フロチャートとか工程表などと云うものです。客先がQCが必ず求めてくるものです。一般的にこれが基本になって、ここから、またいろいろな、細かい工程や、規則や標準や記録が生まれてきます。面倒なことに、こういうものも求めて、分かっても分からなくても、客先は満足するのです。
最新、新興宗教のISOの信者が急速に増加し、その教祖や神主みたいな布教者の懐が潤っているのはご存知の通り。この宗教に入らなければ、信者から仕事を貰えないという風潮はいかがかなと思うが、仕方がない。宗教とはそういうものです。
このことについては、別の機会に触れる。
昨日からの流れで、この全てを私はできる、できるということは、中途半端にできるということではなく、押出成形品については、それぞれの専門担当と云われる人の倍や十倍できるのではなく、無限大にできるのです。と云うことは、他のそれぞれの担当者は私が出来ることに比べれば殆どゼロなのです。
なぜかというと、製造が出来ない人には、営業も技術サービスも購買の仕事も梱包や輸送のことも、規格を決めることも検査標準書もなにもかも出来ないのです。物を作る人に全てを聞きながらやらなければなりません。自分だけでは出来ないのです。
ところが、出来ないにもかかわらず、任せられているからと、自分の判断だけでやろうとするし、それを物作りが出来て、作る人に、押し付けようとする。自分の云うことに従えと云うのです。自分が製品を作るわけではないので、作る側の事情を知らない、知らないということが、彼らの発言の障害にはならないようだ。それでなければ、自分の存在感、立場を維持できないと思うからである。
そして、彼らの上司も、押出製品製造のことは無知なので、文房具や掃除道具を売り買いすると同じ感覚で営業をするし、購買もしようとする。品質や難易度や納期にはまったく無関心で気にしない。落ち着いたものである。
製品を作るには樹脂のこと、金型のこと、装置のことを熟知していなければならない。どれか一つ欠けていても製造技術が低いことになる。もう一つはそれらを扱う器用さと気転が効くことが大いに必要。もう一つは失敗を恐れない積極性と知識の収集能力などを総合した挑戦意欲があることです。
そういう人は私の身の回りには居ない。だから、他人がするどの部門の仕事も私から見れば、任せなければならないということは、私の手助けをするどころか、邪魔をしてもらうということを任せると同じです。
旅の時は、私が出来ない部分は報酬を払ってやってもらう。しかし、押出の仕事は報酬を出してやってもらうことは何もないのです。と書くと、金型も自分で作るのか、納品も自分でやるのか、梱包資材も自分で作るのか、と、上げ足を取ろうと思う人がいる。そうです。私が出来ます。自分の手で自らやった方が何でも上手くできるし、早くできる。しかし、私の時間の配分がそういうところまでできないので報酬を払ってやってもらいます。しかし、全部私がポイントの指導をします。従業員、部下が必要なのです。組織のトップになることが必要条件です。
そういうトップが不在です。その上、それぞれの担当者の能力がないし、部門の上司が違う。押出の中に無いのです。フローチャートをコントロールする人がいない。私がやればできるが、立場にない。
それなのに、それぞれの部門で損得勘定をすると言っているらしい、邪魔者が手伝っていると言って、費用負担を主張するので、邪魔者の費用や報酬も支出に入れなければならない。一体どうなっているの?そういう人がいなければ、売り上げも利益も増えるのに、いるから、売り上げも利益も増えない、それでも、その人の給料を負担するとはどういうこと?
今日あったトラック、藤枝運送、チビトゥンのコカコーラの横の道。もう一台はクロームめっきと書いてあった。
能力 バラバラ 統率