南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆平均余命

2012-12-31 22:26:08 | 生活

 1446 年末年始、休みを取れず、忙しくて、旅に出られない方、私の旅の記録を眺めながら、雰囲気を感じてください。個人的旅は人の積極性を育む、活動する世界を広げるとともに、将来行動の選択肢を増やすでしょう。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%203.html

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage229.html

http://otaenplaext.net/newpage1.html

http://otaenplaext.net/newpage2.html

平均寿命は今生まれた赤ちゃんが何歳まで生きるかを示している。平均余命は今何歳の人が何年生きるかを示している。平均余命を意識している人はほとんどいないで、平均寿命をみて、それに近い人、それを越している人は、妙な地震予知と同じように、「明日、死んでもおかしくない」と言っている人が多い。そうじゃないよ。「まだまだ、憎まれ口を言う時間は長く残っていますよ」と言ってやる。

昨年の今頃は母親の最後を迎えていたので落ち着かない毎日でしたが、今年は一周忌も終えて、身の回りに不安を抱く人がいないので落ち着いた静かな日々になっている。私のいとこが一人亡くなった。今年もまた、大勢の著名人が亡くなりましたね。誰が何歳で亡くなった、若いね、大往生だね、いろいろ、印象はあるが、死は予期せぬ状態でやってくるものだと感じる。

死んであらの段取りやお世話になった多くの方々にお礼や感謝の言葉を残してあの世へ行った、何とかという、人がいましたね。そこまでは、用意周到でなくても、遺言を残しておくという人は増えていると思う。身の回りにも平均余命で10年そこそこの人も多くいる。平均より多くの材をなしている人が多い、そういう方々と、お付き合いの中で、「お前の弔辞は俺が読んでやるから、そのことは心配しないでいいから、安心しろ」「逆でしょ、順番からいって、私が読みますから、安心してください」そんな会話も弾んで?いる。そういう会話がふさわしい年齢になってきたし、そういう会話が寂しいとは思わない。

一致する意識は、行くならぽっくり行きたいね、寝たきりになったり、ぼけたりして、人の世話にはなりたくないね。ぼけそうもない人たちばかりだが、こればかりは、望み通りになるかどうかは、分からない。

 

森のように茂っていた庭の木を思い切って丸坊主にしてしまった庭、テレビに夢中になっている二人。

余命 別に人生 弔辞

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(^_-)-☆今年最後の

2012-12-30 22:49:43 | 体験

 1445 朝方、雨模様だったが、10時スタートの時には雨は上がっていて、雲が垂れこめているので、前二回の時より、冷え込みが少なかった。ホロンは静岡県東部の菊川というところにある。孫の一人が吐き気を催し、気持ちが悪いというので、03:00頃、夜間当番医(市立病院)へ連れて行った。04:00には家に戻ったが、彼女、眠れす、のどが渇いた、というので、水を与えりして、私は一睡もできなかった。風邪を引いてしまっていて、それでなくても、ずるずるしている私です。ゴルフは当然、多叩き、最後のゴルフとしては、不満足だった。強制竿でオリンピックもマイナスだった。

今年は何回、ゴルフをしたでしょうか、前半は日本にいることが多かったので、月平均にしたら4回程度だったが、後半はおそらく月平均10回以上だったでしょう。ということで、記録をしてはいないが、90回くらいやっていたともう。そして、結局、今年もゴルフに進歩が見られなかった。体力維持とぼけ防止に効果はあったと思う。多くの人たちがへたくそな私に付き合っていただきありがとうございました。来年は3日から、インドネシアでは12ひから始めます。よろしく!!!

 

突然話は昔に帰る。

“Nona manis siapa yang punya Nona manis siapa yang punya Nona manis siapa yang punya Rasa sayang sayange” 

“ノナ マニス ヤン プニヤ×3 ラサ サヤン サヤンゲ”

 プニヤとは所有、もっている、という意味です。ノナは若い女性、女の子です。マニスは“甘い”ですが、この場合は、“かわいい“です。ヤンは~~であるところの、という意味です。ラサは味とか印象とか感じの意味です。

”可愛いあの子は誰のもの×3 愛しい“という歌です。

 インドネシアでは子供のころ覚える歌で、誰でも知っている、日本でいえば、“花いちもんめ”のような感じで、歌われている。

どういうわけか、私が小学校のころ、“ブンガワン ソロ”と共に覚えた歌です。最後の“愛しい“というところを”いえ、あの子は僕のもの“と歌っていた。ブンガワン ソロは日本語歌詞だけで歌っていたが、この歌は、インドネシア語とは知らず”ノーナマニシャパヤンプーニャ、ノーナマニシャパヤンプーニャ、ノーナマニシャパヤンプーニャ、ラササーヤサーヤンゲン“と、これが一番で二番は日本歌詞で歌っていた。インドネシア語とは全く知らないで歌っていた。

 

“やさしいインドネシア語“という教材本にこの歌が乗っていて、「そうだったのか、インドネシアの歌だったのか」と思った。

 

1996年インドネシアへ赴任した時の自己紹介の場で、二十人ほどのインドネシア人の前で、この歌を歌って見せた。拍手、喝さいだった。それ以来、何かの会でも、この歌と、ブンガワン ソロ(インドネシア語と日本語)と五輪真弓の“心の友“をリクエストされた。満更ではなかった。

 

ホロンゴルフ場

記憶 子供の頃 馴染み

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(^_-)-☆豆知識2

2012-12-29 22:29:25 | 行きすぎ

 1444 インドネシア語を使えるようになるコツというか、私の経験では、半年で日常会話は、ほとんど、問題なくなった。1年で、押出の仕事を指導することに必要な単語はほとんど覚えたその方法を書く。インドネシアへくこことが決定したのは、赴任から一年前、その時からインドネシア語の勉強材として、やさしいインドネシア語という本を買って、覚えることから始めた。半年前ぐらいに、インドネシアで一緒に仕事をする予定の若者がインドネシアから、やってきた。太田化工へも工場見学に寄った。その時、私が案内したが、挨拶くらいはできていた。彼らが帰りがけに“サンパイ ジュンパ“と声を掛けた。彼らはびっくりしていた。それに、気を良くした私は、毎日、その教科書にある単語や文章を一ページずつ覚えていった。一日平均二時間程度その時に充てていた。

最初の赴任は出張者3人出向者4人で私は出向者に入っていた。社長を除けば私が飛びぬけて高齢だった。しかし、その時、インドネシア語で積極的に話をしようとしているのは私だけだった。その時の社長は英語がペラペラで、怒りっぽい人だったが英語でどなりまくっていた。その社長が毎朝ミーティングは英語かインドネシア語でやろう、日本語は禁止だ、と、自分に都合がいい宣言した。私は、それに従って、次に日の朝、少なくとも一分間は話ができるように、日本語で作文し、それを、辞書を引きながら翻訳して、それを、また、できるだけ暗記した。話したいことを毎朝インドネシア語で話をした。違う知お直され続けたが、半年後には下書きして準備する必要がなくなっていた。

 

学校へ通ったり、家庭教師に来てもらったり、通訳を雇ったりする人は、総じて覚えが遅い、覚える時間が少ないからだ、自ら、少なくしてしまっている。何をおしえてもらうのか、私には理解できない。その何時間を単語の暗記に使えば、10個くらいは覚えられる、半分忘れても5個毎日残る。勉強はいらない、記憶することが重要。

 

そして、使うことです。間違えた方がいい、間違いを指摘されれば、そのことは覚えたと同じ事です。当然ながら、日本人同士で話をしている人はだめです。積極性という点でも劣ります。インドネシア人の中に入って行って、指導するという点でも、だめです。

 

私は、会社では大部分を現場にいて、指導に当たった。当然、専門用語?押出し成型をするにあたってよく使う言葉、たとえば、組み立てる、解体する、引っ張る、ゆっくり、早く、そのまま、意識して、集中して、混ぜる、測る、浮いている、沈ませる、止める、動かす、移す、などなど、ほとんど毎日使う言葉です。

中には、“不良が少なくなるように、の、~~に、なるように”とか、“~~と同じように”“~~過ぎる”“~~より良い、良くない”などなど、一言で表すことができる日本語と同じような使い方ができる言葉もある、技術を教えるために覚えた言葉は、日常生活でもたやすく使えるようになって、大いに皆さんの会話の中に入ることに役だった。

もうひとつ私がやったことは、インドネシアのテレビの中での映画、アメリカ映画で字幕がインドネシア語のものを良く見た。それも、辞書を引いて確認しながらである。これも、大いに役立ったと思う。

結局 一年あまり、それらを続けた後は何も覚えようとしていない。そこまでで十分、不自由はなくなっていた。後は、生活のなかで、少しずつ言葉を増やしていった。私は、NHKを見ない。インドネシアのテレビしか見ない。インドネシア人と会話が弾む、インドネシア人は、親近感を感じるようだ、チェリーベル(女性グループ)の物まねをすれば、

大受けである。

 インドネシア語でも何でも言葉は、教えてもらうものではなく、自分で覚えるものである。そして、使うことである。

 

黒はんぺんのフライと孫を救急病院へ連れて行っていった。

記憶 活用 積極

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(^_-)-☆インドネシア語

2012-12-28 22:24:29 | 知識

 1443 インドネシア語を話すことができるようにならない出向者は、仕事の能力は低いし、指導者としての能力も少ない。なかなか、覚えない、話ができない、通訳に頼ってしまう、そういう人は、自分の努力が足りないし、インドネシア人からもこの人、努力していないなと思われていると思ってください。怠け者です。

逆もまた真ならずで、インドネシア語ができるからといって、仕事ができるとは、限らない。インドネシア語は日本人にとって英語などよりはるかに覚えやすいし、使いやすい。これが、私の持論です。

 

相手を馬鹿にする言葉で、今はあまり使われないが“アンポンタン“という言葉があります。語源は諸説あるようですが、インドネシアに住んでいる私としては、インドネシア語が語源ではないかと思います。他の説は何々という言葉から転じて、という説で。無理やり変化させた感があるが、こちらは、ほとんどそのままで、聴く人によっては”アンポンタン“とそのまま聞こえるでしょう。”Ampun tuan“実際は”アンプン トゥアン“です。

オランダ植民地時代に、召使いというか、各種プランテーションでの使用人がご主人様のオランダ人に使った言葉で、アンプーンというのは、“そうですか、なるほど、ごもっとも”などを含んだ、“はい、おや、まあ、おお”の意味です。トゥアンは“旦那さま、ご主人様”という意味です。一種の慣用句で、平身低頭して謝る時に使う言葉です。

それを、オランダ人のご主人は、「インドネシア人のやつらは、こちらが、ちょっとでも、叱れば、わかっても、わからなくても、そういうだけだ、この阿呆共め」そこから、“阿呆、わからずや、どうにもならないやつら”のことをアンプントァンと言ったのです。それが、昨日のジャガタライモ、ジャガイモが伝えられたと同じころ、日本の召使いに対しても、同じ意味で使ったのです。それが、日本人にとってはアンポンタンと言われたように聞こえたのです。どうですか、もっともらしいでしょ。

インドネシア語は日本人にとって一番覚えやすい言葉です。まず、読み方が、例外はあるが、ほとんどローマ字読み、子音母音の単語が多い、接続詞はあるが使っても使わなくてもいい、単語の変化は前や後ろに何かをくっ付けるが、くつける前の基本単語をそのまま使ってしまっても、相手は理解できる場合が多い。日本語と似ていたり、そっくりの単語が多い、などで、覚えやすい、使いやすい。インドネシアで働き人で、なかなか覚えない人は、覚えが悪いのではなく、覚えようとしていない人です。要するに、溶け込もうとしていない人です。

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage0051.html

ほとんど、付け足していないが、私のインドネシア語講座です。

 

コドック(カタック) ダラム トゥンプルン“kodok (katak)dalam temprung”直訳は”ヤシの殻の中のカエル“という意味ですが、日本の諺、”井の中の蛙、大海を知らず“と同じ意味です。これはほんの一例に過ぎない。インドネシアには諺というか、慣用文句が沢山あります。日本より多いと思う。

 

私がよく使うゴルフ場の風景、インドネシアと日本

 インドネシア語 語源 人並み

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(^_-)-☆豆知識

2012-12-27 23:02:57 | 知識

 1442 唐突ですが、私の生活に関係ある豆知識、ジャガイモの語源は“ジャガタラ イモ”ジャガタラとは今のジャカルタの北部の旧市街地の地名である。この地域はオランダが植民地とした時代はバタビヤという地名になっていたが、日本が占領して以来、ジャカルタというようになって、ブンカルノはその呼び名を引き継いだようです。Betawi(Orang Betawi )その土地の人びとをバタビヤという地名からブタウィと呼び、今でも純粋なジャカルタ人のことをブタウィと呼ばれ、人口比率は年々少なくなっている。

 

インドネシアを通ってオランダ人が持ち込んだイモだから、当時の日本では、そう呼ばれるようになった。元々は南米アンデス山脈にあった、それをスペイン人がヨーロッパに持ち帰った。腐ると毒性が強かったので、花の観賞用だったが、フランスのルイ15,16世のころ飢饉を乗り越えるための食料として庶民に普及させて、それ以来、ヨーロッパで貴重な炭水化物として主食になっていった。

オランダ人がインドネシアなどの植民地に持ち込んだ、それとほとんど同時に日本へも持ち込んだのです。ということのようです、正しいかどうかは保証しません。

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage04.html

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage003.html

http://otaenplaext.net/newpage36.html

http://otaenplaext.net/newpage10.html

http://otaenplaext.net/newpage35.html

で、中部ジャワのまた中央部の高原地帯、ディエンを一大、ジャガイモ産地として、何回か紹介している。日本では男爵とかメークインなど煮て柔らかくなるものとならないものなどがあるが、ディエンではなんという種類か知らないが、余り柔らかくならない種類が主体のようです。ポテトチップス,フライドポテトをインドネシア語では、“クリピッククンタンkeripik kentang””クンタン ゴレンkentang goreng”と言います。どちらも、日本の味やりインドネシアの方がおいしい、私に合っている。素朴な、子供の頃、お八つとして」食べた味にそっくりである。

ちなみに、サツマイモもインドネシアの方が甘くておいしい。

 

酒に弱い原因は遺伝子による。鍛えて強くなったという人は、肝臓のバイパスを使うようになっているが、負担は大きくなり、肝硬変など肝臓の病気になりやすい。

 

ゴルフの帰りに見える富士山

 

“箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ“の大井川から

 

焼津港から。左の山の崖っぷちの道、大崩海岸

 

大崩海岸を過ぎたところ、手まえが太田化工がある用宗海岸、右向こうが日本平がある谷津山群、久能海岸、久能山東照宮がある。

ジャガイモ ジャガタラ ブタウィ

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(^_-)-☆生活感

2012-12-26 22:49:39 | 環境

 1441 新東名を初めて走ってみた東へ行くときには新清水インターから入って、戻りは新静岡インターから出た。静岡は旧東名とのアクセスには都合が悪いが、バイパスとは近い場所にある、これは、地形上、仕方がないと思う。

 それにしても工費が、高そうな道である。山から山への道なのでトンネルや橋が多い。ただ、土地の買収費用は安そうだ。走ったのは新富士と新静岡間だけだが、東名と比べれば、トンネルの状態も二車線区間も広々としていて走りやすい。改善されているなと感じる。静岡県の御殿場から三ケ日までが完成しているらしい。渋滞や事故をすくなくする効果はもちろんのこと、経済的効果も金額的地域的に大きいと思う。

 ということを考えながら、静岡という土地にはやはり、権力者というか目立った政治家は必要ないなと改めて思う。なにやかやと強引に引っ張ってくる必要がない場所だなと思う。

 この何日間、強烈な寒波襲来で日本の北東地域は大雪に見舞われているらしい、気温も12月にしては過去にない低さになっている地方もあるらしい、そういったなかでも、静岡の気温を見ると本州では一番高い。そして、雲一つない快晴である。富士山もくっきり、これだけ見ても、静岡の人たちは恵まれているなと思う。家康が子供のころ人質として静岡に住んだ時の経験があって、隠居地として静岡に住んだということもなるほどと思う。

 

 その静岡で生まれて育った、そして、活動した静岡だが、私にとっては刺激が足りなかった、このまま、この土地でのびり、老後まで暮らしてゆくことに物足りなさを感じて、静岡脱出、日本脱出を目論んだのです。それだけ、私にとっては、静岡は、たと土地に比べて恵まれすぎている、平凡に暮らすなら、あまり頑張らないで暮らすなら、いい場所だと思う。

 

 そして、今の考えは、その静岡よりもインドネシアの方が便利さや清潔という意味でなく、ゴミや渋滞や洪水などの大問題があっても、総合的過ごし安さという観点から、恵まれているなと思う。年をとってきた私の生活感に合っているなと思う。

 恵まれ ぬるま湯 刺激不足

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(^_-)-☆X`マスイブ

2012-12-25 22:44:25 | 

 1440 ちょっとだけ遠出、富士山の麓、そり遊びに連れてゆく。ルートは初めて使う新東名、静岡から清水インターを過ぎた清水ジャンクションを北上して新東名に入って東に向かい、新富士で一般道にはいり富士山と愛鷹山の間の道の途中、富士山こどもの国へ向かった。途中、雪の気配は全くなし、富士山に雲は掛かっていたが頂上は見えていた。“頭を雲の上に出し“の状態だった。

 

 テレビコマーシャルをしているほどだし、三連休の最終日だし、クリスマスイブなので、大勢の客で込んでいると思ったら、さにあらず、閑散としていて、人がほとんど見えない、駐車場は広いが駐車している車は入口の近くに50台ほどだけだった。その駐車場の4分の3が空き、その駐車場の他に第二第三とあるらしい。

 目的はそり遊び、しかし、雪が見当たらない、入場料を払って、広いであろう場内を、それらしき場所方面へ登ってゆく、親子ずれの他の客も少しはいて、登って行っているので、同じ方面へ行く、やっとそれらしき場所が見えてきた、ちらっと、白い場所が見えた。

 

 ソリの遊び場は、二か所、一か所は10m×50m高低差5mほど、もう一か所は10m×100m高低差10mほどか、ざっと見て200人くらいの人がいた。そり遊びをしているのはそのうちの50人ほど、孫たちは、大喜び、レンタルソリ(2時間200円)を借り、早速、滑り始めた。もう、夢中、日本では初めて、人工雪なので、シャーベット状、それでも、大満足、登りは歩くしかないが、転ぶような急斜面ではないので駆け足でスタート地点に戻っていた。私は、何もすることがない、写真を撮るだけ、とにかく、寒くて仕方がない。ゴルフの時の寒さとは違うが、こちらのほうがはるかに寒い、手が、しびれてしまって、固まってしまっている。人工降雪機からの細かい氷が風に舞って降りかかってくる。

 

 そのうちに、黒い雲が広がってきて本物の雪が降り出した。それでも、彼女たちは辞めない。次第に風も出てきて、雪も横殴りになってきた。場内アナウンスでノーマルタイヤの人は早めに山を下るように言いだした。

 まだ遊びたい彼女たちを説得して帰路に就いたが、2時間一杯ソリを使った。もう、彼女たち大満足、帰りの来るもの中ではポカポカ温度で、すぐに眠ってしまった。家に着くまで1時間ほど、ずっと、眠っていた。

 私にとっては、大変つらい一日でした。とにかく、寒い、痛いくらい寒い、インドネシア体質なので、多分、他の日本人よりはるかに寒さをきつく感じるのだと思うが、それにしても、寒むかった。それでも、お爺ちゃんは、家の縁側で日向ぼっこやうたた寝をしているわけにはいかない。

寒!! 痛!! キツ!!

 

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(^_-)-☆師走の風景

2012-12-24 22:16:42 | 行動

 1439 インドネシアの来年のカレンダーを渡すのが目的で、ヤント君に会ってきた。いよいよ、彼は、来年三月、静岡大学の大学院を卒業、日本語学校2年、大学4年、中国留学1年、大学院2年、合計9年間、一応、保証人をしたことになる。資金援助は約5年間でしょうか、その他は奨学金とアルバイトで自立できていた。3月21日卒業式、出席を頼まれたが、できるだけ、としか答えなかった。3月24日結婚式、これはジャカルタで、これに出席は約束した。

孫にせがまれて、静岡市街の中心地へ。ヤント君と会うときには彼女たちも一緒だった。食事は静岡で一つしかないインドネシアンレストラン、“東京ナシゴレン“静岡駅ビル、パルシェにある。ブリタール出身の国債ことば学院に通っているインドネシア人がウェーターをしていた、ヤント君は、インドネシア人留学生のボス的存在なので、もちろん彼とも親しい。何日振りかでインドネシア語で話をした。心地いい。

 

私は、ソ ブントゥットゥを頼んだ。肉は骨から剥がし取った状態で出てきた。ナシは日本の短粒米、“違うじゃないか“と、うぶやいたら、”わかっているじゃないか“と、にやりと笑った。ジュースはアボガドが無いというので、グアバを飲んだ。ちょっぴりインドネシアに戻った感じ、孫たちはナシゴレン シーフードを半盛りにしてもらって、”唐辛子抜き、辛くないように”頼んだ、孫いわく、“少し辛かったよ“と、私が、インドネシアでよく言うことを言っていた。そうです、辛子を使わなくても、若干辛いのです。鍋に付着している油が辛いのです。ということですが、キュウリや酸っぱい人参の添え物まで、全部きれいに平らげた、大満足だったようだ、”インドネシアへ連れていって、おじいちゃん“

 

町はクリスマスムードまっ盛り、路上パフーマンス、路上ミニコンサート、どこかの放送局の素人パフーマンス大会などなど、次々と催しに当たる。デンマークのマーメード(人魚像)の像ではないが、世界何大ガッカリ所の一つではないかと思われるアイススケートもどき場、市役所の裏の催し物広場に臨時セッティングされたプラスチック板制である。狭ま過ぎてどうにもならない上に、長い行列で二時間待ち、ブカシのショッピングモールにあるスケート場のほうが数倍広い、それでも、静岡人は行列している。

賑わいを共有していると、大地震が30年以内に90%の確率で襲うと予言されている場所とは思えない、対策を考えている人がいるとは思えない。それでいいのだ!!!

平和 足りる 幸せ

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(^_-)-☆馬鹿げている 

2012-12-23 22:06:54 | 変!

1438 災難そのものは、予知である。またまた、くだらない、馬鹿げた、地震発生確率予報がだされた。私が今いる静岡で90%くらいの確率?30年以内、震度6弱?震度6弱以上?ここ何年か間で、すでに震度6弱の地震は何回か起きている、被害はほとんどゼロでした。これらについては、予言はされていたのでしょうか、“日本になら全土、独にでも、震度6弱程度の地震は30年と言わず、今すぐにでも起きる可能性はある“というのが、私の予言です。50年以上前、小学校の時から知っていたことです。それは、次々と、的中しています。わたしは、予言者としての才能があるあると思っていないが、知識として知っていることです。

東海地震については、何度も書くが、30年ほど前に大地震がいつ来ても可笑しくないという説を唱えた地震学者がいて、不安をあおり、そのおかげで多額の資金を対策費として使いました。その多くは、無駄使いだったと思う。中には、用心することを意識させただけでも無駄ではなかったという、言い訳じみたことを言う人もいるが、事実、現在の立派な科学者の説では、まったく、今までの対策では不十分で、また、新たに強化しなければならないらしい。もっと無駄金をつぎ込んで、工事屋を儲けさせろと言っている。今、役に立っているものは、無いとは言わないが、使った資金の1%残っていないでしょう。

そして、静岡の人間はもはや不安に思っている人は少数派であり、もっと、強力な対策を取れという人はいない。と、思う。知事の浜岡原発に対する発言は、選挙対策に過ぎない。と思う。私は原発推進派です。日本のどこにでも作ったほうがいいし、海外にも技術を輸出したらいいと思う。地震対策などは全く必要ないと思う、思う人は自分で対策をすればいいと思う。

その間に、“オオカミと少年“の物語のように、その他の予知してない地域で大震災が起きている。東北地方大震災が締めくくりの例です。無駄な、防波堤や門を作って、それが、何の意味もなかったどころか、倒されたり流されたりした防波堤が、建造物を壊す武器に変化してしまった。それを、どう説明するのでしょうか。

そして、10年後、あるいは15年後などの来る確率は言わないのでしょうか、言われているがマスコミが発表しないのでしょうか。

10%未満の場所なら、原子力発電所を、だめだと言われている活断層の上に作ってもいいじゃないの?実用期限を30年にしたらいいじゃないでしょうか。というような、ことも言えるでしょ。

とにかく、曖昧で、無意味すぎることを言って、人心を惑わせるのは、罪です。NHK海外放送を見た人は、知っているでしょうが、“海外安全情報”というやつ。“自分の安全は、自分で守りましょう”と言っています。その通りです。海外大使館は何もしてくれませんから、そう言っているのです。

だから、日本に住んでいる人も天変地異が起きたら起きたで仕方が無かったと思って、

自分で何とかしましょう。公共に頼ってはいけません。

その上、またまた、バカな予知をだして、どうしろというのでしょうか。

学者はだれに頼まれたのか、自発的なのか知らないが、曖昧な予知をして、世の中のためになっていると、思っているのでしょうか、“私たちは予知をしているだけ、どうするかは、行政や市民の判断です”というでしょう。無責任もここまでくれば、子供騙しのようなもの。日本はやっぱり、変!!!

私のように思う人は少数派でしょうね、きっと。

 

 タカアシガニとウツビ

 予言 八卦 出まかせ

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(^_-)-☆あきれるばかり 

2012-12-22 22:20:11 | 変!

1437 冬至ですね。インドネシアのジャカルタ付近は夏至ですね。地球は破壊されなかった。暦は続いている。

1999年ノストラダムス?の大予言で地球滅亡をうたわれているということで信じていた日本人は多かった。何事もなかった。2012年冬についても何らかの異変があると書いてあると言っているに至っては、執筆者の本を売りたい意識が書かせているとしか思えない。馬鹿なことに9.11や3.11も予告していたと、後だしをする人がいることが、こりていないなと気の毒に思う。その他にそれ以上の事件や戦争が2000年以降も度々起きているのに、それらの多くについては触れていないのが、手落ちでしょ。

 

調査ごっこを辞めたら。どこの地震がいつごろ何%の確率でくるという予言も、同じレベルの予言で、人心を惑わせる、悪だと思う・

それにつけても、活断層、活断層と鬼の首を取ったように資質学者?が誇らしげに唱えている、津波の予想高さが何メートル高くなったと言っている地震学者?津波学者?いっそのこと、100mくらいになるといっておけばいいじゃないの、活断層は全国、いたるところにあるから、また、全国いたるところで、新たに出来上がる可能性があるから、原発に限らず、化学工場や火薬工場などは、日本に作ってはならないという提案をしたらいかがでしょうか。

そもそも活断層って、いつか、できたものでしょう、その前はなかったでしょう、無かった場所にできるのだから、無いからといって、活断層ができないとは言えないでしょ。それに、活断層自体が地震の原因ではなく、近くに起きた、あるいはその辺りに起きた地震によって断層ができたのでしょ。その断層が、いつかまた、その辺りの地震によってもっと大きくずれるのでしょうか。どうも、何度も何度も同じ場所がずれるという歴史的、地質学的検証はされていないようで、たまたま、二回、三回の場所は例外的で少ないでしょ。だから、活断層と言っている場所、活ではないが断層と言っている場所、どう区別しているのか良くわからないが、はっきりした線が引かれているはずがないでしょう。

電力会社も原発推進派も、活断層、断層のどこが悪いの?それらがあることで地震が起きたということはない、と主張すればいいのです。活断層の調査をすることと、がけ崩れが行きそうな場所を調査することと同じで、怪しいと思えば、私でもちょっと眺めれば、わかる。がけ崩れがありそうなところに、無数に道や家があるが、それらを移しますか、移さないでしょ、それと同じで、調査自体に意味がないのです。誰が調査しろと言ったのか知らないが、その人は、放射能恐怖症の人でしょう。

まったく、マヤ暦やノストラダムスの詩のようなことと、同じレベルの不真面目さで、予言していて人心を惑わせている人々をマスコミがもてはやしているとしか思えない。この種の本を書いている人は、日本しか見ていない、ノストラダムスは日本のことなど頭になかったはず、私が知っているインドネシアの天変地異で何十万人も亡くなっている、そのとこを書いてもらいたかったったと思う。そうすれば、ちょっぴり、信じるかもしれない。

だから、こういうことが原因でやりたいことができない、日本の沈下は人的原因が主だと思う。

地震対策、津波対策などは予算に盛り込まないほうがいい、集めた少ない税金の無駄使いでしょ。活断層かどうかを問題にする、または調査する、ことのための予算も無駄使いだと思う。こういうことも日本の沈下の原因の一つです。

私のように思う人は少数派でしょうね、きっと。

家から出たところ、今年はサザンカが咲かない、今まで伸び放題だった枝をばっさり払って、当分、切らなくて済むようにしたためである。なんという鳥でしょうか、冬になると庭に住み着く。

無駄 見当違い 調査ごっこ

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(^_-)-☆お元気そう

2012-12-21 21:24:30 | ゴルフ

 1436 4か月ぶりにお会いしたが、元気そうでなにより、結構、忙しそうで、まだ、のんびりとはいかない様子、新しいメールアドレスももらった。

9日にインドネシアでゴルフをやってから、出発、それから、10日を間にして日本でゴルフ。天候には恵まれたが、気温が8時のスタート時で2度、やはり、つらい。両手はかじかんでいる。指先はしびれている。厚手の長袖の下着とシャツ、その上にジャケットを着込んでいるので、思うように腕を回せない。その上、鼻水たらたら。ポケットティッシュを鉛筆やマーカーと同じように、“自由にお取りくださいコーナー”に置いてある分けを納得した。

環境というか景色は全く違う、広々としていて川や池が随所にあり、ヤシやビンタローが主な木で、あくまでも明るい、黄緑色、そんな場所から、狭く山の中、松や杉、真冬とあって。頭上が青空であっても暗い、茶褐色の場所に変化している。

あまりにも環境が違いすぎる。エンジョイできるはずがない。場所は、周りに茶畑がある、頭上を旅客機が低空で通過する。

 

大体同じメンバーで今年あと二回、新年に一回予定している。ほとんど、毎年恒例になっている。それぞれに生活の場や立場に変化があっても、このメンバーでの集まりの状態は変わらないでしょう。先日、稲沢を訪問した時の感慨と似たようなところがあって、仕事とは別に大切にしたい状況です。ゴルフのプレーはその状況に浸る手段にすぎない。今後、生きている限り、ゴルフができる限りこの状況は続けたいと思っている。インドネシアでのゴルフのメンバーも同じである。

どちらも、私は聞き役に回ることが多いが、一緒にいる時間は心地がいい。

恒例 習慣 気楽

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(^_-)-☆大胆な方法

2012-12-20 22:09:18 | 行きすぎ

 1435 日本の地盤沈下の流れは終わらない、まだまだ、下流まで到達していない。多少、途中、淀み(踊り場)は、あるにしても。下り階段の下まで行っていない。そこには人口構成のピラミッド型の始まり、明らかに子供の出生率が上昇したときです。

その最下段に早く到達させれば、登りだすのも早いが、現状に対する生半可な対処療法を施せば、最下段に到達するのを遅らせるばかりだ。景気対策などは、愚かな対処療法の一つです。限られた人種が一時的に恩恵を受けるだけで、日本全体に恩恵が及ぶことは全くないのです。今に日本国民はそれを望んでしまっているのです。自民、公明も目先の甘い汁をぶら下げようとしているだけです。それに気が付いていない日本人が多いこと、おろかなことだと思う。外国から見れば日本が打つ手はすべて手遅れの手ばかり、誰でも考える小手先の手ばかり、失われた20年と同じ手を打っても仕方がないでしょ。何か新しい手を自公民が打てますか?裏技がありますか?金融緩和?何年も繰り返してきたことです。今までとどこが違うのでしょうか。

私が国の予算を決めるなら、今まで打たれた手はすべてご破算にし、失われた二十年、その前の10年も含めて少子化の歯止めに関しては失われた30年です。その間に打たれた手は打ちません。最初からやり直します。既得権をゼロにするのです。慣例、習慣などのしがらみを全部断ち切ります。今までの継続もプッツリと切ります。

 

新しい予算配分の基本的考えは、課税最低収入を今の1.5倍にします。累進課税を緩やかにします。消費税は10%にします。国債の発行はゼロにします。これば大前提です。もう一つの大前提、最優先は出生率を上げることです。拡大予算などはもってのほか、税収分の予算にしなさい、無駄な補助を繰り返し、自立をしない産業に対する補助は打ち切り、貿易は例外なく全面自由化、公務員の数を半減させるか、給料を半分にし、既得権は無にする。国会議員の半数にする。デフレ結構、日本の物価は、今でも高すぎる。

少子化解消予算は、妊娠、出産、生まれてから保育、義務教育が終了するまで無料にする。育児相談や援助の制度を充実させ無料化する。

”忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え“敗戦の時の玉音放送の一部です。今、その時に劣らない日本の再生決意が必要です。そんなつもりで、まず、まだ先のどん底に速くすることです。ドン底を過ぎれば回復の流れに変わります。ドン底にしない、政策は、ドン底を遅れさせるだけです。今はまだドン底ではありません。     

 

他の人への土産ではなく、自分のために、インドネシアへ持ってゆく食品の例です。 黒はんぺんとインスタントラーメン各種、値段に注目。

少子化 歯止め 回復

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(^_-)-☆病んでいる日本

2012-12-19 22:17:36 | 矛盾

 1434 1993年頃に日本のバブルは終了した。私が社長を辞めた頃でした。それから、20年、日本は沈みに沈んだ。いわゆる、失われた20年といわれる期間です。この失われた20年はまだまだ失われ続けるでしょう。10年ほど前から、毎年、失われた何年と言い。これからも、毎年、失われた何年と言い続けて、最低でも、もう、20年言われ続けるでしょう。失われた40年以上になるでしょう。

景気、年金など福祉、エネルギー、TPP,税制、憲法、領土、国の借金、選挙制度、このくらいでしょうか、自民党、公明党の政権下でますます、状態を悪化させたものばかり、それを、また、その連中に舵取りを任せるというのですから、有効投票をした人たちの神経はどうなっているのでしょうか。民主党政権が内紛が、これらの問題に取り組んだが、どうしようもなかった。おまけに、東日本大震災それに伴い原発の事故、対応がどうのこうのと批判したところで、民主党の責任でも何でもない、運が悪かっただけです。自民、公明はラッキーだった。そして、棚から牡丹餅、漁夫の利的に政権が転がり込んできた。何ができるでしょうか、何もできないどころか、事態をどんどん悪化させることしかできないでしょう。もともと、期待する人が間違っている。日本の産業が海外へ流出し始めてから30年以上経過している、その流れは今も止まっていない。これからも20年は流出が続くでしょう。その流れと同じように、日本が抱える問題は悪い方向に向かうでしょう、この流れ、傾向はだれにも止められない。いたずらに、小手先の対策を打っても、どれ一つとして、好手にはならない。

 

何度も書くが、日本の諸問題の根本原因は少子化です。人口構成の歪みです。今は菱形に近いのではないでしょうか、これがピラミッド、悪くても、釣鐘状になったとき、初めて、日本の元気、活気が回復し始めるでしょう。

 

庭の紅葉

悪手 流れ 衰退

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(^_-)-☆日本が変!

2012-12-18 22:25:19 | 矛盾

 1433 選挙には行かなかった。積極的な危険です。結果を見ても、行かなくてよかったと思う。まったく、意味がないと思う。結果に関して何も思わない、ただ、がっかりした。そして、ただ、投票率が53%プラスだったことは、高すぎると思う、よく、投票に行く気になるなと思う。そして自民党の圧勝、馬鹿げている。選挙制度のヘンテコさまもさることながら、有権者の動き、考え方もまともではない、日本全体が可笑しくなっている。

三年前に駄目だと烙印を押された政党に、やっぱり、今度はあなた方に日本の舵取りを任せます、というのですから、どんな、神経をしているのでしょうか。自民党や公明党が何かいいことをしたのでしょうか、三年前からさかのぼって何十年も日本のために良いことをしたのでしょうか、失われた20年の大多数の期間は、景気対策と言いながら、適切な対策がないまま、今に至っているのがよいことだったのでしょうか、原発に関して推進してきた何十年の間、大震災が原発を襲わなかったことは、自民党の政治、行政がそうしたのでしょうか、領土問題も何か進展して糸のでしょうか、全然そんなことはない。

現在の日本がるのは自民党の政権時代に出来上がったものです。それが、民主党ではなく、やっぱり、自民党の政治のほうがいいと判断したのでしょうか。私には、まったく理解できない日本の政治です。

どこだれが、政権を担当しても、日本の流れは変わりません。前にも書いたが、人口構成がピラミッド方に変わるであろう、50年後くらいまでは、日本の経済力地盤沈下は続くでしょう。いま日本に生きる人々は、第二次大戦後約50年間の後、バブルが崩壊するまでの間に生きてきた人々に比べて、運が悪いと思う。そういう日本に生まれてきてしまったのです。

東南アジアや中国などの国々の勢いが全然違う、日本は寂しい、活気が違う子供の数が違う。

 

興津と由比の間のサッタトンネルを抜け由比町に入ったところ

 

蒲原トンネルを出たところ

 

大瀬崎から戸田に向かう途中。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage101.html

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage102.html

 

変! 無意味 無駄

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(^_-)-☆ちょっとそこまで

2012-12-17 22:24:18 | 

 1432 今回、日本でも初めての日曜日、早速、孫にせがまれる。どこかへ、つれて行けと。じいちゃんが、何のために日本へ戻ったかというと、自分たちを車でどこかへ連れてゆくためだと思っている。そして、どこかへ連れて行ってと言えば、必ず、つれて行ってもらえると思っている。その通りである。

どこへ行ったかというと、伊豆半島の入り口までである。

 

この順番に富士山が望めるというと、あからさまに見える場所を通過した。静岡から、どこを通って、静岡へ戻ってきたか、三枚の写真からわかりませか、他のルートではこの三枚の写真を繋げてとることはできません。

 

思い出です。三津(ミト)シーパラダイスという、沼津の南、伊豆半島の西海岸のスタート地点的な場所、水族館というより、海の動物主役のアトラクションを見せる場所といったほうがいい、孫たちをつれては三回目である。

私が初めて行ったのは、小学校四年の夏休み、沼津港から竜宮丸という遊覧船で三津水族館といった場所でした。その頃はアトラクションもイルカだけだった。そのほかは確かに水族館、丘の上にはクジラなど海の哺乳類の博物館になっていて、特にクジラに関する展示が多かった。シロナガスクジラの全身骨格の標本には圧倒された覚えがある。捕鯨の技術の進化の経過や南氷洋の状態も紹介されていた。当時は捕鯨と言えば、冒険的な職業で、花形職業だともてはやされていたので、その展示も大勢の見学者が押し掛けていた。今はどうなっているのでしょうか、寂れているが、施設の名残はあるようです、そっちの方向へ行く人は少ない。

高校生の時の夏休み、同じクラスの仲良し四人組で伊豆半島をテントを担いで一周をしたときにもやはり、遊覧船で三津水族館に渡ったのがスタートだった。バスで南下し、一泊目は大瀬崎(オセザキ)の半島を見下ろす道端にテントを張った。夕方、寝ようとしていたころ、人がやって来たのか、通りがかりだったのか、その人「ここは私に土地だ、誰に断ってテントを張っているんだ」というようなことを言っていた。何も答えようがない、「どこでも、かまわないと思って、ここが、見晴らしがいいのでここで泊ることにした」というような返事をだれともなくしたと思う。他のことは覚えていないが、そこで、そのまま一泊した。

 

その後は、娘が小さいころ、まだ、長泉町に住んでいたころ一回、つい三年ほど前孫たちを連れて行った。何も感動はない、やはり、子供のころに来た時のことが一番印象深い。

 

東名高速道路、富士川サービスエリアを過ぎた直後、富士山と愛鷹(アシタカ)山と富士市を一望、

大瀬崎の半島を足元に駿河湾の向こうに富士山

土肥港から駿河湾フェリーで清水港に向かう途中、駿河湾洋上から左から清水、由比、蒲原、富士川、富士を望む、由比漁港から、一斉に桜エビ漁の船が、ボートレースのように全速力で最適漁場に向かっている様子に出会った。フリー目がけて突進してくるよう。   

ということで、東名沼津インターから南下し、沼津の町を通って三津、戸田、土肥、清水へと一周経路でした。他の土地の人から見れば、かなりの観光ルートに違いない、素晴らしい眺めの場所が多い。

9時に家を出て戻ったのが17時前、チカランからパンガンダランへ行くことを思ったら、ちょっとそこまでという感じでした。しかし、ガソリン、高速代、入場料、食事、ソフロクリーム、フェリー代合計2万円ほど、高い、インドネシアなら5千かからない。厳しいのはガソリン代、4千円で25Lちょっとしか入らない。インドネシアなら千円ちょっとである。

旅? 憩い 癒し 

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