不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆ジャカルタツアー

2011-05-31 22:57:34 | 体験

友が日本からやってきたので、ジャカルタの観光ツアーガイドとドライバーを務めた。北のスンダクラパから南のブロックMまで、途中はバタビアホテル付近、グロドック付近にも寄り、モナスや国立博物館へも寄ってみた。私としては10年以上ぶりの訪問ばかりでした。全然変わっていない。しかし、初めて連れて云った人達は、スンダクラパなどは感激をしていた。木造大型貨物船専用の港で、今のコンテナ港タンジュンプリオクへ移る前はここがジャカルタの主要港だった。今は、粉類、セメント類、木材類食料品、衣類、などを、インドネシア国内の他の島の主要都市に運んでいる。国内、輸出入の為の港です。トラックに満載された荷物を人夫が担いで木の橋を渡って船に一袋ずつ積みこんでいる。クレーンもあるが、小型で少ないので、人間が担いでいる姿が多い。皆さん上半身裸である。こういう、様子を見ることが出来るのはここだけで、貴重な体験が出来ると思う。欧米系の観光客もちらほらガイドに連れられて来ていた。何十槽の貨物船が並んでいる姿は壮観である。アンチョールへ行っても、このスンダクラパへ行ってみる日本人は少ないと思う。インドネシアの姿がここにあると思うので、一度、行ってみたらいいと思う。

 

夜は一年ぶりのブロックM、レストランは名前を忘れたが、昔、ZENというカラオケがあってその向かいに新しくできたばかりのひらがなの名前の店でした。座席はざっと見て、50席以上あるのに、客は私たち三人だけでした。頼んだ、レンコンの煮物や焼き鳥は普通においしかったし、店の女の子の対応も丁寧だった。メインの天麩羅うどんもおいしかったと思う。再び行くことはないと思うが、値段も手ごろなので、以前からあるレストランに行きなれている人も、ちょっと試したらいかがでしょうか。と思う。

カラオケは、その筋むかいの6階まである内の5階に行ってみた。21:00過ぎだった。女性が通路にずらっと並んで立っている、ざっと見て30人以上、部屋へ案内される前に、女性を選んでほしいと云われて、皆さんの前を二往復して選んだ、私の基準は、この勤めを始めて間もなくに見える人。選んだ人は、本当かどうかは別として二か月前に入ったと言っていた。12:00まで居たが、三人で1,5ジュタ(約一万五千円)一人5千円、まあ、普通の値段でしょう。アワーチャージは3時間でした。飲み物はビールとコーラとコーヒーだけでした。

 

雰囲気として、月曜日だったからかもしれないが、車の数が少なかった。賑わいが感じられなかった。自粛ムードでしょうか。

 

カラオケ ブロックM 寂しい

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆ポリシティドゥール

2011-05-30 17:56:51 | 状況

ポリシティドゥールPolisi Tidurをしっていますか。インドネシアにはこれが至る所にある。日本には全くない。“寝ている警察官“道路を横切って盛り上がりを作って、車の速度を落とさせる仕掛けです。とにかくインドネシアのどこに多いとは言えない。至る所にある。田舎の、殆ど近くに家が無いところにも突然ある場合もある。種類も豊富で、幅も高さも色々、色を付けたり、縞模様に書いてあったりする。材料も、板きれだったり、コンクリートだったり、鉄板だったりする。多くはコンクリートかアスファルトを盛り上げてある。幅は、10cmくらい、高さは5cmくらい、一個の場合も、1m間隔に二個、三個の場合もある。夜暗い時にはあることに気がつかずにどんとぶつかって飛び上がることがある。後部のチイヤの方が飛び上がりがきつい。

この形は、殆どかまぼこ型になっている。両側にRを付けることを知らない、富士山の裾野、正規分布図のグラフの様になめらからRがあって盛り上げてあるならいいが、それが無い、どんと、ぶつかって、ドンと落ち散る、前輪後輪ともそうなる。座席が飛び上がる、品物も飛び上がる。ゆっくり、速度を落としても、それだから、気がつかないで40kmくらいの速度で走行していれば、そのショックはまともでは無い。

工業団地内にも幅が50cm以上、盛り上がりが10cmくらいのものが交差点の付近にある。一般道路でもそうだが、大型車、コンテナ車が頻繁に通過する、そのたびに、ドカン、ドカンと飛び上がる音がする。

そのうち、その前後が低くなって、ポリシチドゥールの高さが増す。

 

橋は道より高く作ってある。だから、その橋の手前は登りになっている。橋との繋ぎ目は、鋭角になっている場合が多い。そして、手前が、スキーのジャンプ台の飛びだし部の様になっている。ギャクRになっているのです。助走をつけて車がジャンプするのです。そして橋を渡って降りるときに、また、ジャンプをするのです。知っていれば、徐行をするが、知らなければ、相当、高いジャンプをしてしまいます。ここにもRが無いからです。

こんな状態で、工事終了の検査に合格してしまうのがインドネシアです。道に穴が空くわけです。

 

穴の修理にモルタルを流し込んで平らにするのですが、その回りのアスファルトと明らかに、熔着していない。異質のものだから当り前、一週間もしないうちに繋ぎ目のコンクリートが粉になってくるそのうちぼろぼろ禿げてくる、一か月もしなう位置に、明らかに穴が復活する。ソノコンクリートカスと云うか、かけらが、また、他の穴を作る原因になっている。

 インドネシアで初めて会った朝顔、浜昼顔は広く分布している。

修理 穴 不完全

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆凸凹は直さない

2011-05-29 23:00:33 | 体験

 スカルノハッタ空港へ友を迎えに行って戻ってきたばかり、トラックが規制になってからはじめてジャカルタの高速道路を使った。土曜日と云うこともあるのでしょうか、往復ともチビトゥンから、まで、一時間半かからなかった。

 とわ云え、各出口付近では、本線上に出たい車が並んでいるので若干速度を落とさなければならなかった。ガトゥットゥスブロトは相変わらず大渋滞の様だ。

 出迎えに行ったのだが、出迎えのシステムが変わってしまっていて、建物の中で出てくる人と会うことが出来なくなった。税関を通ってでてきた人は右か左に出て、そのまま建物の外へ向かって歩くようになった。迎えの人は、その通路の外側で本人を待つ、見つけたら、声を掛けておいて、別の出入り口から外へ出て、本人と接触することになる。今までは、出口の方向を間違えても、割合近くから向こう側へ出てしまったことが分かったが、今は、全く見えないから分からない。もし、反対側へ出てしまったら、電話連絡が出来なければ、会うのにかなり苦労するでしょう。出迎えの人は本人を探すために、一旦外へ出て、100m近く歩いて反対側の出口まで行って探さなければならない。困ったシステムにしてしまったなと思う。多分、長くない将来にこのシステムは変わると思う。

 

 道の話だが、高速道路でも油断がならないのに、一般道路は油断も何もない。凸凹が当り前だから、前をしっかり見ていなければならない。前の車に接近し過ぎると道路の様子が分からないので、そういう意味で車間を十分取らなければならない。また、バイクの後ろに接近しないようにしている。いつ、穴に入ってこけるか分からない。一旦こらえても、次の穴でこけることもある。水たまりになっているときには穴の本当の深さがわからないので、特に注意が必要です。

 

 カリマラン通りはもうどうしようもない。穴の中に穴が開いている。避けようがない。よけても、避けても無駄である。原因は、昔は大型は侵入できなかったが、侵入して良いことにしてしまった。今は、また、侵入禁止になっているが、もう、凸凹を直そうとしない。日増しに大きく深くなっている。インドネシアの道路はおおむねこんな調子です。どこへ行っても、舗装したての道は半年ほどそのまま持てばいい、その後は凸凹道に一直線、メンテナンスをしないし、しても、穴にセメントをいれるだけ、雨季にはまた、そのセメントは無くなってしまい、その時以上の大きな穴になる。

 

 台湾製の大福餅、大げさに日本語で書いてあるが裏側の説明の日本語は無い。美味しくなかった。買って損した。このように、日本語が書かれた日本製ではない、日本風のお菓子や食べ物を時々見ることがある。大体、日本人の口には合わない。

 出迎え 繰り返し 平気

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆穴ぼこに寛容

2011-05-28 23:31:52 | 行動

 今朝もバンドンから北ジャカルタのコンテナ港に向かっていたコンテナ貨物列車がプロワカルタ(ジャティルフールの付近)で脱線した。夜になっても排除できず、今日もたぶん明日も一日中、通り抜けはできないでしょう。ということは、ジャカルタ発のジョクジャカルタ行きとか南回りのスラバヤ行きは全面ストップです。もっとも、一日十往復も無い。ジャワ島をドライブしていて、列車に出会うことは殆ど無い。南東ジャワでは線路沿いに何十キロも走るが、列車を見たことが無い。

 車が走る道路はどうか、これが、また、どうしようもなくひどい。とにかく車やバイクの増加に道の面積が追いつけない。ドンドン、道路の隙間が無くなっている。トラックを高速道路から追い出して快適に走っても出口の前で渋滞になり、出る車が本線を塞いでしまう。高速道路から出た処で、渋滞にはまってしまうのです。その確率が今までより高くなった。

 道路の穴ぼこが半端じゃない。一晩で新しい大きな穴ができあがっている。昼間、小さかった穴が、真っ暗な夜のうちにドンドンとタイヤが入って、大きくするのです。朝、大きくなっているのを発見する。新しくできた、チカランウタマというゲートが出来て、今までんポンドックグデ ティムールのゲートの役割をするようになった。それはいいのだが、新しく舗装した道と従来からの道のつなぎ目に溝が出来てしまっている。その溝が長い。部分的に思い車が通過するのでしょう。その部分だけが穴になってしまう。そこを埋めても、他の場所に穴が出来る、そのうち、埋めたはずの場所がもっと大きな穴になっている。それが、原因で、パンクをする車は多いと思うが、あまり、文句が出ないようだ。こういうことには寛容と云うか、当り前と思っているのでしょう。技術が低いのでしょうね。

 日本で排気ガス規制によって使えなくなったトラックやバスを大量にインドネシアへ輸出して、日本は大気汚染を輸出している、だから、無責任である、という説がある。私は、その批判は日本に気の毒だと思う。それ以前のインドネシアのバスやトラックは日本では使えなくなった車の10倍以上の汚染ではなかったかと思うほど、黒煙をもうもうと吐きだして走っていた。そういう車が無くなった今は、それに比べればかなりの改善になっているはずである。その上、故障者が道を塞ぎ渋滞の原因になる状態も減った。殆ど、只に近い金額で売っていたはずなので、インドネシアの運送会社にとっては、大きなメリットになっているはずです。日本の会社の名が書いてあるトラックには両側が羽のように開くウイングというのでしょうか、そういうものや保冷車、冷凍車、と云うのでしょうか、それまで、全く見ることが出来なかったトラックがドンドン多くなっている。日本の排気ガス規制さまざまではないでしょうか。運転席に屋根の上に省エネ用に、斜めの羽が着いているのも、この時期からです

 私が泳いだ潮の流れが速い場所。

寛容 凸凹 舗装

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆改善あきらめ

2011-05-27 23:09:11 | 複雑

 まったく、詳しくない。と云うのも、乗って見る気が無いからである。見る機会はあるし、ジャカルタのガンビールやコタ駅へ人を見送りに行ったことは何回かある。其のたびに、よくこんな列車を使って旅をするなと感心するより、その状態に呆れてしまう。車体はぼこぼこ、落書きは一杯、窓は閉まらないか、開かない、ドアも閉まらないのか、閉めないのか、座席はぼろぼろ、車内は臭いし、ゴミだらけ、これが、長距離列車なのです。鉄道を使って旅をしようと思ったことは一度も無い。車窓からの景色は知らないが、車内でゆったり、気分よく過ごせるなどと云うことはまったく無理な話だと思うからです。
本数が極端に少ないので、線路は物売りが品物を並べて売っているし、周辺の人は洗濯物を干している。勿論、普通の道代わりに行き来している。
また、客車の屋根の上に乗り人は普通に居る。通勤列車が主だが、インドネシア人は乗り物の屋根に乗るのが好きらしい。きっと、自己主張の一つなのでしょう。バスの屋根にも乗りたがる。トラックの荷台には普通に満杯に乗っている。列車もおなじで屋根にのる。そして、閉まらないドアの外に体を出して手すりにつかまっているのも好きらしい。バスもそういう姿がある。度胸を示す手段として得意がっているように見える。
列車の屋根に乗るのは罰金百万円10年の懲役となっているらしいが、後を絶たない。一斉、取り締まりをしても、その時だけ、放水システムを作り、駅の傍に設置し、屋根スレスレに水平に色つきの水を放水するのです。その日一日だけ、屋根に乗る人は居なかった。その日の夜のうちに、その設備は何者かが侵入して壊してしまった。その翌日直したが、もう、その水を掛けられても平気、そんなことで、止めてしまっては、彼らのプライドが許さないらしい。
落ちたり、感電したりして、死ぬ人も後を絶たない。それでも、屋根乗りは止められないらしい。彼らはどう見ても通勤客ではない。仕事へ向かっているのではない。無職の人です。どこから乗ってくるのか、執着までのって、どこかへ消えていて、夕方になると、また、屋根にのってどこかへ帰って行くのです。服装はお粗末、履物はビーチサンダル。
使われている列車は東京で走っていた通勤列車です。ドアが閉まらなくなっている。
鉄道網は、よく、こんな状態で運航しているなと感心するほど、なにもかもが超お粗末。線路はジャワ島に割合多くあるように見える、その他、メダンやパダン、その他、主要都市に少しはあるが、ほとんど、有効では無い。通勤列車と云うたぐいのものはジャカルタ、ボゴール方面にしかない。それも、本数は少ない。列車と云えばジャカルタから出る長距離列車の何とか号と云うものが主で、スラバヤ行きが最長距離だと思う。その他はバンドンとかスマラン行き、一日10往復ぐらいでしょうか。
 とにかく、利用者のモラルが低いので、汚されるし、壊されるし、落書きは絶えなし、車体を綺麗にしても仕方が無い。だからそのままです。新しい列車を購入する気になれない。その上、車との踏切事故が多い。投石などで車体が傷つけられる。直すのも、運航に差し支えない動力部だけである。その他の部分は直さない。

 地下鉄やモノレールは作っても直ぐに落書や傷だらけになってしまうでしょう。ドアが閉まらなくなっても、直さないでしょう。とてもじゃないが、そんなものを作っても、すぐ意味場無くなってしまうでしょう。それが、分かっているから、モノレールは作ろうとしたが、止めてしまった、柱だけ遺跡の様に残っている。地下鉄は計画に留まっている。
コモド付近の今と昔
 無理 モラル 破壊

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆改善なしインドネシア

2011-05-26 23:18:56 | 矛盾

15年前と比較すれば、明らかに経済状態は良くなっている。履物や服装、化粧や消臭、どちらかというと、日本より、品数は多いし、持っている、使っている人も多い。エンゲル係数は明らかに下がっている。日本からの輸入車は100%関税が掛る。日本で500万円なら、インドネシアでは一千万円である。それでも、ジャカルタ近郊では、どこでも会う。平均年収は確かに上がっている。ジャボタベック(Jakarta, Bogor, Tangeran, Bekasi, Karawan)の様子だけを見ていれば、表面的、外見上には日本の大都市や工業都市に引けを取らない。あくまでも、50m100m以上離れた場所から見ればの話です。ジャカルタの中心地も同じこと、メイン道路の両側を見ないで、500mくらい先を見れば、また、メイン道路から脇道に入らなければ、美しい近代都市に見える。スカルノハッタは夜着いて、ジャカルタ市外へ入る高速道路の高架橋から見えるジャカルタの夜景は、東京より美しく、近代的な大都市に見える。その印象は、今までインドネシアに持っていた印象が間違いだったと思わされるほどである。ジャカルタ市街へ入る高速道路の高架橋から見えるジャカルタの夜景は、東京より美しく、近代的な大都市に見える。インドネシアへ初めて訪れる人の印象は、今までインドネシアに持っていた印象が間違いだったと思わされるほどである。グロゴール、スマンギ辺りを通過しながら、なお、そう思うでしょう。インドネシア人の建築デザイナーのデザインは斬新で芸術的である。日本の建築物より奇抜に富んでいて、同じ形を無いのが特徴です。

 

簡単に言えば、貧富の格差が限りなく広がっているのです。どこまで広がるのでしょうか。

 こんな中で、悪化しているのが交通事情、車の数は増える一方だが、道が増えない。先日から、ジャカルタの中心を貫く高速道路へトラックが進入禁止(05:00~22:00)になって、その部分は渋滞が緩和されたが、その他の道はそのとばっちりを受けているので、全体としては、返って、渋滞が増していると思う。インドネシアはこういうやり方です。

 バスウェーも同じこと、一か所を良くしても多くの場所がそのあおりを受けている。道路の幅も、数も、距離も増えていないのに、その運用だけで、何を解決しようとしているのでしょうか、無駄な経費を掛けて、渋滞を右から左へ、あるいは、そこから、前方へ、移動しているにすぎないことに、あまり、気にしないらしい。

 バスウェーでの死亡事故が絶えない。主な原因はバイクがバスウェーに入ってしまうからです。入ることが出来るようになっているので、ついつい、入ってしまうのでしょう。

 

 コモド島のダイビングスポットになっているパンタイ パシル メラー(赤い砂の海岸)潮の流れが非常に速いが所ですが、錨を降ろせないので、一定の場所に船を留まらせるのに、どういう具合に決めているのか知らないが、沢山ある中の一掃が、エンジンを吹かして定位置を保っている。その他の船は、ロープでその船に繋げてある。後から着いた船は繋がれた船にまた、繋いでいる。

 遠くから見るとどう見てもパシルプティ(白い砂)である、近くに寄っても、まだ、パシルプティです。日光を避けて手のひらに置いてみると確かに沢山の赤い粒が混じっている。赤サンゴの粉でした。浜の名前を納得した。

 

大都会 一見 モダン

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆そう遠くないこと

2011-05-25 23:10:31 | 体験

もう、そろそろ自分の死に場所や状態のことを考えなければならない歳になってきた。その前に、他人の介護を受ける状態になったときのことも考えなければならない。といっても、今の状態では、深刻に考えようとは思っていないので、誰かが、そんな話題を出したときに乗る程度である。

係わりあいや、しがらみを捨てて、風テンの旅に出るということは、当然、死に場所や介護を受ける状態をどうでもいいと思えるから出来るのでしょう。旅の地で、パスポートの内容しか分からない人達の厄介になるのです。持ち金を使っていいから、適当に処理してくれ、などと、書いたものを持ち歩いているのでしょうか、身内があれば、今、全く関わっていないその身内の電話番号でも、持ち歩いているのでしょうか。やはり、考え方ですね。

私は、誰かの為になることを目的の一つといて海外に来ているが、風テン生活が自分本位で誰の為にもなっていない、かと云うと、そうではない。旅先では多くの人々と関りあいを持っているはずです。彼が使うお金は、受け取った人の為になっています。代償をお金で受け取ってその人の生活の一助になっているのです。生きている間は、振り込まれてくるお金を行く先々で使って貢献し続けることが出来るのです。こういうことなら、私が保証人になって留学生に資金援助を居ているのと、形は、違うが、同じギブアンドテークで、同じような事をしているのかもしれない。他人に迷惑を掛けていないし、自己満足に浸れます。

大きな違いは身内との付き合いをほとんど持たないこと、日本での過去の人や事柄は、本当に過去のことで、今に、引きずっていない。将来も係わる可能性は殆ど無いと考える。もう一つは、現在係わっている人達は将来に継続することはない。また、邪魔者にされる可能性は全くないほど、表面的なものであり、行動を束縛されることはないし、神経を使うことはない。

 

外国にいても、児玉清や長門裕之が亡くなったということは伝わってくる。日本に居る時より、そういう話は気になる。だからというわけではないが、自由に好きなことだけをして居たいがそれはできない。できる間は、できることだけしかできないが、損得関係にも係わる世界で過ごすことになる。

 ある人は、インドネシアへ住みついてしまうなら、傍に居てくれることを条件にして養子にして、一緒に暮らしたい。自分に万が一のことがあれば、その人が、インドネシアの財産を受け取ることにしておきたい。死んでしまえば、結果がどうなったかは確認できないが。と云う事でしたが、皆さんからの賛同は得られなかった。

 私は、どこかに定住でなくても、一人で風テンをするなら、その土地で付き添い看護用に四人女性を雇い、四組三交代のようにいつでも一人自分の傍にいてもらえるようにしたらいい。と云ったら、かの風テンの人は、十年先に考えようかな、でした。

 そんなことはあり得ないと思うが、もし、天涯孤独になってしまうなら、私はそうする。日本では人件費が高すぎて出来ないが、インドネシアの田舎ならできる。

難し話だが、たまには、こういうことも考える。

インドネシアで初めて会った山ユリの花、野に咲く花は実にいい

物思い しがわみ いつか

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆しがらみは厄介

2011-05-24 23:13:04 | 矛盾

自由を求めて、自分の生き方を実行しようと、50才で会社を他人に譲って、海外へ出ると決めたのが、40の頃でした。理由は静岡の片隅をベースに一生過ごすことは相当、井の中の蛙の狭い人生になってしまうかもしれない、それは、自分向きではないと思っていた。もう一いつは、私が持っている技術はかなり特殊で、その技術と仕事への取り組み方を、父親や祖父の世代に迷惑を掛けた東南アジアの国々の若者に伝えて、少しでも、われらの生活水準が技術水準の向上に力を貸したいと思っていた。私が従業員に譲ったのは沼津と静岡の二か所です。それぞれ、客先もそのままくっつけて残し、無借金の上に相当な内部留保も残した。自社で約束手形を切ることは全くしなかった。裏版を押して、回し手形で済ました。

そんな、至れり尽くせりの状態で、株も半分以上は譲渡した、そんな状況でも、私個人の蓄えは十分であったはずである。

そして、縁あって、インドネシアへ来ることになった。そして、それから15年過ぎる。多くのインドネシア人に技術を伝授した。一社だけでは無く、三社に及んだ。風テンになれないのは技術を教えるために、日系の会社の中に入って、インドネシア従業員に教えるという方法を取った。それが、また、その会社での日本人との目的や損得や知識や能力の違いで多くの反発を買う世界に飛び込んでしまったことにもなった。

風テンやヒッピーなら、そういうしがらみや軋轢、損得から避けながら渡り歩くことが出来るし、そういうことに係わりたくないから風テンだと思う。目的の為に、目的を果たしにくい立場に身を置きつづけなければならなかった。他に方法はあったと思うが、それぞれの会社の経営者とのしがらみも長期に渡るのでその縁も見放すことが出来なかった。今も、その状態は同じです。

 

面白いことに、そんな面倒なしがらみなら捨てて、さっさと、自分ひとりでやってしまえば良いのにと思うし、できるし、インドネシア人からもそういわれる。それが、そうもいかないのが、しがらみなのです。義理人情なのです、捨てきれない。ベースを日本に置くのもその世界から抜けられないからです。そして、インドネシアの仕事に関しては、間もなく日本へ行ってしまう私が今手掛けても中途半端になってしまうし、私が云ったからやったと言われ、うまくいかなかったと云われても、どうしようも無いので、そういう心配のあることも云わないようにする。私がこうすればできる、ということは、私の頭と腕で出来ると言っているので、他の人では、できないことがおおいので、なおさらである。

もう、実労日で15日程しか居ないインドネシアで、余計な手出しはしない。現在、私が、やってしまえと、引受けた仕事が五つある。その手始め(導入部)は私も係わったが、今は、全く知らん顔をしている。OKに殆ど近いが、今一歩で、まだ、OKでは無い。現在かかわっている人達は、それらの製品の係わりに反対した人達です。というより、客先に返事もせず無視した人達です。その仕事を私が引受けてきたしまった。そして、最初だけ私がやった。それ以後は、私は逃げてしまった。その後のお手並み拝見である。日本人は35年のベテラン一人、インドネシア人も15年の経験者3人、何とかしてOK品を作ってほしい。私の作った金型に文句があるなら、それでもいい。今出来ないのは私の所為だと言ってもいい。しかし、そういっているだけでは何も進まない。

自分なりに修正するなり、作りなおすなりして、自分がやったから出来た、と言えるようになってほしい。そのチャンスを与えているのです。私が引受けてこなければ、永久にそういうチャンスは生まれない。私が最初から最後までやってしまっては、私、本来の目的を果たせない。その人たちが今どう思うと、将来は自己満足になるように完成させてほしい。

 

今もその目的は持ち続けている。今度は、彼らがインドネシア人のように素直に私の技術ややり方を参考にするかどうかが問題で、インドネシアで係わった日本人のように、自分の立場を脅かされるという恐怖から複数人間からパワハラ受ける可能性がある、そういう場所に身を置くことになる。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

 

 

花は良い

義理 人情 束縛

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆特異な?日本人

2011-05-23 23:40:42 | 人間

今どき海外で仕事をしている人は特別ではないし、これからも、どんどん増えるでしょう。しかし、自分から望んで、となると、ちょっと特殊になる。おそらく、海外で仕事をしている日本人の大部分は辞令によって日本から出た人たちでしょう。私のように望んで、海外で仕事をしているのは、特殊な日本人の一人に入るかもしれない。ただし、こういう人もそう珍しくない。

その私が、考えさせられた人がいた。その風テンの寅さん、といっても、かなり紳士に見えるし、どうみても、どこかの会社のトップに近く見える。その人と、最期のゴルフを一緒にさせてもらった。間もなくタイへ行ってしまう。バンコクかチェンマイに三カ月ほど滞在して、その後のことはまだ、決めていない。滞在ビザの期間のことで分からないところがあるので、どのくらいの期間滞在するかは、入国してみないと分からないらしい。彼は、早稲田の理工を出身、団塊の世代の真っただ中の人、その時代にこの学歴は相当の秀才である。国立では東大の理一、私立では早稲田の理工と云われていた時代です。学園紛争のピーク時でもあった。卒業後大手ゼネコンに入社、海外の建設現場の監督を長期でやっていた。日本の援助資金で学校や病院の建設に係わることが多かったという。

それが、50才を過ぎたころ、15年ほど前から、退社して、しがらみから離れて、海外のあちこちに移動しはじめた。日本へ寄ることはないそうです。海外から海外へといどうしている。資金は、海外勤務の時の給料と今は年金も追加されているので、悠々たるものらしい。シティーバンクに預金をしてあるので、世界中どこでも自由に引き出せる状態になっている。航空券も賢く格安を手に入れることが出来るし、宿も安宿で十分、順応できるので、困ることは何もないそうで、ネットも今は日本より遥かにWiFi、ワイヤレスランが発達しているので、どこでも只でアクセスできるという。各地の情報を収集したり、何かを予約したりするのももっぱらネットで済ましてしまうそうです。この順応性というか、融通性というか、余裕たっぷりである。

インドネシアの旅をしていて旅先でこういう日本人に会ったことはないし、こういう日本人がいたという話も聞いたことが無い。しかし、いることはいる、と、分かった。

こういうことが出来るということがすごいと思う。色々な原因、理由があって、私には同じ様にはできない。出来てもしない。そして、こうしたいとも思わないし、羨ましいとも思わない。人それぞれに生き方の状態に思いがある。生き方の問題です。だから、「できる」と「する」は次元が違う。

アラックを作る原料になる椰子の木のような実、と、椰子の木の二種類

風テン できる 別れ

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆酒飲みに厳しい状況

2011-05-22 23:09:18 | 情報

だからと云って、全く日本人が行っていないかと云うとそうでもない。アジアの他の国に比べれば、アジア人では日本人が一番多いそうです。私が会うことはないが、現地のガイドに聞くと、いついつ、何人来た、と教えてくれるが、それほど少ないのです。そして、必ず、何を云っているのか分からなくて困ったというはなしになる。それでも、日本人が来て云うということが、やはり、日本人だなと思う。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage124.html

 

 久しぶりのゴルフで、酒好きに二人にフローレスで買った地酒ならぬ、地アラックをプレゼントした。私はアラックバリに味を知らないし、その他のアルコール類の味を知らない。今回渡した、アラックを早速、皆さん飲んでみた。辛いという、これは、ちょっと、ドンドンとは飲めないよ、少しずつ、何かで割って飲むしかないという評価だった。45%という強さだが、それ以上にアルコールが多いのではないかと居ていた。私も、試飲をした時、学生時代に、エチルアルコールを水で薄めて飲んだ時のことを思い出したくらいだから、彼らもエチルアルコールを飲んだという感覚だったと思う。ま、アラックブラスを一本ずつ渡したので、対円満足そうだった。

 ところで、アラックバリも手に入りにくくなっているらしい。いつも頼むスンチンさんの話で、値段も二か月前の二倍以上になっているという。バリの空港の価格がめちゃくちゃ高いと思っていたが、町中で買うのとあまり変わらないらしい。

 

 もう一つ、今回、バリ、ウングラライ空港で云われたことは、国内便でもアルコールお持ち込みは一人1リットルと制限されているのだそうで、チェックインの時に預ける荷物の中を正直に云わない方が良いと分かった。機内持ち込みの荷物はX線チェックでやはり、ボトル類は取り上げられるかもしれない。一本だけならいいと思う。私は一本リックサックに入れたが、何の声も掛けられなかった。その後、待合の売店で、アラックブラスやバリワインを5本仕入れた。

 日本酒や焼酎の入手が難しくなって既に3年目に入ります。日本食スーパーや日本食レストラン、工業団地のサービスアパートの売店などで、お酒の品切れ状態が続いているようです。これからも、ますます、難しくなるでしょう。よく知りませんが、ワインやウイスキーはインドネシアの一般的なスーパーで大量に売っている。これ等は問題なく手に入るのですから、ワインに変えたら良いじゃないの?と思うのですが、私には分かりません。

生活にお酒が必要な人にとってはますます、難しい状況になってきたようです。同情しますが、私に取っては他人事です。でも、日本から来る時は土産として持ってくることになるでしょう。

 

ラブハンバジョ、コモド空港のレストランで食べたカップ麺とバリのクタ通りで食べたチャーカンクンとソプブントゥトゥです。約、70円と350円でした。メニューにカップ麺があるのは普通です。

 

酒 ワイン 入手

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆日本人の行動範囲

2011-05-21 23:26:20 | 行動

 インドネシアの中で、私が旅をしている場所に日本人は全くいないと言っていい。例外がある、バリ辺り、ジョクジャ辺りです。ただしジョクジャ辺りは日本から来たというよりバリからオプションできた人がほとんどです。要するに日本人は老いも若きもバリなのです。ジョクジャ以外にはロンボクも少人数います。ハワイやガムへ行ったことはありませんが、多分、同じでしょうね。とにかくバリは日本語だけで、何の抵抗も無く、躊躇も無く、通せます。黙っていても、ただ、歩いているだけでも現地の人は日本人と分かります。日本語で話しかけてきます。

 昨日も約8時間バリに居ましたが、そのうち5時間ほど、車の外で、インドネシア人の中にいました。多くのインドネシア人から、「何探してるの?」「どこ行くの?」「何かうの?」

などと声を掛けられた。いちいち、相手をしていられないので無視をする、話しかけた方も、返事を期待していないことも分かっている。ただ、日本語しかできない人にとっては、安心する材料になると思う。だから、日本人に人気があるのでしょう。ところが、一歩、バリから出たら、日本語は通じません。ジョウジャもロンボクも日本語ガイドはいますが、町を歩いていて、日本語で話しかけられることはありません。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage126.html

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage125.html

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0313.html

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page236.html

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0302.html

それら以外の場所は日本語のガイドもいません。英語を話せなければ身動きができません。団体さんのツアーも、旅行会社では企画をしません。しても、成立する可能性がすくないからです。今回のフローレスの旅で一人の日本人にも会っていません。インドネシア国内で仕事をしている人でごく少数の物好きな人がいて、あちこち出かけて見たいという人は、旅する会と云うのがあって、世話好きの方が、企画し、ジャカルタ新聞などで参加者を募集して、各地へ出駆けているようですが、そのくらいのものです。個人で、出駆ける人はほとんどいません。車で出駆けるにしても、運転手が必要ですから、なかなか、実現できないようです。ですから、ゴルフしかない人が絶対多数になってしまう。

 ダイビングの会は今でもあるのでしょうか、知る限りでは、数年前までは、インドネシア各地の海へ潜りに行っていたようです。一回、数日が平均だったようです。釣りの会はあるようですが、遠くへは行かないようです。プラウスリブ辺りが主体で、たまにスマトラ海峡の方へも行くようですが、朝から夕方までの行動ですから、船で遠くへ行くことも無いし、飛行機でどこかへ飛んで、そこから船でという行動もしないようです。

 

 その点、欧米人(オーストラリアも含む)はどこへ行っても会う。それも、個人もいれば、二人もいる、数人もいるし、団体さんもいる。とにかく、どこへ行っても、です。ということは、私がまだ行っていない場所にも彼らは現れているはずです。自転車やバイクで旅をしている人もよく見かける。

 長期滞在も当り前の様で、ロングステイという安宿の看板がどこの田舎町へ行ってもあります。一体彼らはそこで何をしているのでしょうか、疑問ですが、とにかく、そういう商売が成り立っているのです。英語が出来るから、日本人と違う発想ができるのでしょうね。

 タナロット向こうにニルアナゴルフが見える。

  行動範囲 英語圏 バックパッカー 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆南のパラダイス

2011-05-20 23:02:07 | 環境

 仕事をしている方々には大変申し訳ないと思いますが、後、一か月でインドネシアからしばらく居なくなるので、ちょっと、長期に出かけていました。

 今は自宅に戻っていますが、11:30頃でした。朝、06:50にラブハンバジョのホテルから出発。08:15のライオンエアーでフローレスを離れた。バリ、ウングラライ到着は10:00過ぎ出発は20:00過ぎにして、バリの観光をした。全て二度以上行った処ばかりだが、私に取っては印象深い思い出が多いところでした。タナロットは14:00ころ行ったが、その時間に居たのは初めてで、太陽の位置が以前と違っているので、明るい、タナロットを見ることが出来たと思う。それと、ニルワナのゴルフ場も近くに見えて、思い出深かった。

 その後、ウルワトゥ寺院の付近からの夕日を眺めてからウングラライ空港へ戻った。ここからの夕日とケチャックを楽しみの大勢の観光客がおしかけていた。夕日の観覧席があるのはここだけか、日の出を見る観覧席はブロモにあった。期待したほどのサンセットは見ることが出来なかったが、一応、バリに寄った効果は少しあった。

 

 フローレスの海岸地帯のちょっとした町はイスラム二人が多く、ラブハンバジョも島の外からの移民が多く、イスラムが大半を占めていて、ムスレムからの大声がうるさい。その点、海岸から離れた間の中の町は元住民で占められ、顔もパプア(イリアンジャヤ)人と殆ど見分けがつかない。島全体では、80%以上がカトリックでイスラムは少数派、そこで、イスラムの人達は、遠慮せざるをえなく、宗教同士で上手くいっていると強調する。イスラムの人たちが総数なら、それほどの問題が無いことを証明している。これが、イスラムが40%位を超えてくると、イスラムの方から、仕掛ける問題が多くなることはマルク、アンボン、ティモールなどで証明されている。島に人々は、だれもが友達の様。すれ違う相手に親しく話しかける。友達かと聞くと、始めてあった人だという。実際、一回あって、話をすれば、顔を覚えてしまって、完全に昔からの知り合いのようになるらしい。

 大きな町へ入っても、運転手やガイドは、挨拶に忙しいし、様子を聞いたり、場所を聞いたりしている、相手も、丁寧に教え得いて、仕事医の様子や家族の様子まで聞き会っている。こっちはそんなことはどうでもいから前に進もうよと思うのだが。

 

 欧米系のツーリストが多く、アジア系はまったく居ない、彼らは、大きなリックサックを背負って、ミニバスやオジェックや自転車で移動している。街へ入るとリタイヤした欧米人の団体さんも多くみられる。長期でインドネシア中を訪ねて回っている。見ていて、ほほえましい。日本人がスイスやバリへ団体さんで行くように、欧米に年寄りは、日本人の年寄りが二の足を踏むようなところへ団体さんですが、旅を楽しんでいる。

 

 ちなみに日本人のバリ観光客は震災後15%減っているそうです。はやく、回復することを願います。

 

 インドネシア内の旅は暫くお預けです。しかし、終わることはないでしょう。

 

 このフローレスを始め、多くの島々は私にとって天国のような場所が多い。何の不自由もなく、のんびりと暮せる場所だと思う。人々は皆さん、親切である。昔から何かの縁があるような気にさせられる。子供達も多く、山の中のには健康な年寄りも多く、世代間の交流やお互いに気を使うという昔ながらの人間関係が出来ているように思う。現代の都会にはまったく無くなった環境や関係です。それが、あるのがすごいと思う。

 

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage126.html

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage125.html

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0313.html

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page236.html

 

フローレス島から登るサンサイズははポンポン船から、コモド島に沈むサンセットはラブハンバジョの高台にあるパラダイスというレストランのテラスから。

親切 接触 縁

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆潮流の恐怖

2011-05-19 06:07:44 | 状況

 まともに7時とか8時に出発することは殆ど無いのが私の旅です。今日も朝14:30に起きて、05:00出発でコモド島へ向かった。まだ、真っ暗である。途中振り向けばフローレスの山の方からの日の出を見ることが出来た。

 08:00前にコモド島へ到着、多分、7~8年ぶりだと思う。当然、事務所も新しくなっていて、以前の事務所はレストランとか売店になっていた。上陸の申請とトレッキングの申し込みをする。ジャワ島の最南西端のウジュンクロンと同じ手続きです。20万Rpほど支払った。

 早速、ガイドと共にトレッキングを始めた。これも、同じで、物干し竿を持ち上げて高い位置に竿を掛ける先端が二股に別れた木の枝を持ってガイドが先頭を進む。コースは以前と、全く変わっていない。短、中、長の三コースがあって、私は長の二時間コースで行くことにした。レンジャーが住んでいる近くに何頭かいるのは知っているが、私は、その寝そべって怠け者のコモドではなく、完全に自立して野生になって野豚や野ネズミ、場合によっては鹿などを襲って生活しているコモドに会いたくて長いコースを選んだ。殆ど平らな道の両側や頭上に注意を払いながら進む、途中野鳥や野豚に会うが肝心なコモドの姿が見えない。ガイドは、必ず会えると自信がありげだった。平坦からごつごつした岩山に登り始めて直ぐにガイドが三頭見つけた。木陰でくつろいでいるが、回りに油断をしていないぞという感じで頭を持ち上げていた。

いたいた、その自立しているコモドに会うことが出来た。パンガンダランで、ラフレシアに会うことと同じ快感を得られる。野鳥の宝庫でもあるから、その方に興味がある人も十分満足することが出来るコースだと思う、ちなみに中は一時間コースで平坦な道をぐるっと回ってきて最期の出発地点のすぐ手前で寝そべったコモドを数頭眺め、土産物売り場を通って桟橋へ戻る。どうも、このコースが一般的のようです。

 コモド島は、プラブハンバジョに属する最大の島で、コモドが棲息している辺りの他にを訪ねたり、シュノーケリングやダイビングを楽しんだりすることが出来る。私は、日帰りなので、水泳をすることにした。ダイビングスポットに何艘も宿泊できる船が着ていて、そこから、欧米人がつぎつぎと海は入ってシュノーケリングをしている。パシルメラという海岸の200mほど沖にアンカーを降ろさないで、船を留まらせておいて、海岸までの間で海の中を眺める。上陸するにはその200m程を泳がなければならない。水泳には自信があるので、道具は一切使わず、ちょっと水をかぶって飛び込んだ。以前もここで泳いだので知ってはいたが、流れの速さにびっくり、秒速1m以上はあると感じた。平泳ぎではまったく海流の速度にかなわない。クロールでやっと後ずさりしない程度だった。

 若いころ、数キロ流されてやっと浜に這い上がったという経験が蘇って、びっくりして、船に戻って、再び飛び込み今度は海岸へ直角ではなく、海流に逆らって45度の方向へ向けて泳ぎ出した。これでやっと浜に上陸できたが、泳いだ距離は300m以上だった。この回りの海は船から見ると湖のように穏やかだが流れは急です。船に戻る時は逆に船の斜め45度くらいの海流の上流から泳ぎ出した。67の爺さんがやることでは無いなと思ったが、やはりせっかく来たのだから、海の中を見たいのは当然だと思う。

船の上から眺めているのでは、そこにいる意味が無い。

 13:00過ぎにコモドを後にした。と云うのも、午後になると潮の流れが変わって、大波になるのだそうで、行きより三角波が多くなっていた。だから、日帰りの場合は早朝出発して16:00頃にはプラブハンバジョへ戻るのが常識だそうだ。

 パンガンダランからヌサカンバンガンへ行くときも同じである。どこの海でもそういう常識みたいなものがあるのが普通ですね。

 

 サンセットを眺めに町の丘の上までバイクタクシー(オジェック)で行った。感激とまではいかないが、まあまあだった。

コモド 海流 過信

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆アルコールの恐怖再び

2011-05-18 22:11:34 | 知識

  HPの電波が弱い場所にいるので、テルコムセルしか使えず、メールは読めるが送信できない状態になっている。

ルーテンを通過してプラブハンバジョへ戻った。08:00出発、途中バジャワを出た処で、道の両側にガソリンを売っている風景が見えてきた。ガソリンにしては黄色みが薄い。運転手に聞いたらアラックだという。地酒のことだ。醸造をここかしこでしていて道端で売っているのだという。「それじゃ、寄ってみようよ、友達への土産にするから」といって、お勧めのところで止めてもらった。原料はロンタルと云って椰子のような木になる茶褐色の果物で、椰子の実の一種と云ってもいいかもしれません。熟れると甘い臭いがします。その実は黒砂糖を原料ですが、花(独特な形をしている、後に写真を紹介する)を搾って白い汁を溜め、三日過ぎると発酵をし始めるらしい。それを蒸留すれば出来上がり、名前はArac Aimereという。45%アルコールです。

 写真は火をつけて燃やしているところと、蒸留装置の一部、上にその原料になる薄緑色の二股に分かれた花(のように見えないが)です。

 他人に土産に買って行くのに、私が飲んでないと云ってはまずいので、まったくアルコールを受けつかない私ですが、覚悟を決めて,一舐めしてみた。確かに強烈なアルコールを何十年かぶりに感じた。臭いをもう一度嗅いで、舐めただけでは、危険かどうか分からないので、アクアのボトルのキャップ一杯ついでもらって、半分ほどをストレートで飲んでしまった。暫くして、死ぬようなことはないなと思って、土産にとアクアボトルの普通を4本と倍以上のボトルを一本買った。合計普通が6本と云うことにして30万Rp払った。

 その直後いから、頭ががんがんし出して、体中が熱くなってきた。飲んでから5分後くらいだったと思う。立っていられなくなった。そこの人も運転手もびっくりして、気絶かと思ったのでしょう。私を抱え込んで地べたに寝かせようとした。私はこらえて、椅子に座らせてもらった。まったくアルコールの消化能力が無く、直ぐに全量が血液中に流れ込んでしまうのです。それは昔から分かっていて、勿論、飲めないし、皆さんに迷惑をかける場合を心配して飲まないのです。

 今回は、仕方なく飲んで、ほんの少量だったので、その後、10分ほどして、頭の痛みが和らいで、皆さんに心配かけたことをあやまってその場を離れた。運転手は、大丈夫かと、何回も繰り返して聞いてきた。その後、1時間後にはほてりも無くなって、普通に戻った。皆さん、飲んでくれるでしょうか、私が決死の覚悟で少しだけでも飲んだのですから、アルコールなら何でもいいという皆さんです。飲んでくれるでしょう、最初は黙って出そうと思う。

  行きの時と同じ山また山の曲がりくねった道だったが、車酔いはまったくなし、酒酔いだけだった。

 途中に何箇所も同じような地酒を売っている場所があった。

広大な田園風景も広がっていたが、今は、収穫の季節なのでしょうか、収穫が終わった場所が多く、実った稲を殆ど見ることが出来なかった。

 

 ルーテンは通過するだけだった。18:00前にはプラブハンバジョへ到着したが雲の状態が悪くてサンセットには恵まれなかった。中途半端なサンセットしか撮れなかった。

 

 地酒 田園 収穫

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(^_-)-☆昔ながらの部落

2011-05-17 22:34:10 | 旅行

 04:00起き04:30出発でクリムトゥの日の出を見に行く。駐車場から30分ほどで展望台に付く05:45ころサンサイズ、水色の水がある火口のちょっと左から登る。二回目の経験である。欧米人がほとんど、インドネシア人がちらほら、日本人は私一人でした。やはり息苦しい、前回もそうだったが、毒ガスとは思えないが、上昇してくるガスによって酸素の%が少なくなっているのだろうと思う。今回も、インドネシア人が最近四人亡くなったという話を聞かされた。それでも、入山を禁止しないのがインドネシアです。

 

サンライズは前回同様、天気に恵まれてすばらしかった。日の出に手を合せて拝むのは万国共通の様で、カソリックもイスラムもブッディストも太陽に向かって手を合わせていた。ブロモの時も同じです。

結局、一時間待ったが、奥の黒の火口に霧が晴れず、見ることなく下山をした。途中、これも前回と同じで、コカコーラ色の火口を覗いた。これがコカコーラ色ではなく、水色に変わっていた。流石、色が変わる火口湖だと納得した。

 

 08:00にはモニのバンガローへ戻って軽い朝食、08:30チェックアウト、エンデに戻り、海岸沿いを西に戻った。昨日と逆である。昨日と打って変って、体調は回復、車酔いなど誰のこと?状態の快適さでした。

 また、ひたすら車を走らせ、バジャワに入るちょっと手前を左に曲がって伝統的な生活をしているカンプンアダット(昔ながらの)ウバーとベナを訪ねた。その前に展望台から見下ろすと数か所以上のそういうを見おろすことが出来た。うちの二か所に行ってみた。ここも大変よい天気に恵まれた。これがもし、天気が悪かったり、霧に閉ざされていたりしたら、どこへ何を見に来たのか分からなくなるでしょう。

ガルットのカンプンナガより遥かに田舎の町からは遠い山の中に住んでいるが、電気は使えるようになっている。燃料は枯れ木でLPGは使っていなかった。

インドネシアにはこういう場所が、数え切れないほどある。現代文化と云うか弁明と云うか、そういうものを拒否して、ひたすら昔のままの生活をしているのには十分な理由があってのことだと思うが、彼らの生活を見ていると、子供達が可哀そうな気がする。

 

バジャワのホテルにいる。今日もつかれた。

 

 隔離 火口湖

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする