んだ。

私が中学の卓球部へ入ると彼もいた。そして、生徒会の役員もやっていた。中学は他の二つの小学校からも来ていて、私の学校からの人数は五分の一ほどしか無かったので、役員になっている小学校の先輩は彼しかいなかった。そして、もう一人、目立った三年生がいた。私に姉である。中学校へ入るなり、お前は、姉さんの弟か、M(彼)を知ってるかと、色々な先生に聞かれた。いきなり、クラス委員長をさせられ、代表委員会に出席した時、その二人が仕切っていた。

二年の一学期、彼は三年で風紀委員長をしていた。遅刻する生徒が多いので、風紀委員の先生と委員の何人かで見張っていて、始業時間を過ぎた時に一か所を除いて校門の扉を閉じ、遅刻した人に理由などを聞いて説教をしていた。そんな時、何と、風紀院長の彼、遅刻して来て、それも、こともあろうに、閉じられて、見張りが居なくなった門扉を乗り越えて入ってしまった。運悪く、校長に見つかった。先輩やるなと、思った。

身近にいたのは、実質、彼が高校を卒業するまでだったが、別の大学になっても時々顔を合わせることがあったし、社会人になってからも、卓球部のOB会で会うことがあった。その時に出る話、静岡の中部大会団体戦準決勝の時、シングル、シングル、ダブルス、シングル、シングルの5試合をする。三回負ければ、最後までやらない。私は四番手のシングル、そこまで、一番の目のシングルが一勝しただけで二敗していた。先輩は5番目のシングルだった。予定としては一番目のシングルの選手と5番目の先輩が組んだダブルスは勝つことを想定していた。だから、私は相手のエースが出てくるだろう、四番目に置かれたのでした。実際、その通り、相手はダブルスに出ていて、彼の強打で勝ったのでした。先輩、完全に私の負けを決め込んでしまった。諦めて、自分の番まで回ってこないと思ってしまった。私の試合が始まった時に先輩の姿は無くなっていた。同じ会場で女子の試合も行われていた。静岡に沢山の女学校がある、その女学生達が私(静高)の応援してくれていた。中に、中学三年の時、同級でクラス委員を一緒にやっていた子もいた。元気百倍、あれよ、あれよという間にストレートで勝ってしまった。

先輩の番である、いない!!どこへ行った?捜すと、着替え終わって、校庭で自転車を乗り回し、みんなが来るのを待っていたという。慌てて着変えて、試合をした、簡単に勝ってしまい、決勝まで行った。決勝では私まで回ってこなかった。全く、いい加減なところがある人だった。呆れて、腹を立てる気にもなれなかった。

家が近かったので、卓球の練習が終わって帰宅するときに時々、先輩の自転車に乗せてもらうこともあった。用もないのに遠回りし、わざわざ女学校のある内堀を通って帰った。

 

その先輩、後に静岡県の事務職のトップ、県事務局長?県の官僚のトップになっていて、びっくり、時の県知事の補佐役をしていた。県議会でも答弁などしていた。私の奥さんの移動はずっと端の方で捜すのが面倒だったが、分からないものですね、あの、人を食ったような行動をする人が、誰が推したのでしょうか、県の人事異動の新聞発表欄の一番上位に、顔写真付きで、何年間か、乗っていた。

 

税務署長や社会保険事務所の所長さんや中小企業何とか団体の会長さんや何とかの会社の社長さん(私もその頃、高額納税の社長さんだった)などが、そろっている卓球部のOB会で、その先輩いわく、「県や市に頼るようになったら、その仕事は止めた方がいいよ、税金の分け前を貰いに来るより、税金を納める側でなければね」ご尤もだが、県の事務長がいうことかよ。この先輩、今は静高の傍の女学校(今は共学?)の理事長をしているらしい。

 

今回の思い出の書き込みの最後に、インドネシアで私の技術を伝える、技術者を育てる、という目的でこちらに来ている。もう一つ、国外へ出る理由があった。ある思い出の人を振り切る必要が有った、ということを付け加えて置く。そうです、心臓ペースメーカーのあなたです。これを書きたくて三日間、思い出を書いた。

 

 パンガンダランの姿。地図は正確を欠くが、概ね、合っている。

http://otaenplaext.net/newpage22.html

先輩 同級 後輩

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆思い出の続き

2013-11-13 22:29:21 | 思い出

 1762 中学三年の時の同級生で、静岡市で、今では、一番有名になっているフグ料理屋を起こしたやつについては以前書いた、彼も印象深い人だった。

昨日の話の中で、隣のクラス担任の国語の先生、目が大きくて、真面目そう、彼のクラスの生徒は、彼好みで、大人しかったので、私のクラスとは対照的、何故、そんなテーマを設けたのか知らないが、“運動と勉強は両立できるか”ということで、討論をしようということになった。例の四人が前に出て討論することになった、私と一人の女性が、できない側、野球野郎ともう一人の女性が、できる側に指名された。私は運動部に入っている事を知らなかったらしい。その討論、直ぐに、無意味だと思った。そんなことは、客観的にどう思うかと、思われた人の習慣が一致することは無いからだ。野球野郎、思った通り、いきなり、「お前、両立してるじゃないか」、と言ってきた。それを言われた私、何も言い返せない。両立していない、と言ったら、そんなこと無いだろうと言われるし、運動も勉強もできないやつが多いのだから、そういう人から見れば、両立している。恵まれている。

逆に野球野郎にむかって、「お前、両立していないだろ」、とは言えない。彼も、多くの人から見れば両立しているのだから。皆さんから見れば。両立している二人を討論者に選んだのは先生のミス、そして、二人とも、実際には両立できていないと思っている。どちらかに絞れば、どちらかは、もっとできるようになると思っていたからだ。それぞれの側の女性も運動ではないが、文化部の部活と両立していると思われている人たちなんので、討論にならなかった。先生曰く、お前たちは討論がうまくないな、でした。「何言ってるの、この先生、何もわかっていない、こんなことで私たちに討論させるなよ」という心境だった。

 

後日談がある。当時の先生は、例外はあったがほとんど、まだ、20歳代の若い人が多かった。私の担任は24歳だった。平均で10歳前後の差しか無かった。私が40歳の頃、小中学校の校長になっている人が多かった。

私は、家の近くの公民館で囲碁同好会に参加していた、その時の会の顧問をしていた方が、同じ区に住んでいて、中学の校長をしていた。その人の会話の中で、私の妻が小学校の教師をしているという流れになった。奥さんの学校の校長先生も囲碁が好きだよ、教員仲間の囲碁同好会に入っていて、いろいろな大会に教師仲間として参加している、一度、あなたも、公民館として、そういう大会に出てみませんか、ということになった。

早速、都市対抗というか、会社対抗というか、県下から100団体が集まるマンモス団体戦に参加した。プロの棋士も何人か、招待されていて、早く負けてしまったチームの人たちと多面打ちをしていた。教師組も何組か参加していた。その中に、なんと、中学三年の時の隣の組の担任だった先生がいた。市内の有名中学の校長をしているという。「あの酷いクラスの君か、覚えているよ、本当に、どうしようもなかったからな、三年一組の生徒の配分を間違えたと、当時、そういう話なっていた」、そうおっしゃる。その先生、三年二組だった。その後、校長が多かったが、先生の囲碁の会に先生の旦那という変な名目で、インドネシアに来るまで、参加させてもらっていた。   

 

40歳前からクラス会(同級会)を何回か開いていた。45過ぎから、学年会(対象は11クラス、約600人と担任11人)を5年おきに3回、行った。隣のクラスの先生も当然、出席していた。他のクラスは同級会を開いていないらしく、他のクラスの同級生や先生方からは大いに喜ばれた。と、思っている。インドネシアへ技術指導に行くと決まった時に、先生囲碁同好会でも送別囲碁大会を催してもらった。私がインドネシアに来てしまっている今、同級会も学年会も、中断していると思う。いずれも、案内状が届いていない。

 

中学では無く、高校、大学の同窓会やクラス会は流石である。音頭取りが山ほどいる、地元の有名人が大勢いる、だから、ひっきりなしに案内状が届いている。寄付金の請求書もである。

 

ジャカルタ、バスウェーを走っていた、赤ナンバーが捕まった。警察関係の車だった。同僚でも見逃しません、ということらしい。

 

OK品です。隙間が有りません。

同級会 学年会 同窓会

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆同級生の思い出

2013-11-12 22:32:16 | 思い出

 1761 今から65年ほど前の事だ。すごいやつがいた。中学三年の同級生、背は低かったが体はがっちりして筋肉質、静岡の浅間さん近くのペンキ屋の息子、野球部、ショートで四番、県大会で三位、本人は首位打者だった。クラスでは勉強をしないで勉強しようとしているいやつの邪魔ばかり、学級委員長が私、副が彼、クラスの人気投票で決まっていたようなもの、私も、クラスのことがしないし、勉強もしなかった。大体、私を含めて、男女とも運動部員が多いクラスで、各学科の先生が私たちのクラスで教えるのを厭がっていた。隣のクラスの国語の先生などは、本当に厭がっていて、太田、何とかしろよ、といつも言われていた。その、すごいやつは、私といつも休み時間にふざけていて、従業が始まるベルが鳴っても廊下にいて、教科の先生が階段を上ってくると、ドドドっと、クラスの中に駆け込んでいた。先生もその様子は分かっていて、あきれるばかりで、なのもいわなかった。担任の先生は、相当、ほかの先生から、色々言われていたらしかった。只一人、野球部の顧問で、体育を担当していて先生だけは、私のクラスびいきで、ああいう子供たちの方が将来、有望だと、偶には言っていてくれたらしい。

昨日の坂東、村椿の話はその中学三年の時だった。

 

ところで、なななんと、その二年後に、静岡高校が甲子園夏の大会で、準決勝で坂東の出身校の徳島商業を破り、決勝まで行ってしまった。柴田の法政二高に負けたが、その中学の時の同級生、二年生だったが、二番、セカンドで出ていた。それも、決勝戦で柴田から二本の安打を打っている。

 

中学の同じクラスから、私とその野球野郎ともう一人、真面目で大人しく、絵を描くのが得意な子が静岡高校に進学した。そして、一年の時、また、そいつと同じクラスにされた。というより、運動部に属していた子供のほとんどが、一つのクラスにまとめられたのでした。県下トップの進学校だが、このクラスだけは、勉強はしなくていいらか、運動で活躍してくれよという気持ちでしょう。野球部員6人、硬式テニス2人、バスケット3人、重量上げとか柔道(有名な山葵屋の息子、書道ではライバルだった)をやるやつ、全部、インターハイクラスのやつらばかり、何故か、せいぜい県大会クラスの卓球の私もこの中に入れられてしまった。私の取っては、全く不本意のことだった。勉強の実力テストが前期後期とあった。成績結果は、350人くらい全員が職員室の前の掲示板に張り出された。私たちのクラスは、ほとんど300番以下だった。

 

それはさておいて、二年の夏、私は卓球の大会や勉強?で時間を過ごしていて、野球の事は、興味が無かった。応援など、誘われたが、暇もないし行く気もなった。静岡の大会は、静岡きっての伝統校、ほとんど一年おきくらいの確率で甲子園へ行っていたので、今年も、優勝するだろうと思っていた。そして、優勝した。静高は出る負けの確率が高かった。今年も、前評判はパッとしないし、直ぐ帰ってくるだろうと思っていたら、一点差がほとんどで、決勝まで行ってしまった。やはり同級のピッチャーがすごかった。まさか、決勝で勝つわけがないと思っていたら、やっぱり、あっさり負けてしまった。私は甲子園にも応援に行っていない。行ったって、負け試合を見るだけだからと思っていた。

 

 余談だが、ある雨の日、卓球の練習をしていた体育館に、二人で、ここでピッチングの練習をさせてくれと、そのピッチャー(今でも高校野球の解説をしていると思う)と、キャッチャー(トンカツ屋の息子)がやってきた。同級で、名前も同じだった。そして、投げ始めた。何球か投げてから、私に、バッターボックスの位置に立ってほしいという。気軽のいいよ、と言いながら立った。なんと、その迫力に恐れをなして、一球だけで逃げた。速球は真ん中のストライク、それでも、自分にブっつかってくるような印象だった。コチコチの硬球、かすっただけでも痛そう。流石、甲子園、準優勝投手。

 

 そして、その同級生は、早稲田に行ったようだが、学生時代に彼のニュースに触れることは無かった。それから、10年後くらいだったと思う、中学の同級会をした。車の営業マンをやっていて、中学、高校の時のような、やんちゃは無くなって、地道にサラリーマンをしているようだった。彼の活躍は、同級生の誇りだった。中学の時には同級の女の子から嫌われていたが、それから、20年後くらいの同級会では、大変持てていた。

 

もう一人、私にとって重要な人が同じ中学三年の時の同級生にいた。私がクラスの委員長、野球野郎ともう二人の女性と三人が副委員長だった場合が多かった。それらの人たちは、その後の私の仕事や息抜きや行動に大きな影響を与えてくれたし、いろいろな機会に接触もあった。同級会や同窓会の幹事役もこれらの人たちに手伝ってもらった。

さあ、次は何時になるだろうか、インドネシアでの仕事が一段落する予定の二年後くらいか。それまで、生きているかな。

青春の貴重な思い出の一つでした。

 

それから55年後、インドネシアで一人作って食べた、料理です。

 

アルミのパイプに取り付けたPCカバーです。片側のアルミとのすり合わせの部分に隙間がちょっとある。これはNGです。

野球 青春 記憶

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆たぬきこ田貫湖

2013-08-31 22:29:33 | 思い出

 1688 小田急西富士GCでラウンド、まったく始めてのコースでした。印象は、チカンペックに似ている、でした。何が似ているかというと、登りのコースが多いこと、カートを、勿論、使うが、私は、ほとんどを歩くことにしているので、疲れる。ただし、コースの手入れは、雲泥の差、インドネシアの今まで経験したコースのどこよりも、上だと思った。流石、日本のコースだと思う。朝霧高原、本栖湖に向かう道の途中、案外近い場所だった。開始時間を間違えて、早めに家を出た。ティーオフの時間間まで、二時間近くあることが途中で分かったので、その時間を使って、田貫湖(タヌキコ)へ行ってみた。

 

 多分、60年ぶり。小学校の時にキャンプをしに来た時以来だ。その頃のことは、ほとんど覚えていないし、覚えていたとしても、今の様子とは状態が違うと思うので、どこでどうだったということは言えない。懐かしいと思いは無かった。しかし、キャンプをした場所は、現在、いくつかのテントがはられている場所辺りに違いないと思う。キャンプができる場所は、その辺りしかないからだ。

 

“ダブルダイヤモンド富士”の撮影場所としても知る人ぞ知る場所でもある。私はそれの撮影目的で行ったわけではないので、なるほど、ここなら、太陽と富士山の頂上を結ぶ延長線上に立てば、見ることができるはずだと思う。ただし、その場所を捜すのは難しそうだ。時期に依って変わるし、そういう場所で、行きやすい場所なら、大勢に人が押し掛けて、その人たちが邪魔になって、純粋なダブルダイヤモンド富士を納めることは難しいと思う。

これは、ダブルダイヤモンド富士ではない。ただし、ダブル二重笠雲富士ですね。これも、ちょっと希少風景だと思いう。

 

ともあれ、夏場、下界が猛暑であっても、ここは、涼しいし、静かな、落ち着いた場所であり、日常の生活から離れ、リラックスするなら、最適な場所だと思う。

 

また、このあたりの水は、富士山周辺の他の場所の伏流水と同じように、あくまでも澄み切っていて、一定温度の冷たさで、それを使った作物の栽培も盛んで、そのひとつにワサビがあった。インドネシアのディエン高原のワサビの栽培風景とは全く違うので、面白いと思う。

たぬきこ 逆さ富士 リラックス

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆四年前

2013-08-07 22:39:07 | 思い出

 1664 やっと四日が過ぎた。ゴルフ、食事の後、何をしようか。やることが無い、しかし、今日は、もうどうしても洗濯をしなければならなかった。明日のゴルフで着るものが無い。そして、明日着る服だけアイロンがけをした。他のインドネシア残留組の人は、どうしているのでしょうか、お手伝いさんを普段使っている人も、この期間はお手伝いさんもほとんどムディックでいなくなっていると思う。

 

規則的、健全な生活をしているし、仕事もしていない、情報もテレビのニュース番組からだけなので、渋滞や交通事故や各都市の話題しかない。交通事故の死者三日からの平均で一日60人だとか。どこでどう自己なのかは知らないが、多くは、バスとバイクの事故です。毎年のことで、ま、このくらいの犠牲者は、織り込み済みなのでしょう。大した話題にもなっていない。

 

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/page0408.html

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/pageo407.html

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/page0406.html

2009年、レバラン休暇は、9月後半でした。当時、一緒に住んでいたマリアさんを、混む前に、空の便で、一足先にブリタール(東ジャワ)に帰し、私は一人で旅にでた。丁度、ムディックの真っただ中、それより以前、ジャカルタのタクシードライバーの運転でブリタールの近くまで、ムディックに同行したことがあったので、様子は知っていた。その時よりも、はるかの渋滞はものすごかった。それでも、行きは、問題が無かった、順調だった。できたばかりのスラマド橋を渡ってみたり、シドアルジョの泥海を見たり、パスルアンの工業団地入口の前を通って、バニュワンギへ、フェリーでバリへ、バリは、多分3時間くらいで通り過ぎて、また、フェリーで、ロンボク島に渡った。マタラムを通って、島の東側に移動し、そこが目的地というわけではなかったが、ロンボクの北半分を一周しようと思っていたが、リンジャニ山の麓を通った時に、山へ登ってみないかと、その土地で道を訪ねた時に、言われて、登ってみることにした。かなり無茶だったと思う。

 

思いがけない、色々なことが有って、よく、計画通りの日程で帰還できたなと思う。他の人で、こんなことをしてみようと思う人はいないでしょう。

それに比べれば、毎日5時間程度のゴルフは、平穏、気楽、普遍である。緊張感が全くなしだ。それはそれで良いのだが。

 

パサラヤブロックMのガラ空きとブロックMプラザの賑わい。

平穏、気楽、普遍

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする